昨日今日明日

きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

ひき逃げされ死んだ子を叱る外務省

2006年04月13日 | Weblog
 今や「文春」は新聞不信に陥っているそうな。

 他でもない、去年の暮、週刊文春が上海の日本総領事館の電信官が、中国当局のウイーン条約に違反する執拗な機密情報の提供を要求され、自殺に追いやられた事件をスクープし、中国と中国人に対する正常な認識(地球上の極悪人)を否応無しに持たされることとなったのは、命を落とされた犠牲者を悼んでも悼みきれるものではないが、彼が身を挺して「中国の危なさ」を日本人に知らしめてくれたことに頭を垂れ、ご冥福を祈ろう。

 あのスクープにより、日本国外務省がこうも不甲斐ない連中の集団であるかと絶望した国民も多かったのであるが、彼らには日本が独立国家であるという自己認識(アイデンティティー)すら無いではないかと思えるほど稚拙である。国家意識がないから、同胞が中国にさんざんコケにされた挙げ句自殺に追いやられても、「仇討ち」の一つもしてやるかなどという気は、殆ど起こらないものと見える。何とも情けないことである。超ど級エリート乳幼児集団である。これが、被占領国憲法で骨抜きにされてしまった日本人の実態である。栗山尚一氏の論文などに感銘を受ける輩は、さっさと辞表でも出したほうが「御国」のためになるのだ。

 ところで、文春の4月13日号の記事に、「上海領事自殺 慟哭の遺書 これでもシラを切る鉄面皮・中国」というのがあって、興味深く読ませてもらったのであるが、「新たな情報戦を仕掛ける中国」について、語られている。一部を抜粋してみよう。

 遺書の文面が明らかになった三月三十一日(この日に読売新聞が自殺した職員の遺書をスクープした)、中国政府は秦剛外交部報道官を通じて、日本を非難した。「元在上海日本総領事館職員の自殺事件と中国政府は無関係だ。我々の調査によると、中国政府職員が自殺者を『脅迫』したというようなことはない。自殺者が生前どのような者と接触していたかについても中国側は掌握していない。日本政府高官(安倍晋三官房長官)のいわれのない非難に憤りを表明するとともに、中日関係の雰囲気を壊すような事件を次々に起こすのをやめるよう日本側に求める」。

 このように、言語道断なことを堂々と言ってのけるのが、中国である。こんな国へ「栗山キャラクター(チャイナスクール卒業生)」が出向いて行けば、どのように「料理」されるか、中学生でも理解できるであろう。
 また、中国政府に詳しいジャーナリストの弁として、「日本側からの抗議と事実究明の申し入れを受けて、中国政府はA領事と接触ていた人物を調査、特定している。その後の処理は不明だが、調査結果は日本側に伝えている」にも拘わらず、中国側は「すべて総領事館内で起きた出来事。自殺したのも総領事館の中だった」との姿勢を貫いている。

 そして、文春の取材に対して「こんな読売の報道は、日本人が恥をかくだけだ。北京の日本人外交官は皆カラオケスナックに来ているし、お気に入りのホステスがいる。中国に愛人がいる外交官だってたくさんいる。どの国の外交官も工作を仕掛けたり、仕掛けられたりしている。(女性問題が原因で罠に嵌まる様子を)詳細に報道すれば、日本人が恥をかくだけでしょう」とある中国政府関係者は、嘯いたそうである。

 以上は、「日中友好」などという甘い認識で中国へ出かけていき「外交戦争」戦争に敗れた責任も日本側にもある。しかし、同じ轍を二度と踏まないようにすべきであろう。

 ところが、本当に糾弾しなければならないのは、外務省の愚劣さであろう。「外務省は『犯人探し』に躍起」になっているのだという。

 耳を疑うような話であるが、「何の犯人」かというと、事もあろうに、自殺したA職員の遺書を誰がリークしたのか躍起になって、探しまわっているのだという。 探し当てて、犯人を「懲戒免職」にでもするつもりなのか?。誠にもって、本末転倒の極みである。「緘口令」実は責任者の保身の手段に背いたのは誰だということらしい。ここまでくれば、政治主導で、いわゆる「害務省」を粛清するしか方法はなかろう。
 簡単なものごとに喩えれば、ひき逃げにあって殺された我子に、ひき逃げした加害者が悪いとは言わず、「お前が悪いからひき逃げされたのは当然」と言ってのける親の姿である。こんな親がこの世に存在して良い分けが無い。

