思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

王力雄:チベット独立ロードマップ(2)

2009-02-10 13:45:18 | 中国異論派選訳
王力雄:チベット独立ロードマップ(西蔵独立路線図)

3、予言の自己成就

初めから事件を「ダライ集団が組織的、計画的に入念に準備した分裂活動」と決め付けた以上、統一を最高原則と奉じる中共政権にとって、手を緩めることはできず、処理方法は断固たる弾圧しかない。これはチベット人地区の各地方政府と官僚の逆らうことのできない立場であり、軍と警察の弾圧実施の指導イデオロギーである。ラサ事件発生後、チベット人地区の各地方政府と軍・警察の過剰反応と慌てふためきぶり――大規模な逮捕、暴力的鎮圧、拷問、寺院封鎖、僧侶迫害、忠誠の強要などは、チベット人の強い不満を呼び、より多くの一般民衆の参加を促し、反抗を全チベット民族に広げた。それが、今回のチベット事件の規模がここまで拡大したもう一つの主要原因である。

当局のプロパガンダの注入によって、外地から動員されてチベット人地区で弾圧に当たった中国人兵士はチベット人をすべて国家を分裂させる敵とみなした。そのため憎悪に駆られてチベット人に暴行を加え、本来発生すべきでない多くの衝突を引き起こした。たとえば、中国人兵士がチベット人の家の中で「分裂集団の頭目ダライ」の写真を見つけると、乱暴に破り捨て、さらにはチベット人に破り捨てるよう強要した。これはダライラマをこの上なく尊いとみなすチベット人にとっては受け入れがたいことだ。もしチベット人の老人がダライラマの写真を守ろうとして兵士に殴打されたら、老人の子供たちは当然怒るし、親戚も村人も不満を抱く。こうしてより多くの人を巻き込むことになる。衝突はこうして発生し、拡大して事件になり、軍と警察の発砲を招き、死傷者が出て、再び「組織的、計画的に入念に準備した分裂活動」に帰され、弾圧される。類似のことは今回各地で多数発生した。実際はその多くがもともと政治的含意なく、当局があえて「民衆の反乱を引き出した」ものだった。

1989年の六四事件に対する中共の「すべての不安定要素を萌芽の状態で消滅させる」という総括は、いまでは官僚集団の基本的考え方になっており、すべての官僚が信奉する準則である。彼らの権力崇拝意識によれば、権力さえあれば、すべては勝手気ままにできる。彼らが少数民族地区で実施している政策は「積極的に出撃し、頭を出したらすぐに叩き、敵の機先を制する」というもので、その後さらに発展して「頭を出さなくても弾圧し、どこまでも追撃する」になった。その極悪非道ぶりは今回のチベット事件で十分に発揮された。本来多くの政治と関係のない活動、たとえばお祭り、競馬、仏教の法会など、伝統習慣で昔からあるものを、「異民族であれば、心は通じない」とみなす官僚は、また外地から派遣され、全く習俗を知らない軍・警察たちは、人が集まっていれば問題が起きたとみなした。「機先を制し」「頭を出さなくても弾圧」するとなれば、一番確実な方法はいかなる集会も禁止し、すべての民間行事を禁止することだ。たとえ禁止しなくても、大軍で守備を固め、軍・警察が包囲し、武器を構えて威嚇する。チベット人のそれに対する反応を考えてみたまえ――「お前たちはオリンピックを開催することができるのに、何でおれたちは競馬を開催できないんだ?!」血気盛んなチベット人なら、強敵に立ち向かうように武装し、しかも態度の横暴な軍人と対峙したら、些細な口論から衝突に発展するのは必至だろう。当局にとっては、それこそ人が集まれば騒ぎが起きるという判断を例証したことになり、いっそう民衆の行動を規制する。なぜ騒ぎが起きるのかを知らないで、彼らはこうした判断をする。

実は、たとえ統治者の視点からしても、すべての矛盾を「萌芽のうちに摘み取る」ことはよい方法ではない。なぜなら「萌芽」状態では物事の本質がはっきりしてはいない。ある種の「萌芽」は本来必ずしも「不安定要素」ではないので、それを伸ばすことは安定に有利であって、粗暴に「摘み取る」ことはかえって彼らを敵対側に追いやり、新しい敵を作るのに等しいことになる。たとえこの種の鎮圧が一時的に表向きの安定を作り出したとしても、長い目で見れば不安定要素は消え去ることはなく、抑圧されて蓄積し、時期を待ってより大きな爆発を引き起こす。

