2019年2月17日(日)に投稿された加藤治郎氏による一連のツイートは、Twitterを利用している短歌関係者およびその周辺でかなりの話題となりました。単にTwitter上での一騒動というだけに留まらず、既に複数の総合誌の歌壇時評において取り上げられています。時評で取り上げる、ということは、広く歌壇ないし短歌・文芸に関わる者のあいだで共有され考察されてしかるべき事案であると書き手が判断した、ということです。私も今回、この「詩客」でこの件について書くことを引き受けたのも、Twitter上の失言と撤回というだけの話ではなく、より広く深い視野からこの問題について考える必要があると私自身が判断したからです。
実は私は、加藤氏の例のツイートがあった当日から翌日にかけて、Twitter上で加藤さんご本人へリプライを送り、直接的かつ公開の状態で、発言に対する批判を既に行っています。私の批判の論旨は現在に至るまで変化はありません。そこで、この文章では敢えて事態の概観を把握することよりも、私自身がその時にどのように考えて批判を行ったのか、という私記録的な視点から、実際のツイートを引用しつつ開示してみようと思います。つまりこの方法は、加藤氏の「#ニューウェーブ歌人メモワール」のツイートや「短歌往来」での連載に近いものです。今回の一連のツイートで、加藤さんは30年前の回想であることを強調していたように感じました(そして、そこにも問題はあるのですが)。敢えて同種の方法を採ることで、メタ的な批判と、批判に基づく実践を試みます。
ただ、正直なところ、私はもうこの件について、口にすることにも考えることにも疲れ切ってしまった上に、後述する理由もあって、一時は依頼を断ろうかと思いつめたりもしました。それでもこうして書き、文章を公にすることを選んだのは、「不平等について語るとき、不当な経験から感じ取った感覚がどんな統計よりも正確に示すことができる」(イ・ミンギョン/すんみ・小山内園子訳『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』タバブックス、2018年)という言葉に賛同する意志が私の中にあるからです。繰り返しになりますが、ここに記したのは、筆者にとっての今回の経験の実情であり、経験や回想を書くという行為に対する批判的実践です。
なお、水原紫苑氏を「ミューズ」と形容し、大塚寅彦氏を「地方都市の男」と呼んだそれらのツイートの問題点については、川野芽生氏による「現代短歌」4月号の時評、および中島裕介氏による「短歌研究」4月号の時評に簡潔にまとめられていますので、ぜひそちらを参照して頂きたいと思います(付け加えると、このお二人の時評は、時評という枠組みを超えて広く共有されてしかるべきテキストだと考えます。掲載誌が最新号でなくなったタイミングでWeb上に公開する等して、お手間でも読者からのアクセシビリティが高い状態にしておいて頂きたいと勝手ながら思います)。
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#ニューウェーブ歌人メモワール
水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった
穂村弘、大塚寅彦、加藤治郎、みな水原紫苑に夢中だった
凄みのある美しさが、彼らを魅了した
(@jiro57: 2019年2月17日0時58分24秒、水原紫苑氏の顔写真画像添付あり。現在は削除済み)
「ツイートは現在削除されているが、だからといってなかったことにはならない」という川野芽生氏の指摘(「うつくしい顔」「現代短歌」2019年4月号)は、正しい。恐らく加藤氏は、ツイートを削除することで謝罪や反省の意志を示したかったのだと思いますが、残念なことに、「削除」の痕跡は私たちが加藤氏に送ったリプライを辿れば分かってしまうことですし、その痕跡をあの日タイムライン上に居合わせた人々の記憶から消し去ることは不可能です。失言に対する撤回と謝罪そのものがどこかの国の政治家のごとくパフォーマンス化してしまうのは、あまり良いことではないでしょう。私としては、加藤氏にはぜひそのまま残しておいた上で、今回の出来事を折に触れて思い返して欲しかったのですが。