 今回このA領事の遺書が読売新聞によって、スクープされたタイミングというのも、実に絶妙であった。橋本元首相が得意満面に中国に出向いて胡錦濤から、馬鹿の一つ覚えの例の訓示「首相の靖国参拝は中国の皇帝が許さぬ」を額づいて拝聴している最中であった。彼は、畏れ多くも「ハハー」と応えたのであろうか。
 ここに来て、日本民族の意地が「いとかしこき神通力」を誘発するようになったとはあり難いことである。

 この事件の顛末については「読売新聞」も熱が入っている。中国は卑劣な国であることは論を待たないが、日本サイドの事件に対する認識(外務省が国難と認識できていたか)とか、どうして首相サイドへこの重大事件が情報伝達されることなくやり過ごされたかなど、取材を通して真相に迫っている。
 この不祥事のホンボシは「二橋官房副長官」ということである。彼は、読売新聞の取材に対して、「個別の事案にはお答えできない。この問題については何度も記者会見で答えており、改めて話すつもりはない」と開き直ったという。
 後は、政治家の「政治力」に問題解決が託されているのである。

ピンボケでも勢いはある

2006年04月10日 | Weblog
A級戦犯合祀「政府が言うべきことではない」…首相 (読売新聞) - goo ニュース

 民主党の小沢一郎代表は九日、NHKなどのテレビ番組で、小泉順一郎首相の靖国神社参拝を批判、A級戦犯の分祀を求める考えを表明した。靖国参拝問題は九月の自民党総裁選でも争点になる公算が大きい。「ポスト小泉」の有力候補である安倍晋三官房長官は中韓両国に対し、強硬姿勢を取っていることから、同問題への対応や対中韓外交のありかたが総裁選だけでなく、今後、自民、民主両党間の対立軸として論議を呼ぶ可能性がある。
 小沢氏は番組で「小泉さんの参拝は駄目だ」と指摘した上で、「戦争を主導した大きな責任ある人たちは、靖国神社に本来祀られるべきではない」と強調した。
 同時に「たまたま神社の形をとっているが、戦没者の慰霊のためのものだ。戦争で亡くなった人のみ霊を祀る本来の姿に戻して、天皇も首相も堂々と行ける靖国神社にすればいい」と述べた。
 また、国民新党や無所属の田中真紀子衆議院議員らとの連携については「自民党、公明党の政権では駄目だという人たちとは、どなたでも協力する。当たり前のことだ」と前向きな姿勢を示した。(静岡新聞)

 小沢一郎氏が物申せば、一見それらしく聞こえるから不思議なものである。流石に大物であることに違いはない。しかし、やはりこの方も「自虐、贖罪史観」の酔っ払いに過ぎない。
 日本国民である以上、我が日本人の先達がどれ程の知恵や勇気を振り絞って、世界史の「主役」となるべく一心不乱に努力してきたことに「思いを致さなければならない」。

 確かに、先の大東亜戦争では判断を誤り惨敗を期したことは紛れも無い事実であるが、日本人だけが「悪者」であったと「妄信」することが、日本人自らにとって幸せで理に敵ったことなのであろうか。
 戦争などというもの相手がなければできないのであるし、相手が挑発(経済制裁=兵糧攻め)してくれば、資源のない国なら尚のこと、戦いに打って出ることが、国民としてのプライドであったしアイデンティティーであったはずである。
 当時の日本には、覇権を争うだけの甲斐性があったのである。負け犬となった現在にあっても、我が祖国の誇りとして祖先の「偉業」を讃えなければならない。

