思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

ニューズウイーク:ダライラマのインタビュー(恐れと涙)

2008-03-24 19:26:38 | Weblog
恐惧与眼泪(Fears and Tears)
Submitted by woeser on 2008, March 24, 6:18 PM. 转载·诗文

出典:http://woeser.middle-way.net/?action=show&id=409

最近媒体报道,大量中国军队前往西藏,数百人被捕,中国总理温家宝告诉英国首相布朗,如果达赖喇嘛放弃暴力、放弃西藏独立,他愿意与这位西藏流亡领导人会谈,而在达赖喇嘛过去的声明中,他已经符合这些条件。新闻周刊记者Melinda Liu和Sudip Mazumdar,在印度达兰萨拉,西藏流亡政府总部,对达赖喇嘛做了45分钟的专访,达赖喇嘛谈到他愿意与北京进行谈判,他对未来的担忧,以及一些中国政府官员私下带信给他表示同情。

新闻周刊:你是否认为中国官方希望随着你的过世,而解决西藏问题?
达赖喇嘛:我不知道。我不认为随着达赖喇嘛的过世,西藏的斗争会随之停止,西藏会没有希望。无论西藏内外,老一代都会过世,而新一代会继承相同的精神,有时甚至会更强烈。所以我死后,年轻一代会起来。

新闻周刊:如果温家宝或者胡锦涛在这里,坐在你面前,你会跟他说什么?
达赖喇嘛:我经常喜欢引用邓小平的话,请实事求是,这很重要,我会力陈,藏人心里在想什么,以及在那里正发生什么。如果温家宝总理在的话,我会这样告诉他。当然我对他俩都很尊重,特别是温家宝,他看起来很温和。我还会问他,“请证实你最近的指控(达赖喇嘛煽动了西藏的骚乱)”(笑)

新闻周刊:你有与中国领导人沟通的秘密渠道吗?
达赖喇嘛:非正式的,正常渠道还在那里。

新闻周刊:新技术,比如手机、数码相机、电子邮件等,是否使当局更难控制这场骚乱?
达赖喇嘛:是的

新闻周刊:这变得不可能?
达赖喇嘛:现在当局通过关闭这些服务,试图加以控制,但要控制所有,毕竟是非常困难的。

新闻周刊:这次与80年代的拉萨骚乱有何不同?
达赖喇嘛:那时候,主要是在拉萨地区。现在有一个因素是,在其他地方,也能看到图片。主要还是藏人的不满在蔓延。现在,甚至到汉区的藏僧,都带着雪山狮子旗。对此,我非常吃惊。现在整个藏区的人们,都有强烈的感受。如果(中国当局)真把藏人当作平等的兄弟姐妹,并信任他们,这就不会发生。

新闻周刊:甚至在少数民族大学上学的藏族精英,比如北京、兰州,都举行了守夜静坐、和平抗议,为什么?
达赖喇嘛:是的,是的,他们有不满,你可以想象流浪者的感觉。我偶尔见过富裕的藏人,他们经济富足,有好的房子。有一位先开始跟我说,他没什么苦恼。后来他承认(他感到)精神上苦闷,然后他哭了。作为藏人,他们感受到汉人某种难以形容的歧视。

新闻周刊:你担心将来你过世后,暴力可能会抬头吗?
达赖喇嘛:是的,我确实担心。只要我活着,我会为藏汉和睦贡献全部。否则,是没有意义的。更重要的是,藏人的佛教文化传承,可以给许许多多信仰真空的汉族年轻人,带来更深刻的价值。毕竟,中国传统上是一个佛教国家。

新闻周刊:你觉得中国领导人想要你如何体现你的诚意?开展对话前,温家宝想要你接受两个条件:放弃西藏独立、放弃暴力。
达赖喇嘛:去年在华盛顿,我们和一些中国学者会谈,包括一些来自中国大陆的,有人问我,“如何保证西藏(未来)不会从中国分裂出去”?我告诉他们,我声明没用,我签名也没用。藏族人民的满意,才是真正的保证。最后,如果他们感到在中国更有益,这样,才是西藏永远属于中华人民共和国的真正保证。

中国政府想要我说,很多个世纪前,西藏就是中国的一部分。如果我做了这样的声明,许多人会笑我,因为我的声明,不会改变历史,历史就是历史。

所以我的办法是,不要讨论过去。过去的已经过去了,过去西藏是否属于中国并不重要。我们要面向未来。我深信,新的现实已经展现。现在时代不同了,不同种族、不同国家,因为相同的理念,已经走在了一起。看看欧盟……相当好。国家之间的互相斗争,有什么用处呢?现在,藏人加入(中国)会更好。我坚信如此。

新闻周刊:你曾经说过,有两位政府官员私下传信说支持你。西藏或者中国大陆的其他地区,是不是有不少官员私下同情你?
达赖喇嘛:是的。

新闻周刊:有多少?
达赖喇嘛:我不确定,但是许多普通的汉人,数千人,已经来过这里。几个正式的官员曾传信过来。我深感会有所变化(中国领导人的态度)。现在重要的是,中国公众应该知道事实。他们应该对西藏更多了解。

新闻周刊:这困难吗?中国的因特网很大程度上是受监控的。这导致,人们的观点趋向偏激,经常是很民族主义的观点。
达赖喇嘛:是的,是的,这我知道。1959年前,藏人对汉人的态度,是比较亲密的,甚至是习以为常的。在拉萨的中国商人受人尊重,但是在西藏,因为蒙古以及部分苏联佛教团体发生的事情,共产主义是令人害怕的。后来,中国的共产党,来了许多士兵,他们的态度咄咄逼人,更加严厉。即使在那个时候,我们抱怨这些“坏共产党人”,但从来不说“坏中国人”,从来没有。

在最近20年里,我会见了许多从西藏来的藏人,有学生,有政府官员,也有商人。他们都很不满,提到汉人,有些人用了贬损的态度。在监狱中,同室的藏人汉人甚至都区别对待。我认为这很糟糕,必须要改变。不是通过严厉的方式,这只会适得其反,而是通过进信任。我相信,真正的自治可以恢复信任。我会一直为此努力。这不仅仅涉及政治。我的目标是创建快乐的社会,真正的友谊,藏汉人民的友谊是最基本的。

新闻周刊:一些最近的伤亡照片,彩色的,令人不安,你看过吗?你的反应如何?我们听说你哭了?
达赖喇嘛:是的,我哭过一次。藏传佛教文化的一个优点是,在知识层面,有很多的混乱、焦虑、担忧,但更深的感情层面,则是平静的。每晚我在做佛教功课时,都会包容中国的猜疑,将信任与同情,做为回馈。也就是将消极的感受化作积极的。我每天都如此。这样的帮助很大,从而可以保持感情层面的稳定。所以在前些天,尽管有很多担心与焦虑,我的睡眠还没有被破坏。(笑)

链接地址:http://www.newsweek.com/id/124365?GT1=43002


朱瑞:チベット人はなぜ抗議するのか?

