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RFA:北京で農民戸籍児童・生徒の差別撤廃運動を呼びかけ

2009-02-19 18:15:04 | Weblog

2006年、中共当局は出稼ぎ労働者子弟の無償での公立学校受け入れを表明したが、やはりいつも通りの空手形だった。
北京で、出稼ぎ労働者指定に対する差別反対運動の呼び掛け。

学者民间呼吁平权运动 由首都外来儿童教育权开始

2009-02-18

著名社会学者与北京民间团体负责人联合发出公开信,呼吁由关注北京外来儿童上学开始,推行更大范围的平等权利运动。以下是自由亚洲电台特约记者丁小的采访报道。


北京理工大学教授胡星斗和北京流动人口民间团体好妈妈协会会长章冬翠本周在网上发表了一封关于非北京户籍子弟上学权利的呼吁信,要求改善数十万长期在北京外来工的孩子因为户口问题成为没有学籍号的学生,在升学方面遇到种种困难及不公待遇的现状。

章冬翠周三接受本台采访时讲述了陪外来妈妈找学校的经历:“小学升中找学校,校长肯定是两句话,一个就是不收你,第二句话就是给多少钱。而像外国人、华侨、海归、外省市驻京机构他们也没有北京户口孩子却能够拿到报名卡,唯独是对我们这些农民工的孩子,一刀切。”

去年年中成立的好妈妈协会曾就此问题进行调研,并将报告呈交各个政府部门,得到正面的回应,但不见具体的改善措施。章冬翠说:“上礼拜五说教育局一把手批示了我们的报告,但也没给解决。所以我跟胡教授联合再次呼吁一下,希望全社会关注流动人口孩子教育问题,关注下一代。”

一直关注民生经济问题的学者胡星斗周三接受采访时说僵化的户籍制度是造成包括外来人员子女教育方面在内种种问题的根源,而改革的阻力主要来自城市既得利益团体:“因为教育、养老、医疗经费都是户籍所在地负责,户籍制度难以改革主要是既得利益者的阻碍,城市既得利益者包括一些部门。现在外来人口往往都要交费才能上公办学校,成为很多中小学、教育部门奖金的来源;另一方面很多城市不愿意为外来人口多掏出财政资金,加上中央政府又没有进行财政转移支付帮助户籍改革,中央也没有出资金,使得户籍改革归于失败。”

尽管制度改革难以一蹴而就,但眼前北京政府可以做的起码是减少对外来人口子弟学校的限制并加以扶持,胡星斗说:“目前可以采取一些措施,比如对在北京的打工子弟学校放宽审批的门槛获得合法办学权利;政府予以财政扶持,让它达到简易学校的标准,因为现在多数这些学校还没有获得办学许可。 ”

外来人员教育问题折射出的是体制造成的各方面的社会不公,胡星斗认为一场平等权利运动才是构建和谐的根本:“ 这方面问题反映的是一个国家的平等权利问题,中国大陆现在存在广泛的社会歧视,各个领域的不平等都是由我们体制制度造成的,所以我呼吁大陆确实应该来一场平等权利运动,废除这些违背宪法的规章制度,营造一个平等关爱和谐的社会环境。   ”

以上是自由亚洲电台特约记者丁小的采访报道。

出典:http://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/scholar-02182009170300.html


出稼ぎ労働者子女の現地校受け入れ政策関連文章
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/ac76e57a5ae24fceb5fc104d38b79015

 


王力雄:清末の対チベット新政――チベットと中国の歴史的関係(10)

2009-02-19 11:43:24 | 中国異論派選訳
王力雄:清末の対チベット新政――チベットと中国の歴史的関係(10)

20世紀初頭、アジアにおいて争奪ゲームに参加したおもな西洋大国はイギリスとロシアだった。英露関係は問題の焦点であった。南アジアを植民地にしたイギリスと極東とモンゴルをおさえ、中国新疆に広がったロシアとの間には、チベット高原だけが彼らの直接衝突を避ける緩衝地帯となった。両雄の戦いを避けるために、二つの大国はこの隔離帯を維持することを望んだ。また「天はチベットを助け」て、その広大な高原の上に、支配を実現し軍隊組織を維持するのに要するコストが二つの帝国にとって受け入れがたいものだったことは言うまでもない。ゆえに、イギリスにとっては、当時軟弱でほとんど今にも倒れそうな中国のチベットに対する宗主権を認め、ロシアとの間で双方とも勢力範囲をチベットに広げないという合意を結ぶ方が良かった。