 これから、益々核兵器やあらゆる武力を前面に出し覇権を主張してくる中国などに対し、蛆虫が如き「弱腰」であってはならない。「オタオタ」するよりも、侵略されないだけの「軍事力」を持つ決断が求められている。

 話が横道に反れてしまったが、日本国の「政権」を目指すものはA級戦犯分祀などと、軽々しく口にすべきではない。糞中国に付け込まれるだけである。こんな中共の口車にのる者は「お前は馬鹿」だと罵られて、「そうです、この私めは、どうにもならない馬鹿者に御座います」と跪くに等しい。

 しかし、自公政権ではどうにもならないというのも妙に真実を言い得ていると思う。公明党の支持母体の国籍も怪しいものであろう。日本人は日本人としての「愛国心」を育むべきであるのにそれさえも教育基本法に盛り込めるか危ぶまれている。全く何処の国の人間が政権を執っているのだ、この国は?。

首を挿げ替え上滑りが止まらない?

2006年04月09日 | Weblog
小沢民主 菅氏は代表代行 鳩山幹事長ら執行部再任 (産経新聞) - goo ニュース

 今日の報道番組を見れば、「小沢民主党」が政権政党になったかと錯覚するぐらいの、続「劇場型報道」ぶりであった。
 しかし、民主党はこの間まで、やれ、メール仕掛人議員を辞職させろだの党首が辞任せよなどと無政府状態的混乱の中にあったことがまるで嘘のようである。
 
それが、党首の首が据え替わった途端、今度は「次期政権」を狙う責任野党に生まれ変われるのだから、「小沢マジック」の威力は、この世のものとも思えないほど絶大である。

 昨年の「小泉、劇場型選挙」にまんまと嵌まり込んでしまったと、甚く反省した教訓は、主役が変われば、全然別のこととして、忘れ去られてしまう運命にあるらしい。何はともあれ、マスメディアにとって、「派手な話題性」が全てである。

 大方の国民にとって、民主党の「党首」が誰になったとしても、所詮、民主党内の「コップ」の中の波風であって、注目に値するほどのことでもないのに、ニュースが他にないとは言え、よくもこんなに大騒ぎできるものだと辟易としていたのだが、何度も見たり聞いたりしている内に祭りに参加しているような気分になって来るのだから、不思議なものである。民衆を扇動するとは、きっとこのような「方法」を採るものなのだろう。

 この小沢氏の言っていることは、「外交・安全保障面については、未だ未定。とりあえず、前原前執行部と再任する」「代表代行は党首選のライバル管直人氏、幹事長は鳩山由紀夫氏」という、とりあえず「庄屋仕立て」の問答無用「挙党体制」である。

 そして、小沢一郎新代表は「小泉劇場のノウハウ」を研究したのだろう。「民主党の目標は政権奪取」と、あたかも、明日にでも政権が取れると国民に「暗示」することも忘れない。
 さすがに大政治家であるが、「民主党を一枚岩に束ねることができれば」という前提条件があることもよもやお忘れではあるまい。

 今回、小沢氏ご本人も「満を持しての登場」であろう。今後の活躍に期待したい。

春暁(songzhao漢詩を学ぶ)

2006年04月08日 | Weblog
 春暁     (作者、孟浩然)

 春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少
 chunmian bu jue xiao   chuchu wen ti niao  yelai fengyu sheng   hua luo zhi tuoxiao
 チュンミィエーン ブゥ チュエシァオ 、チューチュー ウェン ティーニャオ、イーエ・ライ フォン・ユイ ション、 ホゥアルオ チー トゥオーシャオ
(このサイトでは中国語のピンインを記そうと思っても肝心な四声を入力できないし、仮名を振ったところで、大して参考にもならないのである。しかし、今や日本中に中国人は溢れているのであるから、中国人に発音の指南をして頂きたいものである。それが、私の提唱する「勉強日中友好」である。ネイティブの中国人が発音する中国語はやはり美しいものである)

 春曉(しゅんぎょう)

