HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

グローカルで、再建。

2022-08-31 06:28:27 | Weblog
 昨年の12月に日本から全面撤退した米アウトドアブランドの「エディー・バウアー」が来年春夏シーズンから販売を再開する。伊藤忠商事が同ブランドの日本国内でのライセンス権と販売権を取得したことにより、アパレルメーカーの水甚が伊藤忠とライセンス契約を結び、取扱いを始めるというものだ。

 エディー・バウアーは1919年に米国のシアトルで誕生した。オーナーのエディー・バウアーが第2次世界大戦中に軍用の契約を取ったのを契機に、ヒマラヤ遠征隊向けのダウンジャケットなどを開発。国土が広い米国では通信販売で知名度を広げ、88年にはカタログ販売の「シュピーゲル社」に買収された。その後、筆者がニューヨークに渡る数年前の91年、現地に直営店がオープン。実際に店舗を訪れてみたが、メンズ、レディス、キッズのウエアを展開しており、極感の冬には重宝するだろうなと感じた。

 「L.L.ビーン」と並び、郊外のショッピングセンター(SC)に出店していた時点では、あくまでアウトドアブランドとしてモノづくりを追求していれば良かった。ところが、ニューヨークに進出した以上、「都市生活者が週末のライフスタイルで着たくなる商品」展開が求められる。ガチガチのアウトドアから「シュアなカジュアルブランド」に移行しなければ、ニューヨーカーの心は掴めない。1990年半ばは、エディー・バウアーがアイテムのデザインやスタイリングに改良を加えようとした時期だった。

 筆者がニューヨークから福岡に戻った1996年、米国のSCモデルを踏襲した「キャナルシティ博多」がオープン。施設のデザインは、デベロッパーの福岡地所(当時はF.J.都市開発)が米国人建築家のジョン・ジャーディに依頼したものだ。同氏は米国でSC設計を数多く手掛けていたことからテナント事情にも精通しており、それはキャナルシティ博多のリーシングにも影響した。エディー・バウアーをはじめとしたアウトドアブランドの集積である。

 当時の日本は平成不況のただ中。キャナルシティ博多が街のど真ん中に開業したとは言え、高級ブランドを誘致するには不釣り合いだった。かたや庶民にはカジュアルスタイルが浸透しつつあり、スペースを埋めるために海外のアウトドアブランドは格好の商材だったわけだ。ただ、不思議なことにニューヨークで見るエディー・バウアーと、日本しかも福岡で見るそれは違った。どうしても日本人の感覚で見てしまうからだ。



 米国アウトドアブランドという新鮮さはあったにせよ、商品はいかにも米国人向けの大味な作りで、サイズも大きく日本人好みのテイストにはほど遠かった。釣りやキャンプなどで着るにはいいが、タウンカジュアルとしてはオシャレには見えない。販売手法もGAPと同様にハンギングが中心で、大量の在庫を並べマークダウンで売り減らしていくもの。それでも、テナント契約の絡みからか展開は維持された。しかし、ニューヨーク展開で模索されたシュアなカジュアルブランドには移行できずじまいのようだった。

 その後、メンズ&レディスでジャケットやパンツ、シャツなどビジネスウエアのカテゴリーを販売する業態も展開。天神南の渡辺通り角のビル1階にも出店したが、こちらも商品が作り込まれているとは言えず、いつ覗いてもお客はおらず集客は厳しかったと思われる。

 結局、米国内では親会社のシュピーゲル社がカタログ事業の低迷で倒産。それでも収益性が高かったエディー・バウアー部門を中心に再編し、2005年に新会社「エディー・バウアー・ホールディングス」を設立。ところが、同社も2009年に売上不振や資金繰りの悪化から、連邦破産法11条(チャプター11)を申請。事実上、倒産した。

 日本法人の「エディー・バウアー・ジャパン」は独立会社として営業を継続していたが、こちらも前出の通り売上げ好調とは言えず、昨年12月に全面撤退となった。日本はもとより、米国でも苦戦したのは、売上げ追求のあまりにアウトドアブランドとしてのバリュやポジションがブレてしまい、商品作りが中途半端になってしまったのが原因と思われる。

 日本におけるエディー・バウアーの展開は、1990年代初めのカタログ販売が先だ。住友商事系の住商オットーとエディー・バウアーの合弁会社、エディー・バウアー・ジャパンが米国流に則って通販市場の攻略に打って出たのである。ただ、国土が広く通販が浸透している米国とは違い、日本でブランド力を上げるには実店舗を展開し、消費者に現物を見て購入してもらうことが不可欠だった。


日本流の企画で、輸出できれば御の字か



 こうした経緯もあり、実店舗が出店されることになるのだが、米国のままの商品を持ってきただけでは、日本市場には通用しないことが昨年の全面撤退で証明された。日本人は海外アウトドアブランドに対し機能性はもちろん、ファッション性も含め作り込んだイメージを抱いている。だから、まずは素材やデザイン、カラリングなど、セレクトショップや百貨店のバイヤーの心眼に叶うのが大前提だ。ビームスがコールマンとコラボアイテムを企画したことで、ヒットアイテムを連発したのが何よりの証左だろう。

 一方、マスマーケットを狙うケースでも、商品企画に注力することが売れる絶対条件になる。ワークマンはキャンプフリークなどの声を商品作りの随所に活かしたからこそ、アウトドア系でもヒットアイテムを生み出すことができた。日本市場では米国人の感性、量産による価格設定、マークダウンを想定した商品作りでは、たとえ実用性重視のアウトドアブランドと言えど、攻略は難しいのである。

