このお題については第4部で終わりにするつもりだったんだけれど、2/28に英国下院の科学技術委員会が、ホメオパシーはプラシーボ(プラセボ)だとしてNHS(国営医療保険制度)から除外すべきという結論を出したニュース(注1)を知ったりしたこともあって、続きを書くことにした次第。
(注1)この件については、ブログ[today's news from UK+]に詳しく解説されているので、そちらを見てもらいたい。タイトルは英語だが、中身は日本語だ。
『代替医療のトリック』(新潮社)の中で、著者らは治療法の効果を科学的に検証する最良の方法として二重盲検法を挙げている。二重盲検法は施術者/医師と患者を完全に切り離した形で行うので、それによってその治療法自体の純粋な効果が調べられる、という考え方に基づくものだが、鍼灸にしろカイロプラクティックにしろホメオパシーにしろハーブ療法にしろキネシオロジーにしろクラニオセイクラル・ワークにしろ、そしてもちろん西洋医学的な治療にしろ、「治療法そのものの持つ純粋な効果」などというものが果たして存在するのだろうか?
「○○療法は××病に有効ですか?」という質問がよくあるが、こういう問いは無意味だと私は常々思っている。同じ○○療法を使っていても、施術者の技量にはバラツキがある。「××病はA先生なら治せるが、B先生にはムリだ」といったことはよくあること。また、同じ××病の患者でもその程度はさまざまだから、「A先生の治療は××病のCさんには有効だが、同じ××病でもDさんには有効でない」といったことも起こる。
「これだから代替医療は…(苦笑)」などと言うなかれ。同じことは、もちろん西洋医のドクターでも言えることだからだ。実際、上の「」内のA先生、B先生を西洋医のドクターのことだと読み替えても全く矛盾がないことからも、それがわかる。
つまり、代替医療であれ通常医療であれ、治療効果というものは、治療法そのものに帰属するのではなく、それを使う施術者/医師とそれを受ける患者というものの存在、そしてその両者の関係性といったファクターの中にこそある。二重盲検法とは、そうしたファクターを可能な限り排除し、システムを思い切り単純化した形で効果を検証するもの(注2)だが、だとすると二重盲検法によって導き出される「治療効果」とは一体何だろう? プラシーボ部分を除いた純粋な治療による効果? しかし、治療とは施術者/医師と患者との関係性の中で成立するものなのだから、その中からプラシーボ部分だけを選択的に除外できるなどと考えること自体、そもそも幻想なのではないか?
(注2)対象とする集団を大きくすることで、個々の施術者/医師、そして患者の持つ特異性がもたらす影響は無視できるほど小さくなり、「平均的な」施術者/医師による「平均的な」患者に対する治療の結果が炙り出されると考えるワケだ。しかし、そんな「平均的な」人間など、どこにも存在しはしない。
ここで、第4部でも引用した『明日をどこまで計算できるか?』(早川書房刊)の次の部分も参考にして、ジックリ考えてみる必要がありそうだ。
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もう1つ、寺山修司による舞台劇『盲人書簡』を観て気づいたことがある。
陰陽論──あらゆるものには陰と陽という2つの側面があり、そのバランスこそが大切という、古代中国に源を持つ思想だ。光あるところには影がある。そして光が強まれば、それだけ影もまた濃くなる。光が光として存在するためには、その影を担うものもまた必要になる。そうした世の理(ことわり)を全く理解せず、「全部が光になれば万事良し」と叫ぶ著者らが、私には何だかひどく幼なく──別の言い方をすれば、幼稚に──思えてしまったのだ。
産業革命以降、西欧文明が牽引してきたこの世界が、今なぜ行き止まりに入ってしまったのかも、そこから見えてくるような気がする(と、いきなり話が大きくなる)。ここまでの100年あまり、世界は闇の部分を排除することばかりやりすぎてしまったのかもしれない。陽極まれば陰に転ず──その理の通り、世の中は行き止まりに入ったのではなく、過剰になりすぎた陽を是正し正常な陰陽のバランスを取り戻す方向に転じただけなのかもしれない。だとすれば重要なのは、これまでのように闇=陰を排除し過剰に光=陽ばかり求めるのではなく、全体としての陰陽のバランスが取れるようにすることなのだ。
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最後に、この『代替医療のトリック』についての朝日新聞3/21(日)の書評を紹介しよう。評者は千葉大教授で社会学者の広井良典氏。氏は前半でこの本の概要を紹介した後、このように書いている。
(注1)この件については、ブログ[today's news from UK+]に詳しく解説されているので、そちらを見てもらいたい。タイトルは英語だが、中身は日本語だ。
『代替医療のトリック』(新潮社)の中で、著者らは治療法の効果を科学的に検証する最良の方法として二重盲検法を挙げている。二重盲検法は施術者/医師と患者を完全に切り離した形で行うので、それによってその治療法自体の純粋な効果が調べられる、という考え方に基づくものだが、鍼灸にしろカイロプラクティックにしろホメオパシーにしろハーブ療法にしろキネシオロジーにしろクラニオセイクラル・ワークにしろ、そしてもちろん西洋医学的な治療にしろ、「治療法そのものの持つ純粋な効果」などというものが果たして存在するのだろうか?