この点について、当時チベットに派遣されて外交交渉に当たった温宗堯は透徹した分析を行っている。

「チベットには独立の条件無く、我が国がこれを保つことができなければ、イギリスに属し、ロシアの中央アジアを害する。ロシアに属せば、イギリスのインドを害する。両国は必ず必死で争い、大局を決裂させるだろうが、それは両国の望むところではない。」(注1)

温宗堯はそれゆえ対英防衛と対露防衛のどちらを先にするかという論争に反対した。当時の情勢は中国のチベット経営にとって有利と考えたのだ。

「臣の私見によれば、英露はどちらも防がねばなりません。英露にとっては、イギリスを防げばロシア側、ロシアを防げばイギリス側となります。中国はこのそれぞれが躊躇している時を利用して、急いでチベット内政を立て直し、主権を回復し……中国がチベット統治の権力を強めることができるなら、英露はどちらも(チベットに)肩入れするいとまがないでありましょう」(注2)。

中国は迅速に行動を開始した。英軍のラサ占領とその後のチベット人が銃剣で脅されて署名したラサ条約は中国の統治者とエリート集団を極度に刺激し、それにより中国のチベットに対するこれまでの放任政策が激変した。もしこれ以上これまでの東洋的な関係でチベットを引きとめていたら、日を経ずしてチベットを完全に失うであろうことを認識した。張蔭棠は次のように言っている。「いま懸命に立て直さなければ、十年後のチベットはおそらく我々の所有ではないだろう。そうなれば四川雲南が枕を高くして眠れないだけでなく、内外モンゴルも多事多難となるであろう。」(注3)。そのような広大な国土を失う結果を防止するためには、できるだけ早くチベットに明確な近代国家(西洋)基準の主権を確立する必要があった。

中国は西洋と遭遇してから、叩かれ続け、連戦連敗し、とっくに西洋と直接対抗する勇気と自信をなくしていた。中国が西洋の主権基準を受け入れ、実践する過程はまた、それまでずっと恥辱の苦い果実を味わう過程でもあった。しかし今回場所はチベットであり、西洋と直接対抗するリスクを冒す必要のない、思い切りよく主権を伸長する実践であり、中国統治集団とエリート集団の内心の挫折感を解消するという点から見ても、十分な動機づけがあった。ゆえに、当時の末期清王朝はすでに崩壊の淵に立っていたとはいえ、日没前の一瞬の輝きの威力で、チベットに対して中国チベット関係史上空前の規模の主権行使を行い、その粘り強さは西洋世界の目を見張らせた。

一つの意味深長な現象は、このときチベット事務立て直しのために派遣された役人のほとんどに西洋滞在経験があったことである。イギリスとのチベット問題条約交渉を主宰した唐紹儀は米国留学経験があった。チベット派遣欽差大臣張蔭棠はかつて清朝政府の駐サンフランシスコ領事と駐スペイン代理公使をしたことがあった。新任の駐チベット大臣聯豫はかつてヨーロッパに駐在したことがあった。副大臣温宗堯も香港で学んだ。

一方で、上述のイギリスとロシアの相互牽制が、中国のチベットにおける宗主権が国際的な承認を得るのに有利な条件を作った。もう一方で、唐紹儀、張蔭棠ら中国側代表の外交交渉における努力が、1906年にインドで(訳注:1906年4月27日のチベットに関する英清条約は北京で調印されている)調印された中国とイギリスのチベット問題に関する条約に実を結び、ヤングハズバンドが1904年にラサを占領したときに結んだ条約を改めた。ヤングハズバンドの条約は中国のチベットに対する宗主権を排除していたが、新条約ではイギリスは改めて中国のチベットにおける最高権力を承認し、中国に対して他の外国がチベットに入ることを許さないよう求めた(注4)(これがイギリスが中国の宗主権を認めた主な出発点である)。1年後、イギリスとロシアは条約を結び、相互にチベットに干渉しないことと、中国のチベットに対する宗主権を認めあった(注5)。これに対し、ヤングハズバンドは「私が3年前に獲得した権利が、いまみなロシアのために犠牲になった(注5)」とひどく嘆き悲しんだ。