2008-03-24 14:40:18 | 中国異論派選訳
チベット人はなぜ抗議するのか?
朱瑞
出典:http://woeser.middle-way.net/?action=show&id=400

中国人はいつも大声で、煩わしいとも思わず、太平天国や、義和団運動など、列強の侵略を言い立てる。しかし、彼ら自身は反省したことがあるのか? この民族が周辺のほかの民族と国家を侵略したときは、なお一層残酷だった。以下は2001年以前に、私が直接目撃した中共のチベットにおける強権支配の事実である。

(1)「崇州基地」と万人単位のチベット人物乞い
 1997年、チベット自治区政府は一億元以上の資金を使って、(四川省)成都に「崇州基地」を作った。表向きの理由は「第二事務エリア」の建設である。実際は役人たちは遠すぎるのを嫌って、そこで業務をするつもりはなかった。その結果、2001年まではずっと空っぽだった。巨額の資金を無駄にした後も、自治区政府はさらにはばかることなく、成都にもう一つの「基地」をつくり、まもなく(2001年)完成する。しかし、多くの農業地帯と放牧地帯の人民は、貧困のどん底に陥っている。ラサのパルコル(帕廊街)(ジョカン寺(大昭寺)の周回路)、リンコル(林廊路)(ラサの環状道路)には、黎明時に、物乞いが列を成して冷え切った石畳の道に座っている。一つのツァンパ(炒ったハダカムギの粉にバターや茶汁を入れて練り固めた団子)、一口のバター茶のために。チベット料理店には、物乞いたちがひきもきらずにやってきて客の食べ残した米飯を拾っていく。それを干して冬を越すための食糧にするのだ。サキャ(薩迦)はかつて100年間もチベット政治、経済、文化の中心としての歴史のあるところだが、今では多くの人が物乞いをしている。

(2)「ジャンモリンカ(江麼林卡、ジャンモ庭園)」は「ごみの町」に
 1994年、土地の現物出資方式(投資金額はチベット自治区政府の機密)で、ラサ河畔の有名な庭園「ジャンモリンカ」が破壊され、チベット建築とまったくスタイルの異なる「太陽島」がつくられた。「太陽島」では公然と賭博や売春が行なわれており、チベット人や漢人はここを「ごみの町」と呼んでいる。破壊されたのは「ジャンモリンカ」だけではない。60年代までは、ラサ川の川岸は、(東から西に向かって)うっそうと茂ったチョンジリンカ(沖吉林卡)、ニシュエリンカ(尼雪林卡)、ドゥロリンカ(多洛林卡)、チャンツォリンカ(強措林卡)、ニエチャンリンカ(涅章林卡)、ヅチョンリンカ(孜仲林卡)、ランヅドゥンリンカ(朗敦林卡)、ツァロンリンカ(察絨林卡)シャザリンカ(夏札林卡)、チンミリンカ(欽密林卡)……が続いていた。文化大革命でも残り、また一部は80年代の初めまで樹木が茂り、ピクニックに来た人々の歌声が林に響いていた。しかし今では、リンカはみな侵食されなくなってしまった。それに代わったのは千篇一律の奇妙な建物で、あたかも四川省内の県都が一晩のうちにラサに移ってきたようだ。人々はこれを「請負工事文化」と呼んでいる。

(3)急激に減少し砂漠化するラル湿地
 ラル湿地とは、ラル荘園からゲンペイウズ(根培烏孜)山のふもとまでの古代からの沼沢地である。一体どれだけの面積があるのか、解放(1951年の中国軍の侵略)前は誰も計算しなかった。現在発表されている数字では、1960年以前は10平方キロ以上あったが、2000年にはそれが6.2平方キロに減っている。ここは世界最大の都市天然湿原(ポダラ宮からわずか3キロ)で、ラサ人は都市の空調とよび、気候調節、貯水量調節、汚染物質分解、都市生態バランス維持などの機能を持っている。かつて、ラル湿地はガシャ政府(旧チベット政府)の牧草地であり、2人の馬と草の管理官が管理していた。牧草は2.5メートルほどの高さがあり、キツネ、野ウサギ、野ネズミ、タカ、カモ、インドガン、チャガシラカモメなど数十種の禽獣がここで越冬し繁殖していた。絶滅危惧種オグロヅルの主要生息地でもあった。しかし、1964年から65年にかけて、中国軍が湿地に排水路と道路を建設した。70年代には湿地の周りの耕作や建物の建設が進み(建物を建てた機関は、居民委員会、料金所(検問所)、高射砲中隊、第16連隊……である)。80年代には、バルク(巴尓庫)に採石場ができ、砕石と砂礫が娘熱溝と奪底溝を塞いでしまい、湿地の北側が毎年10~20ムー(1ムー=1/15ha)の速度で埋まって砂地になっていった。90年代、「3357」プロジェクトの一つの幹線用水路の建設により、湿地の水文に深刻な破壊がもたらされた。大中幹線の水路は排水だけで、灌漑の機能がないので、毎年湿地の70%の水がラサ川に流出し、地下水位が大幅に下がり、湿地自然被覆の減少と荒漠化が加速した。その結果、優良牧草が80年代初めの13種から現在(2001年)の3~4種に、優良牧草の収量は846.3kg/ムーが、631kg/ムーに激減した。ヨシを中心とする優占種は徐々に消失しており、回遊魚類、野生動物、水鳥はほぼいなくなった。周辺の芝土片や泥炭は掘りつくされ風化してむき出し状態で、湿原全体が災難に見舞われている。

(4)亜東(チョモ)県、林芝(ニンチ)県一帯の森林伐採
 亜東県は中印国境にあり海抜が低く、千年の古木が連綿と続く山地を覆って、気候は湿潤で、冬暖かく夏涼しい。今では、県政府所在地のシャルシンマ(下司馬)の周囲の山はかわいそうにみな斑禿(まだらはげ)症(地元の役人の言葉)になっている。森林の破壊は、チョモの気候を明らかに変えた。10月はかつてチョモで温暖で過ごしやすく最もよい季節だった。現在では、二枚の布団をかけて寝ても寒くて震えがとまらない。緑の保護を失った動物たちは果てしなく森林が続くインド側に逃げた。ニンチ地区は、チベットの有名な小江南である。恵まれた森林資源は、数百年自然状態の中で成長したチベットの宝であり、ニンチ人の命だ。しかし、チョモの森林と同じように、無情に伐採された。聞くところによると、自治区政府副主席ら二人が調査したら、森林破壊の首謀者はなんと元自治区共産党書記陳奎元の妻だったという。そこで、陳奎元はこの副主席を「人民代表大会」に異動させた。現在、ニンチ、八一一帯では、子供でも詳細に山林に残る陳奎元の妻の犯罪の跡を説明することができる。

(5)「徳中温泉を救え」
 徳中温泉はラサの東、メルドグンガル(墨竹工卡)県にあり、ラサから150キロのチベットでも有名な景勝地である(自然景観と歴史的景観)。もともとは徳中寺が管理していたが、のちに県政府が温泉の横にゲストハウスを建ててからは、徳中温泉は徳中寺と県政府の共同管理となった。去年(2000年)メルドグンガル県政府は非常に安い価格で徳中温泉を自治区共産党副書記――チベット人に「チベット王」、「紅太陽」と風刺されている熱地の息子――に期間40年で賃貸した。借主は徳中温泉にトタン屋根のゲストハウスを建てた。価格が高く、建物が醜いことで、徳中寺の阿尼石屋と際立った対照を成した。それだけではなく、借主は勝手に徳中渓谷のいろいろな希少動物を捕殺した。チベット人作家ウェセル(唯色)はこの驚くべき光景を目撃して、怒りをもって「ある殺生旅行」を書いた(発禁となった『西蔵筆記』に収録)。チベット人は「徳中温泉を救え」と訴え続けている。人々は徳中温泉という宝の地が第二の「ごみの町」になるのではないかと心配している。

(6)ほしいままに古い建築物を破壊
 古いチベット建築は、深い文化の蓄積があり、チベット建築史、チベット史、人類学、美学およびチベット文学史研究の貴重な資料である。しかし、90年代以降、「建物で建物を養う」政策に駆り立てられて、多くの古い建物が「危険家屋」とされ、何のためらいもなく壊されてしまった。たとえば、パルコル周辺に旧貴族、僧侶、商人たちの築百年以上、ものによっては500~600年の歴史ある住居が300棟余りあったのに、2001年には93棟しか残っていない。それも住民が扉をはずし窓をはずし建物をつなげて、見る影もなくなっている。新しく建てた「最新の」ビルは、もとの古風で飾り気がなく重厚な平屋根のチベット住宅とは明らかに別物である。たいていタイルで外装してあり、紺色のアルミサッシで、まるで厚化粧の女のように軽佻浮薄である。次から次へと現れる破壊的建築物は、ラサに強烈なノスタルジーを引き起こし、人々は競って二人のドイツ人が描いたパルコルの古い画集を買い求めている。破壊されたのは古いパルコルの建築物だけでなく、チベット各地の吐蕃時代の要塞風建築も難を逃れていない。崩れた垣や壁はチベットの各地で見られる。