「○○療法は××病に有効ですか?」という質問がよくあるが、こういう問いは無意味だと私は常々思っている。同じ○○療法を使っていても、施術者の技量にはバラツキがある。「××病はA先生なら治せるが、B先生にはムリだ」といったことはよくあること。また、同じ××病の患者でもその程度はさまざまだから、「A先生の治療は××病のCさんには有効だが、同じ××病でもDさんには有効でない」といったことも起こる。
「これだから代替医療は…(苦笑)」などと言うなかれ。同じことは、もちろん西洋医のドクターでも言えることだからだ。実際、上の「」内のA先生、B先生を西洋医のドクターのことだと読み替えても全く矛盾がないことからも、それがわかる。
つまり、代替医療であれ通常医療であれ、治療効果というものは、治療法そのものに帰属するのではなく、それを使う施術者/医師とそれを受ける患者というものの存在、そしてその両者の関係性といったファクターの中にこそある。二重盲検法とは、そうしたファクターを可能な限り排除し、システムを思い切り単純化した形で効果を検証するもの(注2)だが、だとすると二重盲検法によって導き出される「治療効果」とは一体何だろう? プラシーボ部分を除いた純粋な治療による効果? しかし、治療とは施術者/医師と患者との関係性の中で成立するものなのだから、その中からプラシーボ部分だけを選択的に除外できるなどと考えること自体、そもそも幻想なのではないか?
(注2)対象とする集団を大きくすることで、個々の施術者/医師、そして患者の持つ特異性がもたらす影響は無視できるほど小さくなり、「平均的な」施術者/医師による「平均的な」患者に対する治療の結果が炙り出されると考えるワケだ。しかし、そんな「平均的な」人間など、どこにも存在しはしない。
ここで、第4部でも引用した『明日をどこまで計算できるか?』(早川書房刊)の次の部分も参考にして、ジックリ考えてみる必要がありそうだ。
●単純なモデルでも、予測を行うのに使えることがある。その場合の予測は通常、正確な予測としてではなく、個人的な見解や注意書きといった形になる。
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もう1つ、寺山修司による舞台劇『盲人書簡』を観て気づいたことがある。
われわれがプラセボにもとづく代替医療は用いるべきではないと考える主な理由のひとつは、医師と患者の関係が、嘘のない誠実なものであってほしいと思うからだ。と延べ、
「医療の中には、科学的ではない別の種類のものがある」という考えは、私たちを暗黒時代へと後戻りさせる。として、「闇の部分を排除せよ。あらゆる治療法に科学の光を!」と主張する『代替医療のトリック』の著者らの意見は一見、真っ当なものに思える。しかし、それを陰陽論的に考えてみたらどうだろう?
