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象徴機能と身体-幻想的身体論 3

2023-03-27 20:43:50 | 症例から考える

竹田青嗣の『新・哲学入門』をネタ本に、竹田が展開する身体論について考える3回目(以下、太字は本書からの引用)。

竹田は人間の身体は、単なる感覚器官なのではなく世界感受の綜合的な能力、すなわち対象と世界を、意味、価値、エロス性的総体として感受する一つの「能(あた)う(Ich Kann)にほかならない。と述べる。これは「2」で引用した幻想的身体は、人間的関係世界を、諸対象の価値性、エロス性として感受する人間固有の身体性であるを言い換えたものだが、それを補強するものとしてショーペンハウアーの「身体」についての現象学的な洞察を引く。

《身体というこの唯一の客観は本質的に他のあらゆる客観とは異なっていて、あらゆる客観のなかでこれのみが意志であると同時に表象である、ということである。これに反し他の客観は単なる表象であり、いいかえれば単なる幻影でしかない。したがって身体こそ世界中でただ一つの現実的な個体である。すなわち身体こそただ一つの意志の表象であり、かつ主観にとってのただ一つの直接の客観なのである》(『意志と表象としての世界』西尾幹二訳、p253)。

その上で、竹田はこう述べている。この部分は個人的に、読んでいてゾクゾクするものがある。

「身体」についてのショーペンハウアーの洞察は、身体がわれわれの意識にどのように現われ出るかではなく、むしろ、われわれが自己のどのような経験を「身体」と呼んでいるか、という仕方で問われていることが分かる。

 

さて、「1」の最後で生き物には事物的因果の連関を超え出たある「不可視なもの」、「空白」の領域である「心的なもの」が存在する、ということを述べた。そこは事実-事物的因果系列として記述することが不可能な領域で、この記述不可能性は原理的なものだ、と。

治療(施術)の対象が物理的身体である間は、事物-事実的(=解剖-生理的)因果系列によって原因を導き出して対処すればいい。だが対象が幻想的身体に変わった途端、その方法論は使えなくなる。なぜなら、その方法論では事物的因果の連関を超え出たある「不可視なもの」、「空白」の領域にアクセスすることができないからだ。

ここで改めて幻想的身体の構造を考えてみる。「2」で述べたように、幻想的身体とはエロス的力動が生み出す情動による欲望によって分節された「内的世界」を、他者と言語ゲームを通じて交換し合う、一種の関係的身体のことだった。ゆえに幻想的身体とは、さまざまな他者との関係性の中で構築された価値(あるいは意味)の審級(=階層構造)にほかならない。

私は以前「象徴体系を使った治療システム 4」の中で「象徴体系とは重層化された意味の体系である」ということを述べた(そのよく知られた例に、五行における「五行色体表」や、カバラの「生命の木」による「万物照応表」などがある)。それと上の論考から、幻想的身体の構造と象徴体系の構造との相同性が浮かび上がってくる。すなわち、象徴体系とは人の幻想的身体のある種の「写し」なのではないか。

そして幻想的身体が病むとは、その内的な価値/意味審級に何らかの問題が生じている、ということである。ならば、それに対して同じ構造を持った象徴体系が使えるでは?と考えるのは自然なことだろう。幻想的身体の「病」とそれを「象徴機能」によって治療することを、竹田は次のように書いている。

*レヴィ=ストロースがいう「象徴機能」とは、ラカンの象徴秩序とは無関係であって、以下のような事態をさす。症状の多様な現出についての「言葉にできない」原因が何らかの形で「象徴的」に説明され、またそれに応じた実践的治療が試みられること、その象徴的治療行為が、共同的に承認され信憑されることで、一定の治療効果が現れること。
さまざまな心理学説とその治療が、その理説上の対立にもかかわらず、どれも一定の治療効果を上げているという広範に見られる事態は、この象徴機能の構造の本質をよく示唆する。
現代医学は、優れた実践的技術によって「病」の原因を身体-事物的因果連関の不調として突き止め、事物的な連関の操作においてこれを治療する。しかし心的な障碍においてはこの方法は適応不可能である。われわれはあの「不可視域」の前後、そのインプットとアウトプットについてはどこまでも因果的連関を把握できるが、「不可視域」の内実は原理的にただ推論することしかできない。そしてこの推論は必然的に多様なものとなる。
精神分析であれ、シャーマン的治療であれ、そこで可能なのは「不可視域」で生じている事態についての何らかの仮説的説明(=物語)を立て、この仮説に対応した治療行為を「象徴的に」遂行することだけである。つまり、こうした心理療法において問題なのは、そこで立てられる「不可視域」の内部についての仮説の正しさではなく、むしろ、治療の実践プロセスにおける象徴的構造なのである。

ここで言う「仮説的説明(=物語)」のためのツールに象徴体系を持って来れば、これは「象徴体系を用いた幻想的身体の治療」に他ならない。

ここで竹田が述べたことはカール・ユングや、「プロセス指向心理学」の創始者であるアーノルド・ミンデルの主張とも合致する。哲学的考察と医学的考察とが交わる地点に、幻想的身体と象徴体系はあるのだ。

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