CROSS FM「UP↑UP↑」火曜日のMUSIC QUIZで、
株式会社Meat Plusさんの「九州産黒毛和牛ミスジステーキ3パック」
が当選しました!
ありがとうございます!
美味しくいただきます。
(つづき)
KBCの元アナウンサーでCROSS FMの開局にもご尽力された松井伸一さんが4月5日に亡くなりました。
これを受け、多くの“松井チルドレン”から追悼のコメントが出されましたので、その中から、5人の方のコメントを紹介させてもらいます。
沢田幸二さん、深町健二郎さん、鶴田弥生さん、ルーシーさん、そして、富田薫さんです。
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沢田幸二さん(KBCラジオ「PAO~N」より)
日刊ニュースπの時間です。
今日のニュースπは、ニュースの紹介じゃなくて、特別に2曲洋楽を聴いていただきたいと思うんですが、1977年にデビューして今も現役でバリバリにやっているアメリカのロックバンド、チープ・トリックなんですけど、実は、往年のKBCラジオのファンの方にはおなじみの方だと思うんですが、弊社KBCアナウンス部の大先輩である松井伸一さんがおととい亡くなりました。84才でした。
私が入社した当時からですね、ラジオ、テレビの情報番組、ニュースキャスター、ゴルフの中継、あらゆるジャンルをこなしてらっしゃった、私にとってはもう仰ぎ見るような特別な存在の方でした。
そんな松井さんは、自他ともに認める洋楽大好きなパーソナリティとしても知られた方だったんですが、チープ・トリックがまだ無名の頃から、彼らの音楽に耳を傾けて、いち早く彼らの曲をラジオで紹介してらっしゃいました。
日本で初めてチープ・トリックを紹介したDJといっても過言ではないと思います。
日本のファンを通じてそれを知ったチープ・トリックが、福岡公演のときに、松井さんに感謝の気持ちを込めて、松井さんをわざわざステージに上げて一緒に歌って、それが今でも全国の洋楽ファンの間で語り草になっているという伝説を作った方でもあります。
その後、フリーになられた松井さんに声をかけていただいて、松井さんが担当していたLove FMの番組に呼んでいただいて、一緒に生放送できたことは一生の私の思い出になっております。
そんな松井さんが当時大好きで、何回もKBCラジオでオンエアしたであろう曲を私、勝手に選んで、松井先輩を偲びたいと思います。
チープ・トリックで「甘い罠」、そして「サレンダー」です。
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深町健二郎さん(RKBラジオ「Got Many Tunes」より)
坂本さんの追悼をさっきしましたけど、実はまあ、福岡にとっては非常にこう重要なといいますか、音楽関係者の一人でもあった松井さんがね、4月の5日にお亡くなりになられて、まさに今日、告別式があっているんですけどね、で、私はちょっと今日この番組で行けなかったんで、昨日お通夜のほうにはね、行かせてもらいましたけど、もちろん、あのだからちょうど僕がKBCに出入りするようになったときに、松井さんとも出会えたんですけど、もう子供の頃から、音楽好きになったときから、もう松井さんの声がラジオから聞こえてきてたんで、もう当たり前だったんですよね、松井さんが福岡で音楽を紹介しているというそういう状況がね。
で、あ一緒になんかできることがあるのかなと思ったんですよ、KBC、僕も大人になって出入りするようになってから、ところが松井さんはそのあとすぐCROSS FMに異動されるんですよね。
でもCROSSに行かれてからも、あの、僕は番組で実はご一緒することができたりで、事あるごとに松井さんは僕のことを気にかけてくれたし、僕も尊敬する大先輩として、もうほんとギリギリまでやり取りは続いてたんですけどね。
まあでも非常にこう闘病されてることはもう前から知ってましたし、でもねえ、ほんとびっくりしたのは今年に入ってからだと思うんですけど、しばらく番組を休まれて久しぶりに出られたときにね、松井さんがもうまともに声がしゃべれないくらいな中で出演されてたんですよ。
だからなんかものすごくこう聞いてて切なくて、悲しかったんだけども、でもなんか松井さんの生き様をね、そこでこう見せられるような思いがあって、まあ、先ほども言いましたけど、鮎川さんとかと一緒でもう、最後までDJ人生を全うされたなあっていう感じがね、非常に強いですよ。
まあだからほんとここまで訃報が続くのかというくらい、ダメ押しというか、なんかほんと辛かったです、松井さんの訃報もね。
まあそんな松井さんも亡くなられたんですけど、松井さんとある種、盟友でもあった鮎川さんもね、今年に入って亡くなられましたけど、やっぱ葬儀会場に行ったらお二人の写真とかも飾られてありましたね。
ここで改めてね、シナロケのね、リクエストもありましたんで、この曲に応えたいと思います。シーナ&ロケッツ「ユー・メイ・ドリーム」。
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鶴田弥生さん(CROSS FM「Brandnew! Sunday」より)
CROSS FMの開局当時からご尽力され、そして84才まで現役でしたラジオ業界の宝、松井伸一さんが4月5日亡くなりました。
私にとってもJUNKO Dにとっても、CROSS FMのスタッフにとっても、ラジオに携わる全ての人にとって、とても大切な方なんですが、今日は一部予定を変更して、ささやかに松井さんの追悼をしたいと思います。
私たち、JUNKO Dと私は、ちょうど20年くらい前、ほぼ同じ時期にCROSS FMで一緒になって、そのあと、ラジオネーム○○さんからもメールが届いていましたが、松井さんとは三人で番組をしたこともありました。
「CROSS SUNDAY VIEWS」という、今も家にはBGM集なんかがありますけども、ほんとに三人でですねー、放生会に行ったり、あと昼も夜もよくお酒を飲んで遊びましたね-、日曜日の朝の番組だったので番組終わってからも、そのままですよねー、もう飲み会といいますか、もうそれから音楽の話も止まらないので、いやーほんとになんて今考えると貴重な時間を過ごしていたんだと、楽しかったなーっていう記憶ばかりがどんどんどんどん思い出されます。
JUNKO Dはそのあと、松井さんの晩年の番組も13年ほど一緒でした。
○○さんからも、「JUNKOさんも長い間本当におつかれさまでした。天国の階段の上の扉を開ければ、みんなが待ち構えているでしょうね。またみんなで音楽の話ができますよね」と、はい、そういったメッセージも届いています。ありがとうございます。
おととい金曜日にお通夜でして、ご自分の番組の生放送をオンエアで流すという、ま、さすがロックだなーということを最後の最後までされたようです。みなさんからのメッセージるしっかり松井さんに届けられました。そして昨日無事に告別式が終わったということです。心からご冥福心よりお祈りいたします。
松井さんが私と同じくらいの年、何考えてたんだろうと気になりまして、「おいまち」という今では伝説となったタウン誌の企画で、ま、今から40年前、1982年に行われたある対談の記事を読んでみました。
松井さん「自分の生き方にロックそのものが合っているというか、僕はサラリーマン的な生き方ができず、ほんとはこの年になるとそろそろ分別つけるんでしょうが、僕はできそうもない。自分で切り拓くしかない。音楽でこれから先も飯を食っていこうと決心することになるとは思ってもみなかった」と40代の松井さんがおっしゃっています。
でもまさか84才まで現役ラジオDJとして活躍されることになるとは想像されていなかったでしょうねー。
誌面には松井さんが担当されていたレコード評も大好評で、WEB上でささっと書かれたもの、ま、WEBで調べて今はささっと書かれるものもあるかもしれない、でも、それとはもう全く違うリアルなコミュニケーションから紡がれた松井さんの文章、今となってはとても貴重なものです。
ビートルズは松井さんから教わったと認識しているリスナーの方も多いんじゃないでしょうか。今日は○○さんからもリクエストいただいています。松井さんOBFC、オフィシャルビートルズファンクラブの名誉会長をされていた時期もあったんですが、リスナーの方があらゆるビートルズの情報を自分に届けてくれたからできたんだと、リスナーのみなさんへの感謝の気持ちを書かれていました。
そのとき紹介されていたのが、1982年、ポール・マッカートニー「タッグ・オブ・ウォー」、ジョン・レノンがこの世を去った2年後にリリースされたアルバムです。
スティービー・ワンダーとの名曲「エボニー・アンド・アイボリー」もクレジットされているのですが、松井さんはこうも書かれています。「僕にとって、ジョンもリンゴもジョージもポールも、ソロアーティストとしての認識はなく常にビートルズなのです。たとえポールがスティービー・ワンダーと共演しようとも。」
このアルバムにはジョン・レノンへの追悼曲も収録されています。とても美しいコーラスが心に優しく響いてきます。その曲を。ポール・マッカートニー「ヒア・トゥデイ」。
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ルーシーさん(KBCラジオ「よるばけ!」より)
今夜のよるばけプレイリストは、まあ私の個人的といいますか、えー私がDJを目指して、オーディションを受けて拾ってくれたのが松井伸一さんという方で、まあ、えーと他のLove FMでもそうですし、昨日のよるばけ!の、よるばけ!じゃなかったPAO~Nの沢田さんもね、選曲されてましたし、多くの松井チルドレンの方々がコメントを出していますが、なんかねー、あのラジオの大切さというか、そういうのも松井さんから教えてもらいましたし、ちょっとね、よるばけプレイリストとしてはいつもの尺より長いんですけど、この時間はたっぷりチープ・トリックに浸らせていただきたいなと思って、わがままを言わせていただきました。
お送りしたナンバーは、チープ・トリックです。
「I Want You to Want Me~甘い罠~」「今夜は帰さない」、もう邦題でいいですね、「甘い罠」「今夜は帰さない」、そして「カリフォルニア・マン」「ドリーム・ポリス」「サレンダー」「永遠のラヴソング」「永遠の愛の炎」、お送りしました。
たくさんの方にもね、コメントいただきました。
○○さん、・・、○○さんもね、「いいですねー、と空の上で言われているかもしれませんね」と、いやほんと、そうだったら嬉しいなと思います。
なんかね、最初に言ってた、いつも数あるラジオ局の中から、えー、自分のね、番組選んでくれてありがとうございますっていうのも松井さんの台詞だったんですよね。
あのー、なぜこんなに言ってるかというと、松井さんの最後のディレクターをされている通称JUNKO Dが、私も一緒に番組をしてたディレクターさんで、先ほどもね、報告があったんですが、無事にね、本日、ノッキンオンヘブンズドアのお手伝いをしてきましたって、すごいなんかロック魂というかね、最後の最後までやっぱ皆さん心は通じていたんだなあと、だからまあね、天国でお友達の皆さんと楽しくこれからは、えー、お話しされるんじゃないかなーと思いますが、私も松井さんのように心ある放送を今後も心掛けていきたいと思います。
いつもね、ダメ出しお願いしますとかって言いにいったときに、ルーシーはマイク乗りだけはいいんだよなあ、って言われてたんですよ。
えー、マイク乗りだけですかー?って言いながら、いやー、たくさんの教えをいただきました。
今夜のよるばけプレイリストは、松井伸一さんへ向けてのプレイリスト、ご紹介させていただきました。
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富田薫さん(KBCラジオ「Sunday Music Hour」より)
お聞きいただいているKBCラジオ「Sunday Music Hour」、時刻1時24分を回っています。
〇〇さんからこのメッセージをいただきました。
「僕たちに洋楽の楽しさ、素晴らしさを教えて下さった松井伸一アナウンサー、おつかれさまでした。あなたは最後までマイクの前で僕たちにたくさんの言葉を届けてくださいましたね」とご丁寧にありがとうございます。
えー、そうです、KBCのアナウンサーでもあった松井伸一さんが、4月5日にお亡くなりになった、84才だったというニュース、えー、お耳に届いているかと思います。
やはり〇〇さんも、「小学校高学年の頃から、松井伸一さんのラジオを聴き始めて、なんてかっこいい方なんだろうと憧れていました。ご冥福心よりお祈り申し上げます。」とこういうふうに書いていただいてますね。
えー、KBC卒業なさった後はCROSS FM、ね、Love FMでも番組をお持ちだったという、あの松井さんです。
えーそして○○さんからはリクエスト曲を含めこんなメッセージです。
「富田さんの先輩にあたられる松井伸一さんがお亡くなりになりましたね。ラジオネームは違うもので参加していたんですが、私も松井さんの担当番組“Street Noiz”のリスナーでした。チープ・トリックをはじめいろいろな洋楽アーティストの福岡公演のお話、また、福岡出身アーティストの方々との交流、他では聴くことができないお話だらけで、ほんとに、まさにレジェンドでした。おつかれさまでした。ありがとうございました。ご冥福心よりお祈りいたします。」という、こういう文章でした。
チープ・トリックと書いていただいたんで、私も思い出したんですが、えー、79年だったと思いますが、九電記念体育館でチープ・トリック、ライブをしましてね。松井さんのあとについて私もまいりました。
そうすると、ま、あのチープ・トリックはライブイン武道館のあのチープ・トリックですね、「サレンダー」のチープ・トリックで、リック・ニールセンというメンバーが、なんと松井さんをステージに呼び上げたんですよ、九電記念体育館の。
で、それなぜかというと、えー、もちろんアメリカでもリリースされていたチープ・トリックですが、どちらかというと日本のほうが当時盛り上がってて、なおかつ九州での盛り上がりがすごかったんですね。
それを知ってるチープ・トリックのメンバーが非常に感謝して、えー、「オー、ミスターマツイ」ということで、で、チープ・トリックと松井さんが九電のステージに立ってるの私目撃しましたから、この先輩どんな人なんだっていうのが当時の私の強烈な印象として今でも残っているという、えー、そういうお話です。
えー、松井さんがKBCのねー、「サウンズ・ウィズ・コーク」ってのもありましてね、その中でも彼女のファンなんだと何回もおっしゃっていたので、○○さんもこの曲をリクエストしていただきました。
リクエストは松井さんがお好きなリンダ・ロンシュタット「アディオス」をお願いします。
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ということで、5名の方の追悼コメントをご紹介しましたが、この他にも、立山律子さん、宗方脩さん、和田安生さん、坂口卓司さん、中島ヒロトさん、TOGGYさん、北野順一さん、佐藤ともやすさん、MASAKIさんはじめ、多くの方から、直接的、間接的な追悼コメントがありました。また、直接の言及はないものの、明らかに松井さんを意識したであろうと思われる選曲もいろんな番組の中で耳にしました。
松井さんは、洋楽に詳しい方、福岡の洋楽シーンに影響を与えた方として語られることが多いのですが、個人的には、「テレビ11番街」「ニュースプラザ」「ハーツトゥハーツ」「九州街道ものがたり」「ナイトタウン」「歌謡曲ホット100」「KBCオーガスタ」…など、KBCのあらゆるジャンルの番組でテレビ、ラジオの両方で活躍されたアナウンサーという印象も強いです。
そして、いろんな事情で、KBCの番組の2代目、3代目のキャスター、パーソナリティとして起用されることも多かったと思うのですが(困ったときの松井さん、みたいな感じで)、どれも“うまくはまる”というか“カッコよく決まる”という感じがして、「THE KBC」のような方だったと思います。
1992年からはCROSS FMの立ち上げと初期の運営にも携わられました。経営的には失敗だったかもしれませんが、その過程で松井さんに見出された方、松井さんの影響を受けた方々が、福岡のみならず全国の放送業界で現在数多く活躍されていることは紛れもない事実であり、その功績は非常に大きいと思います。