当時の状況は勢力の拮抗した二人の強盗が、どちらも財宝を相手に渡したくないが、共倒れになるのを避けるために、財宝を弱小な第三者に渡すことを承認したようなものだ。しかし、当初の動機がどうであれ、この条約は中国がチベットを保有することに対する西洋の正式な承認であり、のちに中国がチベットを全面的に統治することに対して国際公法上の根拠を与えた。西洋諸国が内心ではどれほどチベット独立運動に同情しようと、その影響はいまだに各国の公式政策を縛り続けている。

中国はチベットとの間の東洋的なあいまい関係を断固として変更した。有泰(訳注:ヤングハズバンドとの条約に署名した駐チベット大臣=アンバン)はチベット人を制御しきれないという理由で、自分のチベットに対する責任を免れようとした。言っていることはたしかに本当だが、全く主権意識がない人にして初めてできる言い訳である。主権とは属する領土と臣民に対して発生する一切の責任である。制御できて初めて主権といえ、制御できなかったら主権など筋違いだ。ゆえに中国政府はまずヤングハズバンドがラサ条約の中でチベット人に強要した賠償を負担した。その賠償金の名義はイギリス軍チベット侵攻に要した軍事費である。典型的な強盗の論理であり、中国側はこの条約に調印しているわけでもないが、財政の逼迫していた中国政府はそれでもその巨額の賠償金を自分が払うことを切望し、しかも一回払いを要求した。当時ヤングハズバンドがチベットに要求した賠償額はチベット人が決して負担できない750万インドルピーであった。しかも75年の分割払いで毎年10万ルピーずつ支払ってもよいが、全額支払い終わるまでは、イギリスはチベット領内のチュンビ(訳注:シッキムに隣接した地点)に軍を駐留させ、賠償支払いの担保とすることとされた。のちに、この賠償金はイギリス政府によって250万ルピーに減額されたが、条約上の支払進度からするとチュンビは25年間イギリス軍に占領されることになる。中国政府が一回の全額払いを要求した目的はイギリス軍をすぐにチベットから撤兵させ、長い占領過程でチベットが知らず知らずのうちに感化されることを防ごうとしたのだ(たぶんそれがヤングハズバンドの目的の一つだった)。中国側代表の粘り強い交渉によって、最終的に3年かけて支払うという合意がまとまった。しかも、支払いの過程では中国は策を尽くしてイギリスとチベットの直接接触を防止し、自らの主権を表現した。当時のそうした細部の記載を読むと、中国が当時すでに西洋の概念とルールによって、外交場面での主権ゲームを始めており、それが細部にこだわる西洋人にさえ細かすぎると思わせるほどだったことが読み取れる。また、中国政府は駐チベット大臣有泰を免職して処罰し、配下の多くの官吏とチベット現地官僚も厳重に処罰して、チベット中を震え上がらせた。

西洋の大砲は中国の統治者を目覚めさせ、彼らに「中央の国」が「藩属」方式で辺境を治めていた時代が過ぎ去ったことを知らしめた。列強が取り囲む近代の国際関係においては、主権の基礎は明確な境界画定の上に築かれ、辺境の安定は国家安全の主要要素となる。「チベットは東西七千余里、南北五千余里、四川・雲南・陝西・甘粛の4省に立ちふさがり、手抜かりがあれば、防衛に休む暇がなくなるだけでなく、大局に影響すること想像するだに恐ろしい」(注7)。また聯豫は次のように言っている。「門戸を閉ざしていたときは、中から外を御し、内地から辺境を統制し、統治を図るということも悪くはなかった。海上交通に接するようになれば、我が国に近寄ってきて、隠れて蚕食を謀り、露骨につけ入る機会を狙い、辺境は一日足りとも平穏な時はなく、内地は一日たりとも安定しない」(注8)。辺境を安定させるためには、まず辺境地区に国際ルールに則った主権を確立しなければならない。以前のチベットとの間の「インターフェース」式の関係では、このときすでに不十分になっていた。

