昨年の12月に日本から全面撤退した米アウトドアブランドの「エディー・バウアー」が来年春夏シーズンから販売を再開する。伊藤忠商事が同ブランドの日本国内でのライセンス権と販売権を取得したことにより、アパレルメーカーの水甚が伊藤忠とライセンス契約を結び、取扱いを始めるというものだ。
エディー・バウアーは1919年に米国のシアトルで誕生した。オーナーのエディー・バウアーが第2次世界大戦中に軍用の契約を取ったのを契機に、ヒマラヤ遠征隊向けのダウンジャケットなどを開発。国土が広い米国では通信販売で知名度を広げ、88年にはカタログ販売の「シュピーゲル社」に買収された。その後、筆者がニューヨークに渡る数年前の91年、現地に直営店がオープン。実際に店舗を訪れてみたが、メンズ、レディス、キッズのウエアを展開しており、極感の冬には重宝するだろうなと感じた。
「L.L.ビーン」と並び、郊外のショッピングセンター(SC)に出店していた時点では、あくまでアウトドアブランドとしてモノづくりを追求していれば良かった。ところが、ニューヨークに進出した以上、「都市生活者が週末のライフスタイルで着たくなる商品」展開が求められる。ガチガチのアウトドアから「シュアなカジュアルブランド」に移行しなければ、ニューヨーカーの心は掴めない。1990年半ばは、エディー・バウアーがアイテムのデザインやスタイリングに改良を加えようとした時期だった。
筆者がニューヨークから福岡に戻った1996年、米国のSCモデルを踏襲した「キャナルシティ博多」がオープン。施設のデザインは、デベロッパーの福岡地所(当時はF.J.都市開発)が米国人建築家のジョン・ジャーディに依頼したものだ。同氏は米国でSC設計を数多く手掛けていたことからテナント事情にも精通しており、それはキャナルシティ博多のリーシングにも影響した。エディー・バウアーをはじめとしたアウトドアブランドの集積である。
当時の日本は平成不況のただ中。キャナルシティ博多が街のど真ん中に開業したとは言え、高級ブランドを誘致するには不釣り合いだった。かたや庶民にはカジュアルスタイルが浸透しつつあり、スペースを埋めるために海外のアウトドアブランドは格好の商材だったわけだ。ただ、不思議なことにニューヨークで見るエディー・バウアーと、日本しかも福岡で見るそれは違った。どうしても日本人の感覚で見てしまうからだ。
米国アウトドアブランドという新鮮さはあったにせよ、商品はいかにも米国人向けの大味な作りで、サイズも大きく日本人好みのテイストにはほど遠かった。釣りやキャンプなどで着るにはいいが、タウンカジュアルとしてはオシャレには見えない。販売手法もGAPと同様にハンギングが中心で、大量の在庫を並べマークダウンで売り減らしていくもの。それでも、テナント契約の絡みからか展開は維持された。しかし、ニューヨーク展開で模索されたシュアなカジュアルブランドには移行できずじまいのようだった。
その後、メンズ&レディスでジャケットやパンツ、シャツなどビジネスウエアのカテゴリーを販売する業態も展開。天神南の渡辺通り角のビル1階にも出店したが、こちらも商品が作り込まれているとは言えず、いつ覗いてもお客はおらず集客は厳しかったと思われる。
結局、米国内では親会社のシュピーゲル社がカタログ事業の低迷で倒産。それでも収益性が高かったエディー・バウアー部門を中心に再編し、2005年に新会社「エディー・バウアー・ホールディングス」を設立。ところが、同社も2009年に売上不振や資金繰りの悪化から、連邦破産法11条(チャプター11)を申請。事実上、倒産した。
日本法人の「エディー・バウアー・ジャパン」は独立会社として営業を継続していたが、こちらも前出の通り売上げ好調とは言えず、昨年12月に全面撤退となった。日本はもとより、米国でも苦戦したのは、売上げ追求のあまりにアウトドアブランドとしてのバリュやポジションがブレてしまい、商品作りが中途半端になってしまったのが原因と思われる。