ご冥福をお祈りいたします。
(つづく)
(つづき)
「RKBベスト歌謡50」のパーソナリティを長く担当された元RKBアナウンサーの林幹雄さんが昨年お亡くなりになりました。
2021年1月1日に放送された「RKBベスト歌謡70~Be colorful.~」で、追悼企画が放送されましたのでその模様を。
登場人物は以下の通り(敬称略)。
仲:仲谷一志 坂:坂田周大 服:服部義夫
仲谷さん、坂田さん、服部さん、そして林さんの声をイメージしながらお読みいただければ幸いです。
なお、手書きで急いで書き留めたものをテキストにしたので、相槌やクロストークで拾えていないところもあるかもしれません。
では、スタートです。
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仲:さあ、先ほど私は間違えてね、「ベスト歌謡70」というところを「ベスト歌謡50」って言ってしまいました。それはもうそのはずです。もう皆さんもですね、あのおわかりになっていると思いますけれども、この番組タイトルが「RKBベスト歌謡70」と付いているからには、あの番組、もう九州を代表するお化け番組だったあの「ベスト歌謡50」を意識しているということは皆さんお気づきだと思います。えーそしてですね、ここからの時間はこの番組とパーソナリティについて、私たち3人から触れさせていただきましょう。「ベスト歌謡50」と林幹雄さんです。
坂:まず「ベスト歌謡50」について簡単に説明させてください。始まったのは昭和49年、1974年の4月14日、日曜日でした。日本で最初に企画された長時間ランキング番組と言われています。あのテレビでベストテンってありましたけど、それに4年先がけて始まってるんですよね。平成7年、1995年12月31日まで続いた長寿番組、音楽番組でした。当初は昼の12時15分から午後3時55分まででしたが、1年後には時間が延長され、夕方の5時まで、12時15分から夕方5時まで放送されました。50位から1位までの50曲を全て紹介、放送するというコンセプトだったんですね。東京の歌手たちの動向を伝える鬼沢慶一の芸能リポートですとか、福岡にやってきた歌手を紹介する有吉ひろこのミニミニインタビューですとか、ブロッククイズなど人気を集めていました。
仲:これ1975年、昭和50年の聴取率調査で16.1%という、すごい数字を叩き出していたと聞いています。
服:あとあれですよね。ランキングでいうと、さっきね坂田君も言ったように、あの「ベスト歌謡50」で1位になったっていうと、全国にその情報というかニュースが流れたっていう、まあ古いプロモーターの人に聞きましたけどねぇ、そのぐらい権威があった。
坂:なんか「ザ・ベストテン」のランキングの参考資料になったっていうのもなんか聞いたことありますねぇ。
仲:で、パーソナリティを務めていたのは、16年間パーソナリティを務めた林幹雄さんでしたね。番組の後半のほうは石上正憲さんでしたが。えー、その林幹雄さんですが、昨年10月17日に誤嚥性肺炎のためお亡くなりになりました。85才でした。
坂:林さんは福岡市の出身で西南学院大学を卒業され、そのあと昭和35年1960年10月にRKBに入社しました。高校・大学時代は演劇部に所属されてたんですね。また地元NHKの放送劇団にも所属して、アナウンサー志望の仲間に誘われてRKBの入社試験を受けたんだそうです。RKBに入社したあとは、「RKBリビングショー」の司会など、テレビやラジオ番組で女性を中心に高い支持を受けた看板アナウンサーとして活躍されました。
仲:林さんのソフトで優しい語り口ね、われわれあのベルベットボイスとかいうふうに表現しておりましたが、今も忘れることができません。先ほど番組の中でもね、お送りしましたけども、えーあの声を聴くとね、なんかジーンときますが。で、林さんは「ベスト歌謡50」のパーソナリティを降板されたあとは「歌謡曲ヒット情報」のプロデューサーを務められまして、えーまあこのスタジオに居る3人含めもう多くのね、アナウンサーそして福岡のタレントを育ててくれました。私たち3人はまあそのうちのメンバーということでして、まあ言わばね、林チルドレンと言わせてもらいたいとも思っております。ここからの時間はですね、林さんを偲んで林さんの好きだった、えー、音楽と思い出に浸らせてください。で、僕あのー林さんが亡くなったっていうのを聞いたのが、えーこれ10月の23日だったんです。その時は既に林さんのご家族があのー、通夜やご葬儀もされていたあとで、全て終わってから私たちが耳にすることになりました。その瞬間思ったのは、また林さんにやられたなと思いました。あの、林さんは自分のプライベートなことを人を巻き込むことをね、比較的嫌ってらっしゃったというか、何度かご病気で入院なさったときも絶対にお見舞いに来させないと、で、できるだけこそっと、そういうことは表に出される人じゃなかったので、ぼく一度メールのやりとりもしたことあるんです、そのときに。いやもうこれは遠慮してくださいとはっきり言われたんで、なんだか林さんらしいなあと思って、あの受け止めました、心的には、たまたまその日が舞台の仕込みの日だったので、えー、受け止めざるを得なかったっていうか、とても苦しい思いをしましたが。一緒に今日はじゃあ3人で林さんを偲ばせていただきましょう、まずはこの曲、カラオケに行くとね、林さんが歌ってましたね、よく歌ってました。
坂:この曲ですね、林さんと最後にお会いしたのが3年…2018年、あの、ライブのあの、ライブハウスでばったりお会いして、RKBの関係者が出演するライブだったんですけど、お会いして、まあ久しぶりにお会いして、でもこれだけは聞かなくちゃと思って、林さん、あのーひとつ聞きたいことがあってずっと聞きたいと思って聞きそびれてたんですけど、林さんがお持ちのレコードの中で一番たくさん聴いた曲あるいはお好きな曲って何ですかって、もうストレートにぶつけまして、ポンと返ってくると思ったらちょっと逡巡して、で、1分くらい考えて、うーんって言ってこれだねって言ったのがこの曲でしたね。
仲:お送りしましょう、南佳孝「モンローウォーク」。
(曲)
仲:この時間は昨年10月17日にお亡くなりになった林幹雄さんのことを思い出しながら、林さんの好きだった曲と一緒にお送りしておりますが、実はここで1990年4月1日にですね、「RKBベスト歌謡50」、830週目のですね、林さんの最終回のエンディングの声がありますのでお聴きください。
仲:これが林さんが「ベスト歌謡50」を卒業なさる時の放送ですね。これもまたなんか林さんらしさが伺える放送ですね。自分の最終回というよりかは、これからのこう新人さんたちに対してのご配慮、ラジオをお聴きの皆さん、スタッフに対してのご配慮というのはすごく感じられますね。
坂:人柄が伝わってきますね。
仲:だからそう思うと今日この時間、林さんのことをしゃべろうっていうのは服部さんがわれわれに、そして放送やる中で準備してくれたけど、なんか絶対メソメソしちゃいかんなって気になりますね。
服:ね、ほんとそうですね。
坂:あのー、「ベスト歌謡50」に届いたハガキを推計したのを放送で林さんおっしゃってたそうで、440万枚だそうです。16年間で。
仲:すごいなー。
服:林さんハガキをとても大切にされてたんですよね。だからあの、ハガキは当然目を通してますし、あの、お亡くなりになった方ですかね。なんかあの女性の、高校生だったかな中学生だったかの女の子のハガキを読んで、それが反響があって、学校の授業でも使われたっていうエピソードがありますよね。
坂:あの、その話も私聞いたんですけど、そのハガキがそのー、真偽が確かめようがないと、ハガキなので。でもこれは、真実なんだという受け止めで、紹介するっていうことにするっていうね、やっぱりリスナーに誠実であるっていうのがやっぱり林さんだなーって気がしましたね。それが830週440万、1週間に5,300通ですよ。そういうことなのかなぁっていう気がしましたね。
仲:えー林さん僕は一番林さんにこうかわいがってもらった人間の中では一番出来が悪いほうだったと思うんですけど、一回も怒られたことがなくて。あるアーティストにインタビューしたときに、非常に、もちろん悪気はないんだけれど、失礼なことを言ってしまって、ディレクターにも怒られ、林さんに何て言われるかなーって思ったら林さんはそれには一切触れず、トシ坊、僕は放送は優しさだと思うんだって、その一言だけ言っていただき、だからあの優しさって何だろうっていうのをね、探りながら、まだたどり着いてないけど林さんの中に流れていた優しさっていうのをずーっとこう感じてまして、あの実は、あのー、「ベスト歌謡50」卒業されてプロデューサーになった後も、僕の主宰する劇団の若手の指導をずっと引き続き、えー、昨年、おととしまで、末までやって、昨年ちょっと遠慮したほうが、勇退したいなーってお話があったんですよね。その時は体調はそんなに悪くないと思っていたんですけど、そんとき、直接お会いしたかったなーと、今となってはちょっと悔やまれはしますけど。
坂:劇団に対する指導っていうのは、それは演技ではなく、
仲:朗読です。
坂:朗読の指導、はー。
仲:で、林さんご自身もよく酔っぱらわれて言うのは、言っていたのは、林さんも演劇お好きだったから、なんだか演劇の世界から、林さんの表現ですよ、僕は逃げて放送に行っちゃったような気がすると、というのはその演劇ってやっぱ食えないっていう、当時、特に当時そういう世界だったから、そこから放送のほうに逃げたみたいなこと、よく酔っぱらっておっしゃって、だからあの、がんばってね、やってるトシ坊はがんばってねっていうこと、いつもね、応援していただきました。
坂:重ねてらっしゃったのかもしれませんねー。
仲:ではここでもう一曲、この曲も林さん好きでしたね、お送りしましょう、日野美歌「氷雨」。
(曲)
仲:林さんが好きだった日野美歌「氷雨」、お送りしました。この時間は昨年10月17日にお亡くなりになった林幹雄さんの思い出と林幹雄さんの好きだった曲をお送りしていますが、あのお茶目な面もありましてね、あの、林さんなじみの居酒屋とかに私たちもよく連れていってもらっていたんですけど、そこにあのお店の方がおっしゃるのは、林さんは来るとき紳士だけど帰るとき普通のおっちゃんやもんねーというふうにおっしゃって(笑)、というのが林さんあのー、お酒飲まれると周りを盛り上げようとして、ネクタイを必ず頭に巻いてらっしゃったんですね(笑)。高橋真梨子「桃色吐息」。
(曲)
仲:えー、この時間は昨年の10月17日にお亡くなりになった林幹雄さんを思い出しながら、林幹雄さんが好きだった曲と一緒に番組をお送りしています。まーあのー、林さんのこと話すときりがないんですけど、一つ言えることは、こうとてもー、みなさん、ほんとみんなに優しい人だったんですけど、その場の中で一番こう立場がなさそうな人のことも、こう大切になされた方でして。特にまだ僕と服部君がね、「ヒット情報」についた頃とかは、ぼくなんかは周り誰も知らないわけで、で、
坂:「ヒット情報」にアナウンサー以外で外部から入ったっていうのは、仲谷さんが最初ですよね。
仲:最初ですね。今でも思い出すんですけど、林さんからその、家に僕電話がなかったんで、劇団事務所に電話があって、RKBラジオの林幹雄と申しますが、実はある番組で仲谷さんをという話がありまして、本来ならばこちらからそちらに行くのが普通でしょうが、よろしければ何時何分にRKBのロビーに来ていただけませんかっていう電話いただいて、びっくりして、あのラジオで聴いてる林さんから何で僕に電話があったんだろうと思って思わず、僕のことはどこで聞きましたか?って言ってしまったんですよ(笑)。大笑いされたんですけど。しかもその一番最初の林さんとの出会いの日に遅刻して行っちゃったんですよ。
坂:なんか事情があったんですか。
仲:ほとんど、年に1、2本しか入らないコマーシャルの録音の仕事が何かその日にあって、それでどんどんどんどん押してしまって、当時そんなにタクシーも乗らないのに慌ててタクシー飛び乗ったんだけど、携帯電話もない時代だから、もう連絡の術もなく。で、もうこれはダメなんだろうなあと思ったんですけど、ロビーに行って林さん呼び出したら、当時の渡辺通りのロビーって、あの、階段上から、あのとき制作が2階にあったのかな、そこから降りてくるとまず足が見えるんですよ。林さん、足が見えて、それから体が見えて最後に林さんが全部見えるっていう、まさになんかね、スターが上から下りてくるような、林さんが第一印象でしたね。
坂:あの、オーラみたいなものは感じましたですか。その、スターアナウンサーとしての。
仲:あー、そのときは感じましたねー、えー、それからお酒飲むと感じなくなりましたね。
坂:そう、私の初対面も研修で、講師として、で、僕は小学校3年生、五島の福江に住んでて、それこそラジカセでチューニングしながら県外のラジオを探しまくって、そこで日曜日の午後、「ベスト歌謡50」を拾って、わ、すごい番組だ、こんな革新的な番組があるのかと思って、もう夢中になって曲を録音してたんですけど、はたとあるとき気付いたら、ハガキでみんな林さん聞いてください、林さん林さんってみんなハガキに、なんかもう林さんを慕うようなコメントがいっぱい書いてあって、うわー、この人はスターだと思って、まさか自分がRKBに入るとは思わずに入って、対面したんですけど、でもすごいこうダンディな格好で、すごいこう着てるお召し物もすごいかっこいいんですけど、対面して話すと、普通、ごく普通、そのオーラを感じさせない、包容力みたいなのがありましたねー。
仲:そうですねー。そのスターの林さんに、ぼくは調子に乗っていろんなご迷惑をおかけしてるんですけど、一番大きな迷惑っていうか、その、一回目の結婚の仲人さんまでしてもらっちゃってもう、林さんの奥さんにまで出てきてもらって、それからダメになっちゃったときにちょうど僕もその生活が荒れていたので、あの、林さんにどう報告するかっていう報告の仕方も不義理しちゃって、もう、放送局の社員食堂で林さんこうなりましたっつった時の林さんの一言が、水に流すっておっしゃったんですよね。だから水に流すってことは許して下さってることだろうけど、本来はそれだけ、やっぱりそうなってしまった時は仕方ないけれども、こう、人としての礼節みたいなものをやっぱりぼくは欠けていたんだなっというね、その、水に流すっていう言葉一つでぼくはなんか、あー、悪かったなーという気になりましたねー。
服:重い言葉ですよねー、ある意味ねー。
仲:あと、服部君が風邪がひいてるときに僕はね、なんか知らないけどね、リンゴかなんか持っていったのよ。
服:あー、行きましたよ。
仲:それをものすごい喜んでくれてね。
坂:服部さんのもとにリンゴを持ってったことを、職場に、
仲:いや自宅に。
服:僕が高熱で寝てて、なんとなくこう目が覚めたら、リンゴが置いてあって、これ誰がむいてったんだろうと、塩がちゃんとこうしてあってね、色が変色しないようにしてあって、女性は付き合いなかったから、誰だろうこれって思って、そしたらトシ坊だったっていう、
仲:意外と僕らはそんなことできないもんだから、そんなことしてくれてありがとうっていう、もう。
坂:まわりまわって林さんの耳に入ったってことです…
仲:あの普通の会話で出てきて、林さんものすごく喜んでいただいて、なんかなー、あの優しさねー。
坂:優しさで言いますとね、僕の仕事、見ていてある時「ヒット情報」で、担当日が週3回入ってたんですけど、外れてる日は見学させてもらってサブで見てた、僕は先輩のしゃべりを盗んでやろうと思って、当時、スタジオ、金魚鉢なんて言い方してましたけど、中の先輩のしゃべりをずっと聴いてたんですけど、ある時、曲を絞る時に林さん、その曲を絞る動作に僕はもうびっくりして、どういう状態だったかっていうと、ディレクター卓に座って、ミキサーの卓にですね、手の平を下にしてミキサー側のほうに手を伸ばしてそれをミリ単位でジワジワジワジワジワジワってゆっくり手を下ろしていくんです。で、背中から見てるからわかりませんけど、林さんの目は多分虚空を見つめて全神経を曲に集中してるんです。で、隣りに座っている、まーあのー、技術のミキサーはその林さんの手のミリ単位で動く手の動きに合わせて手元のフェーダーをちょっとずつちょっとずつ絞っていってフェードアウトしたんです。で、その時に、なんという愛情かと、曲に対する敬意、つまり、完成されたレコードを途中で絞るっていうのはそれはちょっと傷つけることであるっていうのの等しい考えが、あの林さんにはあるんだな、あ、そうか、だからこそリスナーの信頼を得てたんだなぁっていうことを考えましたね。