社会は政治権力が統治し管理する。いわゆる主権は、政治権力を離れては実現のしようがなく、政治権力を握って初めて主権を保有することができる。中国とチベットの「インターフェース」式関係の中では、チベットの政治権力は終始チベット現地の統治者(ダライラマもしくは摂政)が握り、自己完結していた。理論的には、チベットの統治者だけが清朝に服従していれば、彼らを通じてチベットの政治権力と社会をすることで、主権支配を実現できる。しかし事実は、非常に大きな利益誘引もしくは強大な武力による威嚇がなければ、だれも頭の上により高い権力があることを望まない。たとえ利益と威嚇の前に臣服を示さざるを得ないとしても、彼らは骨抜きという方法により、臣服を名義的なものにとどめたので、中国はやはりチベットを支配しがたかった。ゆえに末期清朝政府は一方で外交場面で中国のチベットに対する主権に固執し、同時に急いでチベットに対する新政を開始した。その目的はチベットの政治権力を支配することだった。

チベットに対する新政の実行には、清国政府の文官武官それぞれ一人ずつの代表人物がいる。文官は前にも名をあげた張蔭棠であり、武官は今日でもその名が四川・チベットを震え上がらせる趙爾豊である。

張蔭棠は広東省南海の人である。かつて清国政府の外交官に任じ、2回の中国とイギリスのチベット条約交渉では、彼は中国側の主なメンバーだった。1906年から1908年の間、彼はチベットに派遣されチベット支配の立て直しを図った。この行動は清国政府のチベット問題の位置づけを反映していた。張蔭棠は欽差大臣の身分でチベットに着任して間もなく、朝廷は彼を駐チベット幇弁大臣に昇格させようとしたが、彼は固辞した。彼は駐チベット大臣がチベット人の間で既に威信を失っており、その役名が付いたら、個人にとっては昇進だが、「旧例を踏襲し、チベット人に軽視され、むしろ何事もなしえず……逆に無益どころか有害である」(注9)。たぶん彼は他にも口にしない理由があった。幇弁大臣になれば、上にもう一人チーフの弁事大臣がおり、ことごとく足を引っ張られ、付き合いにくいので、威厳と自由のある欽差大臣の方がチベットでの使命にとって有利であると考えただろう。

張蔭棠はチベットに入ってから、まず大ナタを振るって悪弊を一掃し、綱紀を粛清し、駐チベット大臣をはじめとする一群の汚職官吏の弾劾の上奏をし、処罰させた。彼のチベット人の間での威信は高かった――彼がチベットに持ってきた花をチベット人は今でも「張大人花」と呼んでいる――のこの行動が決定的要因である。庶民が「包公」タイプの清廉な役人を好むことは、民族にかかわらない大衆心理である。その実、張蔭棠のチベット統治思想と政策は、当時のチベットにとっては破滅的な脅威であった。張蔭棠は弁舌が巧みで、彼が一度病気をおしてジョカン寺に行ってチベットの僧俗の役人に自然淘汰の下での生存競争の理論(訳注:社会進化論)と富国強兵の道を説いた時には、聴衆は感動のあまり涙を流した。彼が全チベットに公布した『伝諭蔵衆善後問題二十四条』も恩威並び重んじた名文である。数段落を鑑賞してみよう。

「……チベットは英露両大国の間にあり、中国の属領であるため、イギリスもあえて併合できない。もし奸臣が讒言したり、イギリスに肩入れしたり、ロシアに肩入れしたら、みな殺すべし。英露が離間策をとり、漢に背いて自立し、その保護を受けるよう勧めることは、併呑の企みであり、決して聞いてはならない。中国はチベットを200年余り慈しみ、チベットから一文の金を取ったこともなく、むしろチベットのために莫大な金を浪費してきた。チベット民衆は中国と一脈の血縁があり、同胞兄弟と同じだと思う。大皇帝の慈しみの極めて大きな恩をなんじら子孫は代々忘れてはならぬ。」