さて、加藤氏のこのツイートを見た時点で、多くの人は、昨年(2018年)のシンポジウム「ニューウェーブ30年」以来のニューウェーブと女性歌人に関する話題を想起したことでしょう。件のシンポジウムで加藤氏は東直子氏からの質問に対して「女性歌人はそういったくくりのなかには入らない、もっと自由に空を翔けていくような存在なんじゃないかと思う」、「つまり山中智恵子や葛原妙子を前衛短歌に入れる必要ないし、早坂類をニューウェーブのなかに閉じ込める必要もない。天上的な存在として思っています」等と答え(「ねむらない樹」vol.1、2018年8月)、後にほかならぬ水原紫苑氏その人から「加藤治郎の「天上的な存在」という言葉は、葛原妙子を「幻視の女王」、山中智恵子を「現代の巫女」と呼んで封じ込めたものと同じ圧力を持っている」(「前を向こう」「ねむらない樹」vol.2、2019年2月)と批判された、という事実は、当然ながら筆者も知っていました。2月の半ばですから、「ねむらない樹」vol.2はまだ多くの人は手の届くところにあったことでしょう。だからこそ、これまでの経緯を思い出した私による、この件に関する最初のツイートは「懲りてないな、というか、骨の髄まで染み込んだものはどうにもならんのだな、という諦めがもはや大きいな」(@symphonycogito: 2019年2月17日11時26分52秒)という、非常に口の悪いものでした。
諦めが大きい、と書いたのは、件のシンポジウムからその時点で既に半年以上が経過していたことが念頭にあります。シンポジウムについては私自身も、とっくの昔に「塔」の時評で手短な批判を書き(「自己認識と共通認識」「塔」2018年10月号、ちなみにこの時評を書いたのは8月の中旬、「ねむらない樹」vol.1刊行直後のことです)、シンポジウムの採録をした当の「ねむらない樹」も、次号で東直子氏や水原紫苑氏、川野里子氏らに執筆を依頼して、メディアとしての責任を果たそうとしていました(これを「炎上商法」的だと見ることは勿論可能だし、正直なところ私も少々そんなふうに見ていたのだが、無視を決め込んで無かったことにするよりはましでしょう。裏を返せば、「ねむらない樹」vol.2の特集「ニューウェーブ再考」に対する筆者の評価はそのくらい、ということにもなってしまいますが)。
つまり、加藤氏にはシンポジウムでの紛糾から現在に至るまで、内省するきっかけと時間は、周囲から与えられたものを含めてたっぷりあったはずなのです。2月中旬ですから、シンポジウムから数えたらもう8ヶ月経っていました。あの時何が問題とされたのか、分かるきっかけはあちこちに用意されていただろうし、これまでにも疑問を投げかける声はあったはずです。にも関わらず、呆れたことに加藤氏は、女性歌人に対する言い回しを「天上的な存在」から「ミューズ」へ言い換えてきた。シンポジウム以降の疑問の声が届いていなかったかのような振舞いに、思わず私も匙を投げそうになりました。
「ミューズ」という語に含まれる問題については川野・中島両名の時評を参照して、更にそこからシュルレアリスムや現代美術における「ミューズ」の問題へと各々で考察を深めるとして(ここではやりません)、今ここで私が声を大にして言いたいのは、このツイートの「ミューズ」やシンポジウムでの「天上的な存在」という語は、単に語の選択の問題であるだけではなく、その語を導き出した発想やそれを当然のものとして受け入れてきた社会構造の問題であり、そしてそちらの方がより根深く、無自覚なままに拡散され、蓄積されやすい、ということです。それは恐らく、直後に降ってきたこの最大の「爆弾」からも理解できることです。
#ニューウェーブに女性歌人はいないのか
水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった
大塚寅彦のような地方都市の男は、イチコロだった
私は田舎者だが、東京の大学に通っていたので多少免疫があった
穂村弘は、水原紫苑の電話友達からスタートしたが、たちまち距離を縮めていった
(@jiro57: 2019年2月17日11時33分59秒、水原紫苑の顔写真画像添付あり。現在は削除済み)
念のため、中島裕介氏の時評の、加藤氏のこのツイートの問題点を列挙した部分を引用しておきましょう。
1.水原に対して「ミューズ」という語を用いたこと
2.1により、短歌におけるニューウェーブは(「女性歌人はいないのか」という文面に対し)女性を含まないと示唆していること
3.大塚を「地方都市の男」と断じていること
4.大塚が水原紫苑に「イチコロだった」、すなわち何らかの好意を抱いていたと断じていること
5.4を、大塚自身ではなく、第三者である加藤が(真実か否かは別にして)記述したこと
6.地方出身者は(東京=中央に行って「免疫」をつけない限り)好意を抱きやすい、と考えていること
7.6を通じて、中央と地方の〈権力‐従属〉的関係を再強化していること
8.加藤が著作権を持たない画像を公に送信したこと
(中島裕介「ニューウェーブと「ミューズ」」「短歌研究」2019年4月号)