僧侶はチベット人地区では理性的かつ平和的なグループである。彼らが平和的請願によって不満を訴えた時、もし当局が虚心に拝聴し、積極的に答えれば、チベット人地区の長期的安定にとって良いことである。しかし、当局は内心で僧侶を働かないで利益を得る寄生虫、ダライラマがチベットに根を張る基礎、チベット独立の土壌、厄介者や煽動者、要するにマイナスのものとみなしているために、僧侶の挑戦に出くわすと条件反射的に粗暴な行動をとる。3月14日のラサの街頭暴力事件は、その前の数日間続いた平和的抗議行動をする僧侶への軍・警察の暴行が引き出したものだ。これはまるで1987年のラサ事件の原因と全く同じことの繰り返しであった。当局の教訓をくみ取らないその非常識さを人々は訝った。チベット人を多少でも知っていればわかることだが、官僚の僧侶に対する蔑視とは対照的に、僧侶のチベット人の間での地位は非常に高い。チベット仏教の三宝の一つだし、チベット文化の伝統的知識人でもあり、チベット人の精神世界の指導者であるとともに保護者でもあり、チベット人に尊び敬われている。ゆえに、チベット人は僧侶が虐待され辱められることが最も受け入れがたい。軍・警察の僧侶に対する暴力行為がチベット人の騒乱を引き起こすことはほとんど必然であり、権力の傲慢さに両目をふさがれた帝国官僚のみがその結果を予想できなかった。

しかし当局は反省するどころか、輪をかけて悪くなった。各地の僧侶が主要打撃の対象とされ、多くの格式の高い寺院が軍・警察の侮辱的な捜索を受け、抗議行動に参加した僧侶が大量逮捕されただけでなく、多くの僧侶が行動の自由を制限され、一部の寺院は長期閉鎖に追い込まれ、外地戸籍の僧侶は追い出され、すべての寺院でいわゆる「愛国主義教育」が強制され、僧侶たちに公の場でダライラマを非難するよう強制した。多くの僧侶がこの踏み絵を避けるために寺を去っていき、一部の寺はほとんど人がいなくなった。もし今回のチベット事件発生の前には、僧侶の中にまだ多くの政治にかかわらず一心に修業している人がおり、不満は政策レベルにとどまっており、中国の統治を丸ごと否定してはいなかったとしても、今回の事件はチベットの僧侶を全体としてチベットの前途についての政治的思考に向かわせ、チベット独立賛成の比率を大幅に増加させた。

中国当局はチベットの僧侶全体を敵対的位置に追いやり、自分たちにとって最も処理の難しい相手を作り出した。チベットのある民謡は次のように僧侶を形容している「立ち上がれば一本の線香、倒れても一本の線香、私の頭をつかむのは私の髪の毛だけ、私のお尻に触るのはぼろ布だけ」。意味するところは、僧侶は家庭に縛られず、後顧の憂いがなく、反抗と挑戦ができるということだ。チベットでの事件でいつも僧侶が先頭に立ったのは、これが大きな原因である。また、チベット民衆の心の中での僧侶の地位からすれば、僧侶はチベットの民間に広く浸透しており、彼らの中国統治に対する不満とチベット独立の訴えは僧侶の間だけにとどまることはなく、チベット民衆に広く影響を与えるであろう。

官僚集団のもう一つの行為――事件は「ダライ集団が組織的、計画的に入念に準備したもの」だという証拠を急いで示すためにチベット人を大量逮捕し、拷問で自白を迫り、冤罪事件を作り出した。今回のチベット事件ではそれが多くのチベット人とその家族に及び、多くの人の離反を招いた。多くの迫害を行って、結局はつじつまの合う証拠を示せなかった。メディアのダライラマに対する告発はチベット人が聞いたらまったくのでたらめであり、抗議行動の発生していないチベット人地区にあっても、民衆は反感を持ち、大きな矛盾と憎しみを生み出し、より多くのチベット人が「分裂」した方が良いかもしれないと考えるようになった。当局が行う「反分裂」プロパガンダは分裂意識に素材を提供するに等しい。チベット語の「チベット独立」――「プーランゼン」という言葉を本来ほとんどのチベット民衆は知らなかったし、独立という概念もなかった。しかし、長い間の「反分裂教育」の結果、この言葉は誰もが知るようになった。今回のチベット事件において「プーランゼン」は僧侶から一般市民、農牧民、さらには小学生までが叫ぶスローガンになった。