(7)チベット語の無視
 ラサには次のような言葉が伝わる。チベット語は形式で、中国語は飯のたね、だというのだ。人々のあいだにも中国語を話すのは進歩で、チベット語は遅れているという意識がある。少しチベット語のわかる人は、ラサの街角のあちこちでチベット語の書き間違えを目にする。病院やホテルの看板でさえ間違いがある。その主な原因は、公的な場所では、たとえ90%がチベット人であっても、はなはだしくは100%チベット人であっても中国語を使うことを要求されるからだ。たとえば、2001年2月にラサで開かれたチベット自治区薬品監督管理局主催の「全区薬品生産経営企業病院製剤許可証更新会議」の席上「医療機関製剤許可証」更新検査細則はすべて中国語だった。チベット語しか知らないチベット伝統医学の製剤師は大変困っていた。彼らは少なくとも中国語とチベット語の対照表があるべきだと言っていた。こうした例はどこにでも転がっている。

(8)性病の急速な蔓延
 90年代以降、ラサのリンコルにたくさんの「飲物屋」や「美容室」が出現した。これらの不潔な店はリンコル沿いにラサだけでなくチベット各地の町を包囲した。人々は、中からしょっちゅう俗っぽくなまめかしい四川女が男たちを引っ張り込もうとするのを見る。僧侶でさえも例外ではない。チベット自治区人民病院男性病皮膚科は平均毎日20人あまりの患者のうち、7,8人が性病患者で、多いときには10人を越える。性病の種類は多く、淋病、梅毒、性器疱疹、尖圭コンジローマ……。自治区人民病院の男性皮膚科主任は、次のように言っている。1978年に11,081人の調査をしたとき、一例も性病患者はいなかった(「医薬衛生治療」誌78年第二期)。いまでは、7,8月のピークには毎月300人あまりの性病患者が出ており、しかもその数は増え続けている。この売春婦の大群が、侵犯し汚染するのはいまの世代の人々の心身だけではなく、数代の、はては一つの民族を破滅へと追いやるだろう!

(9)民俗と宗教問題
 ある当局側資料によると、1998年3月、1ヶ月の期間をつかってタイエルパ寺(扎耶巴寺)(チベットタクツェ(達孜)県内の古い修行地、ラサの東北約50キロ)で粛清を行った。29人の僧をやめさせ、新しく作った経堂と僧坊49棟を撤去した。2000年9月に開かれた全自治区思想政治工作会議で、あらためて封建農奴制の残滓を徹底除去し、人民の思想を縛り進歩を阻害する旧思想・旧習に対し、批判・闘争・淘汰を行い、徹底的に封建農奴制の残滓が再生する土壌を根こそぎにするよう指示した。ラサ市は市街地に長く積まれていたマニ塚(瑪尼堆)を撤去した。1999年と2000年には毎年一度の数万人の参加するダライラマの誕生日の祭り(沖拉亜歳)を禁止した。チベット暦新年のラサ川大橋と宝瓶山の山神の祭礼を制限した。甘露大法会(灌仏会)を取り消し、「四部医典」(チベット医学の聖典)を書き換え、公務員家庭で祭っている仏像を没収した。以上は中国共産党のチベット強権統治のごく一部に過ぎない。しかし、これらのことからチベットを見ると、今日の大規模抗議行動は必然であった。まさに王力雄が言っているように、量の変化が質の変化に転化したのだ。

王力雄:中国・チベット問題解決の鍵(4)

2008-03-24 10:56:56 | Weblog

  考虑到这一点,中国与十四世達喇×达成协议就更有意义,因为那除了是西藏领袖签署的协议,还能确保藏人公决的认可,而公决赋予的合法性是最高的,任何反对的声音从此都将失去立足基础。然而同样的方案,如果不是出自十四世達喇×,结果就可能完全不同。没有了上师的权威,任何一个藏人都会有自己的想法和批评的权利,结果必然是众说纷纭。面对争执不下的局面,能够服众的世俗裁决还得回到全民公决——尤其在未来中国实现民主化以后,然而那时的中国敢不敢同意藏人进行公决?没有達喇×在上,一旦公决被激进的民族情绪笼罩或是被以民主为名的政客煽动,投票结果很可能是赞成西藏獨立的占多数,那时中国怎么办?

  因此从中国的久远利益着想,北京明智的做法不是目前这种拖延,更不是把希望寄托于这一世達喇×的死亡,那恰恰是一种失策,而是应该抓紧十四世達喇×在世并且健康的时机,对西藏问题着手解决,尽早争取得到一个一劳永逸的结果。时间的拖延不仅对達是不利的,对中国也一样不利,甚至更不利。不应该把達喇×仅当作解决西藏问题的障碍与敌人,他更是一把使西藏问题彻底解决的钥匙。当然,搞不好,这把可以打开大门的钥匙,也一样可以锁住大门。

  并非“没有调和余地”

  镇守西藏的陈奎元书记目前是中国反達运动第一线的总指挥,他的断言是:“同達集团的斗争……事关国家民族的根本利益,没有任何调和的余地。”31 正是在这种“不调和”的斗争哲学指导下,西藏的反達运动不断升级,也正是在这样一种“不调和”的斗争过程中,藏人的感情不断受到伤害,把藏人越推越远。陈书记与達的斗争,按照他的说法就是要“剥掉達的宗教外衣”32,然而達既然是西藏宗教的核心,又怎么能够剥掉核心的外衣呢?实际上,只要達喇×一天不回到西藏,西藏百姓一天与其上师处于分离,西藏问题就不能算解决,也不可能解决。如果北京打算等十四世達去世后另立一个達,也不会达到目的。達喇×已经宣布,如果他在流亡中去世,他的转世灵童不会出生在中国控制的地区,因为转世灵童的任务是继承前任事业,不可能是为了毁坏前任的工作。33北京当然可以不理睬这种说法,强行推出自己的達,然而按照西藏活佛转世的规则,前世活佛生前对转世的意愿和指示是确定其转世灵童最重要的根据。此世達已经把话说得如此明白,北京立的達肯定会被大多数藏人拒绝。那将不但实现不了北京的期望,还可能造成更严重的对抗。

  所谓“得人心者得天下”,解决西藏问题的关键不在发展了多少经济,而在于是否能收服藏人之心。即使仅从治国谋略的角度出发,北京也应该重新审视目前的路线,以一个達喇×为敌,换来几百万藏人离心离,到底是不是明智之举?作为坚持无神论的共產黨人,尽可以把達看作一个肉胎凡身的政客,但是作为国家的管理者,就应该去设身处地理解西藏宗教,尊重藏族人民的情感。既然古代帝王都知道“攻心为上”,一个号称“为人民服务”的政黨更不应当只会使用权力,而目前能够对五百万藏人起到最大作用的攻心,莫过于把对達喇×的斗争变为合作,在对话与协商中寻找一条双赢之路。何况,并非如陈书记所说“在任何历史时期,任何国家里,宗教都不能带给人民实际的自由和幸福”34,宗教是人类文明的重要部分,带给人类的幸福是难以胜数的,如果与達喇×实现和解,给西藏宗教自由发展的空间,受益的不仅是西藏,更多的可能还是早已处于信仰真空的汉地。