陰陽論──あらゆるものには陰と陽という2つの側面があり、そのバランスこそが大切という、古代中国に源を持つ思想だ。光あるところには影がある。そして光が強まれば、それだけ影もまた濃くなる。光が光として存在するためには、その影を担うものもまた必要になる。そうした世の理(ことわり)を全く理解せず、「全部が光になれば万事良し」と叫ぶ著者らが、私には何だかひどく幼なく──別の言い方をすれば、幼稚に──思えてしまったのだ。
産業革命以降、西欧文明が牽引してきたこの世界が、今なぜ行き止まりに入ってしまったのかも、そこから見えてくるような気がする(と、いきなり話が大きくなる)。ここまでの100年あまり、世界は闇の部分を排除することばかりやりすぎてしまったのかもしれない。陽極まれば陰に転ず──その理の通り、世の中は行き止まりに入ったのではなく、過剰になりすぎた陽を是正し正常な陰陽のバランスを取り戻す方向に転じただけなのかもしれない。だとすれば重要なのは、これまでのように闇=陰を排除し過剰に光=陽ばかり求めるのではなく、全体としての陰陽のバランスが取れるようにすることなのだ。
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最後に、この『代替医療のトリック』についての朝日新聞3/21(日)の書評を紹介しよう。評者は千葉大教授で社会学者の広井良典氏。氏は前半でこの本の概要を紹介した後、このように書いている。
著者らの主張に一定以上の妥当性があることを確認した上で、現代医療論として読む場合、本書の議論にはやや表層的な物足りなさが残る。第一に「根拠に基づく医療」の考え方は医療一般の領域でも比較的最近のものであり、有効性が厳密に確証されていないものが多い点は通常医療にも広く当てはまる。第二に、心身相関や慢性疾患の発生メカニズムを考えた場合、著者らのいうような検証方法は限界を有するのではないか。本書を契機に議論すべきは、そもそも「病気」とは何か、「科学」とは、「治療」とはといった、現代医療をめぐる基本的な問いの掘り下げだろう。
この部分が気になったので一言。
科学は再現性が担保されないため、統計処理による確率傾向で有効性を担保しました。
厳密な再現性は前提条件を完全に再現できないためあり得ないのです。
やっとレスが書けたのですが、あまりにも長くなってしまったため、「第6部」という新たな記事としてupしました。続きはそちらで。
まず、「医療行為への根本的否定」や「医療全体を侮辱している」といった発言は、不適切でした。
これは、私が勝手にsokyudo氏の「治療効果というものは、治療法そのものに帰属するのではなく、それを使う施術者/医師とそれを受ける患者というものの存在、そしてその両者の関係性といったファクターの中にこそある。」とおっしゃられた発言を「治療効果は患者との医者と関係によってのみ発生し、治療行為では発生しない」と誤った解釈をしたための発言でした。
私の誤解から、一方的で侮辱的な発言をしてしまったことに対し、深く謝罪したいと思います。
もはや私に発言の権利などないのかもしれませんが、それでもsokyudo氏との対話の中で、何が隔たりとなっているのか、それが見えたような気がしますので、それについて書かせてください。
まず、(代替医療と対比しての)通常医療は、治療効果が治療行為によってのみ発生するとは考えていません。sokyudo氏のおっしゃる通り、治療効果には様々な要因が存在します。
しかし、その要因のすべては治療効果が一様に等しくはありません。
とても強い治療効果を持つ要因や、回復率を引き上げる程度の要因、あるいは理論上は治療効果があってもほとんど観測不能な要因もあるでしょう。
治療行為とは本質的にはこれらのうち可能な限り強い治療効果を持つ要因を人為的に引き起こすことです。
しかし、ある治療によって治ったように見えるとき、そこには様々な要因が存在しています。(sokyudo氏のおっしゃる通り)
そこで、それらの中からより確実で強力な治療効果を持つ要因を確かめるべく(あるいは、理論上効果のある要因が本当に強力な効果を持つか確かめるべく)二重検盲法、及び統計をもちいるのです。
その結果現れた「効果」は、確かに100%その治療の効果ではないかもしれません。
しかし、それが「確からしい」と言える程度に高い確率であれば、私たちは惜しみなくそれを治療に投入します。