仲:そのリスナーさんからもメッセージ届いています。
(リスナーさんからのメッセージを4通紹介)
仲:それでは最後に、やはりこの曲も林さんが好きだった曲です、お送りしましょう、かまやつひろし「我が良き友よ」。
(曲)
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「RKBベスト歌謡50」は、私が自分の意思で聴いた初めてのラジオ番組でした。
ご冥福をお祈りいたします。
ありがたいことに、バス以外の話題の過去記事にも一定のアクセスがあります。
以下は、個人的にまとめといてよかったと思う記事です。
(つづく)
(つづき)
久々にマスコミ関係の話。
元KBCアナウンサーで、CROSS FMの開局に尽力され、現在はLOVE FMにてご活躍中の松井伸一さんが語る、CROSS FM開局前後の貴重な話です。
2018年9月1日に放送された「cross fm 25th ANNIVERSARY SPECIAL THANK YOU FOR THE MUSIC 第4部」より。
リアルタイムで聞いていて、とても興味深いお話だったので、慌てて手書きで書き留めていたものをテキストにしたものですが、途中から、書き起こしではなく要約になります(笑)。
登場人物は以下の通り(敬称略)。
松:松井伸一 椎:椎葉ユウ 米:米谷奈津子
では、スタートです。
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椎:cross fm 25th ANNIVERSARY SPECIAL 、THANK YOU FOR THE MUSIC、第4部、椎葉ユウと
米:米谷奈津子がお送りしています
椎:えー、ちょっと僕Tシャツ1枚だったんですけども
米:ジャケット羽織りましたよ、椎葉さんが
椎:敬意を表してジャケット羽織りますよ
米:ね
椎:スペシャルゲストをスタジオにお迎えしております、まーぼくらの大先輩です
米:大先輩です
椎:福岡のラジオ業界のレジェンドってお呼びするの、ご本人は嫌がると思うんですが、えー、レジェンドアナウンサーと言っときます。松井伸一さんです、よろしくお願いします
松:よろしくお願いします。松井です、おはようございます
椎・米:おはようございます
松:まあ僕も開局にかかわったっていうこともありまして、ここでおめでとうございます、というのもなんか自分に言ってるような感じで
米:そっかー
松:でもひとまずおめでとうございます、ですよね、25thアニバーサリーか
椎:そうですよね。あのー、松井さんはもちろん僕が最初に子供の頃耳にしたのは、まあポップスのカウントダウン番組をAM局でね
米:そうですね、担当されてました長いこと
椎:KBCラジオでやられてて、KBCの方だったんですが、ふと気が付くとCROSS FMの開局にかかわってらっしゃって
松:そう、ちょうど定年が近づいて、えー、だいたいあの何人かはよそに出してしまうんですね、KBCはね
椎:(笑)
松:関連会社とかね
米:なるほどなるほど
松:そのタイミングでちょうどFM局が新しくできるというんでね、専務に呼ばれて、松井君、今度FM局ができるんだが君はそっちに行ってくれないか
米:ほー
松:内心、けっこうラッキーだったんですよね
椎:あー
松:だってまだ54才のときの僕というのは、一本ナレーションの仕事は、テレビのナレーションがあるくらいで、あとはもう多分ないだろうと、あと5年間どうやって過ごすんだとけっこう悩んでいて、でも自分の中では何かの形でラジオにかかわりたいと、喋る喋らないは別として
椎:はい
松:そこに話が来たんでね、すごいラッキーだと思って。それでおかげさまで、その流れで、なんか途中、本来はKBCの定年60才でいなくなるべきところをこの79才まで、えー、FMの世界でなんとなくこう仕事をさせてもらってるという、自分でも非常にラッキーな男と自負してますけどね
米:はー
椎:これでもー、すばらしい人事
米:もう、そのタイミング、絶妙なタイミングでしたね
椎:いやそのCROSS FMが開局するときに、音楽を大事にするFM局として開局しようっていうときに
米:はいはい
椎:福岡でラジオで音楽でずっとやってこられた松井さんに行っていただく、みたいな話になったっていうのは
松:ただねー、その専務が僕と音楽と結び付けた形で派遣したかどうかはよくわからないんですよ
椎:ハハハ、そうですか
松:僕のラジオの音楽番組なんか多分聴いてないような専務ですからね
米:えー、でもやっぱこうね、その、あるんですね、運命の出会いみたいなものが
松:うーん、運命の出会いなんですよ。途中、今日ここに至るまでもね、いくつもそういうのがあって
米:へー
松:ただまあ、引き受けたものの、要するに新局を立ち上げるわけだから白紙でしょ
椎:はい
松:白紙を渡されて、いや俺はアナウンサーしかやったことないし、編成も営業もわからんばいということで
椎:えー
米:はい
松:苦労したとは言いませんけど、いろんな人に助けてもらって、ま、なんとか立ち上げることができたということですねー
椎・米:うん
松:ほんとに何も知らなくて、相当恥かきましたね
米:そうですか
松:ええ
米:私あのー、一番最初に松井さんにお会いしたのが、16才のときだったんですけど
椎:あらま
米:そのとき、あのKBCのアナウンスアカデミーっていうところがあって、そこ講師されてたんですよ
椎:ほうほうほうほう
米:で、1992年の1月から3月まで私は通ったんですけど、そのとき松井さんが、僕はね、あの北九州でちょっと新しい局の開局に立ち会うためにいろいろ準備のため出張が多いから、あの、半分くらい別の講師が来ます、って言われてたのが、そのCROSSの開局の準備の時期だったんですね
椎:うーん、ということは、米谷さんにとって松井伸一さんはすごいさぼる講師
米:ちーがーうー、ハハハ
松:そういうことですね、引き受けたものの途中からいなくなっちゃった
椎:ハハ、教え子みたいなもんですね、でもね
米:そう、でも松井さんは、あのー、放送ばっかり、ラジオばっかり聴くんじゃなくて、ほかのこともいろいろしなさいよって教えてくださったのをよく覚えてるんですけど、ちょうどあの頃だからCROSS FMの開局で大忙しでらしたんですよね
松:そう、あの、最初は、まあどんな会社になるのか全くもうわからないので
椎:ええ
松:開局準備室というのが八幡に、戸畑にできているので
椎:ええ
松:そこにしばらく通ってくれと
椎:あー
松:それが92年の秋口だったんですかね
米:へー
松:で、まあ毎週通ってたんですよ。でもこの週2回くらいじゃね、何もできないなと思って、それから毎日通うようにはなったんですけど。ただ、スタッフがいなくてね
椎:あー
松:あー、でもそのうちいろんな人が現れて
椎:ええ
松:手を差し伸べてくれて、なんとかタイムテーブル最終的に出来上がったんですけどね。冷や汗もんでしたね。僕はもう喋ることは一切考えてなかったんで
椎:ええ
米:はー
松:うーん、編成の人間として、この局では仕事をしようというのは最初っから思ってましたね
椎:その話うかがって僕ほんとうに思うんですけど、これ真面目な話、93年にCROSS FM開局
米:はい
椎:93年のそのタイミングって、93年の春に、学校の先生を辞しまして
米:椎葉さんねー、そうですか
椎:この世界に飛び込んだのがまさにその93年春で
松:そうでしたかー
椎:その次の秋が、93年の秋がCROSS FM開局で
米:はい
松:ふーん
椎:もし松井伸一さんが局を立ち上げてらっしゃるっていうことを僕が知ってたら
米:はい
椎:そっち行ってたかもしれない
松:えー、ふーん
米:へー
椎:ほんとまじめに思いますね、くらいあのー、ほんとに、子供の頃から松井さんの番組で
米:はいはい
椎:いろいろ特に洋楽のことは教わってきたんですね
米:はーそうですか、洋楽といえばだって福岡だと松井さんっていう
松:洋楽もねー、なんか福岡、盛り上がってた時代、たしかに70年代後半とか80年代前半ありますけど、でも実際のところは、まー高校生のクラス50人居て
米:はい
松:洋楽聴いてる子って2、3人しかいなかったんですね。当時でもね
米:そうですか
松:そんなもんだけども、70年代後半80年代前半までは毎月2、3本洋楽のライブがねー
椎:うーん、そうですねー
松:行われてたという、そういう面で活気がありましたね。洋楽のアーティストがたくさん来たという意味では
椎:九電記念体育館とかね
米:はいはい
椎:えースポーツセンターとかにね、いろんなアーティストが来てましたよね。ま、もちろん市民会館とかにも来てましたけど、まあそういう時代を経て、今のお話でいうと92年から出向されて立ち上げに
松:はい
椎:で、もうすごい覚えてるのが、あのテレビCMが
松:あ、覚えてらっしゃいますか
椎:CROSS FM開局のテレビCMが流れたじゃないですか
米:あー
椎:あれとかも、やっぱり松井さんのアイディアでらっしゃるんですか
松:まあ僕だけではないですけど、まず、その新しい局だと知ってもらわなきゃいけないので、認知してもらうために何をやればいいのかなーと思って
椎:ええ
松:テレビCMの話もありましたけど、僕は、あのーじゃ一気にとりあえず知名度を上げたいと思って
椎:ええ
米:はい
松:KBCテレビのドォーモの生中継を開局の時間に合わせて
椎:あー
松:中継をしてもらったんですよ
椎:あー、ありましたね
米:ほー、中継はすごいですね
松:当時はーまだ、FAXの時代ですから、FAXと電話か
米:そうですね、はい
松:だからあのー、驚くべき数、すごいFAXが来たんでびっくりしたんですけど、まーこれで少し認知が、まだ開局したてというのには、結構みんなに知られて、知ってくれたかなあと、それとー、テレビCMと、2本立てかな。ただあれですよねー、まだ自分とこのその電波は試験電波なので
椎:ええ
松:そこでなんかそういう告知たしかできなかったんですよね、こういうふうにやりますよとかね
椎:あー、そうですね
松:それをどうやって知らせるか、こういう番組で生中継やりますよ、とかっていうのはあんまり事前には広報できなかったりとか
米:へー
松:うーん、あとはー、コミュニケーションネームというやつですかね
椎:えーえーえー
松:もともとはエフエム九州株式会社ですから
椎・米:はい
松:これをまあJ-WAVEとかFM802みたいな、そういう名前をやっぱり付けなきゃまずいだろうと
米:おー
松:で、公募したんですよ、一般公募
椎:それ覚えてます、一般公募したんですよね
米:へー
椎:CROSS FMという名前決めるのに
米:一般公募だったんですかー
松:そうなんですよ、で、いくつかね、そん中から選んで、最終的に、ま、10個くらい残って
椎:ええ
米:はい
松:で、それを商標登録、チェックしてもらったんですよね
椎:ほうほうほう
松:ほとんど全部引っかかって使えなかったんですよ
米:あらま
椎:へー
松:だから、まあ言っちゃなんですけど残ったのがCROSSしかなかったみたいな
椎・米:ハハハハ
米:へー
椎:いや、そんなもんですね、でもね
米:わー
椎:運命的というか
松:いや、そうですねー、積極的に決めた名前ではなかったような
椎:ハハハ
米:まあでも、福がありましたね、残りものには
椎:それでも、こうあのー商標登録でバツになった他のやつ聞いてみたい
米:聞いてみたい
松:賢い人がいるんですよね、FM局が新たに開局したときのために自分で勝手に名前を登録する人がね
椎:あー、そっか
米:そういうこともあったんですか
椎:実際の局の名前になってないのに登録だけしてるっていう
松:これはどうかなーっていうと、これはもう登録済みです
米:へー
椎:えー、ちょっとですね、話が終わらないんですけども
米:終わらないです。
椎:かなりこう貴重な話が
米:面白い
椎:えー、いっぱい出てきますけども、まあね、さっきも言いましたけどもやっぱ松井さんは昔話より今のお話というかこれからのお話もうかがいたいですし、引き続き松井さんにはね、えー、居ていただいていろいろお話うかがいたいですが、ここで一曲、その今お話出たテレビCM、CROSS FM開局のときのテレビCM、もうよく覚えてます、すごいポップだなーと思って
米:ふーん
椎:それまでの福岡の局にはないポップさだなと思って
米:はい
椎:衝撃を受けつつ、ショックも受けつつ
米:ほうほうほうほう
椎:そういうね、ライバル局に居たので僕は、っていうのをすごく覚えてるんです。
米:なるほどなるほど
椎:曲もね、当時はやりのアシッドジャズ
松:これたしかですね、僕の記憶では、これ、曲を選んだのはCROSSのこれから一緒にやる仲間の一人が一緒に選んだんですけど
椎:えー
米:はい
松:その時点で結構FM福岡さんはこの楽曲をすごく推してたはずなんですよ
椎:はい
米:ほー
松:別途。なので、結構クレームついたみたいですよ、レコード会社に、使わせるな、みたいな
椎:ハハハ
米:やっぱ、いろいろあったんだなー
椎:そこについてわたくしノーコメント
松:ハハハ
椎:私は言ってませんよ、じゃ、曲、曲だ
米:お送りしましょうか
椎:CROSS FMのテレビCMでBGMとして使われていた曲、じゃあ松井さんに紹介お願いしてよろしいですか
松:はーい、こういう楽曲が今はあの先端なんだなっていうんで、しばらく僕その時代はラジオ離れていたんで、非常に新鮮に、僕も受け取りました、Tukka Yoot's Riddim、US3
~その後に展開されたお話の抜粋~
■ 開局の日、シーナ&ザ・ロケッツにライブをしてもらった。ゲストの対応がわからず、ギャラはキャッシュで支払った。
■ 開局の93年は冷夏だった。
■ ミュージシャンが喋る番組について。JUDY AND MARYのYUKIさんは毎週生で、福岡に通ってくれたがすぐにブレイクしてスケジュール合わなくなり、半年で辞めざるを得なかった。椎名林檎も同じような状況。男性では平井堅さん、5年くらいブレイクしない時期も我慢して番組を担当していただいた。
■ かつて番組を担当していた板谷由夏の話から、平日昼を担当していた博多華丸(当時は鶴屋華丸)、日曜夜を担当していたおたこプーと3人でSOUTH END + YUKAとしてリリースした「SO.TA.I」(DA.YO.NEの博多弁版)がかかる。
■ テレビをやってると、知名度は上がる。街で声をかけられるけどそれで終わり。ラジオでは、50年近いおつき合いをしてるリスナーが何人もいる。
■ AMをやっていた当時は、情報の面で放送局に少し優位性があった。今は情報が増えて、立ち位置が変わってきている。
■ 局のコンセプトとして、ある人が、福岡はアジアの玄関口だからアジアの音楽に目を向けなさい、と忠告してくれて、当初はアジアに向いてるステーションとしてイメージ付けたかったようだが、局としてそれをコンセプトの一つとして掲げていいか疑問で、久保田麻琴さんに聞いたら、おやめなさい、アジアはまだ当分無理です、と言われて、アジアアジアと言わなくなった。
■ CROSS FM初の主催イベントは上々颱風のライブ。ノウハウなかったのでイベンターに協力お願いしたら、何を考えてるんだと散々言われた。イベントはイムズホール超満員の大成功で黒字が出たが、そのイベンターからはお礼を言われていない。
■ 米谷さんの宮崎時代の先輩でもあるDJ POCKYさんが加わり、佐藤竹善さんと電話トーク。
■ レポーターのsubaru(穂高すなお)がLOVE FMのスタジオにおじゃまして同時生放送(LOVE FMの番組は、佐藤ともやすさんのNATURAL DRIVIN')。なお、開局25周年特番全体では、他にもRKB、KBC、FM福岡への潜入が試みられ、FM福岡以外の局で同時生放送が実現。
■ 4人の平均年齢は58.25才。by 米谷さん
■ 松井さんの家のタンスから出てきた開局のときのTシャツ2種類をリスナープレゼント。
~最後に、松井さんのお話~
「ラジオというメディアがこのままの形で残るのかよくわからないので、新しいメディアにはなかなかついていけないけども、それで僕なんかが考えるのは、やっぱそのとりあえず原点に一回戻るかみたいな、要は一対一のメディアですからね、他のメディアと違って」
