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長平:私の怯懦と無能

2008-05-09 14:52:16 | 中国異論派選訳
長平:私の怯懦と無能

編集者まえがき:最近、広東の「南方都市週刊」副編集長の張平氏が以前発表したチベットと普遍的価値に関する一連の文章のゆえに、中国のネットユーザーに攻撃を受け、さらに新聞社を解職されたというニュースが流れたが、張平氏はそれについてコメントを拒絶している。張平氏はペンネーム長平で、先に発表した「ラサの真相はどこからもたらされるか?」という評論の中で、政府に対しメディアにより多くの自由を与え、メディアにラサ動乱について客観的に報道させるよう要望した。下記の文章は「南方メディア研究」第11期「メディア人物」欄に発表され、2008年2月に出版された。

 良いところは他人にほめてもらい、痒いところは自分で掻かなければならないとことわざに言う。人からほめ言葉を聞くたびに、私はいつもむず痒くなる。最近多くの人が私をほめるので、わたしは二つほどしっかり掻こうと思う。いまは、反省もうぬぼれになって自慢に変わりやすいので、できるだけ誠実に掻きたい。

 私は人に勇敢だと言われるのが一番いやだ。なぜなら私は自分の内心が恐れに満ちていることを知っているから。私は確かにいくらか時事批評の文章を書いたことがあり、いくらか真相を暴露する紙面を編集し、そのために仕事を失い、脅迫されたこともある。しかし、本当のことを言えば、それはみんな予想外であり、計算違いだった。メディアで仕事をして10数年、しかもいわゆるニュースの前線陣地で私が受けた最大の訓練はリスクの自己規制だった。言論の自己規制はすでに私の生命の一部となっており、それで自己嫌悪に陥っている。

 わたしは、この文章においてさえ、一部の同業者が適切でないと感じるのを恐れて自己規制している。なぜなら、多くの同業者が自己規制を一種の能力、周りに自慢することのできる、昇格の元手にすることができる能力とみなしていることを知っているからだ。私もこの能力を身につけて、しかも毎日使っている。しかし私は本当に不安であり、恥ずかしい。まるで、死刑執行人が自分の刀の振り下ろし方が結構うまいことに気づいたのと同じように。

 私には自己弁護の2つの大きな理由があることはわかっているが、それが、自己欺瞞ではないと自分を説得することができない。

 一つ目の大きな理由は、どの業界にもリスクはある。何をするにもリスクを見分けて避けることを学ばねばならない。自己規制は一種の職業技能である。実は、メディアのリスクは二重である。ひとつは事業リスクで、例えばメディアの位置づけはどうか、報道は正確かどうかなど。これは別の業界と同じ、確かに一種の職業技能だ。しかし、我々が普通言う自己規制とはこれではなく、もう一つのリスクだ。それは是非正邪に関わる。もし真実を報道することや言論の自由が正義であるならば、真相を隠したり、言論を封殺したりすることは邪悪なことである。ある人は、他人に語らせないことは強姦であり、自分が語る勇気がないのは自己去勢だといったが、実はそれにとどまらない。もしメディアを社会の公器だと考えるならば、一本のニュースを削除したり、真実を隠蔽したりすることは、大衆に嘘をつくことへの加担である。

 もう一つの理由はもっと面白い。つまり私は一時の正義感に流されたり、自分が英雄になることだけにこだわったりして、一つ一つのメディアの背後にある大勢の人の生活を無視することはできない。そう考えると、自分が大局を念頭に置き、恥を忍んで重責を果たし、他人のために悔しい思いをし尽くしているのだから、彼らに損害賠償を求めてもいいほどだ。私が年を取って「芸術人生」(CCTVの番組)に出たら、若いころいかに自己犠牲を払い、人の誤解を受けたかをまくし立てて、自分で自分に感動して泣き出してもいいだろう。しかし、私が認めざるを得ないことは、もし彼らの生活を人質に取られていなかったら、あるいは逆に、この仕事が私に砲弾の雨をかいくぐって突撃することをもとめたとしたら、私にはそんな勇気はないかもしれない。それならば、彼らを自分の恥を隠すためにもちだして、崇高さを偽装する資格が私にあるだろうか?

 クンデラ(チェコの詩人、1969年のチェコ事件でフランスに亡命。1929~)がKitschという言葉を使っている。以前は「世俗にこびる」と訳されていたが、専門家は誤りを指摘して、「自分にこびる」という意味だと言う。最近、崔衛平先生が、それは自己感動と感傷であり、しかも他人にもそれを共有することを求めることにより、自己感動と感傷を増幅させ、すすんでニセの崇高さの体験にまで高めることであり、言うなればそれは一種の自己欺瞞であると述べていた。私はこのまとめはすばらしいと思うし、それは我々ジャーナリストに適用できる。ジャーナリストは簡単に自己欺瞞してしまい、怯懦を忍耐と、無能を達観と取り違えてしまう。

 メディアの重要さを知れば知るほど自分のやっていることが少なすぎると感じる。この業界に位置を占めていることに、私は恥じ入るべきである。その上、そのために表彰までされたとあっては、恥辱も倍になる。たとえ私に今よりも多くのことをする勇気も能力もないとしても、できるだけ冷静に、誠実に生きたい。羞恥心をもって、自分の怯懦と無能を自覚して生きたい。

原文:http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/b6ad8497123b83400034ebfed58bf5eb