では、「確からしい」と言うためには、何が必要なのでしょうか?それへの回答の一つが、二重検盲法です。
二重検盲法においてはあらかじめ治療行為以外の要因を可能な限り取り除くか、平均化してしまいます。
たとえば患者が「治療したから治るはずだ」と考えることの影響や、医者の「治療したから、治るだろう」という考えによって生まれる態度の変化による影響は、医者にも患者にも偽の治療か真の治療かわからない状態にすることで取り除きます。
無論、これまでの人生や家庭環境など、完全に省くことができない要因も存在します。ですから、そういった要因は可能な限り多くの、そういった要因がバラバラの人を集めて、統計に対する影響を小さくします。
そのようにして可能な限り治療行為以外の影響を省いた状態で(ただし、今回はブログへの書き込みという都合上多くの過程を省いています)治療によってどんな影響が出たか確かめることで、治療効果を可能な限り純粋に確かめようとします。
ここまでに書かれていることで、しかしsokyudo氏は治療効果のみが検出されているとは思えないのでしょう。
…実のところ、私も思えません。
しかし私は、「それ以外の要因は、治療行為という要因の影響をひっくり返せないほど小さな影響にされた状態だろう」とは思います。
ゆえに、治療効果の有無を議論できると考えるのです。おそらくは「Trick or treatment?」を執筆したサイモン・シン氏も賛同してくれるでしょう。
おそらく私とsokyudo氏が噛み合わないのは、この「治療行為という要因の影響をひっくり返せないほど小さな影響にされた状態」というものの存在を信じるか否か?なのかもしれません。
有機創世派の一員と揶揄されるであろう私には、上の文章のような状況を作るということに無理を感じないのですが、おそらくsokyudo氏にとっては違うのでしょう。
なお、通常医療の立場をとるならば、言葉をかけるだけで治るケースは、存在しないとは考えません。
いわゆる心因性の病については継続的なカウンセリングや周囲の励ましで治ることは十分考えられます。
それもまた、通常医療の範疇です。通常医療は、人の心を無視しているわけではないことをご理解ください。
…またも大変迷惑であろう長文となってしまいました。私の文才のなさ故でしょう。もし語り飽きたら、いつでもコメント禁止にしていただいてかまいません。
>もし荒らしだとお考えになられたなら、削除してしまってもかまいません。
いただいたコメは、有機創世派さんの信念に基づいた真摯な意見と思っていますので、もとより荒らしなどとは考えていません。むしろ、こうしたコメをいただけたことをうれしく思っています。
さて、では本題にまいりましょうか。
我々の医療に対する基本的な考え方の違い、ということとは別に(あるいは、そここそが違いの核になる部分なのでしょうか?)私は治療行為そのものを否定したり、無意味だなどと言うつもりは一切ありません。ただ「治療結果から治療行為に関わる部分だけを純粋抽出することはできない」と言っているだけです。それがなぜ「医療行為への根本的否定」になるのかが逆に理解できません。
治療結果とは(それがいい結果であれ悪い結果であれ)外的・内的なさまざまな要因が複雑に絡み合っているものではないでしょうか。なぜなら、人はそれ自体が自律的に動く「閉じた」存在であると同時に、外部のさまざまなものの影響と無関係ではいられない「開いた」存在でもあるからです。
そういう意味では私の書き方が悪かったことは認めます。私は本文の中で「治療とは施術者/医師と患者との関係性の中で成立するもの」と書いていたのでしたね。そこは「治療とは、患者とその人自身を取り巻く内的・外的な要因との関係性の中で成立するもの」と書くべきだったかもしれません。いずれにせよ、「治療行為とは治療結果を構成する紛れもない要素の1つであると同時に、要素の1つにすぎない」のです。
現実に、通常の意味での治療行為による結果とは別の形(例えば夫婦関係が改善した、仕事を変えたなど)で治ってしまう人はいるし、私も治療家と称して人を診ている中でそうしたケースには何度か遭遇しています。が、そういう人がいることが 医療行為そのものの根本的否定になるのでしょうか? あるいは、患者を外部との接触ができないように密室にでも閉じこめて、医療スタッフには(患者と信頼関係ができたことが効果につながった、などと言われないように)患者とは常に敵対関係にあるように指示し、そんな状態でなお患者が治ったら、それが医療の勝利ですか?