 そこで、エディー・バウアーのライセンス権と販売権を取得した伊藤忠と、同社とライセンス契約を結んだアパレルメーカーの水甚が商品開発に動くのは、これまでの反省に立った新たな展開を目指すものと考えられる。



 伊藤忠としては、コロナ禍で盛り上がったキャンプに目をつけ、アウトドアブランドによる市場の掘り起こしを狙う思惑のはずだ。そのためにマーケティングを行い、市場ニーズ、機能性や素材、デザイン、カラリング、価格帯を洗い出す。そのデータを元に、米ブランドのダウンジャケット「ファーストダウン」の企画・製造で実績を持つ水甚が持てるノウハウを最大限に生かして商品作りを進めていくと思われる。

 言うなれば、日本企画による米国アウトドアブランドの再建。いや、米国アウトドアブランドのローカル企画とでも言おうか。もちろん、課題はある。日本版のエディー・バウアーがアウトドアに偏りすぎると、市場は広がらないということだ。一方、カジュアルテイストを際立たせて、ボリューム市場を攻略するにしても競合は少なくない。ブランドで仕掛けたからと簡単にいくものではないのだ。



 一方、同じ米国アウトドアブランドの「ザ・ノース・フェイス」が日本ではゴールドウインがライセンスで生産し、人気ブランドに躍り出たことも、伊藤忠としては見過ごせなかったはずだ。だからと言って、同じやり方をしても二番煎じになってしまう。日本人にとってのエディー・バウアーは、クラシカルなハンドライティングのロゴをはじめ、アイテム個々がいたって大味な作りだとのイメージが刷り込まれている。それを覆すような画期的な企画を生み出さない限り、市場の掘り起こしは難しいだろう。

 また、ブランドバリュを上げるには、実店舗を展開して「エディー・バウアーは変わった」ことをお客に店頭で直に見てもらわなければならない。つまり、米国流のVMDやVP、フェイスアウトを一新した新たな展開方法を確立できるかなど、小売りのノウハウが不可欠になる。果たして商社の伊藤忠やアパレルの水甚にそこまでできるかである。

 ザ・ノース・フェイスは、ゴールドウインが日本の他に韓国での商標権も獲得している。福岡を訪れる韓国人旅行者が同ブランドのアイテムを着用しているのをよく見かけるが、それだけ韓国にも浸透しているということだ。そうしたところも伊藤忠がエディー・バウアーのライセンス権と販売権をの取得に動かしたとすれば、ゆくゆくはアジアを含めたグローバル市場の攻略も想定しているのではないか。

 本家エディー・バウアーが1994年のニューヨーク展開で果たせなかった都市生活者が週末に着たいアウトドアスタイルを実現できるか。まずは伊藤忠と水甚が本家の顔色をうかがうことなく、独自路線での取り組みに期待したい。
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布を操る技師たち。

2022-08-24 06:48:05 | Weblog
 アパレル業界で活躍されたデザイナーが相次ぎ亡くなられた。まず、8月5日の三宅一生氏。同氏は1960年代、ヨーロッパから輸入される生地や衣服が主力である中、生活と関わる服を目指すことで、自らの世界観や作風を打ち出そうとした。そうした気概がのちに「プリーツ・プリーズ」という画期的アイテムを誕生させる。

 人の体型は洋の東西、民族・人種で千差万別。だが、衣服の世界は欧米がリードしてきただけに、シルエットはアワーグラスからサック、トラペーズ、フィットアンドフレアー、ボディ・コントゥールまでと、欧米人の体型にそったものが基本だった。そうしたレギュレーションに一石を投じたのがプリーツ・プリーズである。



 人が着ていない状態ではほぼストレートのラインだが、プリーツが着る人の体型によって変幻自在なシルエットを生み出す。まさに1枚の布が匠の技であらゆる可能性を引き出し、それから生まれた服は着る人を如何様にも美しく見せる。服を着るためにダイエットすることなど無意味。あなたのありのままの姿に似合う服がプリーツ・プリーズと言わんばかりだ。まさに服は着る人のライフスタイルに寄り添っていくことを具現化したとも言える。

 ただ、人気を博すと、たちまち模倣品が現れる。名古屋の名鉄百貨店がプリーツ・プリーズに類似した商品を販売した。これに対し、三宅デザイン事務所は不正競争防止法に基づく損害賠償訴訟を提起。1999年6月29日、東京地裁は類似品を販売した名鉄百貨店と、同商品を製造したアパレルメーカーのルルドに対し、損害賠償(各々10万円)を支払うように命じた。日本の司法は模倣品に甘すぎるとも言えるが、被害額が少なかったゆえの判決という点で、本家プリーツ・プリーズがそれだけファン客から認められていた証左でもある。

 この判決が報道された直後、筆者が住む福岡の西日本新聞が別の報道をした。イッセイミヤケのプリーツ・プリーズで用いられている技術は、地元でアパレルメーカーの下請け加工を担っている「オザキプリーツ」が先に開発していたのではというもの。確かに同社は天然素材にプリーツをかける「MAX PLEATS」や交織の生地を織る機織の織とその生地を折って加工する折から生まれた「Pli ORIORE(プリオリオレ)」という技術で特許を持っている。



 プリーツ・プリーズがこうした特許を盗用・侵害したかどうかの真相は明らかにならなかった。まあ、三宅一生氏がプリーツを生かした服のデザインを考案したとしても、実際服作りに落とし込んでいく中で、プリーツ加工のノウハウが必要なのは間違いない。デザイナーの訃報に際し、どうしても画期的なデザインばかりがクローズアップされるが、その背景には「加工業者の秀逸な技術力があったからこそ」という報道があってもいいのではないか。


