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「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

有罪か、無罪か?

2018-01-25 22:21:49 | 趣味人的レビュー

フェルディナンド・フォン・シーラッハはドイツで弁護士として活躍する傍ら、ミステリ作品を執筆する作家でもある。その彼の、架空のテロ事件の裁判を描いた戯曲『テロ』の舞台を見てきた。
この『テロ』は、ドイツの参審裁判の形式に則り、観客が参審員となって被告の有罪か無罪かを投票する仕組みだ。一種の模擬裁判と考えてもらえばいいと思う。
一部ドイツの法律的な背景まで考える必要はあるが、この物語が問いかける問題は非常に普遍的なものである。

なお、これから戯曲『テロ』を読もうという人や舞台『TERROR テロ』を見に行くつもりのある人は、そこで描かれることにいかなる予断も持つべきではないので、今は以下の部分を読まないことをオススメする。最後の判断は作品の中であなた自身が読んだ/聞いたことだけに基づいて下してほしい。そうすることで、あなたは自分がどういう人間かがわかるはずだ。





さて、シーラッハが『テロ』で提示する事件とはこういうものだ。

ルフトハンザ航空の旅客機がイスラム過激派と思われるグループにハイジャックされた(犯人からそのように犯行声明がなされた)。乗員乗客は164名(作品中に明示はされていないが、この中にはハイジャック犯も含まれていると考えられる)。そして犯人は犯行声明の中で、9・11の時と同じようにハイジャックした航空機による大量殺人を示唆していた。そしてルフトハンザ機が向かう先にはサッカースタジアムがあり、その時まさに7万人の観衆を集めての国際試合が行われていた。
テロリストの犯行声明を受けて政府は、空軍のコッホ少佐ともう1人に戦闘機を緊急発進させ、ハイジャックされたルフトハンザ機の進路を妨害することや威嚇射撃を行わせたが、いずれも功を奏さず、ルフトハンザ機はサッカースタジアムに向かって高度を下げてきた。コッホの上官は国防大臣からの「ハイジャックされた機を攻撃してはならない」という命令をコッホの機ともう1機にも無線で伝えた(復唱されたので、命令は正確に伝わっていた)が、コッホは自らの判断でハイジャック機に対してミサイル攻撃を行い、これを撃墜した。そして基地に帰投し、その場で逮捕された。サッカースタジアムは無事だったが、ハイジャックされたルフトハンザ機に乗っていた164人は全員死亡が確認された。
なお、コッホ大尉にはこれまで犯罪歴や軍における服務規定違反などは一切なかった。

この事件について被告となったコッホに対する裁判に、読者/観客は参加することになる。その裁判の中では次のようなことが明らかになる。

犯行声明が出され、サッカースタジアムが航空機によるテロの標的になることがほぼ予測される事態の中、政府関係者も軍上層部もサッカースタジアムにその事実を伝え、観客を避難させる措置を取らなかった(犯行声明を受け取ってからハイジャック機が撃墜されるまでには約1時間の時間があり、スタジアムには緊急時に約15分で観客全員を避難誘導できるマニュアルが用意されていた)。
ハイジャック機に乗り合わせ犠牲となった乗客の遺族の1人は、機内から「これから乗客全員でコックピットに突入し犯人を制圧する」というショートメッセージを受け取っていた(そのショートメッセージが発信された時間は、コッホがハイジャック機に向けてミサイルを発射する直前だった。そしてコッホは自身の乗った戦闘機からはハイジャック機の中の様子は全く分からなかったと述べた)。
ドイツでは9・11を受けて法律が改正され、「(テロ攻撃などによって)大勢の人間に危害が及ぶことが予想される場合、それを避けるためには少数者を犠牲にしてもよい」という法律が制定されたが、ドイツ憲法裁判所(ドイツにおける最高裁判所)は「この法律は人間の尊厳を不可侵のものとする憲法に反する」という違憲判決を下している。コッホは軍内部での勉強会の中で、このドイツ憲法裁判所の判断を批判する論考を行なっていた。

そして検察側の論告と弁護側の最終弁論を経て観客一人ひとりが有罪か無罪かを投票し、その結果によって最後が変わる趣向だ。
朝日新聞の記事によると、これまで世界16カ国で上演され、ベルリンでは49回中無罪が43回、ロンドンでは33回全てが無罪だったのに対して、日本では朗読劇として上演された4回全てで有罪という結果になったという。

では私はどちらに票を入れたのかというと──









──私は「無罪」に票を投じた。
「迷ったか?」ということについては、自分でも驚くほど迷いはなかった。ほとんど確信に近い思いで「無罪」とした。これは上にも述べたように架空の物語に基づく一種の模擬裁判だったが、仮に現実に起こった事件で実際に参審員として参加していたとしても、やはり迷わず「無罪」を選択していたと思う。
それは私が法を絶対的規範と考えていないことを表している。法とは所詮「人の作りしもの」に過ぎず、その時々の状況に応じて恣意的に解釈、運用してかまわないというのが私の立場だ。「悪法でも法は法」という言葉があるが、どうやら私は「悪法だとわかっているなら守る必要はない」という人間のようだ(ただし、こうしたことは法治国家としての根幹が崩れるので、認められない考え方である)。

ちなみに私の見た1/24昼の回は参審員(観客)の多数決で「無罪」となったが、有罪と無罪の差は客席からどよめきが上がるほどの僅差だった。投票後にあちこちからいろいろな声が聞こえてきたが、「これは『有罪』以外はありえない」と、私とは逆の立場から確信(というか信念)を持って「有罪」とした人もいた。

さて、あなたならどちらに票を投じるだろうか?


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