HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

コンサバ反抗のうねり。

2017-05-10 07:05:13 | Weblog
 5月4日、米国ニューヨークのメトロポリタン美術館(MET)で、コムデギャルソンのデザイナー、川久保玲氏による「Rei Kawakubo/Comme des Garçons: Art of the In-Between」(コムデギャルソン 間の技)の一般公開が始まった。

  METと言えば、ニューヨークを代表する美術館である。筆者は過去に何度も訪れているが、とてもすべての展示を見きれていない。セクションは1階2階あわせて20近くに分かれ、創設当初のエジプトコレクションから中世ヨーロッパ、中近東、アジア、中央アメリカまで膨大な収蔵品が置かれている。

 ただ、METにはモナリザやロゼッタストーンのような歴史遺産があるわけではなく、19世紀後半に起こった市民運動により、美術館として全くゼロから収集し始めたものだ。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、経済的に疲弊したヨーロッパ諸国がオークションに出した比較的小物が収蔵されているに過ぎない。

 とは言っても、中世ヨーロッパの絵画や美術品の充実度は群を抜いており、それだけアート収集への執着心の強さをうかがわせる。それらは著名な富豪たちの寄贈やチャリティがあってのもので、「いいものは次代に残す」というコレクターズ・スピリッツがMETの基礎を支えていると言っても過言ではないだろう。

 そんなMETがエキジビジョンとは言え、川久保氏のクリエーションを扱うのは異例のことだ。存命のデザイナーとしては1983年のイブ・サンローラン以来で、5月1日のプレスプレビューでは、これまでにない長蛇の列ができたのも、過去には例がないようである。 

 MoMAやゲッケンハイムに比べると、METには20世紀以前の歴史的アートが多い。キュレーターは新陳代謝しているとは言っても、川久保氏のクリエーションのように美しく詩的で彫刻のような造型にも、時代的な価値を感じざるを得ないのだと思う。

 今ではインターネットで著名な絵画や彫刻から前衛芸術家のオブジェ、気鋭の新人アーチストまでの作品を鑑賞することができる。ただ、それはパソコンの画面を通しての鑑賞に止まり、ライブ感というか、作品が放つソウルフルな熱を感じない。やはり美術館やギャラリーで展示されるアートこそ、生で観る価値がある。

 今回のエキジビジョンでは、パリコレで披露されて来た数々のクリエーションを時系列に関係なく、接することができる。川久保氏が常に語っている飢餓状態から生まれる新しい発見や前進、心の躍動を目の当たりにすれば、作品の完成度や創造性は年を経ても朽ちないことがわかると思う。コムデギャルソンはいつもア・ラ・モードなのだ。

 それらは白バックの壁でオープン展示され、コレクションより静止した状態で見ることができるのだから、筆者のように素材からファッションに入る人間にとっては、色や組織を研究するまたとないチャンスになる。

 こうしたエキジビジョンをMET側が提案したのが、川久保氏の意向なのかはわからないが、川久保氏はこれまでにも色んなキュレーターと展示会を協創してきただけに、こうしたカタチになるのは順当なところだろう。



 今回の展示で目を引くのは、まずデザインとしてセンセーションを巻き起こした「こぶドレス」に見られる立体造型だろうか。「ボディミーツドレス、ドレスミーツボディ」をテーマに、90年代後半のコレクションで登場した。

 ストレッチのきいた生地を生身の身体に貼り付かせたドレスである一方、肩や背中、腰などにある「こぶ」の部分には羽毛を入れることで、立体をより際立たせ新しいフォルムを表現している。ファッションデザインの可能性を広げるために体型にあえて逆らうという逆説の創作と言える。



 もう一つは、コムデギャルソンの功績でもある「黒」と穴空きセーターに代表される「ボロルック」だ。 ヨーロッパで黒は禁欲的な色と言われ、モードでは採用されなかったことに挑戦したもので、パリコレがずっと提案して来たエレガンスできらびやかな衣装へのプロテストとでも言おうか。