  北京会说它给達打开过大门,是達自己的顽固不化使他失去了机会,但是我认为八十年代双方接触失败的原因不应归咎于達喇×。胡耀邦那时所开的条件仅仅是解决達喇×的个人“待遇”,却不是解决西藏问题。如果達喇×同意到北京当一个有职无权的副委员长,那只能被视为受降招安而不是合作。他已经为坚持西藏的要求流亡了几十年,身为西藏的灵魂和全体藏人的领袖,他除非是彻底丧失理智,否则无论如何也不可能把那种侮辱性的施舍视为“机会”。

  因此,与達喇×的合作不能只是针对他个人,而是要回应他关于西藏的主张,满足他要为西藏争取的利益。不过在这一点上,人们似乎已普遍丧失信心,北京与達之间好像找不到共同点,存在的只是截然相反的立场和不可弥合的差距,走进死胡同看起来是一种无法改变的必然。

  其实仔细斟酌一下双方提出的根本要求,彼此并不构成矛盾,甚至不处在同一个领域,完全没有发生冲突的必然性。北京要保证的是中国对西藏的主权,按照小平的话说“除了獨立,什么都可以谈”;達喇×的要求则是保存西藏宗教和文化。他说:

  “我并不需求西藏的獨立。我过去多次提出,我需求的是西藏人民能有机会享有名副其实的自治,以保存自己的文明、独特的文化、宗教、语言、生活方式,并使之发扬光大。我最为关心的是确保西藏人民极其独特的佛教文化遗产。”35

  一个要的是主权,一个要的是宗教和文化,这两种要求没有不能互相包容的理由,而且達喇×反复申明过不谋求獨立,北京也反复允诺过保护西藏的文化与宗教,但是为什么没有实现包容,反而发展到双方日益对立呢?

  问题就在于如何让双方放心。達喇×提出的标准是——“中国不用担心西藏獨立,藏人也不用担心西藏的庙宇会消失”,“让中国人放心,让西藏人放心”。 36然而放心不能来自口头,必须有一种可靠的保证。从達喇×的角度,真正做到保护西藏宗教与文化,“西藏人民必须掌握西藏的内部事务,自由地决定社会、经济和文化发展的政策”37,具体就是要“在大西藏的范围以民主方式实现高度自治”。不实现这一点,藏人不能放心。

  而对北京,把四分之一的国土交给藏人“高度自治”,同样不能使它放心。这除了有專制政权不愿分享权力的一面,也的确存在着任何治国者——不管是專制的还是民主的——都不能不担心的另外一面。在我看来,“大西藏”并不需要真正担心,那只是一个地域:“高度自治”也不需要真正担心,如果不存在獨立的威胁,西藏自己管自己只能减轻中国的负担;值得担心的是“民主”。我这样说,不是出于專制权力反对民主的立场,而是考虑民主对中国的西藏主权可能形成的威胁,那种威胁即使在中国实现民主化后也一样存在。对缺乏民主传统同时又积聚较多怨恨的民族关系,民主非常容易成为爆发民族主义的锅炉。在突然释放的民主环境中,大众、精英和传媒三者互动形成的“广场效应”,几乎一定展开趋于极端的比赛,以极端淘汰理性,以更极端的淘汰极端。那种转轮我们在1989年的天安門广场已经看到。那时西藏所有的民主方式和程序——公决、选举、立法、民意表达和自由言论,都可能在“广场效应”的作用下支持獨立,而若四分之一国土的“大西藏”从此割出中国版图,哪一个治国者能够承受呢?对这个问题,不仅是现在的北京政权要考虑,未来的北京民主政权也不能不考虑,而且应该考虑得更仔细慎重,因为现在的北京还可以采取暴力解决问题,未来的北京却没有可能再去对民主的结果施暴。

  不过我们至少已经看到,目前中国与達喇×之间的分歧不在目标,只是在达到目标的手段。如果说目标的对立无法调和,手段的分歧却不应该非此即彼、势不两立,因为手段毕竟不是本质,可以商量,只要双方都能达到自己的目标,手段的变通应该不是问题。那么现在是不是可以把问题集中在一点——那就是,能不能找到一个既能避免“广场效应”又能体现民主理念的新型民主手段?从而可以“让中国人放心”的保有中国对西藏的主权,同时中国也就没有理由不同意“大西藏的高度自治”,从而“让西藏人放心”的保持西藏独特文化的延续与发扬?

  别的因素固然重重,但是在我看来,能不能找到这个手段应该是最终的关键。

  2000年5月 初稿于拉萨

  7月 定稿于北京

  作者:王力雄  

出典:http://www.cnbaodao.com/html/3706.htm


王力雄:中国・チベット問題解決の鍵(3)

2008-03-24 10:54:26 | Weblog

  因此,北京指望通过打倒達破解西藏的怪圈是完全无法实现的目标,反而只能不断加剧藏人的仇恨。在“整顿寺庙”的过程中,很多僧侣宁愿被出寺庙也不按工作组的要求对達进行公开攻击,但他们必定把逼迫他们侮辱自己上师的力量视为魔鬼。有公职的藏人一般比僧侣容易屈服,因为他们的生活命脉掌握在当局手中。流行的说法是“今世靠共產黨,来世靠達喇×”,但是他们无法平衡这种冲突,因为今世口打妄语,必将导致来世(甚至累世)的报应。从这个意义上,共產黨给的工资等于是送他们下地狱的路费。在他们中间,普遍为此感到内心痛苦,而且转化成日益多的恨意。倒是達喇×多次表示体谅境内藏人在被迫状态下对他进行的攻击,以减轻他们的内心压力,同时也更使他们心向達。

  今日西藏寺庙虽然看不见公开悬挂的達像,但是僧侣们往往把達喇×的照片放进佛像所穿的衣服里,或者是用哈达包住放在佛龛之中。公开场合则到处是观世音像,那是達像的替代品,因为人人都知道观世音就是達喇×。至于在普通居民家,達喇×的照片仍然几乎家家都有。而達喇×讲话的录音带和录象带到处秘密流传,即使是在偏远的西藏农村,很多人也是每天听达兰萨拉的广播。

  企图让人民“淡忘过去”或企图“淡化宗教”都属于古典思维。古代可以实现“淡忘”、“淡化” 是因为信息可以垄断封锁,今日却没有任何强权能够做到。仇恨如果得不到及早化解,就将被现代传媒不断地强化、流传,乃至扭曲,永不遗忘,即使一时被搁在了一边,只要一有机会,随时就可以铺天盖地,卷土重来。

  今天,以再大的声势反对達,搞得再猛烈,再坚决,难道还能比得过纹化大革掵吗?想一想纹革时西藏宗教被摧毁之彻底,看一看今日西藏宗教复兴之蓬勃,那样暴烈的革命都没将藏人对達喇×的崇拜铲除,眼下这些“清理整顿”、“开除公职”又能指望有什么效果呢? 