 ファッション本流からは逸れるが、こんなエピソードもある。北野武氏が芸人ビートたけしとして人気を集めていた1980年代半ば、イッセイミヤケのブランドも一世を風靡していた。たけしがその服を着て漫才の舞台に立つと、三宅氏の事務所から電話があり「すいません。漫才やるときに、うちの師匠の服は着ないでください」との要請を受けたとか。たけし氏はそれにカチンと来て、イッセイミヤケのショップを訪れ、商品を爆買いしたという逸話が残る。

 三宅氏本人が「服を着ないで」と言ったのであれば、デザイナーとしてあまりに度量が小さい。おそらくブランド管理会社としての判断だったと思う。たけしも爆買いしたのは腹いせというより、ネタになると思っての行動だろう。その後、たけし氏は小西良幸氏(後のドン小西氏)がデザインする「フィッチ」を着るいたって大人の対応を見せ、逆に同ブランドのプレスプロモーションに多大な貢献をした。

 今振り返っても、1980年代はデザイナーズアパレルがいろんな面で注目を集めるという良い時代だった。三宅氏は晩年、日経流通新聞(現在の日経MJ)のインタビューで、「同窓会が嫌い」と語っていた。デザイナーとしての生き様から、周りが変化していく現実を受け入れづらかったのだと思う。何となくわかるような気もする。


才能を生かし、ビジネスを制御できるか



 8月11日には森英恵氏が亡くなった。筆者は洋裁師である母親から森氏の話をよく聞かされた。島根の裕福な医者のお嬢さんだったこと。親父さんが東京の百貨店から取り寄せた最先端の服を着て育ったこと。東京女子大学を卒業後、ドレスメーカー学院に通って洋裁を学び、新宿に洋装店「ひよしや」を開いたこと等などだ。

 筆者の同級生にも親がブティックを経営する友人が何人かいた。お金持ちの中高年女性を対象にした高級専門店が全盛だった1960年代当時、銀座にあった「HANAE MORI」は、地方の専門店経営者にとって憧れであり、目標だったようだ。他にも森氏は映画の衣装を手掛けたり、蝶をモチーフにしたドレスで人気を集め、ニューヨーク、そしてパリとコレクションに参加した。



 西武百貨店の広告制作に携わったグラフィックデザイナーの田中一光氏が森氏の蝶のマークをデザイン化すると、ハンカチからスリッパまであらゆる雑貨に採用され、HANAE MORIブランドは庶民の生活にも広く浸透した。筆者宅にもお中元やお歳暮、ボーリング大会などでもらった蝶のマークがついたHANAE MORIの雑貨が並んでいた。HANAE MORIは日本におけるライセンスビジネスを先駆けを作ったということだ。

 業界に入ってからは、取引先にミセスのコンサバショップを展開するところがあり、当社が企画するキャリアゾーンとは違う商品も勉強する意味で、何度かひよしやに足を運んだ。そんなハナエモリ社は1996年、森氏の夫で経営者だった賢氏の死去により、経営が一気に傾いていく。1980年代後半、世界で400億円以上を稼いでいた企業でも、マネジメントする人間を失えば、凋落はあっと言う間ということを思い知らされた。

 2002年、HANAE MORI社は負債総額101億円で倒産。事前に民事再生法を申請し、受理されていたので、プレタポルテ部門とライセンス事業は三井物産が引き受け、HANAE MORIの既製服は中堅アパレルの「オールスタイル」がを生産することになった。現在も同社が製造・販売を続けている。森氏はデザイナーとしてオートクチュール事業を継続した。

 倒産当時、ある雑誌の編集長が後記で以下のように書いていた。「毎シーズン、数億円をかけてパリでコレクションを開いても、売れるのは3枚1000円のハンカチだけ」。バブル景気が弾け高級婦人服が売れなくなる中、ブランドアパレルの舵取りをうまくできなかった経営陣を皮肉ったものだ。しかし、森氏自身は周囲の雑音に惑わされることなく、注文服のデザイン、縫製に邁進。事業会社は倒産しても、持てる技術は無くならないことを証明した。



 奇しくも倒産の1年前、小泉純一郎内閣の誕生で、田中真紀子議員が外務大臣に就任した。宮中における認証官任命式、その後の記念撮影で着る衣装について、外務大臣任命の話が持ち上がった直後に田中氏は森氏に相談し、「私が作ってあげるから、任せときなさい」と言われたと、就任後のインタビューで語っていたのを記憶する。

 これまで多くの女性閣僚がフリルや刺繍レースを施した華やかなドレスを着て任命式、記念撮影に臨んでいるが、田中外務大臣が着たワンピースは襟元に装飾が施されただけのシンプルなもののだった。シルエットはストレートに近いが、身体のラインをきれいに見せるテクニックは秀逸。色はミッドナイトブルーで、いかにも上質なオートクチュールの生地を使った物だと、一目でわかった。

 組閣は時間との勝負だ。組閣本部による人事選考から官房長官による就任予定閣僚の発表、任命式、記念撮影まで。限られた時間の中で、採寸から裁断、縫製、装飾加工までやってのけられるのは、卓越した技術を持つ洋裁師と取り巻きの縫い子さんがいればこそ。流石である。

 オートクチュールというと、パリの社交界で身にまとう衣装。まさに階級主義的な産物で、庶民には手の届かないようなイメージがある。しかし、これを注文服、オーダーメイドと解釈すれば、ハードルはガクンと下がる。