日本におけるエディー・バウアーの展開は、1990年代初めのカタログ販売が先だ。住友商事系の住商オットーとエディー・バウアーの合弁会社、エディー・バウアー・ジャパンが米国流に則って通販市場の攻略に打って出たのである。ただ、国土が広く通販が浸透している米国とは違い、日本でブランド力を上げるには実店舗を展開し、消費者に現物を見て購入してもらうことが不可欠だった。
日本流の企画で、輸出できれば御の字か
こうした経緯もあり、実店舗が出店されることになるのだが、米国のままの商品を持ってきただけでは、日本市場には通用しないことが昨年の全面撤退で証明された。日本人は海外アウトドアブランドに対し機能性はもちろん、ファッション性も含め作り込んだイメージを抱いている。だから、まずは素材やデザイン、カラリングなど、セレクトショップや百貨店のバイヤーの心眼に叶うのが大前提だ。ビームスがコールマンとコラボアイテムを企画したことで、ヒットアイテムを連発したのが何よりの証左だろう。
一方、マスマーケットを狙うケースでも、商品企画に注力することが売れる絶対条件になる。ワークマンはキャンプフリークなどの声を商品作りの随所に活かしたからこそ、アウトドア系でもヒットアイテムを生み出すことができた。日本市場では米国人の感性、量産による価格設定、マークダウンを想定した商品作りでは、たとえ実用性重視のアウトドアブランドと言えど、攻略は難しいのである。
そこで、エディー・バウアーのライセンス権と販売権を取得した伊藤忠と、同社とライセンス契約を結んだアパレルメーカーの水甚が商品開発に動くのは、これまでの反省に立った新たな展開を目指すものと考えられる。
伊藤忠としては、コロナ禍で盛り上がったキャンプに目をつけ、アウトドアブランドによる市場の掘り起こしを狙う思惑のはずだ。そのためにマーケティングを行い、市場ニーズ、機能性や素材、デザイン、カラリング、価格帯を洗い出す。そのデータを元に、米ブランドのダウンジャケット「ファーストダウン」の企画・製造で実績を持つ水甚が持てるノウハウを最大限に生かして商品作りを進めていくと思われる。
言うなれば、日本企画による米国アウトドアブランドの再建。いや、米国アウトドアブランドのローカル企画とでも言おうか。もちろん、課題はある。日本版のエディー・バウアーがアウトドアに偏りすぎると、市場は広がらないということだ。一方、カジュアルテイストを際立たせて、ボリューム市場を攻略するにしても競合は少なくない。ブランドで仕掛けたからと簡単にいくものではないのだ。
一方、同じ米国アウトドアブランドの「ザ・ノース・フェイス」が日本ではゴールドウインがライセンスで生産し、人気ブランドに躍り出たことも、伊藤忠としては見過ごせなかったはずだ。だからと言って、同じやり方をしても二番煎じになってしまう。日本人にとってのエディー・バウアーは、クラシカルなハンドライティングのロゴをはじめ、アイテム個々がいたって大味な作りだとのイメージが刷り込まれている。それを覆すような画期的な企画を生み出さない限り、市場の掘り起こしは難しいだろう。
また、ブランドバリュを上げるには、実店舗を展開して「エディー・バウアーは変わった」ことをお客に店頭で直に見てもらわなければならない。つまり、米国流のVMDやVP、フェイスアウトを一新した新たな展開方法を確立できるかなど、小売りのノウハウが不可欠になる。果たして商社の伊藤忠やアパレルの水甚にそこまでできるかである。
ザ・ノース・フェイスは、ゴールドウインが日本の他に韓国での商標権も獲得している。福岡を訪れる韓国人旅行者が同ブランドのアイテムを着用しているのをよく見かけるが、それだけ韓国にも浸透しているということだ。そうしたところも伊藤忠がエディー・バウアーのライセンス権と販売権をの取得に動かしたとすれば、ゆくゆくはアジアを含めたグローバル市場の攻略も想定しているのではないか。