  钟共人士对此不理解,陈奎元书记就抱怨:“这些年,我们花在修缮寺庙的钱比花在修建各级黨政办公设施上的钱还要多。在我区有些地方,寺庙比和平解放初期还多……宗教组织和人士也应当知恩报,不应纵容分裂主义分子利用宗教的名义为非作歹。”24然而人的本质在于精神,不是仅仅给予物质就可以满足的。北京把人權等同于“生存权”,错误就在这里;把“发展经济”当作民族政策是一个糟糕政策,道理也就在这里。民族政策的关键是心。物非心,物也不一定买得到心。“端起碗来吃肉,放下筷子骂娘”其实一点也不值得奇怪。藏人对此这样说:“他们(中国人)也许为我们做了九十九件好事,但是最后一件却是要杀了我们。是否我们还要感谢他们,要对他们感恩戴?”25那被说成“要杀了我们”的事,其实就是对西藏宗教的扼杀,因为藏人没有了宗教,也就等于没有了生命。 

  西藏问题不能再拖

  北京目前似乎打算以时间解决问题,反正西藏在手,枪杆子在手,達兴不起大风浪;国际有求中国大市场,谁也不会真跟中国闹僵,因此尽可以不理達,靠时间把他拖到死,流亡藏人就会随之瓦解,西方社会也就失去可捧的明星,那时在西藏境内转世一个新達,再收拢西藏人心。同时在西藏推行世俗化,让藏人变成像汉人那样只关注经济,问题就会更少。

  我们暂不谈这种思路在其他方面的问题,只考虑一个前提,把希望寄托给时间即使是可能的,至少也需要目前中国的政治体制和领导力量保持几十年不变——即从现在到十四世達去世,再到北京选的下世達成人——才能获得成果,政治体制和领导力量一旦变化,则会导致这种拖延战略发生中断,前面的拖延也就前功尽弃。而这一前提恰恰是最为薄弱的。没有人相信目前中国的政治制度还能再延续几十年,钟共的拒绝改革不会造成不变,只不过使变来得晚一些,同时也将来得更为突然和猛烈。当代社会的政治制度转型大都伴随民族冲突,这种冲突也必将成为中国政治转型的首要挑战。若是未来中国的转型具有爆炸或崩溃的性质,后果就可能更为严重,而西藏问题则会首当其冲。

  按照当前行政区划,中国藏区(共1个自治区,10个自治州,2个自治县)面积225万平方公里,占中国领土近四分之一,西藏流亡政府所称的“大西藏”是 250万平方公里26,超过中国领土四分之一;历史上西藏是否属于中国目前没有定论,法理上有两可的可能;西藏问题堪称当今世界最为国际化的民族问题,西方世界几乎一边倒地站在達喇×一边;藏人被北京政权迫害已成大部分西方人的定见;联合国大会从1959年到1965年三次通过关于西藏问题的决议,都把西藏列入有自决权的范围。了解这几条,就应该意识到目前看似牢靠的中国对西藏的主权并非没有风险,一旦时局改变,力量对比发生变化,在人權高于主权的西方价值观下,有肢解南斯拉夫的先例,西方世界转而支持西藏以自决方式实现与中国的分离不是没有可能。在国际社会眼中,達喇×比任何人都有资格代表西藏,他的要求在某种条件下就有可能成为合法性依据。虽然達喇×曾在不同场合表达过西藏可以留在中国的意向,但至今没有形成法律性允诺,从而使他可以随时退回到西藏獨立的立场,并且只要他把责任归于北京不作回应,其立场变化肯定得到西方民意的广泛理解和支持。

  在中国保持强大与稳定的时候,这种情况不会发生。然而在社会发生政治剧变时,国家会变得十分虚弱。即使是社会未出现大动荡的俄罗斯,至今尚未摆脱困境。以目前中国对政治变革的回避,将来的震荡可能十分强烈,困难的时间也会更长。如果那时经济大幅度衰退,内地无心顾及西藏,驻藏军队和政权就会失去内地供给,官员和军人也会失去战斗意志,汉人则会鸟兽散离开西藏,那时会发生什么情况?辛亥革命时期的西藏可以作为前车之鉴,因为上述情况那时都同样发生,结果是西藏实行“驱汉”,并且维持了长达40年时间的獨立。

  不要说中国内地的动荡持续数年,即使只有几个月时间,已经为那一刻做了 40年准备、有一个公认领袖和一个成熟政府的藏人就可能跨越通向獨立的界限,抢在中国恢复秩序前实现木已成舟的局面。等到中国有力量重新分心对付西藏时,很可能发现它要面对的已经不仅是一个西藏,而是整个西方。那时刚刚稳定的中国虚弱不堪,不要说没有对付“多国部队”的军事力量,自身能否保持稳定和生存也许都要取决西方。今天中国在全球一体化进程中的步步深入,已经为那时埋下伏笔。只要经济命脉被西方掌握,根本无需兵戎相见,西方以经济手段就足以让中国俯首。1997年6月3日美国柏克莱市议会全票通过的议案——“制裁与中国占领下的西藏有商业往来的城市”,就已经展现了这种前景。以西方世界的西藏热和对達的一面倒,有一天为西藏问题而联合制裁中国,在我看来完全不是幻想。

  对中国来讲西藏问题比新疆问题更严重,原因就在这里。西藏问题所具备的因素——历史上主权归属的不确定,国际化程度,西方社会的支持,成熟的流亡政府,为全体藏人共同膜拜并有全球号召力的领袖,汉人居民数量稀少,以及稳定主权的力量全部依赖内地资源——新疆问题并不齐备,程度也低。所有这些因素组合在一起,使西藏与实现獨立之间相差的只剩一个机会——即中国自身出现内乱。而北京目前对政治改革的拒绝,等于正在为西藏准备着那个机会。

  新疆问题引人注目的是暴烈倾向。在中国发生内乱时,新疆可能出现非常血腥的民族仇杀。但是新疆与中国分离,则是需要在西藏带动下才有可能。西藏问题将是中国民族问题的带头羊,西藏问题解决,其他民族问题随之解决,西藏问题不解决,其他民族问题也一定会随之爆发。

  達喇×今年65 岁,在当今人类寿命标准和保健条件下,再活20年不是难事。而20年的时间,中国的政治转型几乎一定要来。考虑到这种时间关系,達喇×的作用就显得非常重要。西藏问题向什么方向发展,他的态度举足轻重,西藏的人心随他而走,人民遵奉他的意志,僧侣为他赴汤蹈火,流亡政府对他言听计从,国际社也会尊重他的意见,给他最大支持。如果把他推到敌对位置,使他对话无门,合作无路,心怀委屈,一旦社会转型的冲击波不期而至,就无法保证他不在时机诱惑和潮流裹挟下转向西藏獨立的立场。那时各种促使西藏獨立的因素就会在他的旗下最大程度地实现整合,形成合力,西藏脱离中国的可能性会因此大大加。在这方面,他一个人的作用超过千百军队,他的老喇×之身有可能调动西方世界的无尽财富27,任何对他的小觑都将是极大错误,并且将付出重大代价。

  反过来,如果现在能不失时机地回应達喇×,与他开展积极对话,平等谈判,及早就他表态接受的“西藏留在中国”之说形成法律文本,则可以使中国对西藏的主权彻底合法化,一举解决长期困扰的西藏问题。西藏主权存在争执的原因之一,就在于缺少这样一个符合国际准则的法律文本。28達喇×是国际公认的藏民族代表,由他签署这样的文本,会被视为藏民族自己的选择,可以成为杜绝西藏獨立的最好保证;无论是藏人还是西方社会,从此没有理由再提西藏獨立;历史上纠缠不清的争辩也只限于学术,政治上一笔勾销。而这样一个法律文本,惟有由十四世達喇×签署才能被世界认可,也惟有十四世達喇×才能让多数藏人同意接受。

  为什么这样说?抛开其他因素不谈,十四世達喇×是在任上流亡,名副其实地担当过西藏政教合一的最高领袖,因此拥有签署协议的充分合法性资格,这是一;十四世達喇×的身份没有争议,因此被藏民族共同视为根本上师,他的意见也因此被藏人无条件服从,这是二。除了十四世達喇×,不会再有人同时具备这上述两个因素,即使是后任達喇×,也会因为没有担当过西藏世俗领导人而缺少相应权威。这一世達喇×去世后,如果西藏问题仍然僵持,几乎可以肯定会出现两个達。那时北京所立的達必定被藏人视为傀儡,从而失去上师资格,也得不到国际社会认可;境外的達也会因为处于争议之中,身份同样难以得到公认。而一旦根本上师的身份不明,无论由哪个達签署这样的文本,都会遭到很多反对。其他人就更没有可能。

  目前藏人对西藏前途有各种各样的主张,尤其在流亡藏人中,反对留在中国、坚持西藏獨立的比例更大。有一种说法是,在13万流亡藏人中只有一个人不主张西藏獨立,就是達喇×本人。然而调查却显示,64.4%的流亡藏人表示在西藏前途问题上達喇×怎么说就怎么做。29西藏流亡议会于1997年通过法案,授权達喇×可以无需经过全民投票独自对西藏前途做出决定。30而我在国内藏区就此问题对各层次的藏人进行询问,最常听见的说法也是按照達喇×的决定办,所以我相信即使達喇×最终仍然要经过公决方式征求全体藏人意见,只要是他提出的方案,就一定能得到多数的赞成.


