クマゴローの巣穴 (kumagoroh's burrow)

自動車模型から犬や猫、はたまたバラなど、多趣味が災いしてビンボーですが、ナカナカ趣味は減らせません。

DASH村の明雄さんが亡くなった。

2014年06月08日 08時22分33秒 | Weblog

TOKIOと一緒にDASH村を築き、TOKIOを育ててきた明雄さんが亡くなった。



農業だけでなく、様々な知識を惜しげもなくTOKIOに伝授し、

明雄さんのおかげで一人一人が逞しく素晴らしい人間になったと思う。

2000年に始まった当初から6人目のTOKIOメンバーとして活躍されていただけに残念でなりません。

番組参加から間もなく奥様を亡くしていたが、これで奥様と再会されることでしょう。

明雄さんの「跳ね上げ老眼鏡」憧れでした。


合掌


以下mixiより

 日本テレビ系『ザ!鉄腕!DASH!!』(毎週日曜 後7:00)が8日放送され、看板コーナー「DASH村」で農作業を指導し、今月6日に他界した三瓶明雄(さんぺい・あきお)さんをTOKIOのメンバーが偲んだ。番組の最後、これまでの思い出を振り返るVTRが流され、ナレーションで優しく語りかけるように感謝を伝えた。

     ◇

 明雄さん、僕達は正直、まだ心の整理がつかずにいます。
 本当はまた今年の米を一緒に収穫したかった。
 もう会えないなんて、今は信じることができません。
 明雄さん、僕たちは明雄さんに教えてもらった、自分の手で作り、育てることの素晴らしさや大切さをずっと忘れずにやっていきます。
 だから僕達がしっかりやれているか見守っていてね。
 そして天国で少しはゆっくり休んで下さい。

 TOKIO


以下 ライブドアニュースから

84年の人生を全うした「明雄さん」 DASH村を支えたのはその開拓者魂だった!


「(DASH村がなければ)おカアちゃんが死んだとき(2001年)におれも死んだろうな」。2014年6月6日、84歳で亡くなった三瓶明雄さんは、「ザ!鉄腕DASH!!」の今村司プロデューサー(当時)にこう話していたという。

福島県の一農家だった「明雄さん」が人々に知られるようになったのは、2000年のことだ。

テレビに自分が映っていてびっくり

福島県浪江町の一角に「DASH村」を一から作るという企画のため、近所に住んでいたことから農作業などの指導役として招かれた。

明雄さんの聞き書きを収めた『DASH村からワシが伝えたかったこと』によれば、本人は当初あくまで裏方のつもりで、「撮影のじゃまにならないように」アドバイスを行っていたという。ところが放映された番組を見てみると、「農業指導 三瓶明雄さん」のテロップ付きで、自分の姿がでかでかと映っていた。

これには当然びっくりしたし、急に有名人になったことに戸惑いもした。また企画が始まって間もない2001年には、40年余り連れ添った愛妻・アキエさんを亡くしている。しかし明雄さんは、TOKIOを初めとする若い「村人」たちに、世代を超えてこれまでの体験を伝えることに喜びを見出した。それとともに、「幸せ者だなと、思えるようになった」「見知らぬ人に応援していただく幸せは、今まで考えもつかなかった」と、境遇の変化を前向きに受け止めていったという。

開拓民としての経験をDASH村に伝える

番組中では、農業だけではなく村づくりに必要な幅広い知識・技能を発揮し、TOKIOのメンバーたちを驚かせることもしばしばだった。これは「開拓民」として育った生い立ちによるものだという。

原生林を切り倒し、荒れた土地に鍬を入れ、畑へと作り替える――貧しい暮らしの中、明雄さんの両親は20年をかけて、ようやく自らの農地を手に入れたという。DASH村にも登場した炭焼きは、畑ができるまでの貴重な収入源だった。

成長した明雄さん自身も開墾に従事し、おなじみのDASH村とその周辺一帯も、元々林だった土地を、明雄さんたちが切り開いた。今村プロデューサーは講演の中で、「(DASH村は)明雄さんがあの土地を開拓したことを手本にやっています」と語っている。

原発事故後も精力的に出演

2011年、東日本大震災に伴う福島第一原発事故により、DASH村は避難区域に指定され、現在に至るまで企画は中断状態が続いている。自身も避難を余儀なくされた。その中でも、全国各地を回って農業の現場を訪ねる企画に出演し、80歳を過ぎてなお元気な姿を見せていた。

上記の聞き書きの著者である太田空真さんには、死について「いつかその日が誰にもやってくる」と語り、むやみにそれを恐れるより、それまで生をまっとうすることの方が大切だと語っていたという。8日の放送では、TOKIOのメンバーからの追悼メッセージが放映される予定だ。