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『イグアナを飼う女』とは何だったのか?

2010-12-06 23:12:45 | 趣味人的レビュー
12/4、新転位・21の新作『イグアナを飼う女-渋谷区歯科医院妹殺害事件-』を観る。本当は夏に上演されるはずだったのだが、新転位がずっと公演で使っていた中野の光座(随分前に廃業した映画館跡)が取り壊されることになり、夏はそのお別れ公演で別の演目に差し替えられたため、上演が延びたのだ。

この『イグアナを飼う女』の元になった「渋谷区歯科医院妹殺害事件」とは、2007年に渋谷で開業していた歯科医・武藤衛さん宅で、歯科大を目指して3浪中だった次男・勇貴被告(当時21歳)が短大生の妹・亜澄さん(当時20歳)を殺害し、死体をバラバラにしたというもの。亜澄さんは短大に通う傍ら、女優を目指して小劇団にも籍を置き、公演で舞台に立っていた。事件は、勇貴被告が亜澄さんから「あたしには夢があるけど、勇くんにはないね」と言われて激昂したことがキッカケだったとされる。その後、裁判では懲役17年の求刑に対して両親からの減刑の嘆願もあり、懲役7年が確定した。

なお、この事件では最初の報道がなされた直後から週刊誌や夕刊紙などで、遺体からは乳房が切り取られていたとか、遺体から剥ぎ取った下着を予備校の合宿に持っていった、などといった記事がたびたび掲載され、その過熱ぶりは警察が「そのような事実はない」という異例の会見を行うほどだった。

で、今回の『イグアナを飼う女』だが──とにかく言葉にするのが難しい。あえて言えば、「不思議なものを観た」ということになるだろうか。少なくとも今回の作品は、これまで観た転位のどの舞台とも違っていた。

これまでの転位の舞台は、一つの事件を山崎哲が独自に調べ直し、(当然フィクションを含めながらも)芝居の形で再現する中で、その事件の本質を浮かび上がらせようとする試みだった。それは旧転位・21の頃から一貫していて、もちろん『イグアナを飼う女』もその流れの中にある──と思っていた。いや、実際そうなのかもしれない。だが、この『イグアナを飼う女』はその中にあったとしても全く特異で異質な作品だ。

この作品は、亜澄さんがカケルという芸名で所属していた小劇団が物語の舞台で、彼女の四十九日に劇団員たちが稽古中に何となく、彼女の好きだったという『イザベラ』という物語を演じることになる、という話。事件のことについては、冒頭と真ん中あたりで劇団員同士の雑談のような形で触れられるだけで、全体の3/4くらいはその『イザベラ』が延々と演じられる。

この劇中劇『イザベラ』は、1999年の中国への返還直前のマカオを舞台にした香港映画が元になっているらしい。主人公は警察官でありながら麻薬の密売などでカネを稼ぎ、次々と女を買っている。途中にはさまれるナレーション(のようなもの)によると、当時のマカオにはこのような不正行為に手を染める警察官の割合が非常に高かったようだ。そして、その警察官は一人の少女の売春婦と寝るのだが、その少女は抱かれた後「アンタと寝たのは今回が初めてさ。でも、私の母親もアンタと寝たことがある」と告げるのだ。そして警察官と少女の奇妙な同居生活が始まるのだが、マカオの中国返還が迫る中、警察官は少女が自分の元を離れてマカオから出て行くように仕向ける──といったような話(だったと思うが、途中、話の筋がよくわからない箇所もあり、ちょっと自信がない)。タイトルにもなっているイザベラとは彼女の飼っていた、母親との思い出の犬の名前だ。

『シャケと軍手』では、犯人の女性の日常を徹底して描くことで、クライマックスで事件がこれまで伝えられてきたものと全く違う容貌を持って立ち上がってくる、という「離れ業」を演じて見せた転位だから、多分この劇中劇も事件と無関係に見えて、実は…という仕掛けなんだろうと思って観ていたのだが結局、最後までその意味はわからないままだった。

ただ、殺されたカケルの四十九日に彼女のことを思い出しながら劇団の仲間が即興で演じ始めた『イザベラ』は、いつしかカケルの魂を鎮めるものへと姿を変えてゆく。この作品は──正直、まだそれを正確にとらえられた気が全くしないのだが──まさにその被害者の「魂を鎮める儀式」ではなかったのだろうか。実際、転位から送られてきた『イグアナを飼う女』の公演案内のメールには、こんな一文が添えられていた。
亡くなった武藤亜澄の魂を弔うことができるよう、山崎哲の演出の下、
新転位・21の俳優たちが真剣に稽古に取り組んでおります。
そしてもう一つ、ここまで書いてきて気づいたことがある。『イグアナを飼う女』で転位が目指したものとは、事件そのものを描くことなく──いや、「事件そのものを描かない」ことで、事件そのものを観客一人ひとりの中に立ち上がらせること、だったのではないか。まるで「描かずにあらわす」という魔術的技法で描かれた長谷川等伯の『松林図屏風』のように。

奇妙な構成、そして不可解なラスト──転位の『イグアナを飼う女』は、それ自体が謎である。

なお、この『イグアナを飼う女』については田口ランディさんのブログの記事が非常に面白い。一応、ご参考まで。

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