「ラジオ聴いてる人は一緒に集合して何人かで聴くっていうのは今はもうなくて、一人対一人で、だから以前電話リクエストっていう番組が一番人気で、電リクギャルっていうのがね、スタジオにずらっと並んでスタンバイしていて、で、そういった人たちとリスナーさんとのやりとりがあって、そん中から何人かが番組に出演してもらうとか、ただ今はね、ラジオは聴いていただいてるけれども、別に出たいとは思わねーよって人のほうが多いのかなって思うんで、それを引き込む何か新しい魅力のある番組づくりっていうかねー、っていうのがあるのかなーと、うーん、こうしたいというのは今のところ僕にはアイディアが何もないんですよ」
「ラジオ、FMのいわゆる市場調査みたいなものやると、何年も前からそうなんですけど、どんな番組を希望しますかっていうと、お喋りの少ない音楽中心の番組って言う、でもそういう番組は、実は調べてみると聴取率的には別によくないという、そこ難しいなと、毎度、トーク中心の番組のほうが福岡の場合はやっぱり人気あるんですよ」
「ひと頃は、ラジオを聴く習慣がほぼ若者にはなかったのに、今はスマホでどのくらい、その戻ってきたというか、ラジオちょっと聞いてみようかっていう人たちが増えてはいるんですよね、そこが頼りですよね」
「平均年齢の話、出てましたけどね、まあぼくは55、6年くらいやってることになってるんですけど、ただ、どんな場合も懐メロ的な番組はやりたくない、というのがあってですねぇ、何か未来っていうか将来がちょっとでも見えるような形で、まあ昔の曲は当然今のアーティストの活動の中からかかったりはするんですけど、それはそれで別にその昔を懐かしがってかけているわけではない、みたいな、今の時代を伝えるための、まあ一つのネタとして使うことが多いですね」
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こういうご時世だからこそ、ラジオに耳を傾けてみていただければと。
(つづく)
福岡にある6つの放送局による共同ラジオキャンペーン「#フクラジ」の開始を記念して(?)、ラジオに関する過去記事を再掲。
今回は、7年前に書いた「天神ラジオパラダイス・ラジオ黄金時代」の書き起こし(第一回~第四回)。
いま改めて読むと、「スマッシュ!!11」と「ヒット情報」という2つの長寿番組の終了に裏には「PAO~N」があったという、巡り合わせの面白さを感じます。
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このブログ、最近はほぼ100%がバスの話題になってしまっているが、初めの1~2年間は、バスの話題と並んで地元マスコミ(テレビ・ラジオ)関係の話題も大きな柱になっていた。
最近これらの話題を扱わなくなった理由としては、生活のスタイルも変わり、以前に比べてテレビ、ラジオを視聴する時間がかなり減ったことが第一である。
バスの話題もそうなのだが、過去のことを書くときにも、なるべく現在と対比しながら書きたいという思いがあるため、現在のことをあまり知らないまま過去のことをあれこれと書くというのが、どうもできないのである。
そんな中、ブログ4周年の記事のときにチラッと書いた、「天神ラジオパラダイス・ラジオ黄金時代」における井上サトル・沢田幸二両氏の対談の書き起こしに関して、途中まで作っていたものをようやく仕上げてみたので、4回シリーズで公開する。
「天神ラジオパラダイス・ラジオ黄金時代」は、今から約4年前の2005年11月3日、RKB、KBC、FM福岡、CROSS FMの、福岡の民放ラジオ4局が共同製作した番組で、各局30分ずつ持ち回りで担当し、それを4局同時に生放送した。
今回書き起こしたのは、このうち、KBCラジオ担当の「AMラジオ今昔物語」である。
登場人物は以下の通り。
沢…沢田幸二 井…井上サトル
森…森口博子 松…松村邦洋
ト…TOGGY オ…オオモリ君
各登場人物の経歴などをここで書くよりは、中身を読んでいただいたほうが早いと思う。
なお、この書き起こしは、読みやすいように発言に修正を加えたりはなるべくせず、ほぼ発言の通りを文章にしている(クロストークや相鎚など、一部拾ってない部分もあります)。
では、スタートです。
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沢:(タイトルコール)「天神ラジオパラダイス・AMラジオ今昔物語」
沢:(KBCラジオ「PAO~N」のオープニングテーマに乗せて)DA PUMPのISSAが女性にもてるのは足裏マッサージが得意なのが原因であることが明らかになる今日この頃、僕のうちでマッサージでもしていかない?とマンションに誘い、得意の足裏マッサージを施して、女性の警戒心を解くのが秘訣だと聞いた日にゃ、伊藤美咲の足はデカそうだから大変だったろうなあと同情する中、やってまいりました「天神ラジオパラダイス・AMラジオ今昔物語」、早速今回のメニューのご紹介。一世を風靡したRKBラジオ「スマッシュ!!11」のあの伝説のDJが久々に登場し当時の懐かしい話で大いに盛り上がる「スマッシュPAO~N」、CROSS FMのナビゲーターTOGGYがAMラジオとの意外な接点を赤裸々に語る「私は昔ステップだった」、などなど、小泉チルドレンとちやほやされますます態度がデカくなっている片山さつき議員と、昔はたかがテレビキャスターだったのに、今はすっかり大物ぶっている小池百合子環境大臣のような、もう一度原点に返ったほうがいいんじゃないかというコーナーが目白押し。「AMラジオ今昔物語」、今回は1時30分までひとつ、よろしくね。
(ジングル「天神ラジオパラダイス・ラジオ黄金時代」)
沢:どうも~、FM福岡、CROSS FM、RKBラジオ、そしてKBCラジオをお聴きの皆さん、そしてパサージュ広場にお越しのみなさん、こんにちは、KBCの沢田幸二です。
森:こんにちはー、森口博子です。すごいですねみなさん、朝からずーっと盛り上がって下さってますね。
沢:ほんとにいかに皆さんが暇かというのがね、よくわかりますけれども。
森:いやいやわざわざ足を運んで下さってありがとうございます。
沢:ありがとうございます。さあ、今日はですね、全国初の試み、福岡の民放ラジオ、FM福岡、CROSS FM、RKBラジオ、KBCラジオが、ここ福岡市中央区天神大丸パサージュ広場特設ステージから4局同時生放送を行っております。
森:すごーい。
沢:この番組はイベントを通してですね、ラジオの魅力を再発見しようという一日でありますが、森口さんねえ。
森:はい。
沢:これはもう福岡ならではのノリでね。
森:すごいことです、これ。東京でもね、ありえませんし。
沢:そうです。東京でもやりたいなあってね、さっき森口さんおっしゃってましたもんね。
森:そうなんですよ。で、福岡の人はなんてったってパワーがあるじゃないですか。
沢:そうなんです。
森:私ももちろん福岡出身なんですけど、久々にこう帰ってきてみますと、ほんとに皆さん明るくて、なんかこう仲間意識が強いっていうのが他の地方にはない魅力だと思います。
沢:今日のねえ、お客さんねえ、ほんとにあの皆さん顔見たらですね、ほんとにのほほんとしたねえ…。
森:いやいや。
沢:みんないい感じの方ばっかりでございまして。
森:いやいやのほほんって。
沢:いやいや。
森:あったかいなあ…フフフ。
沢:でも森口さんラジオといいますと、いろんな番組ね、もうご自身で担当してらっしゃいまして。
森:はい。
沢:文化放送「ナンバショット!」覚えてますよ、私。
森:あ、そうですか。聞いて下さってましたか。
沢:タイトルがだっていいタイトルですもん。
森:ちょっとこれ嬉しかーって感じで。
沢:博多弁でなんばしょっと。
森:森口博子のナンバショット!
沢:懐かしいじゃないですか。
森:でもほんとこれ、ナンバショットって音的にはそういうふうにいくんですけど、私の心の中では、なんばしょっと?なんですよね。
沢:ニュアンスが微妙にね。
森:微妙に違ったんですけど、はい。
沢:他にもTFMの「ヒッツ・イン・モーション」とか「アフタヌーンブリーズ」ですか、それから現在某公共放送で「土曜音楽パラダイス」。
森:はい、私ですね、生放送が多いんですよ。で、「アフタヌーンブリーズ」はえっと一人で4時間生放送担当させていただいて。
沢:4時間、よくまたしゃべることが。
森:曲をかけたりFAX、メールのやりとり、番組の最後には私のアコースティックライブとかお届けしてて。
沢:充実してますね。
森:もうすごいあのー、皆さんとのコミュニケーションの時間として幸せですね。
沢:やっぱラジオは面白いですもんね。
森:いいですよねー。
沢:さあこれからの時間は「AMラジオ今昔物語」と題しまして、AMラジオにスポットをあてて、AMラジオの過去、そして現在、未来を語っていこうと思っております。さあここでスペシャルゲストをご紹介いたしましょう。松ちゃんこと松村邦洋さんです。
松:はい、どうもこんにちはー。はい、お願いします。ありがとうございます。すごいですねー今日は、ほんと「チャリティーミュージックソン」!
沢:違う違う。
松:違いますか。
沢:あれは12月24日やない。
松:12月でしたね。ちょっと早いなあと思ってたんですよ。
沢:早すぎ早すぎ。
松:やっとね、あのホークスの気持ちがわかりましたよ、日本シリーズで。
沢:ああそうですか。でもどうですか、掛布さん、タイガース4連敗。
松:(掛布のものまねで)あのねえ、オープニングの第一戦に10点とられたでしょう。初戦が10点。10点、10点、10点、ものまね王座かと思いましたよ。
沢:意味が…そんなアドリブはいいから。
松:(掛布のものまねで)最後の3点は淡谷のり子さんかなと思いましたよ。
沢:いや関係ない関係ない。ねえほんと、いやいや松ちゃん今日はね、この時間、AMラジオのね、いろんな話をしようと思って。
松:僕はねーよく聴いてましたねぇ。
沢:もう福岡のラジオを山口なのに。
松:はい、山口ですけどね。林幹雄さんの「ベスト歌謡50」を聴いてましたね。
沢:午前中出てらっしゃいましたね。
森:先ほどいらっしゃいましたよ。
松:日曜日のお昼は必ず聴いてましたね。
森:あの素敵な曲紹介でね。
松:あと山崎銀之丞一座という一座にいて、RKBラジオの「HiHiHi」を聴かなきゃいけないのに、「PAO~N」にチューニングを合わせてましたけどねぇ。
沢:嘘つけ、さっきと話全然違うじゃないか。
松:すいません。よろしくお願いします。
沢:というわけで、いろんな思い出話を絡ませながらということで、「天神ラジオパラダイス・AMラジオ今昔物語」、この番組は福岡市中央区天神大丸パサージュ広場特設ステージからFM福岡、CROSS FM、RKBラジオ、KBCラジオ、4局同時生放送でお送りしています。お知らせの後はあの方の登場です。
(CM)
(ジングル「天神ラジオパラダイス・ラジオ黄金時代」)
沢:「天神ラジオパラダイス」、この時間は、福岡のAMラジオの過去、現在、未来を語っていこうと思っております。ゲストは森口博子さん、そして松村邦洋さん、司会進行は私KBCの沢田幸二でお送りしております。さて1970年代から80年代にかけて、福岡のラジオの黄金時代を創り上げた偉大な番組がありまして。
松:もうラジオの経済成長時代ですよね、これは。
沢:そうですよね。はい。RKBラジオの、あの番組です!
(「スマッシュ!!11」タイトルコールとテーマ曲が流れる)
沢:あらためてご紹介しましょう。RKBラジオ、井上サトルさんです。
森:ようこそー。
松:ようこそー。
井:井上でございます。えー、まだちゃんと足は付いております。
沢:いやいや。
井:もう三十何年前ですか。36~7年前の番組ですからねぇ。
森:ちょうど生まれたときです、私が。
松:そうですよねー。
井:17年間番組やりまして、もう19年前に番組終わりまして、ちゃんと玉手箱の中にしまって、私も引退いたしました。
沢:いえいえいえとんでも。まだサトルさんお若いですよねー。昔ヒゲがあったのに今。
松:ないですね、ヒゲが。
井:そうなんです。
沢:また一段と若くなって。
井:ヒゲがありますとどうしてもおじいちゃんみたいになってしまいますからね。どうしてもやっぱり若くしようと思って。
沢:逆に若くなって。
森:でも番組17年ってすごいことですよねー、担当されるのねぇ。
松:そのあともずいぶんお昼やってらっしゃいましたもんね?
井:え?
松:お昼とか、RKB。
井:ああ、その番組終わってお昼出てました。
沢:松ちゃん詳しいです。ちょっとあの椅子に座ってですね、ちょっとサトルさんと一緒に、振り返っていこうかなというふうに思っております。実はですね、このステージにパネルを用意しておりまして、まあ年表ですね。えー、RKBラジオ「スマッシュ!!11」、そして私がまあ当時担当しておりました「PAO~N」、そして森口博子さんと松村邦洋さんの年表、パネルにしております。
森:ハハハ。
松:いいですねぇ。
沢:まずですねぇ、井上サトルさん、何年入社になりますか。
井:えー何年ですかね…とにかくオリンピックの前年ですね、1963年。
沢:昭和38年、ケネディ暗殺の年ですよ。
松:ケネディ暗殺!阪神タイガースがねぇ、藤本監督で2回目の優勝する前の年ですね。
沢:知らないって。
松:東京オリンピックの前の年ですよねー。
沢:その年優勝してないじゃない、それ。
森:ここにお写真あるけど、すごい渋いですねー。
松:渋いすねー。
井:昔から変わらないでしょう?
森:いや素敵です、素敵です。
沢:サトルさん、昔のほうが老けてませんか?
井:ハハハ…。
森:かっこいいー。
沢:森口さんも松ちゃんもまだ生まれてません。
森:生まれてないです。
沢:松ちゃんはですね、1967年、昭和42年山口生まれ。
松:そうですよ。松岡修造とか貴闘力とかねぇ、みんな多いんですよ、清原・桑田、その昭和42年に生まれましたよ。
沢:松ちゃん世代。森口さんが昭和43年、1968年。
森:そうです。
沢:森口さんが生まれた次の年です、サトルさん「スマッシュ!!11」。
井:そうなりますかね、1969年。
沢:昭和44年4月1日、すごいですねぇ、あのアポロ11号月面着陸の年です。
井:昔々のことですねぇ。ほんと、我ながら懐かしい思いがしますけど。
沢:で、井上さんにですねぇ、直接お伺いしようと思ってたんですけど、実はその年に、井上陽水さんが、自作の音楽テープを井上さんの番組に持ち込んだという。
井:そうですね。それ前段があってね。ちょうどその頃ですねぇ、あの「スマッシュ!!11」1969年ですけど、始まる前に、サテライトスタジオっていうのがあったんですよね。あのKBCさんの近く、西鉄のコンコースの中に。で、そこでビートルズ全盛時代で、そういうポップスをずーっとかけてたんです、夕方4時くらいから。その中に学生服でいっぱい人が集まったんだけど、そういう中に鉄矢さんが居たりだとか。
沢:武田鉄矢さん。
井:そうそうそう。陽水さんはちょうどその頃、あのー予備校生でしたけども、そのときに来たりしてたんです。それで顔を知ってたという。そして「スマッシュ!!11」が始まった年にテープを持ってきたんです。
沢:聞かれたときはどんな印象でしたか。
井:うーん、なかなかおとなしいぼそっとした寡黙な方でしたね。
沢:そうですか。
森:テープって、歌ってるテープを送られたんですか?
井:持ってきたんです。
森:その中にはどんなことが入ってたんですか?
井:それはもう、2曲しか入ってなかったですけどね。「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」とかね。
沢:のちにデビュー曲になる。
井:そうそうそうそう。
沢:で、「アンドレ・カンドレ」っていう芸名っていうんですかね、でデビューするんですよね。最初、井上陽水じゃなかったんです。
森:そうなんですかー。
松:すごいですよねー。あの井上陽水さんが井上サトルさんのラジオがきっかけだったっていうのが。
井:いやー、そういう大きなものじゃないですけどね。たまたま。たまたま、そうでしょ。
松:ぼくね、苗字の井上はね、井上陽水さんに井上という苗字をプレゼントしたのかと思ってました。
沢:それくらいにね。
森:でもそうですよね。同じ井上さんだから。
井:まあ、九州には井上姓が多いですからね。
沢:で、井上陽水さんと当時の井上サトルさんがなんか電車でツーショットで写ってる写真がここにありますけども。
森:いやー、なんかかっこいいー。
沢:陽水さん若いですね。タバコ吸ってますねぇ。
森:サングラスして。
沢:これ、どこに行ってるときですか?
