ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

大人になるにつれ、かなしく(33)

2016-12-26 23:22:57 | Weblog
「認知行動のプリントはこれくらいにして、腹式呼吸は続けていますか?」

「はい、毎日続けています」

「では最後に一緒に腹式呼吸をやりましょう。その壁にかかっている時計の秒針が6のところから1分やってみます」

「はい」

「ゆっくり口から吐いて、鼻をすするように吸い込みます。そうです」

僕とUさんは二人で向き合い、腹式呼吸を続ける。

「ゆっくり吐いて、吸って。手をお腹において、膨らみと凹みを確認しながら。はい、お疲れ様でした。今日はこれで終わりです」

「ありがとうございました」

Uさんの表情が部屋に入ってきた時より、だいぶ柔らかくなっている。しかし、またすぐに元に戻ってしまうだろう。それで構わない。何度も繰り返して、少しずつ前進できればいい。

「では、気をつけて、帰ってくださいね」

「では、失礼します」

僕は彼女の後ろ姿を見送り、再び部屋に入った。今日の仕事が終わった。インスタントコーヒーを飲みながら、携帯のメールをチェックする。亜衣のメールが入っている。「大切なお知らせがありますので、寄り道をせず、まっすぐ帰ってきてね」と記されていた。それほど悪い報告ではないらしい。僕は亜衣との結婚前からの付き合いになる、100万もしない中古車で、妻の待つ自宅マンションへ向かった。


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大人になるにつれ、かなしく(32)

2016-12-26 21:23:07 | Weblog
「たとえば熊に出くわしたとします。そうしたら大抵の人は、不安や恐怖の感情に支配されますますよね?」

「はい」

「Uさんの場合は、エレベーターに乗ろうとした時、普通の人が熊に出くわしたような恐怖感に、苛まれているんだと思うんですよ」

「そうかもしれません」

「熊の場合、下手をすると命を落とすかも知れませんが、エレベーターはUさんの命を奪いません」

「それは分かってるんですけど」

「だから、この空欄になっている認知のところは、乗っている時間は数十秒だから、苦しさはあっても命まではとられない、というふうに考えるのもひとつですね」

「はあ」
Uさんは初めて紅茶を口に運んだ。すでに冷たくなっているだろう。
ひとつの方法としては5階までエレベーターに乗るのではなく、2階までエレベーターを利用し、そこで降りて、あとは階段で5階へ向かうという考え方も出来ます。もしそれが出来たら、次は3階までエレベーターを使ってみる。一気にというより、徐々に自信を積み重ねた方がいいかもしれません」

「はあ、そうですねえ」

「もう一枚は、ええと美容室に行けなかったと」

「はい。店に入ろうかと思ったんでが、入り口でドキドキしてしまって」

「でも、入り口まで行ったというところに、価値があるんだと思うんです」

「そうでしょうか?」
Uさんは疑問を口にした。

「確かに、店に入って髪を切り、無事に店を出るのが理想ですが、それはハードルが高いですから。例えば、あえて店が混雑している時に、待合の椅子に座って、少ししてから店を出る。これも立派な前進です。そうして徐々に、自信を積み重ね、今日は大丈夫そうだなと思った時に、カットしてもらうというのも、ひとつの方法ですね」

「それでいいんでしょうか?」

「うん。あまり頑張りすぎない方がいいと思います。Uさんはすでに頑張っていますから」
Uさんの表情が少し緩んだように見えた。
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