 春眠暁を覚えず しょしょ啼鳥(ていちょう)を聞く やらい風雨の声 花落つるを知る多少ぞ

 訳文など必要ないくらい良く知られた漢詩であるが、念のため書いておこう。

 春は眠い季節で、夜明けも知らずうつらうつらしていると、あちこちで鳥のさえずる声が聞こえる。
 もう朝になっただろうか。そういえば、昨夜は風雨がだいぶ烈しかったようだが、花はどれくらい散ったことであろう(これは専門の解説書の一説である)。

 この「春曉」と言う漢詩は、その短さといい春先のついうっかり寝過ごしてしまう目覚めの悪さに対する思いが日本人の感性を共感させるのである。
 ここで、「夜来」という、この詩のキーポイントとなる言葉は「昨夜」「昨日」「昨夜から」と言う意味に限定されているようであるが、これを一般的に「夜来たりて」と読んでは悪いのであろうか?
 そして、この詩の最後の四文字をどう解釈すべきかが問題であると思うのは、私だけであろうか?「花落」ちるが主語であるとして、「多少」を述部だとすれば、落下がその主体としてどれほどあったか分らないなどという「言語構造」が地球上に、(日本の政治家と官僚以外の思考回路には)存在しないと思う。この「知」という動詞はいわゆる「自動詞」には成り得ないだろうというのが、私の主張である。

 従って、「花落知多少」とは「落花」することが「何」かの「程度の多少」を知らしめると解釈すべきだと私は考える。だとすれば、花が落ちることが、昨夜の春の嵐が如何ばかりのものであったか教えてくれるのであるという解釈は成り立たないのであろうか?。

 私なりの偏った解釈を試みれば:

 春の眠りというのは、いつ夜が明けたかも分らないほど眠い。たいてい、そこここで、鳥のさえずりを耳にしてようやく目が覚めるものである。昨夜は春の嵐が吹いたようであるが、花がどれくらい落ちたかで、昨夜の風雨が如何ばかりであったかを思い知る季節なのだ。

 ところで、最近では「春暁」という言葉も、東シナ海の盗掘ガス井の名称となっているのだから、日本人の「春眠暁を覚えず」などと寝ぼけてはいられないのである。
     

いい歳をして落ち着け!

2006年04月07日 | Weblog
小学校英語必修 都知事「ナンセンス」発言に文科相反論 (朝日新聞) - goo ニュース

 毎度のことであるが、日本の子供たちが外国語に馴染まないと言っては、やれ「三つ子」の時代から(外国の)言語教育を施さないから、日本人の英語能力が中国人や韓国人にも劣っていると、たいしたことでもない事柄を尤もらしく嘆き、教育に携わる側から半ばヒステリックに、「自暴自棄」に陥っている姿が垣間見えて、実に愉快な夕餉のひと時である。

 小阪文部科学相は、本当に、「日本語の特質」なるものがどのようなものであるか考えてみたことがおありなのであろうか?。行き当たりばったりの「教育界の代表」では、誠にもって現在も心もとないし、将来も暗いと言わざるを得まい。

 私の持論は「日本中心派」の一翼を担うものと自負しているのだが、「英語」も「中国語」も、その原産地はユーラシア大陸の中央部にある。いわゆる狩猟民族の言語の代表的なものである。

 その言語の特徴というのは厳密には、「名詞」と「動詞」の区別というものがないのだ。
 例えば、日本人の大好きな「勉強」という言葉は、英語なら「study」、中国語なら「学習」であるが、日本語の「勉強」という単語は日本人にとって「名詞」以外の何者でもない。あくまでも日本人にとっては、「勉強」とは脳裏に浮かぶ「観念」でしかない、だから、日本人は「勉強する」と思わない限り、「勉強」するという行動はとらない。