これこそがいわゆる「予言の自己成就」である。チベット人を敵とみなしたことで、チベット人はついに本当の敵になった。あらゆるところでチベット人の「分裂」を見張ってきたので、チベット人はついに本当に分裂を望み始めた。今回の全チベット人地区に広がった抗議運動の性質について、観察者は様々な解釈をしている。その主な対立点はこれがチベット独立を求める政治運動なのか、それとも経済的地位あるいは当局の政策に対する不満の表明にすぎないのかという点である。私が見るところ、今回の事件のプロセスは明確なチベット独立の要求があったとは思えず、多くの要素の複合的な結果である。それには経済成長が生み出した格差、経済レベルの不満、移民問題(訳注:中国人のチベット人地区への移民)、外国からの影響、群集心理などが含まれる。当局のプロパガンダの逆動員と弾圧への反発が騒ぎをさらに大きくした。しかし、今回の事件の結果は、むしろチベット人にチベット独立を意識させ、広く賛同を得たことである。よって、次に同じような事件が発生したら、チベット独立は多くのチベット人の共通の要求となり、自覚的運動となり、運動発展過程における主な推進力と目標になるだろう。

4、中国と西側の民間の関係悪化

中国民間と西側の民間の間には以前は大した矛盾はなかった。中国人は西洋人に対して好感を持つ人が多いし、西側メディアに対しても比較的信頼しており、民族主義感情が高まったときでも、矛先は西側政府に向かうだけであった。また西洋人も中国人に対して悪感情はなかった。西側社会とメディアはしばしば中国政府を批判するが、中国民衆は独裁政権の被害者とみなしていた。しかし、今回のチベット事件においては、双方の民間がむしろ直接対決した。中国民衆は西側メディアを大いに攻撃したし、西側民衆に対しても口汚い言葉で罵った。このような態度の転換は、中国官僚集団の世論操作が成功したためである。しかし、世論操作が頼みとする条件――当局の情報独占、は中国人をだますための必要条件であり、同時に国際社会から疑問を投げかけられる原因でもある。

情報封鎖のために、当局は3・14事件発生当日にラサでの外国人の自由行動を制限し、引き続いてすべての外国人をチベットから追い出した。その後チベット人地区各地に長期にわたって外国人の立ち入りを禁止し、あちこちにチェックポイントを設けた。画像は最も敏感な資料とみなされ、命令を執行する軍・警察は多くの人権侵害を犯した。外国人が画像を入手するのを阻止するだけでなく、あるチベット人は携帯電話で写真を撮っただけで拷問を受け、長期拘留された。たとえ中国人でもチベット人地区で「敏感」な画像を撮影したら尋問され、器材を没収されたり画像を削除させられたりした。厳格な情報封鎖によって西側メディアはほとんど第一次資料を入手できず、間接情報に基づいて報道するしかなかった。しかし、間接情報は誤報を招きやすく、相手につけ込まれ、西側メディアは中国人の心の中では面目が潰れた。中国共産党の宣伝機関は西側メディアとの長年にわたる戦いの中で初めて優位に立ったので、大いに悦に入った。

しかし、それによって西側メディアをおとなしくさせることはできなかった。中国民衆の一方的な罵倒・恫喝に加えて、中国政府の西側メディアに対する制裁と圧力は、「第四の権力」と称される西側メディアを全体として中国にとって長期的な敵対的立場に追いやった。中国人の敵意は西側メディアの報道をより注意深くさせ、立証とバランスに配慮するようしむけた、彼らの中国に対する嫌悪感を増した。彼らは独裁政権を嫌悪しただけでなく、中国人が示した熱狂と残忍さも嫌悪した。今後機会さえあれば、今回の西側メディアの中国に対する共同包囲攻撃はまた発生するだろう。そして、西側民衆の態度はかなりの程度メディアに主導される。西側メディアを怒らせ、それを対立側に追いやった結果は、最終的には西側民衆の中国に対する一層の悪者扱いに転化する。

実際、中国の情報封鎖によって、西側民衆は自国のメディアから一次情報を入手できなくなったからといって、決して中国メディアを信じるようにはならないし、中国当局のチベット問題に対する発言に疑いを向ける。なぜならそれは彼らにとって簡単な常識――虚言だけが情報封鎖を必要とするからだ。たとえ封鎖によって虚言の具体的内容をわからなくしたとしても、徹底的な対抗策は情報封鎖者の発言のすべてを虚言とみなすことだ。西側民衆が北京五輪聖火リレーを強くボイコットしたのも、ほかの効果的な表現手段がなかったからで、その機会を借りて中国当局の情報封鎖への怒りを発散したのだ。