私からこれに付け加えるとすれば、穂村氏に対する「たちまち距離を縮めていった」という表現も、「イチコロ」や「免疫」と同一線上の認識に基づいた表現と見なされ得るものではないでしょうか。「イチコロ」なんて言葉は、「魔女っ子メグちゃん」(1974-75年)の主題歌の中に化石として残っているようなものとばかり思っていましたが(主題歌しか知らなかったので、東映アニメーションミュージアムのYoutube公式チャンネルで公開されている「魔女っ子メグちゃん」第1話を観ましたが、「家族」と「家父長制」を癒着させて無理に飲み込ませようとする物語を、男性主体の制作陣が「女の子向けアニメ」として作っていた事実そのものがどうにも気持ち悪くて、ちょっと耐えられませんでした)、こうして使用されてみると、なるほど「イチコロ」という語に含まれる意識や互いの視線には、相手に対する性的な意味付けの衝動が潜んでいるように見えかねない。加藤氏はここで、自分自身の回想であることを理由に、水原・大塚・穂村三氏を加藤氏個人の意図する文脈へと巻き込んでいるのである。
勿論、ツイートに登場する人々は旧知の間柄で、そんな風に言われたり書かれたりしたところで「またまた~」と気楽に流してくれるのかもしれません。ただ、この問題は果たして、密な人間関係であれば許されることなのでしょうか。そうではありません。発言に傷つく相手ではないことと、発言そのものに問題がないことは別の次元の話です。むしろ「またまた~」という態度に含まれた裏の意味を考えれば、親しい間柄であったとしても言葉はいつでも「はたから見られ得るもの」である、ということを想定しておいた方が賢明ではないでしょうか。
さて、中島氏が丁寧に列挙しているように、「ミューズ」や「地方都市の男」といった語を加藤氏に選択させているのは、非対称的でヒエラルキーを含んだ対立構造の集積です。言い換えれば、加藤の一連のツイートはこれらの非対称的・差別的な構造が内面化され、集積した中から言語化されることによって出来上がっています。このツイートで加藤氏本人の立場は〈男性歌人〉であり、なおかつ女性に〈免疫〉がある〈中央〉側の人間であることになります(そう読み取って相違ないでしょう)。水原氏や大塚氏を、結果的に構造の下位に据え置くことになってしまい、それをツイートによって誇示する結果に至ってしまっているのです。
こりゃあ黙って見ていられない、と思いました。ここから先、私のツイートも引いていきます。何とか冷静になろうとして、ツイートを3回は書いたり消したりしてから送ったのですが、それでも正直、憤りは隠せていません。
@jiro57 いい加減にして下さい。あなたは今、「ミューズ」という言葉で水原さんを殺し、「地方都市の男」という言葉で大塚さんを殺しました。ミューズの写真ならフリー素材なのですか。「男/女」「都会/地方」等、他者をカテゴライズして消費しようとする強者的価値観を晒してそんなに楽しいですか。
(@symphonycogito: 2019年2月17日13時43分32秒)
当人に差別の自覚があったかどうか、悪気があったかどうかは、ここでは一切問題になりません。何故ならこれは、加藤氏個人の問題であると同時に、個人を超えたこの社会の構造の問題でもあるからです。だからこそ私は、加藤氏がこの構造上の問題を把握することは不可能ではないと思ってリプライを送ったし、今でも問題点の共有は可能であると思っています。
また、構造の内側にいる者からすれば、構造そのものが堅固化していく過程で、構造そのものが抱える問題点を把握するためのメタ的視点それ自体に到達しにくい環境下に置かれることも、考えておくべきでしょう。しかし、今回であれば、「男」や「都会」の側にいることを選ぶことができるものは、構造の外側にいて選択肢を与えられることのない者の苦しみからあらかじめ引き離された上で、自身を構造の内側へ、無意識に安住させていってしまう。
繰り返しになりますが、注意してほしいのは、構造の問題であるからといって、そこに悪意が無かったら、自覚が無かったら、無意識だったから、個々人の言動によって顕在化した差別の構造は無視して良いというわけでは決してない、ということです。そうした見て見ぬふりをしていた方が生きやすく、この社会では何かと都合が良いでしょう。何故ならその視点が構造によって担保され、保証されているからです。しかし私は、そういう構造由来の差別の助長や温存にはもう飽きてしまった。更に言えば、個人の自覚や悪意の有無を理由にこの社会に存在する差別の構造を許容することは、巨視的観点で言えば、強者の論理の下で食いつなぎつつ強者側からの差別の温存に加担することに繋がることになるでしょう。こちらはもう、その手には乗らない。乗りたくない。世渡り下手と言われるなら、「世渡り」という発想そのものを駆逐したいところです。