 然るに、中国人やアメリカ人が「学習」とか「study」という言葉が「脳裏に浮かべば、勉強という観念とともに行動することを意味するのである。この思考回路の違いを認識しないで、いたずらに「英語教育」を幼い日本人に施そうとする愚挙は、日本全体を「気違いシンドローム(症候群)」に陥れる大罪に過ぎないと思う。
 石原東京都知事と文部科学大臣の今回の「トークバトル」において、どちらに軍配が挙がるかは、「言わずと知れたこと」である。やはり日本の「文学者」として、日本語の本質を認識しておられる方に勝ち名乗りがあがるのである。

 中国や韓国を表面づら真似ようなどと、軽薄に発言すべきではない。日本語が世界に類を見ないほど高貴に完成された文法体系をもっている事を学習してから発言すべきである。

 因みに、ラテン民族などは、名詞と動詞を本能的に使い分けている。この際、中国人などは、過去、現在、未来の区別もつかない言語を操る野蛮人であると言い添えておこう。

songzhaoのボケ封じ数学講座第12講

2006年04月06日 | Weblog
 今回の副題:数学少年よ月のクレーターを目指せ!

 月の表面には、無数のクレーター(あばた)があることは誰でも知っていることであるが、それらのクレーターには、こともあろうに「数学者」の名が付けられているということは意外に知られていないと思う。

 古くはギリシャ時代の数学者から、現代に連なるそうそうたる巨匠たちが名を連ねているのであるが、私など、趣味の数学愛好家に過ぎぬ身の上なれば、どのような数学者(物理学者)の団体によって発案され、名付けられたものかそのいきさつについては、全然知らない。

 アルキメデス、ピタゴラス、パスカル、ニュートン、ケプラー、ガウス、ガロア、オイラー、ガウス、アインシュタイン等数学(物理学)界に名だたる巨匠たちが月のクレイターの名称に名を連ねている。

 数学者こそ文学者の「センチメンタリズム」を越えたユーモアというものの嗜(たしなみ)がある。彼らは、本当に、「痘痕(あばた)も笑窪(えくぼ)」という諺の本質を理解しているのである。

 ところで、現代数学に連なる系譜は、ヨーロッパにあるのだろうから(現代に繋がる算用数字の表記法を考え出したのは、アラビア人であったか?)ヨーロッパ人に名だたる数学者の多いことは当然である。数学発展史の蚊帳の外に置かれた日本では、月のクレイターとなった人物は未だ出現していないようである。だから、殊更、日本の数学界にも「クレイター・ジャパン」となる若き才能が出現することを期待せずにはいられないのである。

 話は変わるのであるが、「円の面積は?」と問われれば、即座にS=πr^2(パイ・アールの2乗)と答えることができるのであるが、ならば、その意味を説明せよと言われると、途端にシドロモドロになってしまう人が実に多いのである。

 そうなのだ。円の面積とは、その円の半径がrのとき、一辺がrの正方形のπ(3.1415・・・・)個に相当するという「近似値」に過ぎないのである。人類は一億年経っても円の面積の「真実値」を観る事はできないのだ。人類は円の面積を等価の正方形に書き換える術がないかと何度となく挑戦したが不可能という結論を出すまでに2000年を必要とした。(円積問題)

 現在では、円の面積を求める換算値S=πr^2のπは超越数(無理数のうち特殊な数)で代数式の解にはなりえない数であることが証明され、いわゆる「円積問題」も決着したのである。また、数学空間のスーパースターであるe(自然対数の底、expornential)も超越数であることが証明されている。

 何を隠そう私は、頭の悪い少年だったため、今更のように思うのであるが、円周率パイを直径の比率として教えているのであるが、半径に対する比率として教わったら、もっと早い時期に円積問題の本質を本能的に理解できたのではないかと思う。数学の専門家の意見はどんなものであろうか。

 今日も馬鹿なことを言うと、「十進法において、十という数字はなく、二進法において荷という数字はない」。というのは十進法というのは0から9までの数を用いて数を表記する方法であるから、10という数字は繰り上がった形の10ということであり、二進法をこの方法で表記してもやはり10ということになる。人を煙に巻くような話であるが真実である。次回は頭の体操として、n進法ということを話題としよう。