中国の官僚集団は西側民間の見方を全く意に介さなかった。彼らは中国民衆と西側社会の対立により自分たちが民意の支持を得ることを必要とし、その後も聖火リレーの西側での境遇を利用して一層中国民衆の西側に対する敵意を刺激した。大衆運動と大衆への働き掛けは全体主義の得意技である。大きな問題に直面した時、民衆は独立思考のための十分な情報と知識を与えられないと、扇動されやすく、操縦しやすい。中国民衆は多くの問題で政府に対して賛成ではないが、国家統一を基本的価値観とすることは受け入れている。自分の日常生活から遠く離れたチベットに対して、多くの中国人は単純な「分裂」の是非で問題を判断している。官製メディアが一斉に西側は中国を敵視し、「チベット独立」に肩入れしていると非難すると、中国人の敵意を簡単に燃え立たせることができる。今回のチベット事件は中国チベット関係を民族対立に変えただけでなく、中国民間と西側民間も二つの対立する陣営に分けた。

確かに、中国民衆の政府への支持は未曽有のことだった。インターネットで、また外国の街角で、中国の愛国者と西側の人々が白兵戦を演じた。中国人はCNNを見ることを許されていないのに、熱狂的にCNNに反対した。自分の国にデモ行進の自由がないのに、外国では集まって文革の場面を再現した(これらの行動には中国当局の支持と大使館の背後での組織活動があった)。一方で西側の人々に価値観の上で強烈に中国を否定させ、もう一方で西側民衆を刺激して中国を西側に対して強烈な敵意を抱き、いつか西側全体を脅かす国と思わせた。そして、以前のように中国人と中国政府を分けて考えるということを放棄させた。

陣営間の敵対は最も理性が身を置きにくい場所であり、双方とも単純化された考えを採用する。あたかもサッカーのフーリガンのように集まって相手を侮辱し、理由もなく、是非もない。いったん西側民衆とメディアが中国人はチベットに対して植民地主義的態度をとっているとみなしたら、彼らは中国の政治権力が将来どのように変化するかにかかわりなく、チベットは中国の統治から解放されるべきだと思うようになる。中国の民主派の中国民主化後はチベットも自由になるという約束は信じてもらえない。なぜなら制度の変化は民衆の態度の変化とは等しくないからだ。これは将来の中国のチベット問題処理を非常に難しくさせる。

今日の中共はイデオロギー至上の革命党ではなく、投機に長けた現実主義的利益集団である。自分たちの利益からすれば、当然西側との陣営対立は避けるべきである。しかし、事態がどの方向に向かうかは、往々にして内部の論理に左右される。独裁体制の特徴はまさにすべての部分が自己の理性で行動するが、全体の結果は理性から離れてしまうということだ。しかも、全体の利益からも離れてしまう。このような部分理性を合わせると全体の非理性になるという「ナッシュ均衡」は、往々にして事態の方向性を決める。「反分裂」官僚集団の自己にとっての理性的な利害得失計算が、いかにして中国当局の今回のチベット事件における全体としての誤謬を合成したかをこれから見てみよう。

原文:http://minzhuzhongguo.org/Article/sf/200811/20081104101100.shtml

関連文章
チベット独立ロードマップ(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2ef1cc767204f12eabb9cbd727d91548
チベット独立ロードマップ(3)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/1e38df56380bb6a52b5c17871cd0c7f1
チベット独立ロードマップ(4)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/3a53e3e0803b96c4807a55f9c5665c01
チベット独立ロードマップ(5)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/ad0b149a99460cc9b1333fe1463878f7
チベット独立ロードマップ(6)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/22ce52f7c20ee1714fb388f36d78a0b1

王力雄:チベット独立ロードマップ(1)

2009-02-10 13:43:13 | 中国異論派選訳
王力雄:チベット独立ロードマップ(西蔵独立路線図)

