深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

映画『DEATH NOTE』をユング的に読み解く

2006-11-19 09:20:23 | 趣味人的レビュー

映画『DEATH NOTE』の後編、『DEATH NOTE the Last name』は予想に違わず面白かった。この作品は同名のコミックが原作だが、ここでは映画版をテクストに、この『DEATH NOTE』という物語を一般的なものとは少し違った切り口で読み解いていきたい。なお、冒頭では前編の、そして最後の部分では後編のストーリーを書かざるを得ないので、ネタバレされると困る方は、まず映画を観てからお読みいただきたい。

まず、『DEATH NOTE』をご存じない方のために、前編のストーリーのあらましを述べると…


------------8<----------8<----------

「DEATH NOTE」とは、そのノートに名前を書き込むだけで、その人を死に至らしめることができる”死を司るノート”。ただし、書き込む名前は本名でなければならず、また同姓同名の他人を誤って殺すことがないよう、殺したい対象となる相手の顔が頭に入っていなければならない。死因を書かなければ全て心臓麻痺となるが、死因を書き込むと更にその死に至るまでの詳しい経緯を、最大23日間に渡って設定することができる。そして、そのノートに一度書いたことは変更できない。

死神リュークが人間界に落とした──と言うより、投げ込んだ──この「DEATH NOTE」を、一人の天才、夜神月(やがみ らいと)が偶然拾ったところから物語が始まる。警察官僚を父に持つ月は、将来の警視総監を目指して法学を学ぶ大学生だが、多くの犯罪者が裁かれることのない現実に絶望しつつあった。その月は、自らが信じる正義を行うべく、「DEATH NOTE」を使って世界中の犯罪者の粛正を始める。

次々と犯罪者が不可解な心臓麻痺による死を遂げるのを見て、人々は何者かの意思をそこに感じ、いつしかそれを「キラ」と呼ぶようになる。キラを崇拝する者、危険視する者など意見が二分する中、日本では月の父、夜神総一郎を本部長とする「キラ捜査本部」が設置され、またICPO(国際刑事警察機構)は謎の名探偵L(エル)に捜査協力を依頼する。

Lはさまざまな証拠から、キラが日本のしかも関東地方にいること、日本の「キラ捜査本部」関係者、あるいはその身近な人間であることを突き止め、彼らを監視すべくFBI捜査官を投入する。その動きをいち早く察知した月は巧妙なやり方で彼らの顔と名前を手に入れ、全員の殺害に成功するが、逆にそれをきっかけに、Lは月に疑いの目を向けるようになる。

Lは月がキラだと証明すべくさまざまな手を打つが、月はそれを全てかわし、それどころかLに接近するために策謀を駆使し、父、総一郎に自分が「キラ捜査本部」に加わることを認めさせることに成功する。しかし、Lもまた月がそう出てくるであろうことを読んでいた。かくして、月とLとが直接対決することになる…

------------>8---------->8----------


…ということで、『DEATH NOTE』は月とLという二人の天才の戦いが物語の骨格となっている。当然、この物語の核心は月とLのどちらが、どのように、この戦いを制するのかという点にある。だがそれとは別に、登場人物のキャラクターを詳しく見ていくと、その下から「もう一つの物語」が浮上してくるのだ。

夜神月については、上の前編のストーリーの部分で述べたので、月以外の登場人物を見ていこう。

:ICPOの委託を受けて、これまで世界各国でさまざまな難事件を解決してきた名探偵。しかし、この「キラ事件」までは、警察の人間を含めて直接素顔を見せることはなかった。
その実像は、お菓子やケーキを常食とする、猫背で顔色が悪く、目に大きな隈が出ている、一見「引きこもりの青年」(だが、月の通っている大学にヒョイと現れたりもするので、いわゆる「引きこもり」とは違うようだ)。自己分析は「幼稚で負けず嫌い」。

ワタリ:Lと警察との間の接触は全て、このワタリを介して行われてきた。Lが捜査本部に直接加わった後も、Lの意向を受けて表から裏から、さまざまな工作に従事する。Lの代理人兼執事のような役割を担う、正体不明の老人。