人は誰か(それは別に権威者である必要はありません)の一言で治ってしまうこともあるし、通常の意味での治療行為の結果治ることもあります。誰かの一言がキッカケで治ったとしても、その裏にはそれまで受けた治療が何らかの形で作用していることもあるでしょう。治療行為の結果治ったとしても、その裏には誰かの一言を心の支えに頑張ったということがあるかもしれません。そうした通常は表に出ない要素も含めて見た時、治療結果から治療行為による部分だけを本当に純粋抽出できるのでしょうか? 少なくとも私にはできる気がしません。
一応そんなところですが、これだけ書いても、何だか書ききった感じが全くしません。あるいは私も有機創世派さんの意図するところを十分理解できていないのかもしれません。気が向いたらまたコメしてください。できるだけレスしたいと思いますが、なにぶんにも長くなるので、レスが遅れるようならご容赦。
sokyudo氏が私とは医療について全く異なる考え方をお持ちである、ということはよくわかりました。しかし、それでもなお(むしろいただいた返事によって)気になるところが増えてしまいました。
何度もコメントするのに付き合いたくはない、とお考えになるかもしれません。そのときは、削除していただいてもかまいません。
sokyudo氏は私への返信の中で、
「私は「治療行為」そのものが無意味だとは思っていませんが、純粋に「治療行為」だけを抽出してその効果を論じることは(世間では、それを「科学的検証」等と呼ぶのかもしれませんが)ナンセンスだと考えています。
そうした考え方は煎じ詰めれば、
>治ると信じされられる権威やカウンセリング手法さえあれば治療が成立する
ということも包含しています。」
とおっしゃられています。
しかし、残念なことにいくつかの理由からこの見解に賛同を示すことはできません。
まず、前回のコメントにも書きましたが、この見解にはすべての医療行為への根本的否定を伴っています。sokyudo氏のお考えがもし正しいならば、医療行為は必要ありません。必要なのは医者ではなく、宗教的指導者のような、絶対の権威をもつ人間です。
その人物が「大丈夫だ。あなたは治る」と言えば、それによって病気は快癒するでしょう。
その時、すべての医療は無駄なプロセスを必要とする無益な時間の無駄か、詐欺的行為とみなされるでしょう。そうなれば通常医療と呼ばれているものも、代替医療と呼ばれているものも
なくなります。…あくまでsokyudo氏のお考えの通りなら、ですが。
ただしその時、治療効果を発生させるべく治療者の権威を保たなければなりませんから、権威を得るための手法や、カウンセリング的手法は秘匿され、治療技術(すなわち、良好な関係を生み出すための技術)は少数の権威によって占有されるでしょう。…それは、患者と治療者のあるべき関係だとは、どうしても思えません。
次に、とても残念なことにsokyudo氏の考えは現実に即したものとはいえません。
もしも患者と医者の関係にこそ治療効果が帰属するならば、十分に良好な関係を患者と医者が築けるならば、それは100%とは言わずとも、有効な治療効果としてあらわれるはずです。
しかし、現実には医者と患者の良好な関係があっても、治療は難航している、という患者もまた多くいます。そのような例を、sokyudo氏はどのようにお考えになられるのでしょうか?