@symphonycogito こんにちは
これは、私の回想録なんです
30年前の私の視点で書いています
(@jiro57: 2019年2月17日19時52分20秒)
「ニューウェーブ歌人メモワール」は「短歌往来」(ながらみ書房)2018年2月号から連載しています
Twitter版 #ニューウェーブ歌人メモワール は「短歌往来」執筆のためのメモランダムやアウトテイクです
執筆の指針は、30年前から現在に至るまでの事実、自分の気持ちをありのままに書くことです
(@jiro57: 2019年2月17日20時45分26秒)
@jiro57 回想録だから、30年前の記録だから免罪符になるとお考えなのでしたら、まずはその、自分の回想は誰にとっても求められる善きものであるという前提を再検討して頂きたいですね。30年経てば他者への蔑みは時効ですか。回想するなら、過去の差別の再生産ではなく自己反省を書き残すべきではないですか。
(@symphonycogito: 2019年2月17日21時20分28秒)
ここでひとつ付け加えるなら、「他者への蔑み」という言い方は、内面化した差別構造に無自覚である人からすれば、無自覚であるがゆえにぴんと来ない表現だったかもしれません。この時点で加藤氏は非対称的構造を認知していないか、認知していても問題の根幹がそこだと意識していないわけです。私としても批判が下手だった箇所です。
ただ、当然のことですが、回想であること、メモランダムであることは決して免罪符にはなりません。
ありのままを書くことは確かに歴史的な価値を持つでしょう。何より私は評論書きですから、当事者の発言は資料として貴重だということを知っています(もっとも「発言」と「回想」は区別すべきだとも思います)。ですが、過去を紐解き、再現前化させることで、当時の差別的構造をも再生産させてしまっては元も子もないし、それこそ加藤氏の意図するところではなくなってしまいます。回想であるなら、当時のみずからを縛っていた構造の諸相について、現在の地点から批判的に述べることも可能であるはずだし、むしろ批判が明示されないままに、事実性のみを優先させて回想を陳列することは、意図せぬ差別の助長や再生産に繋がってとても危険です。
これは過去の作品の再版等でも起こり得る問題で、近年では過去の作品を再版する際に、差別を助長する意図が無いことと文学的意義を考慮して修正せず収録した旨が巻末に添書きされている例が多く見られます。例えば大和和紀『はいからさんが通る』の新装版(講談社、2016-17年)が刊行された際には、「不適切な表現ではありますが、該当箇所を修正・削除することは、その時代に世間から誤解され、差別を受けた人々がいた事実をも覆い隠すことになります」として、作品の舞台である大正時代、そして作品が書かれ読まれた70年代という「二つの時代に思いを馳せることで当時の社会の空気感や人権意識について考えていただくきっかけとなれば幸いに思います」と記した添書きを巻末に掲載したことが、それこそTwitterでも広く拡散されて大きな話題になりました。
過去は必ずしも「古き良き時代」ではないのです。懐古趣味的発想は、その時点で認識もされていなかったが厳然と存在し続けていたヒエラルキーを、差別の構造を、時として容易に正当化し、その下で苦しみ続けていた者たちの声を再度無視することに繋がりかねません。大切なのは、回想する現在と回想される過去との対話です。
@symphonycogito あなたは、編集者でしたよね
30年前の回想録です
そのときのありのままの心情を綴っています
文学とは何か
あなたは、どうお考えですか
(@jiro57: 2019年2月17日22時43分20秒)
このツイートの冒頭、「あなたは、編集者でしたよね」という部分の意味は追って考えるとして、この私宛のツイートに前後する形で、加藤氏はみずからにリプライを送った複数名に対して、同様に「文学とは何か」という質問を送っています。筆者以外へのリプライの中には「文学の死です/この状況は」(「/」は改行を示す)という言葉も紛れていたので、どうやら加藤氏は周囲からの批判に対して、「そのときのありのままの心情を綴」るという方針を採っているみずからの「30年前の回想録」への、表現の自由の侵害であると感じていたようです。
しかし、ここでまず考えなければならないのは、複数の対話者に向かって「文学とは何か」という設問のすり替えを行うことで、加藤氏が会話の主導権を握ろうとしているという、更なる立場不均衡の発生についてです。正直な話、ここでいきなり「文学とは何か」と訊かれるとは思っていませんでしたから、こちらもかなり面食らいました。加藤氏のこの態度は、お前の考える「文学」が本当に「文学」かどうか俺が判断してやる、というマウンティング行為と言って差し支えないものです。対等な立場で会話を遂行しようという視点が、明らかに欠如してしまっているのです。