夜神総一郎:月の父親。「キラ捜査本部」の本部長としてキラ逮捕に執念を燃やす。正義感にあつく、また息子もそう育ててきたと自負している。それだけに、Lの主張する「キラ=月」説には大きな憤りを感じている。真面目な常識人。

リューク:月が持つ「DEATH NOTE」を所有していた死神。死神界の退屈さに嫌気がさし、詳しい使い方の説明書きを添えて、「DEATH NOTE」を人間界に落とした。ノートの所有者となった月の傍らにいつもいてアドバイスなどもするが、それは月が「DEATH NOTE」を使って人間界をかき乱すのを見ているのが面白いからで、決して月の僕(しもべ)ではない。

弥海砂(あまね みさ):通称ミサミサ。アイドル・スター。過去に家族が惨殺されながら、その犯人が証拠不十分で罪に問われなかったことがトラウマとなっていたが、その犯人がキラにより処刑されたことで、キラを崇拝している。リュークとは別の死神、レムから「DEATH NOTE」をもらい、「第2のキラ」を名乗って犯罪者の処刑を行いながら、キラとの接触を図る。自らの寿命の半分と引き替えに手に入れた、その人の素顔を見ると本名がわかる「死神の目」を持つ。

ほかにもさまざまな登場人物がいるのだが、月を含めたこの5人の関係を見ていくと、面白いことがわかる。

まず月とLは、いかにもエリート然とした月と引きこもり青年風のLと、ヴィジュアルは対照的だが、この二人は本質的なところで非常によく似ている(実際、彼らもそう言っている)。だからこそ、二人はほとんど直感的に相手の本質を見抜き、お互いがお互いを最も危険な存在と認識できたのだろう。ある意味、月とLは同じものを二つの体で分け合った存在とも言える。

逆に月と総一郎の関係では、月は表面上は「立派な父を尊敬する息子」というスタンスを崩さないが、実は父親から教えられてきた「正義」に絶望し、それを捨て去ってしまっている。「法による正義」に立ち、それを守り抜こうとする総一郎は、法を捨て、自らが絶対者となって世を治めんとする月にとって、実は影(シャドウ)の関係にあるのである。

リュークは月の協力者でもあるが、実は物語をかき乱すトリック・スターそのものである。

月にとってミサミサは、Lの抹殺に当たって最大の問題である「Lの本名」を手に入れることができる「最終兵器」であると同時に、半ば場当たり的なミサミサの行動は自らを窮地に追い込みかねない「地雷」でもある。ミサミサは、冷徹で慎重極まりない月の逆の面が女の姿を持って現れた、月のアニマ(男性の中の女性性)であると同時に、トリック・スターでもあるのだ。

また、L-ワタリという関係と、月-ミサミサという関係が、ある種の対称性を成している。

…というところまで考えてきた時、私は不思議なことに気づいた。この物語には重要な存在が欠けているのだ。「賢者」という存在が。賢者とは主人公を次のステージに導く、導き手である。賢者は老人とは限らない。例えばシェイクスピアの『リア王』では、リア王にとっての賢者は三女のコーネリアだった。しかし、リアはコーネリアを親不孝者として排除してしまい、その言葉に耳を傾けることはなかった。リアの悲劇は「賢者の不在」が原因だったのである。この『DEATH NOTE』前編は「賢者の不在」の物語だった。つまり、『DEATH NOTE』は「誰が最後に勝ったのか」という物語の裏に、「誰が実は賢者だったのか」という、もう一つの物語が埋め込まれているのだ

…というわけで、ここからは後編の(途中の展開はザックリ飛ばして、クライマックスの部分だけだが)ストーリーを書かなければならない。これから映画を見ようという方は、ここでサヨナラだ。しかし、こういう切り口で『DEATH NOTE』を観ると、また別の面白さも味わえると思う。

そうでない方は、続きをどうぞ。


------------8<----------8<----------

捜査本部の一連の捜査の過程で、「DEATH NOTE」と死神の存在は捜査本部のメンバの知るところとなる。しかし、それさえも月のL抹殺のために打った布石の一つだった。そして月は策略を駆使し、Lとワタリの本名を「DEATH NOTE」に書かせることに成功し、二人を殺害する。そして月は自らの完全勝利を確信し、最後の一手を打つ。それは、自分の「DEATH NOTE」を使って父親を自分のところに来させ、殺害することだった。