 洋裁の経験者なら「破れ、ほつれはそのままにしておくと、どんどん酷くなる」と感じる。しかし、コムデギャルソンは素材にあえて負荷をかけて粗野に加工し、劣化した状態にすることで形を作り上げていく。当然、新品なのだからこれ以上、破れやほつれが進むと困るわけで、目に見えない部分での防止処理が施されている。ボロルックには見えないところで手間隙がかかっているのだ。



 他にもジャケットやスーツの上着部分に太めの料袖や花飾りを接着したものもある。こちらはずらしや置き換え、反転といった技法を施したもので、服の身頃につくのは2つ袖だけではない、装飾は袖口にあるとの固定観念を真っ向から覆した作品である。

 アートに昇華するクリエーションとでも言おうか。服の構造を完全に崩すことで新しい造型を生み出し、デザインを素材やシルエット、ディテール、サイズといったお決まりの条件、旧態依然としたルール、固定した美意識を解き放してみせる。

 こうした服作りを振り返ると、当初からコムデギャルソンに否定的なメディアは少なくなかった。筆者が記憶しているだけでも、散々な評価をしたところがある。

 「みすぼらしい崇拝主義」「これは不吉な未来を予告する醜悪のスノビズム」等々。

 筆者が初めてパリコレを見た90年代終わり頃も、「精神病患者の服」なんて酷評したメディアもあった。ヨーロッパ人の美意識や規範からすれば、ルイ王朝の時代から続くエレガンスで美しいファッションを作り育てて来たのに、黒やボロルックというコムデギャルソンが生み出す鋭いカウンターパンチで、自分たちが築き上げた価値観を崩されてしまったからだ。

 しかしである。ファッションの世界では、新しい概念の服作りがうねりとなって以前の服作りを「過去の物」「古さ」の次元にはね飛ばしていくのも事実だ。川久保氏はパリコレにおいて常にア・ラ・モードを提案し、バイヤーやファンに独自の美意識を植え付け、アバンギャルドな感性を育むことで、ヨーロッパの伝統こそすでに「コンサバ」でしかないと、気づかせたようなものである。

 そうした姿勢と行動のもとで繰り広げられる川久保氏のエキジビジョンは、これまでにニューヨークでは開催されていない(筆者の記憶ではたぶん)。ニューヨークのファッションは、ビジネスを意識=売れることを前提するため、デザインは比較的トラディッショナル(コンサバ)だ。イヴァンカ・トランプのようなレディスファッションを見ると、その系譜は一目瞭然だろう。

 ただ、コムデギャルソンのボロルックを商品として見れば、ワーキングウーマンが着こなすマニッシュなスーツとは対照的で、他社よりアップトゥデートを行きたいヘンリ・ベンデルやバーニーズには支持されてきている。マーケットではいたってコンサバなファッションが主流だから、むしろ新しいものをどんどん取り入れていくのだ。当然、メディアも川久保氏のクリエーションには、一定の評価を与えている。

 特にニューヨークはアートというジャンルでは、絵画からグラフィックデザイン、オブジェ、建築に至るまでで新しいものを生み出す土壌があり、よそからの才能も積極的に受け入れる懐の深さをもつ。アートは自由であることが基本スタンスなのである。

 その意味では、アバンギャルドの極みを集めた今回の展示会は、大半のニューヨーカーやメディアには好感を持って受け入れられるはずだ。さらにパトロンを探しながら、キュレーターやギャラリーの目に止まることを夢見て、創作活動にあたっている無名のアーチストたちにも刺激を与えると思う。

 もちろん、メディアや評論家の一部からは、酷評されるかもしれない。しかし、そもそもニューヨーク、METで展示会を開催したのは、そうした受難さえも「無視されるよりも、まだまし」と、川久保氏が創作意欲の糧にしているからなのだ。モードの価値観を変えれば変えるほどに反感を買うことが、逆にコムデギャルソンの評価を上げる。逆風に立ち向かうエネルギーが次の創作へを駆り立てていくのである。

 次代のモードをアートとしても創造しつづける川久保玲氏。コムデギャルソンがラファエロやルーベンスと肩を並べ、METの収蔵品になる日はそう遠くないのかもしれない。22世紀に生まれ変われるなら、ぜひ見てみたいものである。
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