そして立場の不均衡に関して言えば、私に関しては実はもうひとつのヒエラルキーを課せられていました。それが先ほど触れなかった、〈作家‐編集者〉の不均衡です。
確かに私は、直近で現代短歌社(「現代短歌」「現代短歌新聞」の発行元)に勤務していた時期がありますが、2018年末をもって退職しています。現在の職場も出版社ではありますが、編集担当ではありません(これ以上のことはプライバシーかつ守秘義務に関わることなので書けません)。この時、「片方は編集者の癖に作家の手を止めるなと申しておるのでそこはもう平行線です」という物部鳥奈氏からのリプライが筆者に飛んできたりもしたが、まさにその通りだったと思います。当然、私もそれに気づいた上でやりとりを続けました。
@jiro57 当事者の言葉をある程度敬意を払いつつ受け取る姿勢は勿論私にもありますが、現在の観点からすれば明らかに他者への差別・品定めを含んだ回想を「そのときのありのままの心情」として反省も自己批判もなく記して、果たしてそれが文学でしょうか。少なくともあなたのそれは文学ではありません。
(@symphonycogito: 2019年2月18日08時6分15秒)
その質問に答えることで相手のヒエラルキーに組み込まれてしまうのであれば、質問に答えないでおくことが、身を守る術としては賢明だと思います。しかし、荒っぽいけれどもう一つ手がある。ヒエラルキーの上位に位置するもの、あるいは上位に居座ろうと欲して他者に圧力をかけてきているものを、手短にその構造から引きずりおろしてしまうことです。自分の回想ツイートが批判されたことを「文学の死」と宣うのは、要するに文学とみずからを同一化しつつ権威化していることの証左です。申し訳ないが、こちらはその手には乗らないし、泣き寝入りするほど弱くもない。
@symphonycogito こんにちは
私の言っているのは「ニューウェーブ歌人メモワール」全体です
ツイートは、その極一部で、私の水原紫苑論は、これから始まるところです
全部読んでから文学かどうか、判断してください
(@jiro57: 2019年2月18日08時17分53秒)
@jiro57 「部分/全体」の話にすり替えるのはやめてくれませんか。あなたが「極一部」だと言った諸々の原稿メモ的ツイートは、仮に「極一部」であるにせよ「全体」の根底に関わる作者側の認識の欠陥が、これだけ批判可能な形で現れているのですから、むしろあなたという人間全体への信頼の問題でしょう。
(@symphonycogito: 2019年2月18日08時26分40秒)
話のすり替え第二弾についての筆者の批判は上のリプライの通りなので繰り返しません。それにしても、今回の件に限らず、「部分/全体」の基準で考えた時に、批判する側が「極一部」を通じて見通す「全体」というものについて、批判されている側の認識が及んでいないケースが多い、というのは何故なのでしょう。
そんなことを考えつつこの原稿を準備していたら、ちょうど岩波書店の「世界」にぴったりの論考が載っていたので引用します。社会学者の小宮友根氏は、女性表象に関する論考の中で、「特定の文化的・社会的記号やふるまいのコードを用いること、また特定の媒体に特定の仕方で配置することそれ自体の「悪さ」について考える」上で、「女性に対する特定の意味づけを含む表象は、同じような意味づけを含むさまざまな活動のひとつであるがゆえに、そうした意味づけを問題だと感じる者にとっては「ここでもまた」という累積的な問題として経験される」一方、「そうした意味的繋がりを感じない人にとっては(…)「ちょっとステレオタイプだな」くらいに思っても、ケア労働の問題やセクシュアル・ハラスメントの問題において感じられるのと同種の抑圧がそこで累積されているとは感じないだろう」と指摘しています(「表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」「世界」2019年5月号、太字箇所は傍点)。要は、みずからの言動が過去に蓄積され経験されてきた様々な差別の記憶を当事者に呼び起こさせてしまう起爆剤の機能を果たしていたことに、その行いこそが差別の再生産と構造の悪しき再構築であるということに、蓄積や経験として捉え得る認識の構造を認知していないがゆえに気づけていない、というのです。
@symphonycogito 木を見て森を見ずではありませんか?