一、チベット事件が分水嶺

1、官僚集団が主導した

このロードマップは分水嶺から出発する。2008年のチベット事件以前には、私はまじめにチベット独立に向き合ったことはなかった。この事件は分水嶺であり、私に初めてチベットに独立の可能性があることを直視させた。これ以前にチベット独立が夢にすぎなかったとしたら、これ以降はチベット独立は水面に浮上し、目視できる範囲に入ってきた。このような変化が起きたのは、推進者が他でもなく、まさに中国の権力システムの中で「反分裂」機能を担っている官僚集団だったからだ。

19世紀中葉から20世紀中葉にかけての中国は、ずっと帝国主義の被害者というイメージだ。近代中国人はその時の屈辱をしっかりと覚えているが、中国もまたかつて帝国であったことを直視する人は少ない。中国は17世紀から18世紀にかけて巨大な国土の拡張を行った。時にほかの帝国に負けて割譲した屈辱もあったが、いまだにチベットを含むかなりの帝国遺産を継承している。

今日、チベットの領土は中華帝国版図の四分の一を占める。チベット問題は帝国政治の中で重要な位置を占め、中国の共産党政府権力システムの中の多くの部門がチベットに関係している。省・部級機関は下記の13機関が関係している。

1、チベット自治区
2、青海省
3、甘粛省
4、四川省
5、雲南省
6、中国共産党中央チベット工作調整小組
7、中国共産党統一戦線部
8、公安部
9、国家安全部
10、軍隊
11、武装警察部隊
12、国務院新聞弁公室
13、国務院宗教事務局

これらの機関は、いずれもチベット問題を専門に処理する部署を持っており、長期間にわたって、ときには一生その職権を行使し続ける官僚がいる。この13の機関の他に、さらに下記の11の省・部級以上の機関が直接にチベットにかかわるわけではないが、同じように「反分裂」機能を担っている。

1、中国共産党中央政法委員会
2、中国共産党中央新疆工作調整小組
3、新疆自治区
4、新疆生産建設兵団(訳注:別名「新建集団公司」)
5、内モンゴル自治区
6、外交部
7、国家民族事務弁公室
8、国務院台湾事務弁公室
9、国務院香港マカオ事務弁公室
10、中央人民政府駐香港特別行政区連絡弁公室
11、中央人民政府駐マカオ特別行政区連絡弁公室

すべて足すと、中国の官僚体系のなかで「反分裂」機能を有する機関は計24機関あり、膨大な集団であり、有する権力、人力、資源は並大抵ではない。今回のチベット事件処理において、それらは一つの同盟として、全処理過程を主導した。この点では毛沢東時代や小平時代とは違う。当時は、チベットに対して「統一戦線」をやるにせよ「反乱平定」をやるにせよ、「正常化」をやるにせよ、「戒厳令」を敷くにせよ、いずれも権力トップが決定し、官僚集団が執行していた。しかし、今回のチベット事件は、権力トップは基本的にたいしたことはしておらず、完全に官僚集団が自分たちで処理した。

とはいえトップが権限を譲ったと簡単にみなすことはできない。実際、ラサ事件発生の当月、温家宝総理はラオスで大メコン圏サミットに出席したとき、ダライラマが彼の影響力を発揮してチベット事件を鎮静化させるよう希望している。このこれまでになかった言い方は、中国リーダーの新思考ではないかと、国際社会の注目を集めた。しかし、そのあとは続かず「反分裂」官僚集団の事件処理方法に何の変化も現れなかった。この件が示したのは、今日の中共政権のチベット問題処理は、権力トップの決定が必要ないばかりか、たとえトップが決定しても、官僚集団の意向に沿わなければ、効果を発揮することができないということだ。この仕組みはたぶん今後の前例になるだろう。なぜこのような変化が生じたかについては、後述する。

権力トップが独裁できる時は、一方で、専横、粗暴、はては荒唐無稽でありうるし、また一方では高遠な志、正常化、ブレークスルー、政局変動の可能性もある。両者は一歩の違いであり、ときとして権力者の気が変わっただけである。一方、官僚集団が主導するときは、そのような劇的なことは起こらず、明確なルールの枠組みができる。官僚集団とは一種の相互けん制をし、段取りを踏まえて仕事をする、前例踏襲の構造である。より重要なのは、官僚集団は一つの利益主体であり、それが政策決定を支配したら、すべての決定を彼ら自身の利益に一致させようとするということだ。自身の利益と社会利益が対立した時は、官僚集団は破壊者となる。民衆の利益を破壊するだけでなく、それが本来奉仕の対象とする統治目標をも破壊しうる。「反分裂」官僚集団がまさにそれであり、それが自身の利益により「反分裂」行動をとる時、その結果は中国をいっそう危険な分裂に押しやる。このような視点から、今回のチベット事件の流れを見てみよう。