王力雄:中国・チベット問題解決の鍵(2)

2008-03-24 10:51:49 | Weblog

  然而由于達喇×与西藏宗教不可分割的关系,反对達的运动必然不会只限于他个人,也不可能只限于政治,而一定会延伸到整个西藏宗教。例如要对達进行“揭批”,所有寺庙和多数藏人家却都供奉着達像,每天对其朝拜,如何“揭批”?于是便下令收缴和销毁達像。这样一个似乎只有古代社会才可能有的行为,却大张旗鼓地于1996年开始在整个西藏实施。最先的反抗来自格鲁派三大寺之一的甘丹寺,四百多名僧人高喊“西藏獨立”砸毁了驻寺庙的警察机构;拉萨的色拉寺、哲蚌寺、大昭寺则以停止佛事活动,关闭寺属学校,反锁寺庙大门等行动进行抗议。

  面对反抗,陈奎元书记这样思考:“達集团渗透最严重、最广泛的场所是寺庙,这里是他们施展阴谋、隐蔽藏身的场所,也是他们的追随者最多的地方……如果不能有效地管理寺庙,就无法制止達集团乱藏祸国的阴谋,西藏势必国无宁日。”14他因此下决心将寺庙“从達的操纵下拖出来”15,具体所做就是对寺庙进行“清理整顿”。由黨政官员和公安人员组成的工作组进驻寺庙,僧侣被要求人人过关,接受审查;众多当局不信任的僧侣被出寺庙16,遣送回乡,还有一些关进监狱;留下的僧侣则必须公开表态反对達;制定了限制寺庙活动的规章,如禁止自行修建寺庙,限定寺庙僧人“编制”,禁止寺庙之间串联,在寺庙以外不许宣传宗教等,甚至活佛转世都要在“黨的领导下”进行;寺庙自主名存实亡,政府官员被安插进寺庙管理机构,任何决定都得通过他们。

  运动的扩展没有到寺庙就为止,西藏所有的钟共黨员、干部和国家职工都被明文要求不许信仰宗教,还要把達当作敌人,每人家里除了严禁挂達像,还不允许设经堂佛龛,不许请僧侣念经,不许做佛事,不许挂宗教性标志,不许让子女去西藏流亡政府办的学校上学,违反者要被开除黨籍、开除公职,退休者扣发退休金,学生则不予升学。西藏自治区目前有6万多干部,9万多黨员,15万职工,其中百分之八十是藏族,加上他们的家属,总的算起来,受这些规定影响的藏人超过西藏总人口的百分之十。不少单位经常以突然袭击的方式闯进职工家检查。今年的萨噶达瓦节(藏人最重要的宗教节日),当局甚至要求各单位专门派人到宗教活动场所“蹲点”,监视有无本单位人员出现。还有一些限令到了可笑地步,如规定不许电视台出现经幡画面,结果西藏的电视记者和其他省赴藏记者一起采访时,外省记者专拍遍布民居上空的经幡显示西藏特色,西藏记者却要到处找拍不到经幡的角度。

  对没有公职的老百姓,当局无法不允许他们参加宗教活动,但是以往西藏的宗教节日除了拜佛,人们还要玩林卡、会友、喝酒、打牌等,女人们则在那时展示自己的服装和首饰,而在今天的“宗教自由” 下,宗教活动场所重重设卡,密布警察和便衣,百姓匆匆做完佛事便马上离开。恐惧使节日的欢乐无影无踪,任何一点诸如醉酒打架之事都可能带来牢狱之灾。

  总结当局的思路,在无法重新禁绝西藏宗教的今天,它试图做到的一是把西藏宗教分成两个部分,容忍一部分,禁止另一部分;二是把藏人分成两部分,容忍一部分人信教,禁止另一部分人信教。陈奎元书记说:

  “宗教与社會主義社会相适应,这是我们对宗教的基本要求……假如群众完全接受宗教的引导,那就不是走向社會主義,许多人会由于宗教信仰而被達引入分裂祖国、危害社会稳定的危险境地。”17

  因此对宗教,他要禁止“与社會主義不相适应”的部分;同时藏人中凡是“拿工资”的,也一律不许信教——吃黨的饭就得听黨的话。然而宗教是一体的,经历了千百年构建,牵一发动全身,如何是一个自身难保的社會主義所能要求适应的?而在民族主义日益高涨的今日世界,又有什么手段能把一个民族再分化成对立的两端?尽管砸饭碗的威胁可以暂时吓住一些藏人,但是饭碗不是人心,人心却可能因为威吓离得更远。

  况且,这种分割更像是权宜之计,陈奎元书记在各种场合讲话中所透露的“有神论与无神论,唯心主义与唯物主义是不相容的”18、“宗教是人民的精神鸦片”19、“宗教并不是正确的世界观”20、“要向宗教唯心主义争夺思想领域的领导地位”等信息,对宗教信徒而言已无异于是对宗教的公开宣战。而西藏当局目前推动的“淡化宗教”,更被宗教信徒视为有计划、有系统的对宗教的消灭。对此,走马观花的旅游者看不到。形式上的宗教活动似乎都在正常进行,然而西藏宗教的命脉——被称为 “三宝”的佛、法、僧却都受到遏制和摧残。除了前面讲的“整顿寺庙”,西藏宗教界最担忧的是当局对讲经弘法的封杀。宗教失去哲学思想的传播,百姓的信仰只能停留在形式与迷信层面,无法了解宗教真谛,由此必将造成宗教衰微,还有奢靡之风的兴起与社会风气的败坏。同时,宗教界内部的理论研习与传承也无法正常进行,宗教仪轨或被取消或被限制规模,宗教学位的考试也已十几年不批准举行,目前西藏境内的僧人在宗教造诣上远远落后于国外。不满的宗教人士表示,表面上香火旺盛的寺院形同展览馆,而只让老百姓点灯磕头的宗教自由,作用只在于欺骗外国访问者21,还不如没有。

  今日北京的治藏路线日趋强硬,“把一切不稳定因素消灭于萌芽”成为所有行动的指南。然而“萌芽”无可衡量,“消灭”也就可以任意进行,则会成为苛政的温床。西藏现在表面稳定,人们甚至不再表达异议,却不说明问题已不存在。小平先生说过这样的至理名言——最可怕的是人民群众的鸦雀无声。如果人表达不满,说明他们认为能通过讲理解决问题,当人什么都不再表达时,则是认为已经无处讲理,唯一能被听懂的只剩暴力!