栄光の銅メダリスト

2006年04月05日 | Weblog
首相在職5日3位に 中曽根氏と1806日で並ぶ 外交など課題も山積 (西日本新聞) - goo ニュース

 今では、この方を奇人、変人と呼ぶ人もめっきり少なくなって、今や「戦後首相在位第三位」という記録を打ち立てた「大宰相」と呼ぶに相応しい存在となられたことに一国民として、心より「敬意」を表するものである。

 最近では、ドイツと日本の「桜の女王」に囲まれ、たいそうご満悦なお姿とか、トリノの金メダリスト荒川静香選手とイタリア・オペラ・ムーランドットを観賞したとか。実に「役得」とはいえ、世人にとっては羨ましい限りである。

 ところで、小泉総理もこの際、荒川選手の「金メダル」にあやかり「銅メダル」に満足することなく次の「銀」だの「金」だのに挑戦しようとは思わないのであろうか。その意志さえあれば、決して不可能ではない条件は揃っているのだ。「大和男」よ、欲を出されよ!。

 今日は産経新聞の記事を写し取って、「偉業」を讃えよう:

 「金」の残響

 小泉純一郎首相は三日夜、トリノ冬季五輪、女子フィギュアスケートの金メダリスト、荒川静香選手とともに、東京赤坂のサントリーホールで開かれたホールオペラ「トゥーランドット」を観賞した。「トゥーランドット」はイタリア人作曲家、プッチーニの超大作で、荒川選手が金メダルの舞を演じた曲。大のオペラ好きの首相は荒川選手と一緒に、指揮者の二コラ・ルイゾッティさんやトゥーランドット役のソプラノ、アンドレア・グルーバーさんら出演者の楽屋を訪問し、「ワンダーフル」と声を掛けていた。
 荒川選手は記者団に「トゥーランドットは昔から大好きな曲だったので、オペラを生で見られて最高です」。首相も荒川選手と同席できたことに、「幸せというか幸運だね。私にはまだ運がついているね」と、代表選びに苦悶する民主党を尻目に上機嫌だった。

 今回、荒川選手が金メダルを受賞したとき、何時もの派手なパーフォーマンスがなかったので、「どうしたんだろう?」と思っていたら、なんともいやはや、「オチ」はこういうことであったのか。

 そして、後継総裁として小泉首相が望む人物像とは:

 一月十五日夜、小泉首相は公邸に自民、公明両党の幹部を集めて会食した。与党幹部によると、首相は自分から靖国問題を切り出した。
 「中国や公明党は私の靖国参拝をあれこれ批判する。でも、見ていれば分る。必ずその矢は自分に跳ね返っていくもんなんだからね」更にこう言葉を継いだという。
 「靖国参拝を総裁選の争点にしちゃいけない。総裁選は自民党中だけの選挙だ。自民党員の大半が参拝を良しとしている。つまり、靖国に行くと言ったとたんにその人が当選するのだ」(4,4産経保守新時代)より。

 次期自民党総裁は誰か五里夢中であるが、いづれにしても中国から「独立」を守る人物でなければならない。
 

三つ子のオネダリ以下

2006年04月05日 | Weblog
靖国参拝 「やめれば首脳会談」 胡主席、訪中団に (産経新聞) - goo ニュース

 この記事を読んで、中国というのは精神分裂病を患っているいるようなものだと得心する。まるで際限のない三歳児のオネダリを執拗にしている三つ子の魂の故郷に生息する無法軍団の如きものである。彼らには地球人としての基本認識すらないのだ。
 日本は主権国家であって、中国の領土ではない、従って、総理大臣はもとより、なん人も日本国内にある靖国神社であろうが富士山であろうが自由に行くことを妨げられない。
 そんな他愛のないことも理解できない馬鹿集団であるか、或いは日本人を根本的に、馬鹿にしきっているかどちらかであると思われるが、国内の舐められきった「中国奴隷」どもが、いっそうこの流れを決定付けようとしている。そのA級戦犯が橋本龍太郎氏であろう。