また、全く逆の例も存在します。例えば人格者ではなくても、高い医療技術を持っている人、ということになるのでしょう。私の身近にもそのような人がいました。そのような場合、sokyudo氏のおっしゃられる通りなら治療行為の成果は表れないはずです。しかし、その人は適切な薬を施し、それによる治療効果は確かに存在しています。
また、医者と患者の関係を伴わない治療、というものも存在しえます。例えば施術者も患者もそれを薬だと知らずに服用していたり、あるいは鍼灸ならば、それを治療とは思わずに行っている(例えば文化的な行為として)ような例がありうるでしょう。その時、sokyudo氏の仮定によるならばどちらも治療効果を発揮するはずはないのですが、少なくとも前者は虫歯などの病気にかかりにくい地域や、長寿の地域などで確認されたという報告を耳にしています。
…またも他人のブログで長々と語ってすいませんでした。大変申し訳ない。もし荒らしだとお考えになられたなら、削除してしまってもかまいません。
私のブログをお読み下さり、また丁寧なコメントをいただき、ありがとうございます。薬学を学んでおられる方からのご意見、興味深く読ませていただきました。
さて、有機創世派さんと私とは医療に対する考え方が大きく異なる、ということを明確にした上で、いただいたコメントに対して意見を述べさせてください。
私は「治療行為」そのものが無意味だとは思っていませんが、純粋に「治療行為」だけを抽出してその効果を論じることは(世間では、それを「科学的検証」等と呼ぶのかもしれませんが)ナンセンスだと考えています。
そうした考え方は煎じ詰めれば、
>治ると信じされられる権威やカウンセリング手法さえあれば治療が成立する
ということも包含しています。しかし、そうしたことは、過去、現在を通じて、またこれからも、通常医療の中でも普通に用いられてきたし、用いられていくものでしょう。それなしに医療は成立しません。そして「治療行為」とは、その上に成り立つものなのです。ですから、そうした考え方が
>人類がこれまで研究、発展させてきた医療全体に対する侮辱となってしまう
とは、私は少しも思いません。
また、最後の統計について
>「≪患者のイデア≫を治療すること」ではなく、「可能な限り多くの患者に、可能な限り効果のあるアプローチを確立する」こと
という有機創世派さんの論には、とても触発されるものがありました。
通常医療の立場がそうであるなら、代替医療のレゾン・デートル(存在意義)とはまさに、「≪患者のイデア≫を治療すること」なのかもしれません。だとすると、それはやはり統計では計れないもの、なのです。
某大学で薬学を学んでいるものです。
内容は興味深く読ませていただきましたが、少々気になるところがあったので書かせていただきます。
>つまり、代替医療であれ通常医療であれ、治療効果というものは、治療法そのものに帰属するのではなく、それを使う施術者/医師とそれを受ける患者というものの存在、そしてその両者の関係性といったファクターの中にこそある。二重盲検法とは、そうしたファクターを可能な限り排除し、システムを思い切り単純化した形で効果を検証するもの(注2)だが、だとすると二重盲検法によって導き出される「治療効果」とは一体何だろう? プラシーボ部分を除いた純粋な治療による効果? しかし、治療とは施術者/医師と患者との関係性の中で成立するものなのだから、その中からプラシーボ部分だけを選択的に除外できるなどと考えること自体、そもそも幻想なのではないか?
と文中でおっしゃられています。
が、しかし、このような立場は現代医療、いや人類がこれまで研究、発展させてきた医療全体に対する侮辱となってしまうことに気が付いておられるのでしょうか?
治療効果が治療行為ではなく、患者との関係に帰属するのならば、あらゆる医療行為は必要ありません。治ると信じされられる権威やカウンセリング手法さえあれば治療が成立するからです。患者の健康を取り戻すために有史以来研鑽されてきた、現代医療に限らずすべての医療技術や薬学知識はただの時間の無駄になってしまうでしょう。
私はsokyudo氏がそのようなことを言いたかったのではない、と信じたいと思います。しかし、そうであるならばこの文章はあまりにも不適切で、訂正すべきです。そして、万に一つも上記のような考え方を持っているならば、sokyudo氏には考え直していただきたいと思います。
ついで、と言っては変ですが、この本に書かれたことをめぐっての私の意見も少しだけ書いておきたいと思います。無視してくださってもかまいませんが、無機質で冷たい通常医療(と、時々思われているようです)の世界に、こういうことを考えている奴がいるんだとでも思ってください。