  達喇×与西藏人心

  在北京的无神论视野中,達一无军队,二无地盘,只是一个“穿着意大利古奇皮鞋,在世界上东奔西走,从事政治活动的老喇×”22.然而这世界不光仅仅有权力。权力只能管有形的事物,達喇×的根基是在宗教,恰恰对于宗教,权力是最无能为力的。历史舞台上权力转瞬即逝地轮换,宗教却经受千年风雨而屹立不倒。北京应该认真思考一下,十四世達喇×流亡四十年未入西藏,为什么从没见过他的境内藏人仍然对他狂热崇拜和信仰?那并非是个人的作用,而是達在西藏宗教中的制度性地位。達是藏人心目中观世音菩萨的人世化身,是凝聚西藏宗教的核心,也是西藏政教历史的支点。没有達体制的存在,至今五百多年的西藏宗教就失去了架构,为佛教思想所滋养的西藏文化也无从谈起,所以对藏人而言,達体制绝对神圣,不容亵渎。

  北京反对的虽然仅是流亡印度的这一世達,然而按照西藏宗教的转世之说,達喇×至今传承十四世,并非十四个人,而是同一个观世音菩萨的灵魂依附于不同的躯体,因此不能把这一世達和以前的達分开。北京如果坚持说它反对的仅是目前这一个“分裂祖国”的丹嘉措,与前世诸達无关,就等于否定灵魂的轮回转世和佛教精神延续不灭的学说,也同样否定了藏传佛教的根本,因此它无论如何不能在宣称尊重藏传佛教的同时,又在反对十四世達喇×的问题上自圆其说。

  佛教认为,生命在六道轮回中循环流转,是个不断经受痛苦的过程,下地狱等自不必说,即使是物质生活富足,也不能免除精神烦恼和生老病死之苦。唯一的解脱之道就是修炼成佛,方能脱离六道轮回的苦难,得以在极乐净土永享安乐——这正是藏人追求的人生终极意义与目标。而成佛之路最重要的就在于皈依上师。所谓上师指的是那些已修成佛者,但是他们为了普度众生,自愿放弃在佛界享受安乐,忍受往复转生之苦,屡返人世引导众生获得解脱。上师是信众与佛界之间的桥梁。按照藏人的说法:“没有上师,就算所有的佛都对我们微笑也无法看到。”因此藏人的每日祈祷首要表达是皈依上师,接着才是皈依佛、法、僧。在西藏佛教中,上师的地位至高无上,除了佛陀释迦牟尼,藏人第二崇拜的就是上师。

  上师依修行次第、成就以及传统地位分为不同等级。達喇×是观世音菩萨的化身,又是全藏精神与世俗的领袖,等级最高,在传承上是所有上师的上师,得到所有教派的一致依从,因此追溯起来,達喇×就成为每一个信奉藏传佛教者(几乎是全体藏人)的根本上师。

  在藏传佛教中,离开上师的教导是修不成佛的,将永无解脱地在痛苦中轮回,可想上师对藏人是多么宝贵;而在日常思想行为当中,对上师有任何身、口、意的不敬,就是犯了最大的罪,不但所学佛法和所行修炼前功尽弃,而且还要堕落地狱,可想这对藏人又是多么不可接受。他们有这样的戒条:“宁可割掉舌头也不能批评自己的上师,因为上师代表着佛陀本身,诬蔑上师就是诬蔑佛陀”。明白这一点,就不难知道有没有可能在藏人中间打倒達,以及逼迫藏人对達进行攻击会引起何种反应了。

  日喀则扎什伦布寺的主持恰扎?强巴赤列活佛当年是全国政协常委、西藏自治区政协副主席,平时对北京表现得绝对顺从,以至被有些藏人骂为“藏奸”。十世班禅去世后,北京放心地让他负责寻找班禅转世灵童。在这个关系到西藏宗教根本原则的大事面前,他内心最效忠的是谁就考验出来了。他暗中把寻访灵童的每一步情况向達喇×汇报,最终使達喇×得以抢在钟共之前确认班禅转世灵童。恼羞成怒的北京将他判了八年徒刑,但是他毫不后悔。他说:“我是受了比丘戒,并由達喇×灌顶的。我必须服从灌顶上师的意志,否则是上不了天堂的。”23宗教信徒之所以是信徒,就是为了宗教献身。要他们把热爱世俗政黨与政府放在宗教之上,那完全违背宗教的本质,反而是为了实现宗教目标牺牲自己,才是他们追求的光荣。 


王力雄:中国・チベット問題解決の鍵(1)

2008-03-24 10:47:25 | Weblog
王力雄:解决中国西藏问题的钥匙
2008年03月23日 星期日 于 03:17:22
王力雄 发表在: 中国观察

  表面看,西藏问题是一个历史问题,是 1959年流亡印度的達喇×与他的10余万追随者的问题。但是实际上,真正的西藏问题不在西藏境外,而是在西藏境内。如果问题仅仅是流亡藏人,对中国构不成威胁,境外举行再多的示威影响不到境内,即使是海外绝食自焚的激烈行为,又如何能打动可以为“稳定”在自己首都枪杀数百平民的政府?海外舆论往往如此劝告北京:不及早解决西藏问题,流亡藏人最终将会使用暴力。然而对于拥有世界最大军队的北京政权,这样的威胁对它无足挂齿。

  让北京不能不重视的是境内的藏人。他们的人数是流亡藏人的几十倍,生活地域接近中国版图的四分之一。他们是情愿臣服,还是心存敌意?是甘当顺民,还是有一天会揭竿而起?这对北京才是真的西藏问题。民族问题归根结底是人心的问题。正是由于担心境内藏人与海外藏人联合,北京才对流亡藏人有所顾忌。如果境内藏人真都像它说的那样“心向共產黨”、“热爱社會主義大家庭”,它早就会视流亡藏人为无物,不当成问题了。同样,流亡藏人若是得不到境内藏人呼应,也早就会瓦解,失去国际舆论的支持,自生自灭而被历史遗忘。

  北京当然最希望有这样的结局,这也是它对“陆肆”流亡的中国人所采取的策略——离间境内中国人与其的呼应——并取得了相当成功。然而对北京不幸的是西藏流亡者中存在着一个達喇×,他不是一个可以被丑化和遗忘的人,而是一个关系到全体藏人生命意义和人生追求的“菩萨”。世俗的实力、军队和政治手段在那样的菩萨面前,几乎无计可施。

  为何人心与“发展”背反

  从小平时代开始,北京治藏的思路重点一直是发展经济。小平提出衡量西藏工作好坏的标准是——“关键是看怎样对西藏人民有利,怎样才能使西藏很快发展起来,在中国四个现代化建设中走进前列”1.目前在西藏执掌最高权力已近十年的自治区第一书记陈奎元,进一步概括为——“黨中央国务院动员全国人民支援西藏,帮助西藏加快发展,扶持藏族人民脱贫致富,这是中国共產黨最现实、最具体的民族政策”2.

  近20年是北京在经济上给藏人最多好处的时期,1997年北京给西藏的财政拨款是1952年财政拨款的324倍,是1978年的7倍3.今日西藏凡花钱之事,来源几乎全在北京。离开北京供养,西藏现有的社会体系(至少是城市)连几天都难维持下去。1997年北京给西藏自治区的财政拨款是33亿9776万元,西藏自己的财政收入是2亿9537万元,而西藏当年的支出是38亿1952万元4.如果没有北京给钱,西藏的赤字将是它自己收入的13倍。按照西藏自治区1997年人口数计算,北京给的钱平均到每个人为1410元。5而当年中国至少有5个省(甘肃、陕西、贵州、云南、青海)的农村人均收入低于这个数字。6也就是说,西藏人即使什么都不做,坐等的收入也比那几个省的几千万农民一年干到头要多。

  西藏自治区成立二十周年(1985 年)和三十周年(1995年)时,北京当作礼物分别送了“四十三项工程”和“六十二项工程” 给西藏,总价值近50亿元,而且是指派中国内地的各省市为西藏施工。1994年“第三次西藏工作座谈会”后,北京还指派10个中国内地省市对西藏长期“对口支援”,无偿提供帮助。全中国只有西藏的农牧民免收农牧税。西藏城市虽有收税,但是收上的税全部留在西藏自用。北京给西藏的优惠政策经常让中国其他地区嫉妒不已。例如西藏的进口税曾经远低于其他地区的进口税(汽车在其他地区进口税率为100%,西藏为10%),西藏因此靠向其他地区卖进口批件就发了不少财。一大批西藏企业和老板当年就是利用这个政策完成原始积累的。