 この人物は外国による内政干渉とはどのようなものかも分らずに、畏れ多くも、何の憚りもなく日本国総理大臣を務めた最低の人であることを、最近の見るに忍びない言動が証明している。もっとも、日本が中国の植民地であると信じ込んでいる御仁にとっては、内政干渉などという概念すらないのは御尤もなことだ。

 彼などは、中国に彼女の一人や二人はいるであろうし、「和製中国人」などと揶揄されて日本に滞在していることはない、さっさと本国へお帰りになれば良いのだ。

 それにしても、中国からお呼びが掛ったと得意満面で出かけて行き、首相面(づら)されては、日本人の面汚(つらよご)し以外の何者でもない。日本国民を彼の国の奴隷に貶めていると重く受け止めるべきである。「僕には小泉君にできないことができる」と得意満面である様は何とも観賞に耐え難いものがある。
 これが橋本流「ニヒリズム」の極致なのだろう。選挙で候補者から引きずり降ろされた腹癒せに、日本全体を中国に叩き売る気なのか。全くもって筋違いの中国人にも劣る配慮のなさである。

 高村正彦元外務大臣や野田毅元自治大臣も同行したとか。彼らは日本人として国益を何だと思っているのだろう。

 この橋本氏を始めとする「媚中派日本人摸どき」の口車に乗って中国進出した経済界は今こそ目を醒まして、早期撤退という王道に着くべきである。

 そして、日本国を挙げて言い返そう「こっちが用は無いのだから、首脳会談など望んではいない」と。
 

この際懲戒解雇まで踏み込め

2006年04月04日 | Weblog
君が代不起立で33人処分 3月の卒業式で都教委 (共同通信) - goo ニュース

 それほどまでに「君が代」と「日の丸」が嫌いなら、日本人の誰にも遠慮することは無い、さっさと「中国人学校」であるとか「朝鮮人学校」へ転職すればよい。例え、かの国々へ移民してくれても惜しい人材などと言うものは誰一人いないであろう。

 転職や移住することによって、日本人であることの苦痛から開放されるというなら、我々日本人側としても、違反分子は一掃されるは、転職するほうも意気揚々、サッパリすることでであろう。双方とも願ったり叶ったりではないか。

 この際、「国歌を歌いたくない」「国旗を見たくない」という類の「公務員たる教師」は即刻辞表を提出したまえ。我々日本国民は、税金で「非国民」を雇い入れる「義理」も「ゆとり」もないことは勿論であるし、我々としても日本人子息には、日本人としての教育を施さなければならない。これは、日本人としての切実たる責務である。

 静岡の人間が東京都のことを話題にするのは甚だ憚られるのであるが、この際、罰則規定を一ランク上げて、初犯で「減給」、順を追って、「停職」、最高レベルは「懲戒解雇」としたら大いに実効が上がると想うのであるが、如何なものか。
 趣味や道楽という軽い「ノリ」で、我が子供たちの面前において、国歌、国旗に対する「不敬の念」を表現されたのではたまったものではない。青少年、児童に与える悪影響は、甚大である。

 日本の首都東京が憲範を示したのであるから、各都道府県とも教職員の綱紀粛正は「まず、隗より始めよ」をモットーとすべきである。

Cuando Caliente SHIZUOKA#37

2006年04月02日 | Weblog
 トークバトル「どう考える 女系天皇」投稿特集に寄せて

 静岡新聞「どう考える 女系天皇」特集の最終回に当たり、読者の賛成、反対の意見が寄せられている。読んでみると、それぞれ傾聴に値する意見である。

 女系賛成の方々のお考えというのは現行の日本国憲法の男女平等精神に基づく価値観によっているのであろう。(その心根にあるのはフェミニズムやジェンダーフリーへの憧れといったものであろうか)。この方々は「女系容認こそ皇室尊重」であると結論付けておられているようであるが、本当にそうなのかと大いなる疑問が湧いて来るのである。