ラサの「3・14」のような街頭抗議行動や暴力事件は、中国国内では別に珍しいことではない。内地の事件処理の方法も相当ひどい。しかし、もし「3・14」事件に対して内地と同じ方法――情報封鎖・大事件を小さく報道・矛盾先鋭化防止・鎮圧と慰撫の組み合わせ・下級官僚からスケープゴートを探して民衆の怒りを鎮めるなど――を取ったならば、その後チベット人地区(訳注:ウ・ツァン、アムド、カム=中国の行政区ではチベット自治区+青海省+四川省東部+甘粛省の一部+雲南省の一部)全体に波及した連鎖反応は生じなかっただろう。しかし、チベット問題に対しては、官僚たちはそのような平常心を持ち合わせてはいない。なぜならまず、チベットは世界から注目されており、事件は国際世論を呼び起すからである。次に、チベット動乱はチベットを担当したことのある中共指導者胡錦涛の顔をつぶすから、役人は上から下までとがめだてを恐れる。第三に、当局が何度も「チベットは歴史上一番いい時期だ」と繰り返してきた以上、このような自分の顔を平手打ちする(訳注:メンツをつぶす)ことは何とか言い繕わなくてはならない。中国の官界では、少数の個人や単一の機関が責任を負うべき事項は、スケープゴートを探してきて処理すればよく、官僚の間の出世競争もそれにより人の災難に付け込んで追い打ちをかけることになりやすい。しかし、チベット事件はチベットだけの担当ではない。多額の金を使い、長い時間をかけ、多大な努力を払って、それでもこれだけ大規模な民衆抗議行動が起こったということは、常識でもチベット統治路線が失敗であったことが分かる。しかし、チベット統治路線は多くの機関が共同で推進し実行してきたものであり、路線の失敗を承認すれば、13のチベットにかかわる機関いずれも責任を逃れられず、ほかの「反分裂」機関も巻き添えを食う。この責任は全体的であり、直面する責任追及も官僚の間の責任のなすりあいで解消するものではない。多くの官僚が出世の行方に影響を受ける。ゆえに、「反分裂」官僚たちは団結して、同盟を組み、一緒に行動して、チベットの官僚の責任逃れを助けることではじめて彼らも責任を逃れられる。

責任はだれになすりつけるのが一番効果的か? 「ダライ集団」になすりつける以上の上策はないことは推して知るべきである。なぜなら、どんな理由であれ、チベット本土の中で原因をさがすのであれば、官僚の責任は免れられない。責任を国外に押し付けることで、初めて自分は完全に関係なくなる。チベット自治区当局はラサ事件発生の当日には新華社に「これはダライ集団が組織的、計画的に入念に準備したものであるという十分な証拠がある」と言明している(訳注:末尾の「参考」に全文あり)。この言明でただちにすべてのチベットに関係する機関と反分裂機関は口裏を合わせた。彼らはいまだに「十分な証拠」を示せていないことから、これは責任逃れの虚言だったことがわかる。しかし、官僚たちは証拠を示せるかどうかなど意に介していない。彼らの目的は先制して世論を主導することだ。この点は成功した――彼らの虚言がすぐに中国の一致した世論となり、疑義をはさむことを許さない言説となり、社会(権力トップを含む)に口裏合わせを誘導し強要する効果をもたらした。

出発点が方向を決定する。出発点はミリのずれでも、結果は千里の誤差が出る。この責任逃れの官僚の口裏合わせが、その後の行動の枠組みを決め、事態の発展方向を決めた。たとえば3月14日ラサの騒ぎが発生した地域では数時間の放任状態が出現していた。周囲には軍と警察が集結していたが中に入らず、行動せず、暴力行為のエスカレートに任せた。多くの人がこの奇妙な現象に途方に暮れた。いくつかの解釈の中で、私が傾く解釈は、この放置は鎮圧のために口実を「育成」するもの、および「プロパガンダ攻勢」のためのビデオ映像を集めるためというものである。一方で撮影隊が騒ぎの地点に入って撮影する時間が必要であり、もう一方で抑制されない暴力はどんどんエスカレートし、鎮圧に十分な合法性を与えることができる。また強烈な暴力映像を証拠として撮影することができる。もし、騒ぎの最初から警察力で規制していたら、事件の規模は非常に小さく、全体には有利だが関係官僚には不利だっただろう。なぜなら、事件がすでに発生した以上、あまり激しくないうちに鎮圧したら非難されるだろう。北京も多分不満だろう。官僚は事件発生の責任を他にそらすことができないばかりか、処理不適切という罪名も増えるかもしれない。ゆえに彼らは任務を遂行せず、事態を拡大させ、事件が非常に深刻になって「組織的、計画的に入念に準備したもの」と認められるようになるのを待って、やっと鎮圧した。そうすれば外部からは批判されないし、北京も咎め立てしにくい。