 昨今、市場には安価な商品が大量に出回り、アパレル全体の供給量が莫大に増加。滞留在庫は増加の一途をたどり大量廃棄が問題視されている。ならば、1960年代のように再び注文服に回帰するのも一つの手ではないか。上質の生地を使い、高い縫製技術のもとで欲しい1着を作れば、トレンド変化があっても、縫い直しやサイズ対応にも柔軟に対処できる。それだけ1着の服を長く着れるのだ。

 課題はそうした注文服に携われる技術者の育成だろう。森氏のように子供の頃から上質の服に触れてこれたのは誰もが経験できることではないが、それでもドレスメーカー学院で洋裁の基礎から徹底して学んだからこそ、オートクチュールの世界で活躍でき、どんな体型の人間でもたちまち似合う服を仕立てることができたのだ。

 そうした人材を育成し輩出していくことも、アパレル業界がSDGsに取り組む上でのカギになるのではないか。きっと、森氏もそう願っていると思う。三宅氏、森氏には心からお悔やみ申し上げたい。合掌

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夏休みは、革遊び。

2022-08-17 06:45:30 | Weblog
 今年は8月11日が祝日だったため、5日ほど夏休みが取れた。ただ、コロナ感染が高止まり傾向にあることから、外出は避けて自宅で趣味の一つ、レザークラフトに没頭した。厚手の1枚革を包んで作る「スマホホルダー」作りだ。

 筆者はが多汗症(脂手)で、一般人よりスマートフォンの画面が汚れやすく、また手が滑って落下させる可能性も高い。そのため、スマホを買い替えるたびに、破損防止のアルミバンパーで側面、保護フィルムでタッチパネル面をガードする。さらにバンパーに「スナップフック」付きのストラップを付けて、手作りのレザーホルダーに入れる念の入れ用だ。仕事で移動する時はそれをバッグのショルダーストラップに留めて利用する。

 ただ、スマホはパソコンと違ってそれほど酷使しないし、インターネットを多用するわけではないから、これまで4年ほどは格安のヤマダモバイルとの契約だった。この春、NTT docomoが同様のOCNモバイルONEをスタートしたため、通信契約をこちらに切り替えることにした。当然、docomoショップでsimカードを変えることになるので、その前に自分でバンパーを外しておかなければならなかった。ヤマダモバイルと契約する時、ベスト電器の担当者がバンパーを外すのに苦労していたからだ。

 しかも、今のバンパーに付け替えて3年ほど。固定する極小ネジが錆び付いてしまい、付属のドライバーでは渾身の力を入れても回らなくなっている。福岡・天神周辺のスマホ修理店に行ってみたが、どこも対応できない。メカの不良ではないのだから、当たり前のことなのだが。あるショップスタッフから、「バンパーごと、切断するしかないでしょうね」と言われたことで、決意。自分でUSB接続端子ホール横をニッパーでカットし、バンパーを外側に広げると、意外にも簡単に外れた。



 スマホ本体は2015年から使っているので7年目に入り、いつお釈迦になるかわからない。機種変更すれば、またパンパーを付け替えることになる。まずはOCNと契約するため、simカードの入れ替えが楽なよう「磁気吸着バンパーケース」を暫定で使ってみることにした。こちらは2つの強化ガラスを貼ったバンパーで、タッチパネル面と背面を挟む方式。磁石固定なのでネジ留めと違い取り付け、取り外しは簡単だ。

 ネジ留めのようにドライバーを使って外す必要もないから、docomoのショップスタッフがsimカードの入れ替えで手を煩わせる心配もない。新規契約はビデオを見せられるなどチンタラと時間がかかったが、カードの入れ替えはスムーズだった。ただ、バンパーケースをつけた状態でスマホを使うと、今度はタッチパネルと強化ガラスが干渉しあって、タップの反応が鈍くイライラする。

 ショップスタッフには申し訳ないので、タッチパネル面側のケースを外し、設定変更などを行ってもらった。ところが、契約切り替え後にバッグの肩ストラップからスマホのストラップを外す時、スルリと床に落下。そんな時のためにバンパーケースを付けていたのだが、タッチパネル面のガラスにヒビが入ってしまった。所詮、中国製の格安品だから、「強化ガラス」を謳ってもこの程度だろう。

 思い切ってガラスを剥ぎ取ると、これが綺麗に外れたのでしばらくこの状態で使用することにした。筆者としては従来通り、スマホの側面をバンパーで、タッチパネルはフィルムで直に保護した方が使いやすい。すでに機種変更を想定し、規格サイズが同じスマホを入手した。カメラレンズの位置は違うが、バンパーだけ替えるのなら問題もない。機種変更に合わせて新しいバンパーに付け替え、レザーホルダー、ストラップも新調することにした。


1枚の革でスマホを包み込むホルダー



 まず、新たにアルミバンパーを購入した。某国産ブランドで、一流メーカーの建築資材でも使用される頑丈な高品質アルミ素材を使用。しかも、高性能CNCで贅沢に削り出し、上部に開口部を設け、バンパー装着による電波干渉を最小限に抑えたアップデートモデルという触れ込みだ。

 マットブラックとシルバーのツートーンがブラックボディのスマホにコントラストを付け、筆者のセンスにもドンピシャ。面取り処理が施されたストラップホールがあることも購入の決め手となった。装着時の違和感はゼロで、平置き時には水平に保つ。これなら筆者の脂手にもしっくり馴染み、使い勝手も良さそうだ。