井:これはねぇ、うーん、八女かどっかにですねぇ。
沢:公録か何かですか?
井:コンサートツアーに行く途中ですよ。博多駅で落ち合って話をしながら行ったんです。
沢:やっぱり電車の中でもボソボソボソボソ言ってたんですか?
井:えー、お互いボソボソボソボソ言って。
松:この写真だけ見るとなんかさとう宗幸さんと宇崎竜童さんかと思いますねぇ。
森:ほんとだ!
沢:似てる!
松:なんで二人が八女に来てるんだろうと。
沢:他にも「スマッシュ!!11」はいろんな伝説のイベント、ね、100回記念イベントとかですね、いろいろやりまして、また年表のほうに戻るとですね、私がですね、ちなみに1980年に、昭和55年に入社しております。で、井上さん、この年、実はあの、音楽界で悲劇が起こりまして、ジョン・レノンが暗殺された。
井:そうですね。1980年12月ですよ。
沢:日本時間が12月9日だったんですよ。で、僕はうちに夜勤明けで居まして、あのー「スマッシュ!!11」を聴くまでジョン・レノンが死んだって信じられなくて。井上サトルさんが番組の冒頭で、ジョン・レノンの「Mother」を、かけたんですよね。で、あ、ほんとに死んだんだ、井上サトルさんが言ったから間違いない…そのときは…えぇ。
井:もう僕も言葉をなくしてしまって…。陽水に電話をしたんですね。
沢:陽水さんに。
井:うん。で、陽水知ってるか?って言ったら、うん知ってる、陽水も声詰まらせちゃってね。えー、もうビートルズなんかに一番影響受けた人ですからね。もうこれから先、音楽どうなるんだっていうね、言葉もありませんっていうね、もうほんとに嗚咽しましたね。
沢:ほんとあれは、生放送ならではっていうかねぇ。いきなりいつものテーマ曲じゃなくて、鐘から始まったからすごく覚えてるんです。
森:でも衝撃的な放送ですねー。だって今音楽業界で頑張ってる若者も大先輩も、ジョン・レノン、そのビートルズを通ってきて音楽をみんな作ってる方多いじゃないですか。
松:そうですよねー、だからほんときっかけの人ですからねー。
森:だから今、普通に音楽聴いてるのも、やっぱりジョン・レノンがどっかに根付いてたりするんですよね。
松:当時まだ小学5年生の森口博子さんも、ね、6年の僕もそうですけどねー。
沢:そうそうそう。ちなみに、ちょっと遡りますと、FM福岡が開局したのが1970年、昭和45年ということで、ここはもう森口さんも松ちゃんも生まれてる。
森:そうですね。
松:そうですね。
沢:35年前だ。そして結局、井上さん、「スマッシュ!!11」が17年、1986年ですね。最後の放送が。
井:そうですね。
沢:えー、あれからもう20年近く。
井:そう、19年になりますね。
沢:長いですねぇ。毎日夜だったでしょう。
井:うーん、そうです。月曜日から金曜日までね。
沢:これ正直な話、もう、もういいやとか途中で思われたことなかったですか?
井:うーん、だから小学校に入学して6年でしょ、中学校3年でしょ、高校3年でしょ、1年浪人して、ね、大学卒業する、それが17年なんですよ。で、それをこう、指折り数えたときに、ああ、もう私はそろそろ卒業しなくちゃ、それにKBCさんのねぇ、沢田さん、この「PAO~N」っていうねぇ、元気なねぇ、非常にテンポのいい番組が裏で始まった。
沢:うち裏番組でした。
井:これはもう、沢田さんには敵わないな。このテンポにはついていけないな、そこで卒業しましょうということでスマッシュ卒業式やったんです。
松:そうなんですかー、僕ねー、後半の頃なんですけどねー、サトルさんのラジオに、電話でよくかけさしてもらいましたよー。
沢:覚えてらっしゃいますか。
井:覚えてるような覚えてないような…。
森:え、何てかけたの?
松:僕ね、ものまねができるんですよー、井上さんちょっとラジオで聞いて下さいよー。
井:それはあります。
沢:覚えてる。
井:覚えてる。それは覚えてる。
松:当時のねー、電話のオペレーターの方とねー、女の子と喋れるって嬉しくてですね。
井:番組終わったあとお話ししたでしょう。
松:お話ししました。
井:ね、番組が終わったあと。
森:どっちが目的なの、番組でお話したいのかオペレーターと…。
松:いやいやオペレーターの方とも喋れるし、でも、ラジオに出さして下さいって何度も喋ったら、井上さんと喋らせて下さい、井上さんと喋らせて下さいって言ったんですよ。そしたらオペレーターの方がねぇ、悪いなぁと思ったんでしょう。何度も何度もよく電話するから。じゃあね、ラジオ終わったあとちょっと井上さんに話してみるって言ったんです。そしたらね、ラジオ終わったあとですよ、山口の僕の自宅ですよ、自宅に井上さんから直接電話いただいたんですよ。
沢:ありがたいですよ。
松:だってね、だから思った。テレビもラジオもそうですけどね、なんでもそうですけど、映ってるときだけ頑張ればいいってもんじゃないですよね。映ってないところでここまでしていただいてありがたかったの覚えてます。
沢:それが長く続いた要因でしょうね。やっぱりね、身近でしたもんね。
松:リスナーの方をすごく大事にされてましたね。
森:そういう経験って、松ちゃん一生忘れないですよね。井上さんにもらった優しさ。
松:忘れないですよ。だってね、僕ね、何分くらい話してましたか、20分、25分くらいものまね聞いていただいたの覚えてますよ。
沢:やりすぎたよ、それ。さて、今日ね、会場にお越しの皆さんの中にも元「スマッシュ!!11」のリスナーだったという方、たくさんいらっしゃると思うんですが、実は今からちょうど20年前、つくば博覧会というのがありまして、そのときの、ポストカプセル郵便という企画があったんです。これ、20世紀の私から21世紀のあなたにハガキを送ろうという企画があったんですが、当時スマッシュのリスナーだったある少年が、21世紀の井上サトルさんにハガキを送るという設定で送ってたんですよ。
井:そうなんですよ。
沢:そのときのハガキ、サトルさん…。
森:持ってらっしゃる!
井:2001年にですねぇ、自宅に年賀状で届いたんですよ。
森:郵便番号がまだ5桁の時代ですねー。
井:“明けましておめでとうございます。63歳のサトル様、お元気にお過ごしですか。私は16年前の「スマッシュ!!11」の常連の一人、オオモリ○○です〔下の名前も放送されましたが、一般の方なのでここでは伏せます〕。覚えていてくれていますか。僕は今は13歳ですが(このハガキを書いているとき)、本当は今29歳です。本当に月日の経つのは早いものですね。「スマッシュ!!11」はそのときまで続いているでしょうか。お元気で”という。2001年に飛び込んでまいりましてねぇ。思いました。そのときにねぇ。嬉しかったんですけど。つくば博に行って、このポストカプセルに出すのに、このハガキ1枚しか宛名がなかったんだなぁと思うと、この少年がね、寂しかったんだなぁ、もっと好きな人に出さなかったのかなぁ、「スマッシュ!!11」にしか出さなかったのかなぁ、という、そういう思いがしましたねぇ。
沢:でもオオモリ君って覚えてますか?
井:でね、僕はあわててね、これいただいたときに、この住所に手紙をすぐ出しました。そしたら返事が来ました。ちゃんとした青年になってました。そして、放送業界に入ってました。
沢:実は井上さん、オオモリ君に来てもらってます。オオモリ君どうぞ!
森:えーそうなんですか。やー。
松:あらー。
沢:今がっちりと、当時のリスナー、オオモリ君と握手です。
オ:初めまして。
井:初めまして。ほんとに初めまして。えー、ありがとうございました。失礼なこと言ってすみません。孤独だったなぁなんて話をしまして。で、賀状、私出したときにびっくりしたでしょう?
オ:ああもうびっくりしました。サトルさんから年賀状来るとは思わなくて、はい。
井:で、そのあとできるだけ会うまいと思ってたんです。これはやっぱり思い出の中のページだから。で、関連の仕事に就いてます、というおハガキをいただいたけれども、一度も敢えてお目にかかりませんで、今日はじめてお目にかかりました。
沢:もうね、こうやって立派な大人になってる訳です。今33歳。
オ:今34歳です。
沢:なんとですね、井上さん、先週、子供さんが生まれたという。
森:おめでとうございます。
井:おめでとうございます。それはよかった。
森:すごいですね。なんかラジオを通じて、一人の方の人生をみんなでこうやって祝福できたり、お互いこう祝福したり、すごいことですよねー。
松:この月日ってすごいですよねー。
沢:長いですよねぇ。でも立派な大人になってね。
井:本当に安心しました。
松:お子さんの名前はもちろんサトルにしてるんでしょうねぇ?
沢:嫌な質問しますね。
森:今こう、咳ばらいしちゃってるじゃないですか。
沢:オオモリ十一(じゅういち)とかね、名前だったらよかったんじゃないかということでね。オオモリさん、今日はどうも、本当にありがとうございました。
井:頑張ってくださいね。
森:放送業界にお勤めということでね、また、井上さんのお仕事もね、すごく影響を与えたんでしょうねー。私たち今度使ってくださいね。
沢:なんでここでお願いせないかん。
松:森口さんとパッケージでお願いします。
沢:実は井上サトルさんには内緒で、ちょっとオオモリさんをね、呼んでましてですね。
井:びっくりしました。
沢:まあ、感激の対面と。AMラジオの良さっていうのはこういうところにもあるなと、皆さまわかっていただけたんじゃないかなと思います。「天神ラジオパラダイス・AMラジオ今昔物語」、この番組は、福岡市中央区天神大丸パサージュ広場特設ステージから、FM福岡、CROSS FM、RKBラジオ、KBCラジオ、4局同時生放送でお送りしておりまーす。
(CM)
(ジングル「天神ラジオパラダイス・ラジオ黄金時代」)
沢:「天神ラジオパラダイス」、ここでまた新たなゲストをお呼びしております。CROSS FMナビゲーター、TOGGYです。
T:どうもみなさんこんにちは。はーいTOGGYです。
沢:はーいTOGGYですじゃないよ君。今日朝からずっと番組やってたらしいねぇ。
T:CROSS FMも今日はですねぇ、ぼくが7年やってた「DIGITAL MORNING DRIVE」という朝の番組が、今日一日だけ復活で、5時起き、今一番眠たいときなんです。
沢:ちゃんと仕事せえよ。CROSS FMは1993年開局ですからね、もう12年ということになるんですけどね。
T:まだまだひよっ子でございます。
沢:実はですね、TOGGYと、私がやっておりました「PAO~N」という番組はですね、密接な関わりあいがあるということで。これは知らない人がほとんどだと思うんですが、どうしてですか?
T:実は栗田善太郎君のポジション狙っております。
沢:いやいやそんなことはどうでもいいよ。全然違う話じゃないか。
T:あのー実はですね、僕ハタチのときにバンドでデビューしまして。
森:えー、そうなんですか?
沢:そうなんですよ、彼、バンドやってたんですよ。
T:やってたんですよ。ドラムでリーダーだったんですけども、そのバンドで「PAO~N」の中の帯のコーナー持ってたんです。いわゆるアーティスト枠っていわれるやつを。
森:ご縁があったんですねー。
沢:何ていうタイトルだったっけ?
T:「ステップの青春恥知らず」っていう…。
森:聴いてた?聴いてた人拍手~!
松:いらっしゃいますよ、これー。
沢:ステップっていうグループだったんです。で、ドラム叩いててですねぇ、今メンバーバラバラだという。
T:今、全然音沙汰ないです。
沢:ハッハッハ。
松:誰と同期くらいですか?ほとんど。
T:えっとですねー、光GENJIとかね。
沢:光GENJIとステップ同期!
T:同期。一緒にNHKのオーディション受けに行って。それくらいのまあ、アイドル全盛の時代のね、バンドだったんですけど。
沢:もうじゃああれが20年ぐらい前。
T:20年、18年前ですねー。
沢:それからTOGGYはいろいろあってですね、今のTOGGYがあるという。
T:はい、海外行ったりなんかして、今のTOGGYがあると。これも沢田さんと奥田さんのおかけでございます。
沢:ええっちゅうに。
T:嘘です。
沢:嘘ですじゃないよ。
森:でもラジオに育てられたってことじゃないですか?ねぇ。
T:ほんとにそうですよ。
沢:もともとあなたもラジオ聴いてたんでしょ?
T:もう「PAO~N」も聴いてましたし、井上サトルさんと今日、お会いできて本当に感激しております。
沢:大先輩ですよねぇ。
森:あり得ないこの絵ヅラっていうか、絵ヅラじゃないか。
沢:ラジオなのに…。
森:ごめんなさい。皆さん、イマジネーションですよ。どんな感じで座ってらっしゃるかねー、想像しながら聴いて下さい。
沢:でもほらTOGGY、ここにまだあの、サトルさんの写真がありますけどね。
T:すごいですねぇ。
沢:若いですねぇ。
森:これ、オーバーオールじゃないですか。
沢:オーバーオールですよ、これ。いくつぐらいのときですか?これ。
井:これはいくつでしょうねぇ。30代ですね、まだね。
松:今このオーバーオール、石塚さんしか着てませんからねぇ。まいうーですよ。
森:しかもサンバイザーですよ。
井:これはねぇ、RKBの出力が50キロワットに増力になったときに、宇部から、歩いてきたんですよ、福岡まで。
沢:えー!あ、機材背負ってる!
井:そうそう。で、となりに居るのが中西一清。
沢:中西一清さんだ。若いねー、一清さんも。
T:あっ、中西一清さんですか。
沢:わぁ、痩せてるなぁ…。
井:生放送しながらずーっと、ニコニコ珍道中っていうのやったんですよ。
松:よくでも歩きながらラジオってすごいですねー。
沢:できるんですよねぇ。
森:また歩きながらやってると、いろんな方とのふれあいとかもあったりしてねー。楽しそう。
井:そうなんです。だから車がみんな乗せてくれるわけですよ。
松:ヒッチハイク。
井:放送時間に間に合わないから、次々に乗っけてくれる。
沢:思い出話は尽きませんけどね、またここで一旦、お知らせにいきましょう。
(CM)
(ジングル「天神ラジオパラダイス・ラジオ黄金時代」)
沢:お送りしてまいりました「天神ラジオパラダイス・AMラジオ今昔物語」、あっという間の30分でございましてですねぇ。
森:はやーい。
松:はやいですねー。
沢:私あのー、伝説のパーソナリティの井上サトルさんとこうやって同じステージで、お仕事できるとは、もう、まさか思いもしませんで。
井:僕もほんとに、あの、今生の…ハハ。
沢:誰が今生物語ですか。今昔物語ですよ。
井:今生の思い出にしたい。
松:言わないでください、そんなこと。
沢:サトルさん、またマイクの前に復活してほしいねぇ。
松:またいい声ですねぇ。
沢:皆さん、そう思いません?また井上サトルさんにね。
井:どうもありがとうございます。
松:両巨頭がこう、ねぇ、お会いするっていうのがすごいですね。
森:おとなり同士で座ってらっしゃるってなんかすごく素敵ですよねー。
沢:私はサトルさんに比べたらあんた、ペーペーですよ。
森:そんな。もう、まだ青いですよ。
沢:森口博子に青いって言われました。
松:今日、沢田さんものすごいテンション高いのがね、井上さん聞いてらっしゃるだろうなと思って、なんかすごいトーンで喋ってた感じがしました。
T:そんな感じでした。
松:すごいテンション高く。
沢:君に冷静に言われたくない。
松:(掛布のものまねで)素晴らしいです。
沢:ものまねは…。大沢親分、喝入れてくださいよ。
松:(大沢親分のものまねで)おー、二人ともなぁ、アッパレだよ。ただ、日本シリーズの阪神は喝だ、このやろう。
沢:あんまり全然関係ないですけどねー。ぜひサトルさん、また機会があれば。
井:どうもありがとうございます。
沢:ご一緒にね、お仕事させていただきたいと思っております。
森:素敵なお話、ありがとうございました。
松:ありがとうございました。
沢:ありがとうございました。「天神ラジオパラダイス・AMラジオ今昔物語」、この番組は福岡市中央区天神大丸パサージュ広場特設ステージからFM福岡、CROSS FM、RKBラジオ、KBCラジオ、4局同時生放送でお送りしてまいりました。この時間のお相手は、RKBラジオ、井上サトルさん、そして森口博子さん、松村邦洋さん、CROSS FMのTOGGY、司会進行は私、KBCラジオの沢田幸二でした。みなさん、ありがとうございましたー。「天神ラジオパラダイス」、まだまだこのあとも続きますよー。
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以上です、いかがでしたか?
