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若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

アイデンティティー(IDENTITY)

2006年04月22日 | Weblog
 ところで、盛んに「アイデンティティー、アイデンティティー」と叫ばれている割にはその意味というものが、横文字ということも相まって年配の輩には周知徹底されてはいないようである。

 「アイデンティティー」とは、人格における存在証明または同一性。ある人の一貫性が時間的・空間的に成り立ち、それが他者や共同体からも認められていること。自己の存在証明。自己同一性。同一性。(広辞苑)

 またこの「アイデンティティー」という語は「アイデンティファイ(identify)」という動詞から派生した名詞である。そもそもの意味は二つのものがぴったりと重なるという意味らしい。
 私などは「学問の遅れから、重ねる」という意味の他動詞かと学生時代から恥も外聞も無く思い込んできたのだが、一義的には「重なる」という「自動詞」である。これを、他動詞的に使用するにはlet identify というような使役の動詞と複合させないと「同一化」させると表現できないのだろう。

 因みに、中国では「アイデンティティー」を「自己認識」と翻訳することに決めたらしい。彼の国の言語は日本語のような柔軟性というものが無い。従って「唯一の意味」を為政者が定義しなければ、国中が「チン・プン・カン・プン・シンドローム」に堕ちいってしまう。誠に繊細にして硬直した悠久の言語なのである。だから、彼らに「応用問題」は決して解けまい。

 なんと、この愚僧はまた余計なことを言い過ぎてしまった、「なにとぞ、南無阿弥陀仏!、南無阿弥陀仏!」。


 それでは本論に入ろう。今日の話題は平成8年4月20日付、「産経新聞」からいただこう。

 「国を愛する『態度』」を『心』に! 修正3点求める:教育基本法で民間団体など

 教育基本法改正の与党案が公表されたのを受け、自民、民主両党などでつくる教育基本法改正促進委員会、民間教育臨調、日本会議国会議員懇談会などは十九日、国会内で合同懇談会を開いた。
 各団体は政府・与党に対し、「愛国心」を「国を愛する態度を養う」と表現した与党案について、「態度」を「心」に変えるなど三点の修正を求めていくことで一致した。
 修正要求はこのほか(1)与党案から外された「宗教的情操の涵養」の明記(2)教科書検定訴訟や国旗国歌反対運動の根拠とされてきた現行法の「教育は、不当な支配に服することなく」の主語を「教育」から「教育行政」に改めるの二点。
 今後、与党国会議員に対する署名運動を行うことなども検討する。
 総会では「国を愛する態度では、子供たちに面従腹背を教えるようなもの」(自民党議員)「宗教的情操の盛り込みに反対しているのは、宗教界では『創価学会』だけ」(日本宗教連盟関係者)「『不当な支配』という文言で責め立てられ、自殺した校長がたくさんいる」(現役校長)など、与党案への注文が相次いだ。

 これに対して『創価学会』側の主張は:

 修正要求の自民議員牽制 神埼公明代表

 公明党の神埼武法代表は十九日の会見で、教育基本法改正の与党案修正を求めた十九日の日本会議国会議員懇談会などの会合に関連し、「(出席した自民党議員が)自分たちだけで責任を持って法案を通せるというのであれば、どうぞご自由に」と述べ、強く牽制した。神崎氏は「参院では公明党が加わることで(与党が)過半数を確保しており、自公の話し合いで物事を決めるのが基本だ。自民党も(与党案)実現に全力を尽くしてほしい」と強調した。

 これが現在の日本の「不幸の縮図」である。確かに「教育基本法」という「仏のお姿」はようようの呈でそれらしい形となったのであるが、その仏の「お姿」に、いざ魂を込めようという段になって、日本人が日本人に日本人の教育を施すのであるから「日本精神」を前面に出すのは当たり前だと主張するのが「自民党=日本人」の所謂(いわゆる)「アイデンティティー」に他ならない。
 
 それに対して、形だけは日本風の「仏のお姿」でよい。しかしそこに「日本精神」を込めること相成らんと主張して憚らないのが、「公明党=創価学会」の「アイデンティティー」なのである。ならば彼らの精神の寄る辺はこの日本国には「あらず」と正々堂々と主張する鉄面皮ぶりで、これは少なからず「『非日本人』のアイデンティティー」に満々としているのだ。(彼らのふるさとは一体何処にあるのだろう?)
 余分な話であるが、せっかくコンピューターなどという文明の利器を持っているなら、「フランスでカルトに指定された某教団とは何ものか?」検索してみるのも一興であろう。

 日本の国会議員は与党野党を問わず、小義をを捨てて大道につき、「日本精神を教育基本法に『アイデンティファイ』」させる使命感を持ち資力を尽くすべきときである。