「チベットは内力がまだ充実しておらず、軽々に国境紛争を起こして、他国と戦争すれば、自ら滅亡を招くであろうから、小さな怒りは抑えて自強に努めるのがよろしい。些細なことでも大皇帝の命を受けてから行うべし。なんじチベット官僚は普段から万国公法を重んじるべし。開港の方法にはいろいろあるので、必ずどうすれば主権を失わず、商業利益をもたらしえるかを考えねばならない。いささかでも注意を怠ると、職権を相手に握られ、通商は損失に帰す。商戦で敗れることの害は兵戦よりも烈しい。目下の地球は万国が交通し、閉じこもって売買を断ちつつ国を立てられる道理は断じてなく、いささか時局をわきまえた者は、昔日の貿易禁止の陳腐な政策を破棄している。商務が盛んであればすなわち国は富み、国が富んでのち軍備を増強することができるというのが、自然の道理である。」

「ラサの城やぶれ、ダライが逃亡するということは、タングート千年の歴史でいまだかつてなかった恥辱である。なんじら敗戦の殺戮の惨状を絵に描き、三大寺院の門に掛け、永遠にこの恥を忘れないようにするがよろしい。今日の和約に長く依頼できるというなかれ。敵が突然来て挑発し、一気に攻め込んできたときに、汝らはどのような策をもってこれを防ぐかを常に思え。旧式の軍隊は役に立たず、西洋式訓練に改めねばならないことを知れ。古い銃は役に立たず、速射砲に改めねばならないことを知れ。兵糧が少なければ、士卒に死力を尽くさせることはできない。偵察が密でなければ、敵軍の内情を知ることはできない。地図が正確でなければ、形成有利な陣地は築けない。測量が正確でなければ、銃砲は命中しない。事前に一つ一つ準備できなければ、敵が来た時にまたなすすべを知らず、なんじら計略を十分に準備してもって……」

張蔭棠が計画したチベット統治案の核心は、彼が自分で言った一言で概括できる。「チベットを立て直すには、政治権力を接収しなければならず、政治権力を接収するには、兵力を用いなければならない」(注10)。その具体的措置は、彼が朝廷に上奏した『治蔵十九条』に表現されている。中国のチベット統治の歴史を理解するには、この十九条は必ず読まなければならない。ゆえに全文を後ろに付録としてつける。

よく見てみるとわかるが、今日の共産党がチベットを統治する方法は、いまだに張蔭棠の十九条の枠内にとどまっている。甚だしくは、ネパールと連携してインドをけん制するという項目は、今でもそのままやっている。張蔭棠のチベットにおける具体的行動は、ここでは羅列する必要がない。彼のチベットにおける任期は短く、わずか1年余りであった。その作用は主に計画と提唱にあり、在任中に実施に移されたことは多くない。彼は中国が新しい国際情勢の下でいかにチベットに対する主権を確立するかについて政策基盤を作った。彼を継いでチベット政務を主宰した駐チベット大臣聯豫は、嫉妬から張蔭棠を排除したが、チベットの政治権力接収というチベット統治政策の面では、両者は一脈を通じている。聯豫の役割は張蔭棠の計画を実施し広めることだった。

張蔭棠と聯豫がチベットにいた期間は、ちょうどダライラマ13世がイギリス軍を避けて5年間チベットの外に亡命していたので、チベット人のリーダーがおらず、中国人がチベットの政治権力を接収するのに有利なチャンスを提供した。かれらはチベット官僚の中の親英派を排除し、ガロンなどの官僚を任命しなおし、政治権力体制を改革し、新たな政府機関を設立した。聯豫は張蔭棠より一歩進んで、駐チベット大臣が全チベットの政務を直接管理することに力を注ぎ、全チベットの政治権力をガシャ政府経由ではなく、駐チベット大臣衙門にまとめようとした。また、チベットを中国の一つの省にし、完全にチベット人によるチベット統治を終わらせて直轄統治にし、後の憂いを断とうという聯豫よりさらに急進的な主張もあった。

当時もしチベットを省にすることができたら、張蔭棠も聯豫もそれを望んだだろう。しかし、チベット人の反対を克服できたかの前に、まず中国自身に解決できない問題があった。そのため省に改めるどころか、駐チベット大臣がチベット政務を直轄するという構想自体がほとんど失敗したのである。

脚注は原文参照
原文:http://observechina.net/info/artshow.asp?ID=49022

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王力雄:主権確立の相互作用――チベットと中国の歴史的関係(9)
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王力雄:趙爾豊の直轄統治――チベットと中国の歴史的関係(11)
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