この放送時点から現在に至る間にも、福岡の民放ラジオを取り巻く環境は大きく変化しているが、現在放送されている多くの番組の「原点」は何なのか?ということを考えさせてくれる、貴重な放送だと思ったので取り上げてみた次第である。
今後も、もし機会があれば、このような「書き起こし」を行ってみたいと思う。
次回は、「RKBベスト歌謡50」の林幹雄アナウンサー最後の出演の回を予定している(が、機会があるかどうか…)。
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(つづく)
福岡にある6つの放送局による共同ラジオキャンペーン「#フクラジ」の開始を記念して(?)、ラジオに関する過去記事で未だに一定数のアクセスがある「KBC-INPAX」に関するものを再掲。
この記事を書いてから、もう10年が経っています(第一回~第八回)。
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90年代のはじめにKBCラジオが行った大実験「INPAX」(インパックス)。
先日図書館で見つけたKBCとRKBの社史の中に、この頃のことがそれぞれの立場から書かれてあったので紹介してみたいと思う。
まずは当事者のKBCから。
以下KBCの社史より引用。
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話題集めた「INPAX」
1990年代に入り、ラジオではFM放送との競合のほかに、新しい地域メディアとしてコミュニティFMが各地で開局するなど、電波メディア業界は多メディア、多チャンネルという戦国時代を迎えようとしていた。KBCでは新しい年代を決戦の時と位置づけ、番組制作と編成の差別化、地域との密着強化などラジオの大変革に着手した。ラジオ部門あげて取り組む、24時間のスロープ編成による「KBC-INPAX」が登場するのである。
◇ラジオを変えろ
多メディア、多チャンネル時代を見据えた松本盛二社長は「ラジオを変えろ」という号令を発した。《ラジオ大変革》をキーワードに、ラジオ局長・長谷川弘志と制作部長・横野英雄を中心に新しいラジオの構想を練った。平成2年(1990)4月編成で「KBC-INPAX」がスタートした。「INPAX」とは information(情報)とintelligence(知識)それにinterest(面白さ)を未知数の可能性でpackするという意味の造語である。
この番組は地域、国内はもとより、世界各地、さまざまな分野にアンテナを張ったネットワークを活用して、切れ目なく情報を発信するKBCラジオを目指したものだった。
「INPAX」編成の情報が流れると地元よりも東京のほうが敏感な反応を示し、問い合わせや取材が続いた。3月に福岡と東京で開かれた広告会社会議には業界紙や通信社などが数多く参加し関心の高さを見せた。
◇スロープ編成
「INPAX」の狙いは従来のセグメンテーション編成による時間帯ごとの聴取者対象区分を改め、ノンストップと縦の流れを強調するスロープ編成という考えを打ち出したことである。1日の流れを4時間ずつ、4つの時間帯に区分し、それぞれの時間帯の聴取者層によって内容を構成した。
●月~金
「MORNING SLOPE」(6:00~10:00)
世界中の《今》をリアルタイムで放送、インターナショナルな朝を情報満載で伝える。
「DAYTIME SLOPE」(10:00~14:00)
兜町からの経済情報やニューヨーク、ロンドンからの最新情報を届ける。
「AFTERNOON SLOPE」(14:00~18:00)
街の動き、人の動きそして世界の動きがコンセプト。
「NIGHT SLOPE」(21:00~24:30)
「YOUNGからOTONAまで‘含み笑い’ INPAX」がキャッチコピー。
◇情報網の整備
KBCが開局して以来最大の改編といえる「INPAX」のねらいは情報の強化であった。そのためにKBCの屋上にインド洋上のインテルサットから外電の受信設備を整え、従来の朝日新聞ニュースと共同通信の配信に加えて、日本の民放では初めて通信社ロイターと受信契約を結び、24時間送られてくる英文のニュースを翻訳スタッフが翻訳して随時放送した。
また、朝日新聞や共同通信の海外支局、文化放送の「ワールドホットライン」の海外通信網とKBCスタジオを電話で結ぶ海外拠点は200ヵ所を超え、KBC独自の情報網を構築した。朝日新聞の論説委員、編集委員をはじめ、評論家・田原総一朗の人脈、日刊スポーツ記者・野崎靖博、芸能リポーターの梨本勝グループや音楽界、ファッション界に至るまで、コメンテーター、解説陣として幅広い人脈を整えていた。ローカル、地域情報についてはKBC報道局、朝日新聞、共同通信の支局情報網もフルに活用した。このように番組制作からキャスター陣まで、KBCラジオの持てるすべての力を投入した総力戦の新企画であった。
「INPAX」の放送開始以後、世界が激動の時期になり、平成2年8月2日のイラクのクウェート侵攻と湾岸戦争や、その翌年のロシアでのクーデターなどのニュースをいち早く放送して社内外の評価を得た。
この様に《ラジオ大変革》を掲げて華々しく登場した「INPAX」であったが、聴取率がいまひとつ低迷し、経費のかかり過ぎなどで、平成5年4月の改編で終わりを告げた。長谷川弘志は「ラジオ局あげての共同作業が必要な番組であったが、ラジオ担当者の意識改革が思うように進まなかったことや時代を先取りした仕掛けの大きさが時期尚早であった」と述べている。
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KBCの社史からの引用は以上。
続いて、RKBの社史からの引用。
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平成2年4月にスタートしたKBC INPAXの壮大な実験は、聴取者の支持を受けられなかったが、これは、まさしくKBCが置かれている事態のせっぱ詰まった突破策として行われた挑戦といえる。
INPAXは、「ビジネスマン・ラジオ」を掲げ、中波ラジオの未来を特定の階層のための一方向性情報サービス・メディア=「小さいラジオ」と規定したかに見える。
一方、われわれは、中波ラジオを「双方向性情報メディア」と考えてきた。スタジオからニュース・生活情報・音楽情報を送り出し、地域社会の人々からも身の回りの話題や意見を提供してもらう、この「情報」のキャッチボールのなかで、人々が「コミュニティ」との結び付きを実感し、共生感をおぼえる。そのような「コミュニティ・ラジオ」をコンセプトに「大きいラジオ」を目指してきた。
現時点では、われわれの思想の正しさが立証されている。40周年以後も「コミュニティ・ラジオ」の道がわれわれの選択であろう。「大きいラジオ」の「大きさ」が今後問題となろうが。
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RKBの社史からの引用は以上。
以上、それぞれの局の「社史」から、「KBC-INPAX」に関する記述を抜粋してみた。
「INPAX」の番組内容について補足すると、「MORNING~」の担当は永田時彦&清水千春、「DAYTIME~」は富田薫&奥田智子、「AFTERNOON~」は沢田幸二&千木良かおり、「NIGHT~」は「3P」というサブタイトル付きで中島浩二&アルトマンリカ(=久村洋子)であった。
また、土曜の「SATURDAY SLOPE」は、栗田善成が朝9時から夕方6時までを担当、日曜の「SUNDAY SLOPE」は文化放送から大野勢太郎を迎え、ホークス戦や競馬中継で構成するスポーツ番組であった。
人気番組の「PAO~Nぼくらラジオ異星人」まで終了させ、鳴り物入りでスタートした「INPAX」。
「KBCラジオ」という呼び方はやめて、「KBC-INPAX」という呼び方に統一され、ラジオカー「ひまわり号」も「INPAX号」に改称された。
ちなみに「INPAX」のジングルは、木村匡也が担当していた。
ただ、「KBCラジオという呼び方は今後使いません」と言いながら、夜中にKBCラジオの昔のジングルやピンキーのアナウンスが流れてきたり、「24時間のスロープ編成」と言いながら「オールナイトニッポン」や日曜朝夜などの箱もの録音番組も引き続き放送されていた。
当初は「○○ SLOPE」という無機質な番組タイトルだったが(夜と土曜を除く)、いつの間にか「○○ SLOPE」のあとに「奥田智子のマシュマロスタジオ」や「沢田幸二のイケイケドンドン」などのサブタイトルが付くようになり、他局の編成との違いもなくなり、迷走しているのがよくわかった。
また、「INPAX」を暗に批判するような発言を番組内で耳にすることもあった。
社史にはどれくらい不評だったかは書いてないが(当たり前か…)、一説によると「INPAX」になってからもともと低かった聴取率が半分になったという話もある。
現在のKBCラジオの出演者たちも、「INPAX」を過去の「汚点」と思っているのか、KBCにとっての大事業であったにもかかわらず、あまり触れようとしていない気がする。
RKBにとっては、ライバルが勝手に自滅してくれて、かつ、「こういうことをやってはいけない」というお手本をごく間近でみることができたわけで、思いがけない「貯金」を手にしたことになる。
ただ、それは努力して得たものではないだけに、最近はその「貯金」が底をつきつつあるように思える。
「仲谷一志アワー サプリメントスタジオ」の失敗などは、その好例と言えよう。
おそらく「INPAX」の発案者は、現在の「TBSニュースバード」(かつてのJNNニュースバード)や「日テレニュース24」(かつてのNNN24)のラジオ版みたいなものをイメージしていたのではないだろうか。
個人的には、「ニュースパレード」や「ネットワークTODAY」といった夕方の全国ネットニュースに物足りなさを感じることもよくあるので、普通のラジオで聞くことができるニュース専門局のようなものがあれば、聞いてみたいと思う。
ただ、地域との共生なしには存立し得ないローカルAM局がこのような大プロジェクトに単独で挑むにはやはり困難が伴い、「INPAX」も理想は高く掲げられても、それに現実が追いつかない面が多分にあったのだと思う。
今から振り返ってみると、新しいラジオの形を模索して実行に踏み切ったKBCの勇気は評価すべきだと思うし、形を変えた「INPAX」が将来東京あたりで誕生する可能性もないわけではないという気がする。
ただ、もし今KBCが「またINPAXをやります」と発表したら、私はすかさず「やめてくれ」と思うだろうが…(笑)。
ちなみに福岡の放送局の社史は、福岡市総合図書館2階の郷土資料のコーナーで見ることができる。
放送局に限らず、いろんな会社の社史を読んでみるのは意外と面白かったりする。
1つだけ、アップし忘れていたものがあったので本日掲載する。
以下はKBCの社史の囲み記事より引用。
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「KBC INPAX」をスタートさせた時のエピソード。
どこよりも早い外電をラジオの電波に乗せようと、ロイター通信と契約して、ほぼ24時間体制でニュースを放送した。
ロイターと本社間をラジオ線を使って結び、専門家や学生アルバイトの翻訳により生放送で使用した。湾岸戦争の勃発と同時に、NHKテレビの速報とスピードを競う時期もあり、担当者は随分とスリルを味わった。
その時期にロイターの提案により、香港のアジア支社から衛星を使って配信しているニュースを、直接本社屋上で受信する実験をしたことはあまり知られていない。
KBCの屋上の真西、仰角50度の何のさえぎるものがない位置にあるインド洋衛星からの電波は、直径2メートルのパラボラを使って、香港から来た技術者が簡単に受信した。
ロイターとしては、KBCを基地として九州の企業に経済ニュースを売り込むつもりだったらしいが、その後インターネットの時代になり、KBC衛星基地もまぼろしとなった。
横野英雄
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もしこの事業に着手していたら、KBCは「INPAX」から手を引くことができず、現在の「PAO~N」の復活もなかったかもしれないな…。
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(つづく)
石:それからねー林さんね、ほんとに残念がってる方が多くてですね、実はレコード各社の方々もえー来てるわけでございます。実はそのやっぱりあのレコード音楽番組というのはですねぇ、えー、レコード各社の力があってこそということで、本当にたくさんの方々がですねぇお見えなんですね、手を振ってください。
林:どうもありがとうございました。
池:それとねぇ、ぼくグッときちゃったのが、お手伝いしてくれてる女性の方でしょう、もう先ほどからもうすごいですよ、ミキサー室でシクシクシクシク。
石:ワーワーワーワーという声も聞こえておりますけれどもね。
林:泣かないぞ、ハハハ。
石:さて林さん、深夜の放送でHiHiHi(ハイハイハイ)、ハイスリーがありますけれどもね。
林:えぇ、ありますね。
石:ハイスリーからも銀之丞君をはじめスタッからプレゼント。
林:いやぼくはハイスリーはですね、ずいぶん肴にされましたよ。
石:そうですか。
林:殺人事件で殺されたりしましたし、いろんなことがありました。
石:ありましたですねぇ。実は花束来てるんですよ。
林:ぼくは銀ちゃんには恨みを持っておりまして、一度一緒に飲みに行こうと言って。あ、小野ディレクターからですね。花束どうも。
小:山崎からです。
林:どうもありがとうございました。恐縮です。どうもありがとうございました、ハイハイハイがんばってください。聴いております。
石:林さん、16年間というね、間なんですけども、私たちもですね、まだ経験したことのない大変ロングラン、えーしかも4千数十時間、4千数百時間ですか、にわたるですね、大変な時間を日曜日犠牲にしたと、言っても過言ではないと思うんですね。これをもって一番喜んでいらっしゃるのが奥様とそしてお子様ではないかということを今日ね、一日このお付き合いさせていただいて思ったんですよ。
池:来てるんですか?
