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「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

心身・時空・曼荼羅図 第3部

2009-10-05 17:14:03 | 心身宇宙論
本当は第3部を書く予定はなかったのだが、2つの理由から急遽、第3部を書こうと思い立った(だから、以下は一応、第2部の続きということで…)。

理由の1つは湯本泰雄の『身体論』(講談社学術文庫刊)を読み進めていて、非常に印象的な箇所に出合ったことから。それを以下に紹介する。

修行の過程における人格の向上、あるいは宗教経験の深化を段階的に区分する考え方は、もともとインドの大乗仏教につよくみられる傾向である。代表的な例としては、菩薩の五十二位の説や華厳経に吸収された『十二地経』をあげることができよう。(中略)
 『十二地経』は修行の過程を十段階に分けている。(中略)荒牧氏はこの十地経の構成を「菩薩道の現象学」とよばれている。それは凡夫の「迷いの共同体」のあり方を観察しつつ「悟りの共同体」へと進み、また「悟りの共同体」から「迷いの共同体」へと往還しつつ、いわばラセン状に次第に高まっていき、最後は究極の高みから「迷いの共同体」即「悟りの共同体」という最高の悟りの境地に至るのである。これはたしかに、自然的意識から始まって絶対知に至るヘーゲルの『精神現象学』の構成を連想させる。しかしそれはヘーゲルのように日常的意識や科学の歴史を舞台にした現象学ではなくて、内なる心の世界を登高してゆく「内向的実践」の現象学である。ヘーゲルの弁証法が自己の外なる世界のすべての現象を論理と観念に還元してゆく水平的な現象学だとすれば、「菩薩道の現象学」は自己の内なる世界を垂直的に地上から天空へと上ってゆく幻想の現象学であり、弁証法である。いやこれを「幻想」とよぶのは論理的に正しくない。インド的思惟にとっては、現実の世界こそ「幻想(マーヤ)」である。逆に、自己の心の内から開示されてくる世界の姿こそ真の現実なのである。それは現実をこえた高次の現実である。

ここには西洋的な思索のあり方と東洋的なそれとの本質的な差異が、極めて明確に述べられている。仏教という「宗教」とヘーゲルの「哲学」を同じレベルで論じていいのか、という問題は残るものの、この差は宗教と哲学の差なのか、あるいは仏教とキリスト教の世界観の差なのか、と考えると非常に興味深いものがある。

また『身体論』には曼荼羅についての記述もある。

(前略)ところで、密教的解釈によれば、胎蔵界と金剛界は女性的原理と男性的原理の関係を示すものである。前者は本体ないし本質であり、後者は作用ないし現象である。

これまで心身、時空という対比の中で胎蔵界と金剛界の両界曼荼羅を考えてきたが、更に男女という属性を取り入れてみると、また別の様相が見えてきた。
金剛界曼荼羅は男の属性を持つ仏たちによって作られながら、全体の属性は女であり、胎蔵界曼荼羅は逆に女の属性を持つ仏たちによって作られながら、全体の属性は男になっている(注1)。男性の中の女性性、女性の中の男性性──それはユングの言うアニマ・アニムス論そのものではないか。

(前略)マンダラは修行や修法のために用いた図像であるが、その心理学的意味について、ユングは次のように説明している。彼は一九三八年にダージリン近郊のラマ僧院で、その僧院長からマンダラ(チベット語はキルコール khilkor)についての説明を聞いた。僧院長によると、マンダラとは「ミグパ」dmigs-paすなわち精神による像であって、熟達したラマ僧のみが「想像(イマジネーション)」の力によってこれを形成することができる。マンダラには一つとして同じものはなく、個々人によって異なる。また僧院に掲げられているようなマンダラは大した意味を持たない。なぜならそれは、内的な像の外的な表現にすぎないからである。真のマンダラはある思想をみずから探し出さねばならない場合などに、想像力よって徐々に心の内に形づくられるものである。要するにマンダラは、修行者が瞑想において分け入っていく内面的世界の見取り図の意味をもつものといってもよいであろう。


(注1)ここで言う仏の男女の属性とは、あくまでキネシオロジー的に調べた結果としての属性であって、実際に描かれている仏像の性別のことではない。


第3部を書くことにした理由のもう1つは、上野の森美術館に『聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝』(注2)を見に行ってわかったことがあったためである。

(注2)この展覧会は、チベットに対する中国政府のある種のプロパガンダという意味合いもあるようだが、それについてはこの文章の論点とズレるので触れない。この件について詳しく知りたい方は、例えば「聖地チベット ~ポタラ宮と天空の至宝~」展に関して日本の皆様へのお願いを見てください。

展示されたチベット密教の仏像や曼荼羅(上図)を、これまでと同じようにキネシオロジー的に心-時、身-空という属性に注目して調べてみると、日本のそれとは異なり、1つの仏像や曼荼羅の中に心-時、身-空という属性を持ったアイテムを均等に配置することで、全体としての属性をニュートラルなものにしていることがわかったのだ。

『周易』繋辞上伝には「易有太極 是生兩儀 兩儀生四象 四象生八卦 八卦定吉凶 吉凶生大業」(易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず)という記述がある。ここで言う両儀とは、天地あるいは陰陽といった二極一対のものを意味する。そうしてみると、日本の曼荼羅が属性を反転させるための装置であるのに対し、チベット密教の仏像や曼荼羅はこの両儀を太極に戻すための装置であるように思われる。

ここで第2部の中で述べた東寺の講堂に作られた立体曼荼羅の話に戻ると、胎蔵界に対応する五大菩薩、金剛界に対応する五大明王の間に、属性を全く持たない五智如来が置かれていることの意味が見えてくるような気がする。五智如来とは、両儀としての五大菩薩、五大明王に対する太極を表しているのではないだろうか(ただ、その太極の作り方はチベットのそれとは異なり、最初から属性を持たないゼロのものを使ってゼロを作り出しているのだが)。

太極→両儀→四象→…という流れが天地創造の方向を表しているとするなら、両儀→太極は天地創造を逆に向かう流れである。そして両儀を太極に戻すとは、属性を持たない地点への道筋を示す。その地点──ゼロの場──を仮にゼロ・ポイント・フィールドと呼ぶなら──

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