これが独裁制度の特徴である。権力システムの中のすべての役者がみな自分の利益を中心にすえて、個人の得失で行動を決める。官僚は個人のそろばん勘定のためには、あえて状況を悪い方向に向かわせ、どんな悪い結果になろうと構わない。今回のチベット事件の脈絡を顧みると、ラサの僧侶の平和的請願から、一歩ずつチベット人地区全域に及ぶ騒動と鎮圧に発展していき、さらに全世界的な抗議と反抗議に拡大したが、どの段階にもこの要素が作用している。

2、民族矛盾の民族対立への変化

3・14事件発生後、官僚たちはまず政権トップ、国内民衆そして国際社会に鎮圧の必要性と合法性を証明しようとした。彼らが取った方法は機先を制して、すべての言論手段を使って頻繁な情報爆撃を行い、同時に現場を封鎖し、情報を遮断して、相手に自分に不利な証拠を握らせず、言論独占の目的を達成した。中国の他の地方で似たような事件が発生した時は官製メディアはほとんど報道しないし、テレビに登場することはもっと少ないのに対し、今回のラサで起こった暴力ではいつもと態度を一変させた。10数時間後、テレビニュースを通じて映像を全国さらには全世界に送り、集中的にチベット人の中国人に対する暴力映像を放送し、事件の原因は語らず、ただチベット人の中国人への攻撃だけを流し続けた(たしかにその攻撃はあったとしても)。責任を国外の分裂策動になすりつけることによって、中国人のチベット人に対する民族主義的感情を扇動した。

民族対立は国家が分裂する根本的原因である。本来まず避けるべき分裂を、「反分裂」の職責を負う官僚集団はむしろ今回のチベット事件では一手に作り出した。彼らはそれがもたらす結果を知らなかったのではなく、十分わかったうえで民族対立を利用した。彼らに必要なのはこのような結果だった。中国の多数派民族――中国人の民族感情を煽動し、敵への憎しみによって団結する社会的雰囲気を醸成すれば、彼らは後ろに隠れることができ、民意の詰問と追及を逃れられるだけでなく、沸き上がる民意を借りて権力トップを彼らの軌道に乗せることができる。いかなる陰謀論に対する懐疑も、自分の側の反省も、穏健な処理の努力も、矛盾緩和の意図も、みな激怒した民意の威嚇の前では広まることはできず、「反分裂」官僚の虚言だけが疑いを許さない定説となり、拡大し続け、すべてのそれ以外の声と行動を飲み込んでしまった。

この種のプロパガンダは事件を鎮静化せず、むしろ火に油を注ぐ。1980年代のチベット人の抗議はラサに限定されていたが、今回チベット人地区全体に広がった大きな原因はテレビである。当時少なかったテレビが今では隅々まで普及した。チベット人が中国人を攻撃する映像は中国人にチベット人弾圧に賛成させるが、チベット人に対する効果は逆である。各地のチベット人の日常生活の中で積った不満は、感覚的なテレビ画面から容易に引き出される。テレビは相当程度チベット人地区での抗議行動の動員令になったということができる。チベット人として、ラサの街頭で起こった行為は理解し同情できるだけでなく、一部の人々はテレビの内容にミスリードされ、同じような行為で不満を表現すべきだと考えた。チベット人地区の一部では異民族に対する暴力事件が発生したが、それはまさにラサ街頭のテレビ映像を見た後だった。当局はチベット人地区各地で同時に発生した抗議行動を「組織的、計画的に入念に準備したもの」であることの証明であるという。しかし、組織、計画、準備など全く必要ない。各地のチベット人が、ラサの人々が立ちあがった生々しい映像を見たら、それだけで彼らが同時に街頭に出るには十分だ。この動員令は、まさに当局自身が出したものだった。