 次にオリジナルのレザーホルダーを制作する。こちらはデザインからすべて自分で行うものだ。革は昨年、レザージャケットの袖を切り替え時に一緒に購入していたもの。幅10cm、長さ90cm、厚さ1.2mmの帯状のカーフだ。まず、金型代わりにスマホケースを革で包んで挟み込み、両端をダブルクリップで固定してじっくり形を馴染ませる。

 You-Tubeで公開されているレザークラフトの常道なら、バンパー付きスマホのサイズに合わせて型紙を作り、それを当てて切り抜いた厚紙の型に合わせ革を切り抜くやり方だと思う。だが、こちらは1点ものだし、やや大きめのスマホケースを型にすれば、バンパー付きスマホでもすんなり出し入れできるだろうとの目算だ。緩ければ、タッチパネル面が当たる革の部分の傷防止用にベッチンの端切れを貼って厚みを調整すればいい。



 作業工程は以下のようになる。まず、ケースを包んだ革の両端内側を「両面テープ」で止め、革がズレないようにしっかりと接着する。次に「コンパス」の代わりに製図用のデバイダーで、「菱目打ち」用のガイド線を引き、「ゴム板」に乗せて革に菱目打ちを当て、トンカチで叩き針穴を開ける。ガイド線は直線なので、菱目打ちもしやすい。あとは2本の「手縫い針」に「ロウ引き糸」を通し、交互に縫い合わせていくだけだ。

 両端を縫い合わせると、糸線から2〜3mm外側をカッターでカットする。ホルダーは首から斜め掛けできるよう長めのレザーロープをつけるので、折り返した上部に2.5cm程度せり出させておく。この部分はロープを通すため、縫い合わせず中を空洞にする。あとはコバの部分の毛羽立ちやきれいに裁断できなかった革の断面部分をサンドペーパーで整え、コバの部分に「仕上げ剤」を塗れば完成だ。



 今回はずっと懸案だった「ストラップ」も手作りした。以前は100円ショップに売っているものを使っていた。糸には丈夫なテグスが使われているので数年は持つのだが、やはりプチプラで安っぽさは否めない。そこで革との相性を考え、今回は直径0.45mmのステンレスワイヤーを使ってストラップを試作してみた。

 通常、ワイヤーを輪にして両端が抜けないようにするには、「アルミスリーブ」に通して圧着ペンチで固定するのだが、建築途用だからアクセサリー的には見栄えが悪い。そこで、HCのハンズマンで見つけた「サーキュラースリーブ」を使ってみることにした。まず、0.45mmのワイヤーを折り曲げて2本のワイヤーをスリーブに通し、この2本を折り返して2つの輪っかを作り逆側から再度スリーブに通す。合計4本のワイヤーがスリーブの空洞に入るので、それらを2本のネジで固定すれば抜けなくなるという構造だ。



 ストラップは丸カンを付けたスナップフックを取り付け、スマホホルダーのロープにフックを掛ければ、落下防止になる。これまで通り、誤ってスマホを落下させそうになっても、ストラップでロープに繋いでいるので、床に落とすことはほぼ無いと思われる。

 材料費は革代が1000円、バンパーが一番高額で3800円、ステンレスワイヤーが1mで125円、サーキュラースリーブが375円。バンパーはネットで注文し、ワイヤーとスリーブはHCのハンズマンで購入。クラフトの道具は手持ちで、すべて自分で手作りしたので工賃はゼロ。材料込みの制作費は5300円で済んだ。作業要領は仕事の合間にデザインや工法をイメージし、それをパソコンでラフスケッチにまとめておく。あとは夏休みなど時間が空けば、一気に集中して制作にかかれる。

 売り物ではないので、デザインや使い勝手を自分仕様にできるのが良い。俄職人のクラフトワークというよりも、大人の暇つぶしとでも言おうか。これから革の感触が恋しくなるから、レザーグッズはスタイリングの必須アイテムだ。スマホホルダーも革で作ると、無機質なデジタル機器がレザーJKを纏うようにスタリッシュに変身する。適度な遊びを加えながら、あれこれと創造力を巡らせ、作り上げるレザークラフトはことの他楽しい。
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器ありて人おらず。

2022-08-10 06:32:28 | Weblog
 先週だったか、あるニュースが目に止まった。「国内工場発のブランド」として一時期メディアを賑わせたファクトリエ(運営はライフスタイルアクセントhttps://factelier.com/aboutus/)。同社が展開する「名古屋星ヶ丘テラス店」を閉店するという報道である。

 ファクトリエは、メイドインジャパンの商品を適正価格で消費者に販売することで、国内工場の自立を促し、人材育成や技術伝承への道筋をつける目的で、代表の山田敏夫さんが2012年に起業。既存流通へのアンチテージから出発し、今や工場直結&ECモデルを確立するまでに至っている。当初、販路はネットをメーンとしたため、実店舗を展開していなかった。



 ただ、産地工場で縫製や加工に携わる職人の技、それらが隅々に現れる衣服をお客さんに体感してもらうには、やはり現物が見られる店舗が必要だ。そこで、銀座(ビル3階)と熊本(山田さんの実家店舗マルタ號2階)にショールームを展開。ちょうどビジネスが軌道に乗り始めた頃、当方も雑誌の企画で山田さんご本人にお話を窺った。今から6年前、震災の爪痕がそこかしこに残る2016年9月、熊本市でのことだ。

 山田さんは以下のように語り、それを当方が記事にした。

 「事業計画は2030年まで決めている。将来的には提携工場は必要なところだけ残し、MDの変更、ネット販売の中止、自社工場などの可能性もある

 「現状は実店舗と海外展開に注力する。10月(2016年)には横浜の元町商店街と名古屋の星ヶ丘テラスに路面出店。両店とも試着サンプルのみで在庫は置かず、販売はタブレット端末で行う

