【ML251 (Marketing Lab 251)】文化マーケティング・トレンド分析

トレンド分析ML251の文化マーケティング関連Blogです。ML251の主業務はトレンド分析をコアにしたデスクリサーチ。

『欲望の音楽』 趣味の産業化プロセス

2011年01月22日 | 書評
学校を卒業し、埼玉(大宮)から都内へ毎朝、定期的に満員電車に乗る生活が始まった。
まだ、都内に住む前のこと。
酷いラッシュの車中でよく考えたものだ。
「東京に人が集中し過ぎる。地方出身者は、せめて学校を卒業したら強制的に郷土へ帰る社会システムにすべきだ!」
自分のように都内に「通える」、近郊の人間は例外として、という自分に都合のいい考えだったが。
でも、「人が集まらなければ、金も物も集まらないんだよな・・・」 と僕の発想は頭の中で堂々巡り。

首都にヒト・モノ・カネが一極集中しすぎる奇形な国の筆頭かもしれない。世界の中で。
この“病巣”は、明治以降に肥大化したと思う。
江戸も世界に冠たる大都市であったが、まだ地方には独自の産業も文化もあったと思う。

ズバリ、「東京」を創ったのは、薩長土肥の田舎モンどもである。
まぁ、幕藩体制が時流に乗り遅れ、「日本を洗濯するぜよ!」と坂本龍馬のような田舎モンが出てきたのも、社会システムの変革は「周縁」から、という理には適っているのだが。
「中心」の活性化には「周縁」が必要だからね。
「中心」にも勝海舟のようなマトモな人材もいたけど、「体制内」であったため、いかんせん敵わない。
とにかく、薩長土肥の田舎モンは、帝(ミカド)まで東京にお移しになるという“暴挙”まで。。。
近代国家として欧米列強に対抗するため、にわかに一極集中を推し進め、国家の体裁を整えたい、ということだったのだろうから仕方がないと言えば仕方がないのだが。

司馬遼太郎が言った、東京帝国大学に象徴される「配電盤」。
それは“頭脳”のみならず全てを東京に集中させた。
(早稲田の大隈は薩長土肥の「肥」、慶應の福沢は中津藩)

ちなみに江戸時代まで、幕臣が利用した関東のリゾート地は房総だったと最近になって聞いた。
ところが、現在では伊豆のほうがステータスが高い。
薩長土肥の田舎モンは、房総では野暮な田舎モンと馬鹿にされたため、やむなく伊豆を別荘地を開拓したそうだ。
思えば、千葉(そして埼玉)の理不尽な境遇は、薩長土肥の田舎モンのコンプレックスに根があるのかもしれない。

連中のコンプレックスによる弊害は、現在まで連綿と続いている。
80年代、「根暗(ネクラ)」がブームになったが、ある本を読んでいたら「根の暗い人間」の典型として、「やたらに千葉・埼玉を馬鹿にしたがる地方出身の東京在住者」といういうのがあった。
タモリのような人間である(当然、ご本人も自覚されていると思う。何しろ頭のいい方なので)。
とにかく、東京に住めば「東京人」なのだ。
そして、家賃負担の必要もなく、自宅から通勤・通学のできる千葉・埼玉の若者を、「あっ、埼玉ね」とか。
でも、そういう自分も地元に対する感情は極めてアンビバレントだった。昔は。
住居も埼玉に戻した今は、アンビバレントな感情は吹っ切れたと思う。これも歳をとったということか?



またしても、まえがきが長くなるという悪癖が出てしまったが(増渕さん、スンマセン・・・)、要は首都一極集中は、地方各都市の富と“多様性”を奪う方向にしか作用しなかったということだ (千葉・埼玉の話は蛇足・・・)。
産業しかり文化しかり。
人材も金も全てが「東京」に吸い上げられるシステム。
かつての元勲達の「国を想う」気持ちはわかるんだけど、その後の鹿児島や山口や高知、佐賀の状況はどうかな? いいのかな?

とりわけ、メディアとの密な連携によって市場を拡大してきた音楽産業の場合、マスで成功をおさめるためには、どんなに地方色の強いアーティストでも“東京発”でなければならなかったわけだ。
「配電盤」は音楽産業において特に強固だった、ということだろう。

本書では、東京、京阪神、福岡、札幌、仙台、沖縄における文化産業の集積の過去と現在が丁寧に検証され、今後の都市復興の道筋が示唆されている。
約10年前、僕が僅かに関わったことのあるインディーズのメーカーでは、沖縄勢の隆盛に対し、「北を開拓する」という戦略をとっていた。
本書を読んだ上で、今考えてみると底の浅い“ビジネス戦略”だったかなと(僕が立案したわけじゃないですけどね・・・)。
「底が浅い」ということは、増渕さんの実証研究のような下地がなかったから、ということだ。

産業化には集積が必要である。たとえきっかけは偶然であっても、集積が進みそれが環境として認識されるには、それなりの必然性もある。

資本主義があらゆるものを“商品化”するのは、改めて言うのも疲れるぐらい必然なことである(もちろん、商品化できないものもあるんだけどね・・・)。
所詮、音楽は“趣味”である。
行き過ぎた“産業化”が市場シュリンクに見舞われている現在、この「所詮、趣味、されど趣味なんですよ」という原点について考えを巡らすことは無益ではないだろう。
90年代に市場を拡大させてきた=消費財化の“針は振り切れた”ということだからだ。

本書では、そのサブタイトル通り、「趣味」の産業化のプロセスを学際的に検証されている。
そして、音楽が“情報”としてその価値を自ら貶めてしまったことも示唆されている。

増渕さんが本書で述べられる通り、「文化的な財」として音楽を捉えなおしていくことは必須であろう。

“欲望” “情報” “文化” とは僕の問題意識におけるキーワードであるが、増渕さんの力作である本書を読んで得るものは大きかった。

**************************************************************************
 お読み頂き有難うございます。
 (↓)クリックの程、宜しくお願い申し上げます。


最新の画像もっと見る