もう一方で、一方的に材料を取捨し、理由を検討せず現象を誇張して世論を煽動し、事件を一方的にチベット人の中国人に対する理由のない怨恨殺人と表現した。その結果は中国人とチベット人の民族分断である。近年の中国人がチベット文化に対して示していた憧れと親しみは、180度転換し、チベット人全体に対する恐れと憎しみに変わり、チベット人を恩を仇で返す民族とみなすようになった。インターネット上では中国憤青(訳注:民族主義的感情に突き動かされて排外主義的言動をとる青年。1989年天安門事件以降の愛国主義教育のもとで育った世代が中心)のチベット人に対する熱狂的罵倒で充ち溢れた。チベット人に対する排斥ムードが中国社会に充満した。あちこちでチベット人に対する差別と不当な処遇が発生した。空港・ホテル・各種のチェックポイントでチベット人と見れば高い地位の人であっても侮辱的な処遇を免れない。さらにはチベット人の児童が学校で中国人児童からいじめられている。この種の中国人全体からの敵視は、チベット人全体を中国人の対立側に追いやる。当局のプロパガンダに対する反感により、チベット人は当局の言葉を一切拒絶するようになり、また中国人の反チベット人に対して反中国人で答えようになる。今回の事件の後、中国チベット間には既に血縁で分割された種族対立が生まれてしまったといえよう。もっとも典型的な例はその後開かれた北京オリンピックの期間中、本来民族間の区別のなかったチベット人の子供が以前の中国ガンバレから中国が金メダルを逃すたびに歓声を上げるように変わったことだ。子どもの変化が、チベット問題の長期的方向を暗示している。

今回のチベット事件の前から、チベット独立の他の条件はかなり揃っていた――単一民族、単一の宗教と文化、地理的境界の明確さ、歴史的地位の明白さ、国際社会の承諾、衆望の帰するリーダーと長く運営されてきた政府(訳注:ダランサラの亡命政府)……しかし、最も重要な条件がそろっていなかった。すなわちチベット人の主体である国内のチベット人に独立追求の十分な意欲がなかったことだ。チベット問題が長期にわたって存在してきたとはいえ、政治・歴史あるいは文化レベルに集中していた。対立に関与していたのは当局・民族の上層部・知識人と国際社会であった。1950年代のチベット人武装抵抗とダライラマ亡命があったとはいえ、毛沢東によって階級闘争に解消され、民族対立にはならなかった。1980年代のラサ抗議行動はほかのチベット人地区に拡大しなかったがゆえに、チベット中国関係全体には影響しなかった。二つの民族の一般民衆の間では、これ以前の関係は一貫して比較的良好だった、ないしは比較的親しかったといえる。国内のチベット人の多数が独立を追求していなかったときは、チベット独立に有利なほかの条件がいくら多くても、影響は生じなかった。私が以前チベット独立の先行きを直視しなかった原因は、まさにここにある。

しかし、今回のチベット事件はチベット人と中国人の民族間全体に溝を切ってしまった。民族関係は民族対立になり、状況は本質的に変化した。上層とエリートの間の民族矛盾は比較的解消しやすい。政策の変化、体制改革、名誉回復などによって解決の道をつけられる。しかし、血縁で区切られた民族矛盾は各個人にまでおよび、二つの民族の日常交流のすべての細部に及ぶ。双方のすべての成員、すべての接触が衝突の原因になりうる。そしてすべての衝突が動員拡大の作用をし、民族間の憎悪を増大させ、報復の応酬となり、衝突はエスカレートし、二つの民族はますます疎遠になり、引き返すことができなくなる。その時、抑圧と差別を受ける少数民族側に独立の要求が生じるのはほとんど理の当然である。一旦国内のチベット人がひろくチベット独立を望み出したら、チベットがもともと具備していた独立条件はすぐに効果を発揮する。まさにこの重大な変化が、チベット独立を現実レベルに引き上げた。最終的に独立できるかどうかは歴史のチャンスと外部環境に左右されるとはいえ、少なくともチベット人自身にとって、条件はすべてそろった。これが今回のチベット事件がもたらした転機である。もし「チベット独立」に論功行賞を行うのであれば、最大の功績は勿論チベット人と中国人を民族対立に追いやった中国の「反分裂」官僚集団である。

原文

関連文章

チベット独立ロードマップ(2)

チベット独立ロードマップ(3)

チベット独立ロードマップ(4)

チベット独立ロードマップ(5)

チベット独立ロードマップ(6)


参考:
中国国営新華社の報道(日本語)

転載自由・要出典明記