 「単なるリアル店ではイノベーションの香りがしないため、名古屋店には400キロもある縫製機を運び入れ、顧客に工場の雰囲気も味わってもらう」(雑誌「商業界」2016年11月号より抜粋)

 この計画の全てが実現したかと言えば、違うだろう。だが、ファクトリエは他社のどこも成し遂げていなかったビジネススタイルに挑戦した。2017年1月には、スコッチウイスキーのシーバスリーガルが幻冬舎発行の雑誌GOETHEの協力のもとに設立した「シーバスブラザーズ・ヤングアントレプレナー基金 Supported by GOETHE」において、山田さんは第5回目の受賞者に輝く。気鋭の起業家として国内外に認められた証左だ。ファクトリエは基金から助成金1000万円の交付を受け、計画通り海外展開に弾みを付けた。



 2017年1月下旬、台湾台北市の百貨店に常設店を出店(現在は同市のTSUTAYA BOOK STOREに松山站前店と信義店の2店舗を展開)。山田さんは同年2月に米国のニューヨーク、3月には英国ロンドンを赴いて、出店の見据えたリサーチを行うとも表明した。「日本のものづくりは必ず海外から認められる」との確信があったからだ。

 しかし、計画通りに進まないのもビジネスである。ファクトリエは海外事業をスタートしてまもなくクレジット詐欺に遭う。マレーシアからの購入分の300万円全額がカードの不正利用で詐取されてしまったのだ。カード会社は「売上げは取り消しになる」旨を通告する一方、騙し取られた商品が返還もされることもなく、「運が悪かったと思ってください」と、冷たくあしらわれたという。

 ファクトリエにとって売買代金300万円ともなれば、商品点数にして100点以上。それをお客に発送したにも関わらず、代金は1円も入金されない。こんな理不尽なことはない。ただ、山田さんはこの体験から海外事業を展開する上での心得を学んだ。それは海外商標の申請に始まり、現地語への翻訳、カレンシーの設定、国際配送の手続き、原産地証明の取得、そして詐欺対策等など。今ならブロックチェーンの作成もあるだろうか。これらを行った上で事業を進めなければ、グローバルでは通用しないということである。

 国際詐欺というアクシデントに見舞われながらも、山田さんは決して気持ちが折れることはなかった。自ら事業を前進させるのは、日本生まれの世界ブランドを創るという飽くなき野望と、そんな服を世界中の人々に来てもらいたいという洋服屋の魂からだ。


アパレルファッションである以上、変化は不可欠



 その後もファクトリエは、着古したTシャツを回収し、生地をコットンに戻して新しい糸を紡ぎ、生地に編んで新しいTシャツに再生する「サスティナブルなTシャツ(5500円)」を売り出す。もちろん、こちらも下着の製造を手掛けてきた兵庫県加西市の縫製工場「エポック」に製造を委託。長年にわたって培った製造技術を生かし、肌あたりの良さを意識した。Tシャツの水平リサイクルという試みでは日本初となった。

 日本全国の一流アパレル工場と提携し、従来は工場と消費者に間にあった多くの中間業者を省くことで、工場が適正な利益を出せるようにする。既存のアパレル流通に一石を投じる画期的なコンセプトではあった。ただ、旧来からのアパレル事業において、工場と消費者の間に介在する業者は、何も全てが中抜きをしているわけではない。

 例えば、ODMメーカー。ODMとは、Original Design Manufacturingの略語で、委託者(ブランドメーカー)のブランドで製品を設計(デザイン)・生産することを指す。平たく言えば、有名なアパレルブランドでもレディスからメンズ、キッズまで、コートからスーツ、アンダーウエア、雑貨に至るまでと、全てを自社でデザインし生産できるわけではない。

 しかし、卸先や消費者からそれらのアイテムの要望があれば、レディスメーカーでもメンズに参入したり、アパレル主体でも雑貨を企画したりするケースも出てくる。そうした時に新たに開発チームをゼロから立ち上げるには資金も時間もかかるため、ODMメーカーは黒子として相手先のブランド名で製品をデザイン・生産してくれるのだ。ただ、これにはブランドコンセプトに合った商品を作り上げられるデザイナーなどの人材が必要になる。



 その点、ファクトリエはマーチャンダイジング(MD)を自社ですべてコントロールしている。企画デザインには海外ブランドの経験者や社内デザイナーが携わるとはいうものの、MDの基本方針は「ベーシックで長く着られること」から、どうしてもアイテムはプレーンでコンサバのテイストになってしまう。

 それらは控えめで適度な気品を感じさせる一方、モードやトレンドという意味では個性に乏しく斬新さに欠ける。アパレルでは、時代の空気を感じながらトレンドを打ち出す流行を作り出すことも売れる条件として不可欠なのだが、それがファクトリエには見えない気がする。

 また、ビジネスの面ではファクトリーブランドと言っても、工場の稼働率を上げるには重衣料から雑貨までフルアイテムMDでは売れ筋が分散するので難しい。あのメーカーズシャツ鎌倉が上質で秀逸な商品を値ごろ感のあるプライス(6900円)で生み出せるのは、「シャツ」というアイテムにも限定した展開だからだ。

 つまり、単品に特化して提携工場の稼働率を高めながら、流通ロスを抑えるからこそ、コストパフォーマンスは高くなるわけだ。いつの間にかフルアイテム展開になってしまったファクトリエでは、この点がネックになっていると言わざるを得ない。