 これこそ、移り気な世論(その時々の感情)を代弁する以外の何者でもない。今、雅子さまや愛子さまにご同情したところで、「次にこの方々を非難、誹謗しない」という保障があるのか。仮に女系天皇を肯定して皇室典範を改正して、女系天皇が誕生したとしよう。これは、一点の曇りもなく、天皇家を民間に解放するということである。その結果、天皇の尊厳性は失われてしまい、同時に「日本国に天皇はいらない」という世論が形成されていくこと必定である。
 これは、大東亜戦争の敗戦に伴うGHQ 占領政策の最終目的だったはずであり、今、その崖っぷちに我が「日本国皇室」は立たされている。

 「男女平等」という淡い恋心が醸し出す「雅子さまおかわいそう世論」で安易に女系を容認すれば、次の残酷な「あのお方は尊敬に値しない」という移り気な「世論」の揺り篭となるであろう。最近の「皇室サイト」に寄せられる国民の苛立ちに目を向ければ、私でさえ、女系天皇制に対する危惧を抱く理由がお分かりいただけると思う。かのお方を誹謗するのはたいてい「女性」であるが、来るべき「女系天皇」には庶民に近づいたが故の更なる厳しい目(ねたみそねみの類)が向けられること必定である。

 一方、女系反対の立場の論客は「掛け替えない男系維持」ということに尽きるのであるが、総じてGHQによって皇籍を離脱させられた方々に皇族に復帰していただき「男系」の維持をお願いし、日本の伝統を守っていただきたいということを切に希望するのである。
 静岡市の15歳高校生が素晴らしい文章を寄稿しているので、書き留めて置く。

 私は、第一子優先は容認しますが、女系は反対です。天皇は今迄千数百年男系を守り続けてきたのに、それを現代の私たちが「柔軟」という言葉で身勝手に替えていいはずがありません。
 儀式や祭祀が時代や状況に合わせながら変わっていくのは仕方がないかも知れませんが、天皇の根底にある血筋は、これを変えてしまったら、国家の礎(いしずえ)の転覆ともいうべき大きなしっぺ返しが返ってくる気がいたします。
 また、「親から子へという直系継承が国民には親しみ易い」というご指摘もありましたが、「親しみ易さ」で議論を進めた場合、分り易いものの、現在のようなご一家の芸能人扱いが加速することになると思います。
 そう考えますと、やはり旧皇族の復帰が最も良い方法と思います。そして、GHQ(連合軍総司令部)の命令で皇籍を離脱させられた方々に、今度は日本人の召集で戻っていただけたら、伝統が守られ新たな扉が開かれると思います。(全文)

 このような考えを持つ高校生もいるのであるから、日本の将来も捨てたものではないと確信する。

 
 話は変わって、3月31日の記事に、「栗山元地位米大使ら参与に、陛下の相談役、宮内庁(共同通信)」というのがあって、その内容は:

 皇室の重要事項について、天皇陛下の相談役となる宮内庁の参与に元駐米大使の栗山尚一氏(74)と東大名誉教授の三谷太一郎氏(69)の二人が4月1日付けで就任することが決まった。現参与の中島敏次郎氏(80)と大西勝也氏(77)は3月31日付けで退任する。
 新参与の栗山氏は1954年に外務省入省。外務事務次官、外務相顧問、駐米大使などを歴任した。三谷氏は日本近代史が専門で2005年に報告書をまとめた日韓両国による「日韓歴史共同研究委員会」の日本側座長などを務めた。
 ともに最高裁判事だった中島氏と大西氏はともに2000年4月から参与を務めた。(全文)

 言いたくもないのであるが、宮内庁は外務省のゴミ箱か?。この栗山氏の目を見張るような現役時代の「実績」については、今月号の「WILL」や「諸君」誌上でつまびらかに述べられているので、そちらを読んでいただければ良いと思うのであるが、それにしても、これでは「大和田・栗山」ラインによる「宮内庁支配」ではないか。
 ここはひとつ、麻生外務大臣にコメントを求めたい。そして、こよなく日本を想う「櫻井よしこ氏や平沼赳夫氏は、この人事に対して『意見』はないのか?」とお聞きしたいものである。