「DEATH NOTE」の記述に従ってやって来た総一郎に、月は自分がキラであることを高らかに宣言し、父の死を待つ。しかし「DEATH NOTE」で指定した時間が来ても父は死なない。動揺する月の前に、死んだはずのLが現れる。Lは月に先んじて、もう1冊の「DEATH NOTE」に、既に自分が23日後に死亡すると書き込んでいたのだ。「DEATH NOTE」は最初に書き込まれた事項が優先される(「そのノートに一度書いたことは変更できない」というノートのルールにより)。こうして、Lは自分の命を捨てて月がキラであることを暴いたのである。また、月が総一郎の名前と死の状況を書いた「DEATH NOTE」は、死ぬ前にワタリがすり替えておいたフェイクだった。

月はLそして父、総一郎に向かって、自分のしてきたことは正義であり、自分は新世界の神になるのだと言い放つ。しかし総一郎はその言葉を認めない。「法律は確かに不完全だ。それは人間自身が不完全だからだ。しかし、法律はその人間が何千年もかけて積み上げてきた知恵の結晶なのだ。お前がしてきたことは、断じて正義ではない」。ついに月はリュークに、ここにいる月以外の全員の名前を「DEATH NOTE」に書いて殺すよう命じる。「あいよ~」と応じたリュークが書いた名前は、「夜神月」だった。「なぜ?」と詰め寄る月にリュークは冷たく、「俺なんかに頼るようになっちゃあ、お前も終わりだな、月」。そして暗転。

月亡き後、Lは「お前はそれを使わないのか?」と不満そうなリュークを尻目に、「DEATH NOTE」を全て焼却処分することを決める。そしてLの最期の日、普段と全く変わりなく菓子をパクつくLの傍らには総一郎がいた。死を目前にしたLに「こんなことになって、すまなかった」と頭を下げる総一郎。しかしLは静かに「私は親というものを知りません。しかし夜神さん、あなたは立派な父親だと感じました」。そして「もう時間です。一人にさせてもらえませんか」と言うLに、総一郎は敬礼して退出する。Lの食べていた板チョコがポトリと落ち、その手は死んだワタリの写真の上で動かない。

そして映画は、生き残った登場人物の1年後を描いて終わるのだが、それは省略。

------------>8---------->8----------


この後編で私が最も不思議だったのは、Lが手に入れた「DEATH NOTE」の力を(自分以外の人間に対して)行使することをしなかったことだ。この文章を私が書くことになった動機は、そこにある。

前編でLはキラの捜査に加わるが、この捜査は彼にとって、実は(おそらく、彼がこれまで関わってきた全ての事件がそうであったように)ゲームでしかなかった。そして上でも書いたように、この二人の本質は非常によく似ている。月亡き今、Lは(残り少ない命とはいえ)「DEATH NOTE」の力で、月が望んで果たせなかった「新世界の神」となることができたはずだ。では何故そうしなかったのか?

おそらくLは賢者と出会い、次のステージへと上がることができたのだ。そこに、この物語の隠された問い──誰が賢者だったのか──への答がある。この物語の隠された賢者は、法の不完全さと限界を誰よりもひしひしと感じながら、それでも「法の下での正義」に断固として踏みとどまろうとした、夜神総一郎である。総一郎と出会い、一緒に過ごすことで、Lにとってこの事件は単なる推理ゲームではなくなったのだと思う。だからこそ、最後に自分の命を諦めるという禁じ手をも使うことができたのだ。

映画『DEATH NOTE』とは、父、総一郎という賢者を見失い、自らが賢者となろうとした月と、本当の両親は知らないが、父とも思える賢者を見出すことになるLとの、出会いと戦いの物語だったのである。だから(このような形とは言え)Lが勝利することは、ある意味、必然だったのかもしれない。

…というわけで、長い文章をここまでお読みくださった方には、本当に感謝します。ありがとうございました


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 腎臓移植問題に思うこと | トップ | 絡まり合う如く »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

趣味人的レビュー」カテゴリの最新記事