 名古屋星ヶ丘テラス店の閉店について、山田さんは以下のように3つの理由を挙げている。一つは店舗は工場とお客が繋がる場所だったが、コロナ禍で工場イベントができなくなり、買ってもらうための場所になってしまったこと。2つ目は名古屋店は黒字だったものの、商品の原価率が60%近いこともあり、売上げの減少で店舗負担が大きくなった。3つ目はメンバー退職に伴う人員確保が思うようにいかず、最終的に成長するECへ経営資源を集中させることに決めたこと、だ。

 ダイレクトファクトリーブランドとしては、ECを主体にSNSなどを駆使してファン客と繋がり、定期的なリアルイベントをリンクさせてブランディングを強化していく方がいいとの決断に至ったようだ。ただ、熊本店は実家の店舗を活用しているため、家賃などは抑えらるだろうが、銀座のショールームは必要とは言え、固定費はかなり重いはず。こちらがペイしているのかどうかと言えば、かなり厳しいだろう。ECが好調とはいえ、固定費が少しずつ経営の重荷になっていくことも考えられる。

 もっとも、ファッションである以上、シーズンごとに商品の変化は必要で、ある程度斬新なテイストも打ち出さないと、ブランドとしては陳腐化していく。山田さんのことだから、2030年以降の経営計画も視野にはあると思うが、今回の店舗閉鎖を含めて決断はスピーディーなのだから、全く違った事業構想があるのかもしれない。

 アパレル販売には人、物、器が不可欠と言われる。山田さんの経営判断はスピーディーだが、ネットという器あっても人材がいなければ、これからビジネスがどう転ぶのかはわからない。まして、ものづくりの追求にゴールはないし、常に変化が求められる。アパレルファッションを手掛ける以上、その呪縛から逃れることはできないと思うのだが。果たして。
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デリバリーの憂鬱。

2022-08-03 06:37:53 | Weblog
 Amazonは7月27日、北は青森から南は沖縄まで日本全国18か所にアマゾンの配送拠点「デリバリーステーション」を開設すると発表した。顧客が注文した商品を全国のフルフィルメントセンターなどから集約し、顧客宅の玄関先まで届けるラスト・ワンマイルの起点にする狙いで、独自配送により「700万点以上の商品の翌日配送を可能」とする。そのため、Amazon側は新たにAmazon Flexの配送ドライバー数千人を雇用する予定という。



 また青森、岩手、長野、徳島、香川、愛媛、高知、熊本、沖縄では「置き配指定サービス」が利用できる。これは顧客が買い物をする際、宅配ボックス、ガスメーターボックス、車庫、自転車かご、玄関先など、好きな場所を指定できるもの。受け取りに立ち会う必要がないため、コロナ禍では非接触で安全性が高い。配送側にとっても再配達の手間が省け、CO2排出量の削減につなげられる。Amazonとしては環境に配慮したサービスという触れ込みだ。

 少し前のデータだが、「2020年中小企業インパクトレポート」によると、Amazon.co.jpに出品し、年間売上高(税込)が1,000万円を超えた日本の中小の販売事業者数は3,000社以上、1億円を超えた同販売事業者は500社以上で、「商品販売数は4億点を超えた」という。データが示す通り、表向きは大躍進とも言えるが、それを支えるのはフルフィルメントやデリバリーに従事する従業員たちの過酷な労働に他ならない。

 Amazonの労働問題は、横田増生氏の潜入ルポ「Amazon帝国」などで詳しく紹介されているので、ここで言及することは控えたい。ただ、デリバリーステーションの拡張により、Amazon側は「多様でやりがいのある働く機会を創出する」と言うが、フルフィルメントセンターをはじめ、ステーション、配送ドライバーの労働環境や賃金体系が働く側にとって本当に望ましいものかどうかは未知数だ。



 また、荷物はメール便から食品、衣類、雑貨、はては家具類までと種々雑多で、フルフィルメントセンターにはFBA(フルフィルメント・バイ・アマゾン)でマーケットプレイスの出品者が商品を保管できるにしても、全ての商品をセンターにストックし、配送することはできない。また、Amazon独自の配送で700万点以上の商品の翌日配送が可能にすれば、センターからデリバリーステーションまでの輸送量はもとより、ステーションでの「荷下ろし」、配送コース別の「仕分け」など、「人の手」に頼らざるを得ない作業がさらに増えていく。

 AmazonはAmazon Flexの配送ドライバーを新規に雇用するという。だが、それは黒ナンバーをつけた個人の運送業者(赤帽)を活用するか、新規就労者をわずか4週間の研修で1日あたり90個のノルマを目標に育成するものだ。

 「配送の空いた時間をAmazonのデリバリーに充てれば収入増になる」「日給1万2000円(配送業者は2万円)」という謳い文句だろうが、土地勘のあるエリアで都合よく荷物の配達があるのか。また、既存の運送業者がAmazonの仕事のために離れた配送拠点まで商品を取りに行くことがガソリン代が高騰する中で現実的なのか等など、課題は少なくない。



 個人運送業者が利用する車は、燃料コストの削減から「軽ワゴン車」だ。メール便やネコポス、3辺合計が60cm程度の小さい荷物なら大量に運べるが、Amazonでは木&鉄製の棚、椅子、衣装ケース、40インチ以上のテレビなど「重く」、「嵩張る」商品の注文も増えている。一辺が1m程度の荷物になれば、軽ワゴン車に積める個数は限られ、他の小口荷物が積めなくなる。だから、大きな荷物は、「時間指定」ともに従来通りヤマト運輸の2トン車で運ぶことに変わりはない。