  诸多优惠条件使西藏90年代平均年经济长超过 10%,高于全国水平;城镇居民收入年均长19.6%;农牧民纯收入年均长9.3%(1991年-1997年)。7这不光是纸上数字,我今年(2000年)在西藏旅行,到处目睹生活水平的明显提高。无论农村和城市,遍布新盖的民居。拉萨等城市更是变化惊人。从文化角度如何评价另说,以方便舒适论已可以和中国内地媲美。在经济发展和生活水平方面,可以说今日西藏超过历史任何时期。西藏百姓对此也普遍承认。

  然而经济发展和生活改善并没有如北京期望的那样获得西藏人心,反而藏人越来越向没有给过他们一分钱的達喇×靠近。虽然这些年已经很少发生80年代那种街头骚乱,西藏表面似乎平静,但是只要深入到藏人中间,他们的心在哪边却随时可以清楚地感知。去转经路上随人群走走,或是到寺庙朝拜人群中呆片刻,随时都能听到诵念“杰瓦丹嘉措”、“杰瓦益西洛布”之声——那是藏族人对達喇×的尊称。祝福達喇×平安长寿是很多藏人每天必做的祈祷。一个有意思的故事是,中国当红歌星朱哲琴为她大获成功的歌曲“阿姐鼓”到拉萨大昭寺现场录制音响时,随机选录了一位藏人老妇的祈祷,直到唱碟已在全球发行,才被听出那也是祝福達喇×的祈祷词。在一些宗教日的群众场合,更有藏人不顾禁令集体为達喇×祝福。今日年轻藏人中最重的发誓是对達喇×发誓,而藏族儿童名字中有 “丹”二字的近年剧,也是因为这一世達喇×的名字是丹嘉措。

  无论什么事,只要是北京与達对立的,绝大多数藏人肯定支持達。对班禅之争,藏人普遍拒绝北京的班禅,只认可達的班禅。噶举派法王噶玛巴被北京作为 “统战对象”时,在藏人中间的威望远不及他投奔達喇×以后那样高。祈求噶玛巴护佑的祷词原来只在噶举派寺庙可见,噶玛巴流亡后则遍及藏地。现在几乎每个藏民家里都供奉噶玛巴照片。他由于与北京决裂而从一个教派领袖一跃成为各教派共同接受的领袖,并被藏人广泛地视为達喇×未来的接班人。

  正如噶玛巴宁愿舍弃北京铺就的锦绣前程而去流亡一样,很多藏人也做出同样选择。陈奎元书记对此有这样的讲话:

  “近些年来,多次发生干部、新闻工作者、知名演员、企业经理等人,叛国外逃。他们有的直接投入達集团,有的加入西方敌对势力的反华圈。有的人长期受到黨和国家的精心培养,现在成了恶毒地反对国家统一、反对中国共產黨、反对中华民族的分裂主义集团的骨干。”8

  陈书记是全西藏掌握信息最充分的人,他如此讲,足以说明情况。每年还有成千上万的藏人冒着死亡危险翻越喜马拉雅山脉,去印度投奔達喇×。钟共的藏族官员(甚至包括高级军官)一退休立刻转经拜佛,这样的事例屡见不鲜。而那些从小被送到内地接受钟共教育的藏族青年,往往成为民族情绪激烈的反对派。

  一位藏族官员从五十年代初就一直是钟共热情的追随者,连耕地时都在自家耕牛角上扎起五星红旗,每天把家中农奴集合起来宣讲革命,为此他得到一个“加米”(藏语:汉人)的外号。就是这样一个“加米”,现在被当局划入“民族情绪严重”之列受到批判。从“加米”到“民族情绪严重”,这一戏剧性的变化说明什么?其中一部分原因,我在《西藏问题的文化反思》一文中谈过,这里不再深入。可以肯定的是,那原因不是物质的和经济的,也决非是靠“发展”能够解决的。他的生活很不错,房子宽敞,设施现代,子女都属当今西藏的成功人士,可是一谈起政治方面的话题,他就表现得心情压抑,情绪激烈。

  他告诫我,如果认为现在比“骚乱”时期稳定就错了,当年闹事的主要是僧侣和一些受煽动的青年,现在则是干部、知识分子、国家职工都成了反对派,目前的稳定只在表面,一旦有一天鎮壓不住,起来闹事的人肯定要比80年代多得多。

  反達运动

  为什么北京为西藏大笔地花钱,却得不到藏人的心?原因有多种,但是我认为最根本的原因,就是北京与達喇×的敌对。達喇×并不是一个单纯的个人,他代表的是维系西藏五百多年的達世系和達体制。在藏人的转世观念中,与一世達为敌,就等于与全部達世系为敌,也就成了与整个西藏宗教和西藏民族为敌。如此,再给钱能有什么效果呢?

  80年代北京也曾想把達拉到自己一边,那时一直有一个“争取達集团和国外藏胞回归祖国”的工作项目(简称“争归”),并设立了专门机构。“争归”没取得实质进展,原因在于双方的差距实在太大。北京允诺给達的只是恢复他“全国人大副委员长”和“全国政协副主席”的虚职,不允许他回西藏,也不允许他兼西藏的职务,9而達要求的则是整个“大西藏”在民主制度下实现“高度自治”,差距大到如此地步,也就没有了对话的基础,更不要说取得进展了。

  为了打破僵局,達喇×的策略是借助西方对北京施加压力,期望以此迫使北京让步。他成功地实现了西藏问题的国际化,他自己也在那个过程中成为当今国际最有影响力的人物之一;另一方面,80年代末期拉萨出现街头抗议和骚乱,当局进行了流血鎮壓,并最终实行了长达419天的军事戒严。这些都导致了西方社会一边倒地站到了達喇×一边,“西藏问题”也成为西方国家经常用以批评北京的话题。然而这种压力没有换来北京让步,反而使它失去“争取”達的耐心,态度转向强硬。它不仅把達在国际上的活动认为是敌对行为,而且把西藏境内的闹事也归咎于達喇×。其藏事官员的说法是:“自1987年9月27日以后拉萨发生的几十次大小骚乱,達不仅发表声明予以支持,而且出钱出人进行组织策划。可以说没有達的公然支持和策划就不可能出现在拉萨‘打、砸、抢’的骚乱,就不可能出现一次又一次的政治爆炸案。”10

  事情搞到这种地步,北京才开始意识,它对西藏的“拨乱反正”结果使它陷入了一个怪圈:藏人是一个宗教民族→宗教性质决定信教者对宗教领袖无条件服从→ 達喇×是西藏宗教的领袖→同时他又是流亡在外的政治领袖。按照这个怪圈的逻辑,只要给西藏宗教自由,藏民族就必然对達顶礼膜拜,達以宗教领袖对藏人的精神影响力,就可以很容易地转化为引导藏人反对北京的政治号召力,从而把西藏宗教转化为他的政治资源,这使北京陷入了一个进退两难的境地。陈书记对此表述得非常清楚——“在精神领域为達留下一席之地,分裂主义在政治上就获得了广阔的空间,我们必然处处被动。”11这里所说的“精神”其实就是西藏宗教的代名词。

  显然,重新禁绝西藏宗教已经没有可能,破这个怪圈只有从達本人着手。1994年北京召开“第三次西藏工作座谈会”,从此治藏路线转为强硬,達被当作了“打蛇”必须先打的“蛇头”12.1995年達抢先认定班禅后,北京更是将其彻底视为敌人。主管民族工作的钟共政治局常委李瑞环这样为達定性:

  “達是图谋西藏獨立的分裂主义政治集团的总头子,是国际反华势力的忠实工具,是在西藏制造社会动乱的总根源,是阻挠藏传佛教建立正常秩序的最大障碍。”13