石:え?実は!今日は来て…ないですね。
林:知らん顔です。
石:お宅のほうでごゆっくりとですね、放送聴いていただいてますね。
林:うちは母子家庭と言ってますから。
石:何を言ってるんですか。
池:で、やっぱり林さんから一言ほしいですね、最後に。
石:最後にラジオお聴きのみなさんに。
林:どうもありがとうございました。いや今日はあのスタジオにレコード関係の方、それからRKBの関係の方ですねぇ、いろんな方がいらっしゃっておりますけれども、ほんとにあの感謝をします。それとやはりあの16年間支えてくれましたあのみなさんのハガキですね、これがぼくの一番の健康のもと、リゲインでした。えー、本当にこれまでたくさんのリクエストカードありがとうございました。えー、これでお別れですけれども、このあと、石上アナウンサーがベスト50を担当します。これまで以上にどうぞよろしくお願いしたいと思います。最後に本当にありがとうございました。そしてさようなら。
(おつかれさまでした!の声と拍手)
(エンディングテーマフェードアウト)
(拍手の中で)
林:お聴きの放送はRKBラジオです
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最後の「お聞きの放送はRKBラジオです」がとてもかっこいい。
「ヤンヤン歌うスタジオ」にも出ていた“池ちゃん”こと池田まさるさんは、番組では13時からの芸能情報コーナーを担当(通常は電話出演)していた。
浅井企画の所属だったと思うのだが、現在どうされているのだろうか。
番組は、翌週から「イシヤン」こと石上アナウンサーが担当し、1995年末まで続いた。
16年という歴史を引き継ぐ「大役」だったと思うのだが、「歌謡曲」自体が斜陽となっていく中、独自のカラーを出してよく健闘されたと思う。
調子の良さと優しさと毒を併せ持った「石上節」も、RKBラジオの歴史を語るうえで欠かせない要素のひとつだと思う。
なお、西田たかのりさんが「ニシヤン」と呼ばれているのは、石上さんの「イシヤン」の流れを汲んでいる…と勝手に思っている。
当時は、4時間50分の放送時間のうち3時間はトヨタ自動車がスポンサーとして付いていた(なお、土曜日の日産ワイドサタデーも、当時は2時間枠だった)。
運転免許を持ってない年代のリスナーも多かったと思うのだが、そういう層に対しても「トヨタ」のブランドイメージ浸透を企図していたと考えられる。
直接的な購入行動を訴求する“ラジオショッピング”が全盛の現在からは考えられないことだ。
リスナーの絶対数も予算も減り、このような形式の番組をいま成立させることはまず難しいと思うのだが、この頃の番組が持っていた手間を惜しまない姿勢やものづくりの精神は、いまの福岡のラジオにも思い返していただきたいものだ。
次は「ほがらかウィークリー」の最終回でも書き起こしてみるかな?(何年先になるかわかりませんが(笑))。
(つづく)
意外に反響が大きかったので、「キオクのカケラたち」の続編を。
今回は「スマッシュ!!11とPAO~N(4)」の記事の最後で少しだけふれた、1990年4月1日「RKBベスト歌謡50」の林幹雄アナの最後の放送の書き起こしを2回に分けて掲載する。
「RKBベスト歌謡50」は日曜日の午後に放送されていたラジオ番組だが、詳細については、過去の記事(①、②、③、④)を参照のこと。
登場人物は以下の通り(敬称略)。
林…林幹雄 石…石上正憲
池…池田まさる 新…新入社員
小…小野ディレクター
なお、この書き起こしは、読みやすいように発言に修正を加えたりはなるべくせず、ほぼ発言の通りを文章にしている(クロストークや相鎚など、一部拾ってない部分もあります)。
では、第1位の曲が終わったところからスタート…
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林:今週の第1位はLINDBERGの「今すぐKiss Me」でした。えー、これで4月1日830週目のRKBベスト歌謡50のランクの発表、すべて終わったわけです。私のランク発表もこれで全て終わりました。16年間830週、えーそろそろ御役御免ということで、トヨタサンデースペシャルはRKBベスト歌謡50、愛される車を目指すトヨタ自動車の提供でお送りしてまいりました。えーこのあと来週からですねぇ放送担当してもらう石上正憲アナウンサーと、えー、今週でぼくと一緒に終わりの池田まさるさん、池ちゃんにスタジオに入ってもらいまして…なんか雰囲気がおかしい。
石:いやほんとにですねぇ、長い間おつかれさまでございました。
林:いつものように静かに終わりたい。それではみなさん、ごきげんよう、また来週。
石:何を言ってるんですか。
池:簡単には終わらせませんよ。
石:16年間長いですよ。私があの頃、中学生でしたよ。
林:よくいいますね。
石:ほんとに長い間ね、もう待ってるだけで12時くらいからですね、この時間までずっとあのー待ち続けていたんですけれども。待つのは辛いですね。
池:ですね。
林:そうですよね。
池:喋ってるのも辛いでしょう。
林:まあ喋ってるからまだいいようなもんで。ときどき居眠りしてますよ、スタッフは。
池:ハハハ。
石:ほんとにね。長い間スタッフの皆さんもおつかれさまでございました。実は今日はね、たくさんの方々から祝電をちょうだいしておりますんでね。
林:そうですか。
石:ご紹介をしたいんですが。林さん宛てです「私のデビュー、どんたく新人祭りから今日まで大変お世話になりました。日曜日の歩行者天国など見れますね。今後ともよろしくお願いします」、坂本冬美さんからでございます。
林:どうもありがとうございます
石:「長い間おつかれさまでした。とても残念ですが、スタッフの皆様の今後のご活躍をお祈りいたします」、男闘呼組のみなさんからでございます。それから「カムサムニダ、ミスターハヤシ、海峡を越えてもこの番組が聞こえていた。一度出演したかったのに。グッバイラブ」、桂銀淑さん。
林:桂銀淑さんねー、いい女です。
石:そのほかねー、小川範子さんとかですねー、スターダストレビュー、麻生詩織さん、えー、堀内孝雄さんね、それから森高千里さん、その他たくさんの方からいただいております。ありがとうございました。
林:ほんとにありがとうございます。
石:実はですね、今日はねー、あのー新入社員がですね、研修に来ておりまして、4月1日、初めての研修ですねー、全員揃っておりますので、ここで林さんにおつかれさまをですね、みなさんで言ってもらいたいと思いまして実は登場してもらいました。どうぞ。
新:おつかれさまでしたー。
林:ありがとうございます。
池:声が揃ってますね、すばらしい。
石:なかなかですねー。
林:お花までいただきまして、あの窓のね。
石:フレッシュなみなさんが林さんを尊敬してですね、林さんのようにですね素晴らしいこのDJ、パーソナリティを目指していきたいと。
林:じゃあそうされたんでしたら、新人さんの、新入社員さんのですね、えー、声を一人ずつ、名前だけ大きい声でマイクに入るように、はい、こちらから。
池:いきましょう。
新:斉藤絹子と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
新:はい、○○と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
新:植草朋樹と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
新:○○です。よろしくお願いします。
新:○○です。よろしくお願いします。
新:○○と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
新:久間直樹です。よろしくお願いします。
(アナウンサーや報道記者になった方以外の名前は伏せています)
林:はい、どうもありがとうございました。これからあのがんばってくださいね。
(つづく)
「磯田久美子 プロフィール」などのキーワードで検索してこのブログにたどり着く方が多いということは、「ニュースなキザシ」で、これまでに何度か書きました。
ウィキペディアにも磯田さんの項目は未だなく、「今日感テレビ」や「探検!九州」で日々活躍されている磯田さんの姿を見て、「どういう経歴の人なのか?」という関心を持つ方が多いというのは理解できる気がします。
というわけで今回は、私が知る磯田さんの情報、及び、そこから派生して思い出したいろんなことを書き綴ってみたいと思います。
何のあてもなく書き始めたのですが、思いのほか長文になります。
磯田さんは、もともとRKBのラジオカー「スナッピー」のキャスタードライバー出身であり、その後の、鬼橋美智子さん、長谷川友子さん、江藤晴美さん、麦田陽子さん、茅原あいりさん…などと同じということになります(ちなみに山本華世さんや原田らぶ子さんは、KBCのラジオカー「ひまわり」出身)。
スナッピーを卒業後、RKBテレビでレポーターとしての活動を開始するわけですが、1990年10月にスタートし現在も続くテレビ番組「探検!九州」で一躍その知名度が高まることになります。
ちなみに、「探検!九州」の第一回のレポーターは磯田さんでした。
当時の番組キャスターは安藤豊アナと、現在も出演中の安田瑞代アナ。
磯田さんはその後、島田洋七さんとともに「探検!九州」のメインキャスターを務めた時期もありました(その当時に限り、生放送ではなく録画だったようです)。
また、日曜の夕方に「くみこのいきなりおじゃましまーす!」という冠番組を持っていたこともありました(内容は、TNCで現在放送中の「華丸・大吉のなんしようと?」のようなイメージ)。
磯田さんがレポーターを務め、「探検!九州」の企画として現在も続いている「鈍行列車グルメ旅」は、もともと別の番組「RKBワイド5」で放送されていたシリーズ企画でした。
「ワイド5」については後述します。
「探検!九州」は、放送開始当時は火曜19時から(当時のTBS系列のローカル枠)の放送でした。
「探検!九州」開始前は、同じく自社制作で「カナナテレビフクオカン」という番組が1年間放送されていました。
「カナナテレビフクオカン」のキャスターは、熊本で現在も活躍中のかなぶんやさん(「カナナ」は「火曜七時」と「かなぶんや」を掛けていたもよう)と安田瑞代アナ(後半の半年間のみだったと記憶。前期の女性出演者は失念)。
もともとは生中継、クイズ、ゲストコーナーなど多くの企画を盛り込んだ内容でしたが、あまり視聴率は良くなかったようで試行錯誤を繰り返し、全編ひとつのテーマに絞った「密着もの」を放送したところ好評だったらしく、それが次の「探検!九州」につながっていくことになります。
「RKBワイド5」は、1991年4月、福岡初の夕方ワイド番組としてスタートしました。
ホークスが福岡に本拠地を移すことで、その取材のための体制を敷く必要が生じた関係上、RKBは当時、平日の帯の情報番組から一時的に撤退していたのですが、「ワイド5」で再び参戦ということになりました。
放送時間は、月曜から木曜の17時~17時55分の55分間で、金曜日は同時間に「探検!九州」が再放送されていました。
現在「今日感テレビ」が5時間にわたって放送されていることを考えると、55分という放送時間は短い印象がありますが、当時としてはこれでも「ワイド」でした。
番組テーマ曲は、COSMOSの「セルリアンカリブ」(主に地方局で放送されていたラジオ番組「西村知美キュートに初恋」と同じ)。
なお、17時55分からは、「RKBニュースワイド」(当時18時30分から放送)の告知番組が放送されていましたが、「ニュースワイド」のリニューアル(松田英紀、服部義夫、田中みずきの3人体制に移行)後は、「ニュースワイド」の告知も「ワイド5」に内包されるようになりました(ちなみに、「ニュースワイド」キャスターも務めた松田英紀さんが、「鈍行列車グルメ旅」の企画を考案されたとのことです)。
キャスターは、現在「探検!九州」のキャスターをされている白木正四郎さんと、当時アナウンサーだった斉藤絹子さん。
斉藤絹子さんはその後、「ワイド5」の後番組「夕方放送局きょうもやっぱり基樹です」のさらに後番組「RKBももち丸」でも坂田周大アナとともにキャスターを担当されました。
「ワイド5」の第一回放送のとき斉藤アナは、緊張で腰が抜けてしまい、放送終了後、立ち上がることができなかったそうです。
斉藤アナは、「RKBベスト歌謡50」の林幹雄アナの最終回(1990年春)に、植草朋樹アナ(現在はテレビ東京に移籍)らとともに「新入社員」として挨拶していたので、入社後1年での大抜擢でした。
一方の白木さんは、当時木曜深夜に「Gな気分で」という30分の情報番組を実藤明子さんとともに担当していました。
「ワイド5」は、オープニング→日替わりの特集→RKBスピーカーズコーナー→一枚の絵→ふくおか食探検→エンディング…というのが基本的なフォーマットだったと思います。
全体的にゆったりとした感じの作り(いま風にいえば「ゆるい感じ」)で、キャスターとレポーターとのフリートークの時間も多くとられていて、アットホームな雰囲気の番組だったと記憶しています。
特集のレポーターは、磯田久美子さんをはじめとして、中西一清さん、植木伴子さん(元大分放送アナウンサー)、下野美由紀さん、西田恭平さん(鐘)、寿一実さん、藤井一子さん(チェックポイント)、村上幸子さんなどが出演されていました。
「RKBスピーカーズコーナー」は、ソラリアプラザのロビーからの中継で、レポーターの実藤明子さんが、毎日のテーマに関して、集まった視聴者の主張を聞くという建前でしたが、実際には能動的に発言する人はほぼゼロで、実質的にはインタビューコーナーとなっていました。
なお、実藤さんもスナッピー出身だったと思います(その後、「中西一清スタミナラジオ」の制作などにも携わられているようです)。
「ワイド5」のレポーターの一人、中西一清さんは当時RKBのアナウンサーであり、「ワイド5」第一回目のレポーターも中西さんだったと思います。
当時既に中堅からベテランの年齢に達していましたが、当時のアナウンス部の年齢構成がいびつだったこともあり、中西さんはいろんな番組で外回りやレポーターをかなり晩年まで担当していました。
ただ、中西さん本人は、現場に出向くことに常に誇りを持っていた節があり(もちろんご本人の心情はわかりませんが)、福岡空港の近くで取材中、ガルーダ航空機離陸失敗の事故(1996年)に偶然遭遇し、現場にどんどん入っていってレポートされていた姿も記憶にあります。
なお、「ワイド5」時代の「鈍行列車グルメ旅」もレポーターは磯田さんでした。
現在「探検!九州」では肥薩おれんじ鉄道が取りあげられていますが、「ワイド5」時代は山陰本線を下関から順に旅していました。
「探検!九州」昇格後の第一回は鹿児島本線で、その後、日豊本線、くま川鉄道なども題材になったと思います。
なお、鹿児島本線シリーズの途中で、磯田さんは結婚のため一度降板しています(宮崎揚子さんにバトンタッチ)が、その後また復活しました。
「ワイド5」時代には、類似のシリーズ企画として、「福岡バス旅行」(担当は磯田さん)、「私鉄沿線」(担当は中西さん)などもありました。
「ワイド5」の視聴率は悪くなかったようですが、北海道STVの「どさんこワイド」成功の流れを受け、17~19時の中で、全国ニュースを挟みながら、それまでの「ローカル情報番組」と「ローカルニュース番組」の垣根を取り払い、中継なども交えながらこれらを複合的に扱うというスタイルが全国的に流行り出し、RKBでも、「ワイド5」、全国ニュース「JNNニュースの森」、ローカルニュース「RKBニュースワイド」の3つの枠を統合した「夕方放送局きょうもやっぱり基樹です」がスタートします。
なお、「基樹です」スタートにあたり、「RKBニュースワイド」は放送を終了することになるのですが(最後の放送の日、松田キャスターは「本日でニュースワイドは終了します。昭和50年から長い間ご覧いただきありがとうございました」と確かに言っていました)、ウィキペディアでは「RKBニュースワイド」に関して、
“2003年6月、28年3ヶ月に及ぶ番組の歴史に幕を閉じ「夕方どんどん」と放送枠の統合で「今日感テレビ」がスタートした。”
“一時期「夕方放送局今日もやっぱり基樹です」に番組を内包された時期もあった。”
と書かれており、歴史的な解釈としては、「基樹です」開始の時点では、「ニュースワイド」は「終わってなかった」ことにされているようです。
たしかに、その後、「基樹です」がリニューアルをして、ローカルニュース枠を「夕方放送局ニュースワイド」として切り離したときに、何事もなかったように「ニュースワイド」の名称が「復活」したことは事実なのですが(笑)。
「夕方放送局きょうもやっぱり基樹です」は、タイトルが示す通り、メインキャスターは中村基樹さん(当時RKBアナウンサー)で、ラジオの「中村もときのおはようRKB」からの満を持しての転身という感じでした(ちなみに、前述の松田英紀さんは、「おはようRKB」のディレクターもされていたと思います)。
開始当初のアシスタントは大村由紀子アナ、後期のアシスタントは高藤秋子アナで、大村アナ、高藤アナとも、その後は報道記者に転身しています。
放送時間は、月曜から金曜の17時から19時で、特集、中継、ゲストとのトーク、料理コーナーにニュースと、コーナーをたくさん盛り込み、「ワイド5」よりも機動的かつアップテンポな内容で、基樹さんのキャラクターが存分に活かされた構成になっていました。
18時台のローカルニュースは、当初は納富昌子さんがキャスターで、基樹さんがコメントを挟むという内容でしたが、後に基樹さんは18時台には出演しなくなり、納富さんメイン、坂田周大アナがサブというスタイルになりました(このときに「ニュースワイド」の名称が「復活」)。
テーマ曲は「I can't stop fallin' love with you」というオリジナル曲で、RKBのディレクターなどが結成したバンドによる作品でした(二代目のテーマ曲も同様)。
田中みずきアナは毎日、博多駅前から天気予報を伝えていました。
中継のレポーターは、週の前半がケン坊田中さん、後半が仲谷一志さんでしたが、後に日替わりになりました。
なお、「基樹です」の第一回にも磯田さんはレポーターとして出演していました。
ちなみに、現在も気象予報士アナとして「今日感テレビ」に出演中の龍山康朗アナは、「基樹です」放送期間中に予報士の免許を取得し、初めての「独自予報」もこの番組で行われました。
この番組が放送されている期間中、「ユニバーシアード福岡大会」が開催され(1995年夏)、RKBは大会のホスト局となり、民放としては独占して競技中継や映像配信を行いましたが、大会のPRなども含め、「基樹です」の好調が、それらを後押しした感がありました。
なお、大会期間中は、夕方の「基樹です」の時間に加え、午前中と深夜にもハイライト番組が放送され、午前中は石上正憲アナ、深夜は坂田アナと梁井久美アナがキャスターを務めました。
その後、1995年10月にFBSで「めんたいワイド455」が始まり、「基樹です」は勢いを失い、「RKBももち丸」→「夕方どんどん」シリーズと、現在の「今日感テレビ」が天下を獲るまで、RKBの夕方情報番組は試行錯誤を続けることになります。
そのあたりのことは、このブログだけでなくその他のサイトにも書いてあるので、今回は触れませんが、その間もずっと、「探検!九州」と夕方の情報番組で一貫してレポーターとして番組を引っ張ってきた磯田さん。
局の歴史の約半分の期間にわたって、自社制作番組を支え続けてきたという意味で、RKBにとっての最大の功労者のひとりではないかと考えるわけです。
なお、ここまでほとんど記憶だけに基づいて一気に書いたため、事実関係に誤りがある可能性も大いにあります。
誤りを見つけたら、ぜひぜひ指摘していただければと思います。
(つづく?)
