ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

大人になるにつれ、かなしく(41)

2016-12-30 22:54:55 | Weblog
「そうだね。まず、いま住んでるマンションは独りでは広すぎるから、ワンルームに引っ越すつもり」

有紗の前向きな声が耳に届く。確かに入院が長引けば、大きな出費は免れない。僕も全くの無力だ。自分の家族すら養っていく自信もない。有紗のことを思うと、藤沢は馬鹿な事をしたと責めたくもなる。しかし、彼も辛かったのだろう。誰が悪い訳でもない。僕の思考は激しく揺れ動いた。

「お金は大丈夫なの?」

「うん。孝志さんの両親は離婚していて、お父さんに引き取られたのは知ってると思うけど、彼が司法試験を諦めた頃から関係が悪くなってしまって。私の方は、父がいまだに孝志さんとの結婚を認めてくれない状態だから、話にならない。まさか子供のいる兄夫婦に頼る訳にもいかない。だから私が頑張るしかない」

有紗の言葉を聞いて僕の脳裏に浮かんだ事がある。離婚すればいい。別に逃げではないのではないか?周囲の協力があって初めて、新たな結婚生活が成り立つ可能性が生まれる。しかし残念なことに、少なくとも金銭的な手助けは望めない状況だ。窮地に立たされたからといって、有紗の給料が倍になる訳ではない。離婚すれば、彼女は自由になるし、藤沢は有紗を含め、皆の力を少しずつ合わせて、出来る限り、支えていくのが最善ではないのか?

しかし有紗に、この考えを伝える事はとても出来ない。間違いなく拒絶するはずだ。何を言っても綺麗事になるような気がした。

有紗は椅子から立ち上がり、変わり果てた藤沢を見て、肩を落とす僕に声をかけた。小さな声だった。

「坂木君にお願いがあるんだけど」

「何?俺に出来ることなら」

「ハグしてくれないかなあ?」

さらに声は小さくなった。

「えっ?」

全く予期していない言葉だった。

「こんな30過ぎたおばさんじゃ駄目かなあ?」

「何言ってるんだよ」

ためらいはなかった。僕は立ち上がるなり、有紗をきつく抱きしめた。

「もっと強く」

有紗が涙声で懇願する。僕は壊れてしまうのではないかと思うほどに、彼女の体に渾身の力を加えた。意識が戻らない、管につながれた親友の目の前で。有紗は何も言わない。僕は不安になり、少しずつ、力を緩めていった。彼女の呼吸は揺れていた。

「もう少しこのまま」

僕は有紗の願いどおりにした。しばらくして彼女が「もういいよ、ありがとう」とささやいたので、僕たちはゆっくりと体を解いていった。有紗の涙を初めて見た。もしかしたら、藤沢が自殺を試みた後も、彼女は泣かなかったのかもしれない。少なくとも人前では。

「ありがとう、坂木君。これで頑張れそうな気がする」
涙が頬を伝い、潤んだままの目で、有紗は笑みを浮かべて言った。








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大人になるにつれ、かなしく(40)

2016-12-30 21:25:40 | Weblog
あくる日の午後、仕事を終えた僕は、車でT市のK病院へ向かった。車から降りるなり、僕は藤沢の病室へ急いだ。夏の午後の日差しは、まだ力強く、まぶしかった。病院内に入り、少し迷いながらも彼がいるはずの303号室を見つけた。4人部屋の右奥。僕は足取りを緩め、薄緑色のカーテンで閉ざされている藤沢のベッドに近づく。有紗が僕に気づいた。疲れ切った顔をしていた。

「坂木君」

「孝志はどう?」
有紗は何か言いたげだったが、首を小さく横に振るだけだった。僕は何本ものチューブにつながれた藤沢に声をかけた。

「孝志」
自分でも聞き取れないような、小さな声しか出せなかった。この変わり果てた姿が、どうしても受け入れられない。ベッドの上に寝ている男は、藤沢とは別人なのではないか。しかし、現実から逃げようとする僕を有紗が引き戻す。

「一時、心肺停止だったんだ」

「えっ、心肺停止?」

「うん。だから、万が一、意識を取り戻しても厳しいと思う」
有紗は冷静な口調だった。壊れそうな自分を必死で押さえ付けているのかもしれない。

「まさかこんな事になるなんて」
月並みな言葉しか出てこなかった。

「ここまで追い詰められてるなんて私も思わなかった。妻、失格だね」

「いや、そんな事ないよ。それより、有紗さんは少しでも寝たの?」

「うん、私は大丈夫。体力には自信があるから」
そう発する彼女の言葉に疲労の色が浮き、だいぶやつれているように見えた。

「しかし、これからどうなるんだろう」
有紗を励まさなければいけない僕が弱音を吐いていた。


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