万能の願望機〈聖杯〉を手に入れるため、7人の魔術師(マスター)と彼らによって召喚された7人の英霊(サーヴァント)によって行われる殺し合い──聖杯戦争。その第4次聖杯戦争を描いたアニメ『Fate/Zero』が終わった。
以下、『Fate/Zero』に関するネタバレあり。未見、未読の方はご注意。
それでも読み進む方は、全25話の中の2話だけにEDとして使われた『満天』とともにどうぞ。
さて…
世界各地の紛争地を渡り歩いてきた衛宮切嗣(えみや きりつぐ)が夢見たものは「恒久的な世界平和の実現と人類の救済」だった。だが、その夢は彼個人の力で成し遂げられるものではない。そして、ついに奇跡にすがるしかなくなった彼はマスターの1人となって第4次聖杯戦争に参戦する。「〈聖杯〉の力で世界を、人類を救済したい」──『Fate/Zero』とは、実は衛宮切嗣の戦いとその結末を描いた物語である。
スピ系などで、しばしば目にする言葉──「私の○○によって世界中をもっと幸せにしたい」、「私の○○で世の中の人たちに希望を与えたい」、…。そういう文言を見るたびに、私は自分の心に薄ら寒いものが起こるのを感じてしまう。そういう夢や理想がただの絵空事として夢想されているだけなら問題はない。しかし、そんなことを現実のものにしようと本気で動き出したら、その人の思い描く世界が一見どんなに素晴らしいものであったとしても、その先に待っているのは破局だけだから。
それはなぜか?
この世界は単一の原理で動いているのではないからだ。この世界は数多くの原理が互いに有機的に影響を及ぼし合いながら動いている。単一の原理で動いている場合と比べて、その複雑さは想像を絶する。仮に人の脳それ自体がこの世界と同じ程度の複雑さを持っていたとしても、人の思考は複雑なものを複雑なまま捉えることはできない。どんな哲学も思想も、複雑なものを単純化することによってしか成立し得ないのだ。
つまり、どんな哲学も思想も科学も、この世界の「ありよう」そのものを語ることはできない。それらがこの世界の「ありよう」のある一面を言い当てているとしても、それらが語るのはその一面であって、「ありよう」そのものではないのだ。
しかし人はしばしば、ある一面でしか成り立たないことを、まるで普遍の原理であるかのように錯覚し、その単一の原理にこの世界を無理矢理当てはめようとしてしまう。一神教的な原理と世界観による人類救済然(しか)り、弁証法的に導かれた社会の発展段階に従ったという共産主義という名のユートピア建設然り、…。
そして、それらを推し進めた結果、もたらされたものは、救済でもユートピアでもなく、破壊と殺戮と混乱だった。
そもそもスピ系でも「自分が救えるのは、ただ自分自身のみ」と教えているはず。
それでも人は「自分だけは違う。自分の○○だけは、間違いなく世界に幸せと希望をもたらす」と信じずにはいられないものなんだな…。
自らの願いを実現するため、両手を血に染めて聖杯戦争を勝ち上がっていく切嗣の前に立ちはだかる最大のライバルが、〈聖杯〉によって7人のマスターの1人に選ばれながら、その実、〈聖杯〉に託す願いを何も持たない虚無なる男、言峰綺礼(ことみね きれい)である。
誰よりも崇高な願いを抱いて戦ってきた者の行く手に立ちはだかったのが、何の願いも持たない者だったという、そこがこの物語のキモであり、最も皮肉なところ。そして切嗣が戦いの果て、最後に行き着いたところとは──
焼け焦げた願いが空をこじ開ける頃に
懐かしい故郷はきっと花の盛りでしょう
激しく瞬く星たちの夢の跡
(『満天』より)
そう、この物語は切嗣にとって『青い鳥』の話だったのだ。
そして物語は第5次聖杯戦争を描く『Fate/stay night』へと続いていく──。
※実際には『Fate/sn』の方が先にあり、『Fate/Zero』はその前日譚として書かれたものなんだが。
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