本家エディー・バウアーが1994年のニューヨーク展開で果たせなかった都市生活者が週末に着たいアウトドアスタイルを実現できるか。まずは伊藤忠と水甚が本家の顔色をうかがうことなく、独自路線での取り組みに期待したい。
エディー・バウアーは1919年に米国のシアトルで誕生した。オーナーのエディー・バウアーが第2次世界大戦中に軍用の契約を取ったのを契機に、ヒマラヤ遠征隊向けのダウンジャケットなどを開発。国土が広い米国では通信販売で知名度を広げ、88年にはカタログ販売の「シュピーゲル社」に買収された。その後、筆者がニューヨークに渡る数年前の91年、現地に直営店がオープン。実際に店舗を訪れてみたが、メンズ、レディス、キッズのウエアを展開しており、極感の冬には重宝するだろうなと感じた。
「L.L.ビーン」と並び、郊外のショッピングセンター(SC)に出店していた時点では、あくまでアウトドアブランドとしてモノづくりを追求していれば良かった。ところが、ニューヨークに進出した以上、「都市生活者が週末のライフスタイルで着たくなる商品」展開が求められる。ガチガチのアウトドアから「シュアなカジュアルブランド」に移行しなければ、ニューヨーカーの心は掴めない。1990年半ばは、エディー・バウアーがアイテムのデザインやスタイリングに改良を加えようとした時期だった。
筆者がニューヨークから福岡に戻った1996年、米国のSCモデルを踏襲した「キャナルシティ博多」がオープン。施設のデザインは、デベロッパーの福岡地所(当時はF.J.都市開発)が米国人建築家のジョン・ジャーディに依頼したものだ。同氏は米国でSC設計を数多く手掛けていたことからテナント事情にも精通しており、それはキャナルシティ博多のリーシングにも影響した。エディー・バウアーをはじめとしたアウトドアブランドの集積である。
当時の日本は平成不況のただ中。キャナルシティ博多が街のど真ん中に開業したとは言え、高級ブランドを誘致するには不釣り合いだった。かたや庶民にはカジュアルスタイルが浸透しつつあり、スペースを埋めるために海外のアウトドアブランドは格好の商材だったわけだ。ただ、不思議なことにニューヨークで見るエディー・バウアーと、日本しかも福岡で見るそれは違った。どうしても日本人の感覚で見てしまうからだ。
米国アウトドアブランドという新鮮さはあったにせよ、商品はいかにも米国人向けの大味な作りで、サイズも大きく日本人好みのテイストにはほど遠かった。釣りやキャンプなどで着るにはいいが、タウンカジュアルとしてはオシャレには見えない。販売手法もGAPと同様にハンギングが中心で、大量の在庫を並べマークダウンで売り減らしていくもの。それでも、テナント契約の絡みからか展開は維持された。しかし、ニューヨーク展開で模索されたシュアなカジュアルブランドには移行できずじまいのようだった。
その後、メンズ&レディスでジャケットやパンツ、シャツなどビジネスウエアのカテゴリーを販売する業態も展開。天神南の渡辺通り角のビル1階にも出店したが、こちらも商品が作り込まれているとは言えず、いつ覗いてもお客はおらず集客は厳しかったと思われる。
結局、米国内では親会社のシュピーゲル社がカタログ事業の低迷で倒産。それでも収益性が高かったエディー・バウアー部門を中心に再編し、2005年に新会社「エディー・バウアー・ホールディングス」を設立。ところが、同社も2009年に売上不振や資金繰りの悪化から、連邦破産法11条(チャプター11)を申請。事実上、倒産した。
日本法人の「エディー・バウアー・ジャパン」は独立会社として営業を継続していたが、こちらも前出の通り売上げ好調とは言えず、昨年12月に全面撤退となった。日本はもとより、米国でも苦戦したのは、売上げ追求のあまりにアウトドアブランドとしてのバリュやポジションがブレてしまい、商品作りが中途半端になってしまったのが原因と思われる。