 結局、Amazonは配送拠点の開設でラストワンマイルの体制を充実させ、700万点以上の商品の翌日配送を可能にすると言ったところで、それは商品次第ということ。前出のようにFBAがあるにしても、それ以外(マーケットプレイス含む)から出荷される商品は、このカテゴリーから外れる。

 Amazonは注文客のメリットばかりを訴えているが、その背景にいるフルフィルメントセンターで働くスタッフなどエッセンシャルワーカーに対する労務改善には何も触れようとしない。現にセンターで作業中になくなっている人が何人もいるのだ。むしろ、そうした諸々を含めた物流改革がカギであることをAmazonはどう思っているか、である。


「スマホ1つで生活できる」便利さのしわ寄せ

 Amazonの他にヤフー、楽天、ゾゾといったECプラットフォーマー、メーカーや小売事業者の直通販、メルカリなどの個人取引、企業間の小口荷物は、どのような物流システムで動いているのか。一般的にはヤマト運輸に代表される「ハブ&スポーク型」というシステムだ。この仕組みは簡単に言うと、以下のような流れになる。

①ドライバー(主に2トン車)が企業や家庭などで荷物を集荷

②ドライバー所属のエリアセンター(地域の集配拠点)で、配送先別のボックスに分別

③各ボックスを10トン車でリージョナル拠点(県ごと)まで輸送し
(午前集荷で14時発)集約

④リージョナル拠点で配送方面のリージョナル拠点別に仕分け、夜間に輸送

⑤リージョナル拠点に着荷した荷物を早朝にエリアセンター別に仕分け、10トン車で輸送

⑥エリアセンターに着荷した荷物を配送先の企業、家庭別(各担当ドライバー別)に仕分け

⑦ドライバーが企業や家庭などに荷物を配送




 簡単に言えば、出荷側のエリアセンター(地域集配拠点)とリージョナル拠点、着荷側のリージョナル拠点とエリアセンターで計4回の積み替えが発生する。そして、エリアセンターに着荷した大小の荷物を鉄製のコンテナボックスから出してコース別に仕分けするのは、パート社員だ。重さにして100グラム程度から20キロ弱までの荷物全てを人間が手作業で行うので決して楽な仕事ではない。リージョナル拠点ではベルトコンベアでエリアセンター毎に仕分けされるが、それが故障すると「混載」となり、エリアセンターでの作業がさらに煩雑になる。



 つまり、ECの荷物が莫大に増えているため、宅配事業に多大な負荷がかかっているのだ。また、荷物は集荷、着荷後に最短で届けるだけではない。「期日指定」(企業が休日の場合も)や「コレクト便」もある。受け取り日指定やコレクト便があれば、スタッフが携帯用の「時点管理登録機(ポータブルポス)」を用いて入力を行う。それらは当日分とは別に仕分けし、配送日までエリアセンターに留め置かれる。入力は担当ドライバーがPCで配送日を確認できるようにするためだ。

 また、Amazon Fresh、ネットスーパーやメーカーのECでは、生鮮冷蔵冷凍の食品配送もある。それらも一般荷物と同様に輸送システムに組み込まれ、「冷蔵」「冷凍」別のクーラーボックスで輸送される。エリア拠点では別々に仕分けされ、各トラックの左右側面の保冷庫に載せられて、一般の荷物と一緒に配送される。ただ、夏場は荷物の積み込み作業中でも保冷機能を維持するには、トラックのエンジンをかけなければならない。当然、CO2を排出するわけで、環境に配慮するのは簡単ではないのだ。



 契約ドライバーの軽ワゴン車で保冷庫が付いていないものは、荷台に置かれた大型の「保冷バッグ(ドライアイスや保冷剤入り)に積み込む。人間が積み替え、積み込みの作業を行うため、輸送用のクーラーボックスやエリアセンターの保冷庫から外に出して外気に晒すと、荷物の保冷温も上昇する。まだまだ原始的な部分が少なくない。この猛暑でクール便がどこまできちんと温度管理され、お客の元に配送されているかは不透明なのだ。

 Amazon Freshでは注文から最短4時間で商品が発送されるほか、配達時間の指定範囲が午前8時から深夜0時までの2時間刻みという幅広さの背景には、過酷なアナログ作業をこなす人間がいることも知っておくべきである。

 Amazonが翌日配送を充実するために配送拠点を増やしていけば、その分、荷物は増えていく。しかも、競合他社が同じようなサービスを導入するのは時間の問題だ。一方、宅配事業者が作業負担をできるだけ削減するには無駄な乗り換え、載せ換えを無くし、時間もコストも圧縮できるP2P(point to point)体制を整える必要がある。また、鉄枠のコンテナボックスにバラバラに積み込むような荷姿を改め、仕分けを完全自動化することが欠かせない。

 Amazonが配送ドライバーを新規に雇用するのは、個人運送業者を組織化してラストワンマイルを分担させる狙いだと見られる。そこは他のネット事業の物流に比べると一歩リードという感じだ。ただ、肝心なフルフィルメントセンターから配送拠点のデリバリーステーションまでの輸送体制やステーションでの仕分け作業をどうするのかなどの課題もある。

 アパレル業界では、EC向けのピッキング作業を行う自律走行搬送ロボットがようやく導入されるようになった。だが、全国物流は依然として大手宅配事業者に頼らざるを得ないのが現状だ。これから宅配事業者と共同で物流革新に挑むところが現れるのか。

 「スマホ一つで生活できるようにしたい」と宣う経営者こそ、ECをより発展させるために必要な物流革新に目を向けるべきではないのか。そこにある様々な課題が解決しない以上、デリバリーに携わる人々の憂鬱は続くのである。

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