有史以来病気やけがへの対策は私たち人類の大きなテーマでした。そういったことに対策するために、魔術的なものを含めれば、上げていけばきりのないほど多くの方法や、治療に有効な物質が提案されました。しかし、私たちは当然不完全な人間であり、その中には誤解に基づくもの、偶然治っただけのものもあったりするわけです。医療の効果を高めるためには、そういったものの中から、より確かなものを選びとらなければなりません。そういったことのために必要なのが統計なのでしょう。誰だって100回試して一人に効果のあった方法より、100回試して80人に効果のあった方法を選びたいものです。統計によって得られるのは、「≪人間のイデア≫に効果がある」という結論ではなく、「わかっている限り多くの人間に効果がる」という結論なのです。それを用いて医者たちがやりたいことは、「≪患者のイデア≫を治療すること」ではなく、「可能な限り多くの患者に、可能な限り効果のあるアプローチを確立する」ことなのです。(もっとも、それは少数派を無視しているわけではありません)
…他人のブログで長々と失礼いたしました。とにかく、こんなことを言い出す愚者がいる、と心にとめていただければ幸いです。
私は、仏像の写真を水に波動転写して飲ませる、というホメオパシーに似ているけれど、それよりもっと怪しい治療を行って結果を出していますので、ホメオパシー理論を否定する気持ちは持っていませんが、「あんなものは嘘だ」という人もいるでしょう。
まぁそれを言えば、鍼灸の治療理論だって信じない人は信じないわけで、お互い様でもあるわけですが。
ただ、英国でもホメオパシーに対する動きを見ると、(現時点では可能性は低いとは言え)「厚生労働省は鍼灸の治療効果はプラシーボに過ぎないとして、はり師・きゅう師の国家資格を廃止することを決め…」なんてニュースが、いつ流れないとも限りません。ですから
>西洋医学だって~、とは別に針灸としてはどうなのかを検証できればと思っています。
というのをゼヒ頑張って行ってください。
ところがこの本では「針灸もホメも同じプラセボだ」と結論されているところにショックを受けたのです。
西洋医学だって~、とは別に針灸としてはどうなのかを検証できればと思っています。
きれいにまとめていただいて、ありがとうございます。これまで延々と書いてきましたが、全体として言わんとしていたのは、ひろさんのコメと同じことなんです(←「だったら、もっと短く書けたろう」ってツッコミはなしで)。
それにしても
>正確な状況判断ができれば摩るだけでも治ることもあると思います
などということは、代替医療としては当たり前だと思うわけですが、西洋医学的には、「じゃ、患者1000人中、摩るだけで治るのが何人いるか? 治ったとしても、それは摩ったことによるものなのか? 治らなかったのは状況判断が正確でなかったせいか? 医学的に見て摩るだけで治るなど考えられないから、これはプラシーボなのではないか? …」みたいな、しょうもないことをクソ真面目に検証しなければならないみたいで、何と不自由なことかと改めて思いました。
こちら側にも批判に対して納得できる要素もたくさんありますしね
私個人の考えとしては療法やテクニックなんぞは道具としてとらえておりまして
所詮は道具を使う側の考え方やとらえ方によって道具の使い方や使う局面も変わるであろうと思います
さらに技量の問題もかかわってくるからややこしくなるのだろうと思います
正確な状況判断ができれば摩るだけでも治ることもあると思います
ノコギリで釘を打つのも愚かでしょうし、金槌で木を切るわけにもまいりません
西洋医学であろうと民間療法であろうと適材適所に用いられるのならそれでいいんじゃないでしょうか?
>この分だと第6部、第7部もあり得そうですね。
第4部を書いて、これでお終いと思っていたのですが、自分の中に煮え切らないものが残っていて、それでいろいろなことをキッカケに第5部を書きました。
私的には第4部までが『代替医療の~』への反論だったのに対して、第5部は自分自身の立ち位置の確認のようなものででした。
これでスッキリしたので、この話は第5部で本当に終了…かも?
ホメオパシーについては、日本でもこのニュースを受けて、ホメオパシーそしてホメオパスへの攻撃もポツポツ始まっているようです。
代替医療の治療家には、自らの立ち位置を再確認すべき時期が来ているのではないでしょうか。
この分だと第6部、第7部もあり得そうですね。
このネタ私も大好きですので、思い切り続きを期待しちゃってますので。
ホメオパシーの本拠地と(私は)思っていた英国においてすら、そんな議論がされるんですね。
驚きました。
・・・というか、議論に値する位には大きな存在だということでもあるのでしょうけれど。
再現性が担保されているから科学的であるという前提があり、、、その再現性を保障しているのが統計という手段なわけですよね。
EBMを求めるあまり、いつのまにか手段に過ぎなかったはずの統計をとることが目的になってしまって、統計さえとれば科学的ってことになってたり。。。
これって筋力テスト絶対主義と同じくらいにおかしいことですよね?
最後の文章は耳が痛いです。
カイロプラクティックも、いつまでも20世紀初頭当時の科学にしがみついてるばかりでなくて、真剣にその科学哲学から問い直してみる必要があるのかもしれませんです。