日本におけるエディー・バウアーの展開は、1990年代初めのカタログ販売が先だ。住友商事系の住商オットーとエディー・バウアーの合弁会社、エディー・バウアー・ジャパンが米国流に則って通販市場の攻略に打って出たのである。ただ、国土が広く通販が浸透している米国とは違い、日本でブランド力を上げるには実店舗を展開し、消費者に現物を見て購入してもらうことが不可欠だった。
日本流の企画で、輸出できれば御の字か
こうした経緯もあり、実店舗が出店されることになるのだが、米国のままの商品を持ってきただけでは、日本市場には通用しないことが昨年の全面撤退で証明された。日本人は海外アウトドアブランドに対し機能性はもちろん、ファッション性も含め作り込んだイメージを抱いている。だから、まずは素材やデザイン、カラリングなど、セレクトショップや百貨店のバイヤーの心眼に叶うのが大前提だ。ビームスがコールマンとコラボアイテムを企画したことで、ヒットアイテムを連発したのが何よりの証左だろう。
一方、マスマーケットを狙うケースでも、商品企画に注力することが売れる絶対条件になる。ワークマンはキャンプフリークなどの声を商品作りの随所に活かしたからこそ、アウトドア系でもヒットアイテムを生み出すことができた。日本市場では米国人の感性、量産による価格設定、マークダウンを想定した商品作りでは、たとえ実用性重視のアウトドアブランドと言えど、攻略は難しいのである。
そこで、エディー・バウアーのライセンス権と販売権を取得した伊藤忠と、同社とライセンス契約を結んだアパレルメーカーの水甚が商品開発に動くのは、これまでの反省に立った新たな展開を目指すものと考えられる。
伊藤忠としては、コロナ禍で盛り上がったキャンプに目をつけ、アウトドアブランドによる市場の掘り起こしを狙う思惑のはずだ。そのためにマーケティングを行い、市場ニーズ、機能性や素材、デザイン、カラリング、価格帯を洗い出す。そのデータを元に、米ブランドのダウンジャケット「ファーストダウン」の企画・製造で実績を持つ水甚が持てるノウハウを最大限に生かして商品作りを進めていくと思われる。
言うなれば、日本企画による米国アウトドアブランドの再建。いや、米国アウトドアブランドのローカル企画とでも言おうか。もちろん、課題はある。日本版のエディー・バウアーがアウトドアに偏りすぎると、市場は広がらないということだ。一方、カジュアルテイストを際立たせて、ボリューム市場を攻略するにしても競合は少なくない。ブランドで仕掛けたからと簡単にいくものではないのだ。
一方、同じ米国アウトドアブランドの「ザ・ノース・フェイス」が日本ではゴールドウインがライセンスで生産し、人気ブランドに躍り出たことも、伊藤忠としては見過ごせなかったはずだ。だからと言って、同じやり方をしても二番煎じになってしまう。日本人にとってのエディー・バウアーは、クラシカルなハンドライティングのロゴをはじめ、アイテム個々がいたって大味な作りだとのイメージが刷り込まれている。それを覆すような画期的な企画を生み出さない限り、市場の掘り起こしは難しいだろう。
また、ブランドバリュを上げるには、実店舗を展開して「エディー・バウアーは変わった」ことをお客に店頭で直に見てもらわなければならない。つまり、米国流のVMDやVP、フェイスアウトを一新した新たな展開方法を確立できるかなど、小売りのノウハウが不可欠になる。果たして商社の伊藤忠やアパレルの水甚にそこまでできるかである。
ザ・ノース・フェイスは、ゴールドウインが日本の他に韓国での商標権も獲得している。福岡を訪れる韓国人旅行者が同ブランドのアイテムを着用しているのをよく見かけるが、それだけ韓国にも浸透しているということだ。そうしたところも伊藤忠がエディー・バウアーのライセンス権と販売権をの取得に動かしたとすれば、ゆくゆくはアジアを含めたグローバル市場の攻略も想定しているのではないか。
本家エディー・バウアーが1994年のニューヨーク展開で果たせなかった都市生活者が週末に着たいアウトドアスタイルを実現できるか。まずは伊藤忠と水甚が本家の顔色をうかがうことなく、独自路線での取り組みに期待したい。