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(ジングル「天神ラジオパラダイス・ラジオ黄金時代」)
沢:「天神ラジオパラダイス」、ここでまた新たなゲストをお呼びしております。CROSS FMナビゲーター、TOGGYです。
T:どうもみなさんこんにちは。はーいTOGGYです。
沢:はーいTOGGYですじゃないよ君。今日朝からずっと番組やってたらしいねぇ。
T:CROSS FMも今日はですねぇ、ぼくが7年やってた「DIGITAL MORNING DRIVE」という朝の番組が、今日一日だけ復活で、5時起き、今一番眠たいときなんです。
沢:ちゃんと仕事せえよ。CROSS FMは1993年開局ですからね、もう12年ということになるんですけどね。
T:まだまだひよっ子でございます。
沢:実はですね、TOGGYと、私がやっておりました「PAO~N」という番組はですね、密接な関わりあいがあるということで。これは知らない人がほとんどだと思うんですが、どうしてですか?
T:実は栗田善太郎君のポジション狙っております。
沢:いやいやそんなことはどうでもいいよ。全然違う話じゃないか。
T:あのー実はですね、僕ハタチのときにバンドでデビューしまして。
森:えー、そうなんですか?
沢:そうなんですよ、彼、バンドやってたんですよ。
T:やってたんですよ。ドラムでリーダーだったんですけども、そのバンドで「PAO~N」の中の帯のコーナー持ってたんです。いわゆるアーティスト枠っていわれるやつを。
森:ご縁があったんですねー。
沢:何ていうタイトルだったっけ?
T:「ステップの青春恥知らず」っていう…。
森:聴いてた?聴いてた人拍手~!
松:いらっしゃいますよ、これー。
沢:ステップっていうグループだったんです。で、ドラム叩いててですねぇ、今メンバーバラバラだという。
T:今、全然音沙汰ないです。
沢:ハッハッハ。
松:誰と同期くらいですか?ほとんど。
T:えっとですねー、光GENJIとかね。
沢:光GENJIとステップ同期!
T:同期。一緒にNHKのオーディション受けに行って。それくらいのまあ、アイドル全盛の時代のね、バンドだったんですけど。
沢:もうじゃああれが20年ぐらい前。
T:20年、18年前ですねー。
沢:それからTOGGYはいろいろあってですね、今のTOGGYがあるという。
T:はい、海外行ったりなんかして、今のTOGGYがあると。これも沢田さんと奥田さんのおかけでございます。
沢:ええっちゅうに。
T:嘘です。
沢:嘘ですじゃないよ。
森:でもラジオに育てられたってことじゃないですか?ねぇ。
T:ほんとにそうですよ。
沢:もともとあなたもラジオ聴いてたんでしょ?
T:もう「PAO~N」も聴いてましたし、井上サトルさんと今日、お会いできて本当に感激しております。
沢:大先輩ですよねぇ。
森:あり得ないこの絵ヅラっていうか、絵ヅラじゃないか。
沢:ラジオなのに…。
森:ごめんなさい。皆さん、イマジネーションですよ。どんな感じで座ってらっしゃるかねー、想像しながら聴いて下さい。
沢:でもほらTOGGY、ここにまだあの、サトルさんの写真がありますけどね。
T:すごいですねぇ。
沢:若いですねぇ。
森:これ、オーバーオールじゃないですか。
沢:オーバーオールですよ、これ。いくつぐらいのときですか?これ。
井:これはいくつでしょうねぇ。30代ですね、まだね。
松:今このオーバーオール、石塚さんしか着てませんからねぇ。まいうーですよ。
森:しかもサンバイザーですよ。
井:これはねぇ、RKBの出力が50キロワットに増力になったときに、宇部から、歩いてきたんですよ、福岡まで。
沢:えー!あ、機材背負ってる!
井:そうそう。で、となりに居るのが中西一清。
沢:中西一清さんだ。若いねー、一清さんも。
T:あっ、中西一清さんですか。
沢:わぁ、痩せてるなぁ…。
井:生放送しながらずーっと、ニコニコ珍道中っていうのやったんですよ。
松:よくでも歩きながらラジオってすごいですねー。
沢:できるんですよねぇ。
森:また歩きながらやってると、いろんな方とのふれあいとかもあったりしてねー。楽しそう。
井:そうなんです。だから車がみんな乗せてくれるわけですよ。
松:ヒッチハイク。
井:放送時間に間に合わないから、次々に乗っけてくれる。
沢:思い出話は尽きませんけどね、またここで一旦、お知らせにいきましょう。
(CM)
(ジングル「天神ラジオパラダイス・ラジオ黄金時代」)
沢:お送りしてまいりました「天神ラジオパラダイス・AMラジオ今昔物語」、あっという間の30分でございましてですねぇ。
森:はやーい。
松:はやいですねー。
沢:私あのー、伝説のパーソナリティの井上サトルさんとこうやって同じステージで、お仕事できるとは、もう、まさか思いもしませんで。
井:僕もほんとに、あの、今生の…ハハ。
沢:誰が今生物語ですか。今昔物語ですよ。
井:今生の思い出にしたい。
松:言わないでください、そんなこと。
沢:サトルさん、またマイクの前に復活してほしいねぇ。
松:またいい声ですねぇ。
沢:皆さん、そう思いません?また井上サトルさんにね。
井:どうもありがとうございます。
松:両巨頭がこう、ねぇ、お会いするっていうのがすごいですね。
森:おとなり同士で座ってらっしゃるってなんかすごく素敵ですよねー。
沢:私はサトルさんに比べたらあんた、ペーペーですよ。
森:そんな。もう、まだ青いですよ。
沢:森口博子に青いって言われました。
松:今日、沢田さんものすごいテンション高いのがね、井上さん聞いてらっしゃるだろうなと思って、なんかすごいトーンで喋ってた感じがしました。
T:そんな感じでした。
松:すごいテンション高く。
沢:君に冷静に言われたくない。
松:(掛布のものまねで)素晴らしいです。
沢:ものまねは…。大沢親分、喝入れてくださいよ。
松:(大沢親分のものまねで)おー、二人ともなぁ、アッパレだよ。ただ、日本シリーズの阪神は喝だ、このやろう。
沢:あんまり全然関係ないですけどねー。ぜひサトルさん、また機会があれば。
井:どうもありがとうございます。
沢:ご一緒にね、お仕事させていただきたいと思っております。
森:素敵なお話、ありがとうございました。
松:ありがとうございました。
沢:ありがとうございました。「天神ラジオパラダイス・AMラジオ今昔物語」、この番組は福岡市中央区天神大丸パサージュ広場特設ステージからFM福岡、CROSS FM、RKBラジオ、KBCラジオ、4局同時生放送でお送りしてまいりました。この時間のお相手は、RKBラジオ、井上サトルさん、そして森口博子さん、松村邦洋さん、CROSS FMのTOGGY、司会進行は私、KBCラジオの沢田幸二でした。みなさん、ありがとうございましたー。「天神ラジオパラダイス」、まだまだこのあとも続きますよー。
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以上です、いかがでしたか?
この放送時点から現在に至る間にも、福岡の民放ラジオを取り巻く環境は大きく変化しているが、現在放送されている多くの番組の「原点」は何なのか?ということを考えさせてくれる、貴重な放送だと思ったので取り上げてみた次第である。
今後も、もし機会があれば、このような「書き起こし」を行ってみたいと思う。
次回は、「RKBベスト歌謡50」の林幹雄アナウンサー最後の出演の回を予定している(が、機会があるかどうか…)。
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沢:そうそうそう。ちなみに、ちょっと遡りますと、FM福岡が開局したのが1970年、昭和45年ということで、ここはもう森口さんも松ちゃんも生まれてる。
森:そうですね。
松:そうですね。
沢:35年前だ。そして結局、井上さん、「スマッシュ!!11」が17年、1986年ですね。最後の放送が。
井:そうですね。
沢:えー、あれからもう20年近く。
井:そう、19年になりますね。
沢:長いですねぇ。毎日夜だったでしょう。
井:うーん、そうです。月曜日から金曜日までね。
沢:これ正直な話、もう、もういいやとか途中で思われたことなかったですか?
井:うーん、だから小学校に入学して6年でしょ、中学校3年でしょ、高校3年でしょ、1年浪人して、ね、大学卒業する、それが17年なんですよ。で、それをこう、指折り数えたときに、ああ、もう私はそろそろ卒業しなくちゃ、それにKBCさんのねぇ、沢田さん、この「PAO~N」っていうねぇ、元気なねぇ、非常にテンポのいい番組が裏で始まった。
沢:うち裏番組でした。
井:これはもう、沢田さんには敵わないな。このテンポにはついていけないな、そこで卒業しましょうということでスマッシュ卒業式やったんです。
松:そうなんですかー、僕ねー、後半の頃なんですけどねー、サトルさんのラジオに、電話でよくかけさしてもらいましたよー。
沢:覚えてらっしゃいますか。
井:覚えてるような覚えてないような…。
森:え、何てかけたの?
松:僕ね、ものまねができるんですよー、井上さんちょっとラジオで聞いて下さいよー。
井:それはあります。
沢:覚えてる。
井:覚えてる。それは覚えてる。
松:当時のねー、電話のオペレーターの方とねー、女の子と喋れるって嬉しくてですね。
井:番組終わったあとお話ししたでしょう。
松:お話ししました。
井:ね、番組が終わったあと。
森:どっちが目的なの、番組でお話したいのかオペレーターと…。
松:いやいやオペレーターの方とも喋れるし、でも、ラジオに出さして下さいって何度も喋ったら、井上さんと喋らせて下さい、井上さんと喋らせて下さいって言ったんですよ。そしたらオペレーターの方がねぇ、悪いなぁと思ったんでしょう。何度も何度もよく電話するから。じゃあね、ラジオ終わったあとちょっと井上さんに話してみるって言ったんです。そしたらね、ラジオ終わったあとですよ、山口の僕の自宅ですよ、自宅に井上さんから直接電話いただいたんですよ。
沢:ありがたいですよ。
松:だってね、だから思った。テレビもラジオもそうですけどね、なんでもそうですけど、映ってるときだけ頑張ればいいってもんじゃないですよね。映ってないところでここまでしていただいてありがたかったの覚えてます。
沢:それが長く続いた要因でしょうね。やっぱりね、身近でしたもんね。
松:リスナーの方をすごく大事にされてましたね。
森:そういう経験って、松ちゃん一生忘れないですよね。井上さんにもらった優しさ。
松:忘れないですよ。だってね、僕ね、何分くらい話してましたか、20分、25分くらいものまね聞いていただいたの覚えてますよ。
沢:やりすぎたよ、それ。さて、今日ね、会場にお越しの皆さんの中にも元「スマッシュ!!11」のリスナーだったという方、たくさんいらっしゃると思うんですが、実は今からちょうど20年前、つくば博覧会というのがありまして、そのときの、ポストカプセル郵便という企画があったんです。これ、20世紀の私から21世紀のあなたにハガキを送ろうという企画があったんですが、当時スマッシュのリスナーだったある少年が、21世紀の井上サトルさんにハガキを送るという設定で送ってたんですよ。
井:そうなんですよ。
沢:そのときのハガキ、サトルさん…。
森:持ってらっしゃる!
井:2001年にですねぇ、自宅に年賀状で届いたんですよ。
森:郵便番号がまだ5桁の時代ですねー。
井:“明けましておめでとうございます。63歳のサトル様、お元気にお過ごしですか。私は16年前の「スマッシュ!!11」の常連の一人、オオモリ○○です〔下の名前も放送されましたが、一般の方なのでここでは伏せます〕。覚えていてくれていますか。僕は今は13歳ですが(このハガキを書いているとき)、本当は今29歳です。本当に月日の経つのは早いものですね。「スマッシュ!!11」はそのときまで続いているでしょうか。お元気で”という。2001年に飛び込んでまいりましてねぇ。思いました。そのときにねぇ。嬉しかったんですけど。つくば博に行って、このポストカプセルに出すのに、このハガキ1枚しか宛名がなかったんだなぁと思うと、この少年がね、寂しかったんだなぁ、もっと好きな人に出さなかったのかなぁ、「スマッシュ!!11」にしか出さなかったのかなぁ、という、そういう思いがしましたねぇ。
沢:でもオオモリ君って覚えてますか?
井:でね、僕はあわててね、これいただいたときに、この住所に手紙をすぐ出しました。そしたら返事が来ました。ちゃんとした青年になってました。そして、放送業界に入ってました。
沢:実は井上さん、オオモリ君に来てもらってます。オオモリ君どうぞ!
森:えーそうなんですか。やー。
松:あらー。
沢:今がっちりと、当時のリスナー、オオモリ君と握手です。
オ:初めまして。
井:初めまして。ほんとに初めまして。えー、ありがとうございました。失礼なこと言ってすみません。孤独だったなぁなんて話をしまして。で、賀状、私出したときにびっくりしたでしょう?
オ:ああもうびっくりしました。サトルさんから年賀状来るとは思わなくて、はい。
井:で、そのあとできるだけ会うまいと思ってたんです。これはやっぱり思い出の中のページだから。で、関連の仕事に就いてます、というおハガキをいただいたけれども、一度も敢えてお目にかかりませんで、今日はじめてお目にかかりました。
沢:もうね、こうやって立派な大人になってる訳です。今33歳。
オ:今34歳です。
沢:なんとですね、井上さん、先週、子供さんが生まれたという。
森:おめでとうございます。
井:おめでとうございます。それはよかった。
森:すごいですね。なんかラジオを通じて、一人の方の人生をみんなでこうやって祝福できたり、お互いこう祝福したり、すごいことですよねー。
松:この月日ってすごいですよねー。
沢:長いですよねぇ。でも立派な大人になってね。
井:本当に安心しました。
松:お子さんの名前はもちろんサトルにしてるんでしょうねぇ?
沢:嫌な質問しますね。
森:今こう、咳ばらいしちゃってるじゃないですか。
沢:オオモリ十一(じゅういち)とかね、名前だったらよかったんじゃないかということでね。オオモリさん、今日はどうも、本当にありがとうございました。
井:頑張ってくださいね。
森:放送業界にお勤めということでね、また、井上さんのお仕事もね、すごく影響を与えたんでしょうねー。私たち今度使ってくださいね。
沢:なんでここでお願いせないかん。
松:森口さんとパッケージでお願いします。
沢:実は井上サトルさんには内緒で、ちょっとオオモリさんをね、呼んでましてですね。
井:びっくりしました。
沢:まあ、感激の対面と。AMラジオの良さっていうのはこういうところにもあるなと、皆さまわかっていただけたんじゃないかなと思います。「天神ラジオパラダイス・AMラジオ今昔物語」、この番組は、福岡市中央区天神大丸パサージュ広場特設ステージから、FM福岡、CROSS FM、RKBラジオ、KBCラジオ、4局同時生放送でお送りしておりまーす。
(CM)
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(つづく)