私は、経験的にTwitterという場のリスクを知っている
何も調べず、発言者の真意を考慮せず、言葉のイメージだけで発言する
Twitterにはそういう側面がある
しかし、あなたがそれでよいのか?
他者の30年前のメモワールに土足で入ってくる
そんなことでよいのか?
(@jiro57: 2019年2月18日08時57分29秒)
ここまで来れば、「累積的な問題」として認識していないらしい加藤氏の口から「木を見て森を見ず」等という言葉が出た時の私の絶望に似た驚きについて、もはや説明不要でしょう。この時、衝動的にリプライを飛ばさなかったのは、みずからの優位を何としても誇示するために躍起になっている(ように見える)相手に対して言葉を砕いたところで、こちらが疲弊するのが目に見えていたからです。
「発言者の真意を考慮」してほしいのなら、相手に差し出す言葉をもっと慎重に選ぶ必要があっただろうし、「言葉のイメージ」が読み手のうちにどのような差別の構造を文脈として引き連れてきているのかまで考慮するのが、言葉のプロである文学者の仕事ではないでしょうか。差別的構造に無自覚であることが暴かれて、ヒエラルキーの上位にいた自分が平らな土地に引きずりおろされたからといって、それはTwitterという、30年前には存在しなかった機能や技術の仕業ではありません。あくまでそれは、構造の上の方で無自覚に胡坐をかいていた自分のせいであって、たまたま批判されたのが今日、Twitterを通してだったというだけのことなのです。
しかも加藤氏はここで、筆者を歌人としてではなく編集者として見ていました。編集者のくせに作家の書くものに口出ししやがって、という類の立場不均衡を、あらかじめツイートに滲み込ませ、含ませた上での、「他者の30年前のメモワールに土足で入ってくる」だったわけです。この不均衡の構造を利用すれば、そこに含まれるあらゆる差別を無視した上で自分の一連のツイートの正当性が保証できるとでも思っていたのでしょうか。残念ながら、そんなことはありません。その証拠に、私はもうこれだけの字数を費やして問題点を指摘しているのですから。
@jiro57 「ミューズ」や「地方都市の男」という言葉がどんな差別的認識を示しているのか、或いは含んでいるのかについて無自覚であることの方が、言葉という森を見ていないことになると私は考えます。他者の主体性を踏みにじらない方法での回想だって可能だったはずし、そういうものを読みたいです。
(@symphonycogito: 2019年2月18日19時46分52秒)
さて、10時間後の私のリプライに、そこまでの怒りが表立って書かれていないのは、私が退勤してTwitterを開けるまでの間に、加藤氏の手で次のようなツイートが為されていたからでした。
ありがとうございます
多くのツイートの中で、やっと私の理解の届く言説に出会いました
今は、自分の無自覚さを恥じています
そして、改めるのにまだ遅くはないだろうと思います
対話のドアは開けておくのが私のポリシーです
(@jiro57: 2019年2月18日18時32分32秒)
このツイートは、佐々木遥氏からの批判ツイートを引用リツイートする形で発信されています(一時期アカウントが非公開になっていましたが、「短歌研究」の時評には名前入りで引用もされています)。しかしながら、「自分の無自覚さを恥じています」という言葉に安心できない理由が、本当に残念なことに、このツイートの中にすら存在していることに、加藤氏は気づいていなかったようです。
何故なら加藤氏はここで、筆者を含む複数の人物から様々に批判が寄せられていたにも関わらず、ある一つのツイートを「私の理解の届く言説」として選べるだけの優位が自分にあると、相変わらず誇示する形を取ってしまっているのです。これでは、みずからの異にそぐわないその他大勢による批判を批判と見なさず無かったことにしたも同然です。選ぶ者と選ばれる者の立場不均衡が顕在化した状態で開かれた「対話のドア」とは、一体何なのでしょうか(念のために書きますが、この立場不均衡への批判に、選者批判や結社批判の意図はありません。歌の「選」とは別の位相の話です。だからこそ「文学」の話題にすり替えてはいけないのです)。
「女性が性差別についてよく知っているのは、運がよかったからでも、生まれつき頭がいいからでもありません。生きていくうちに何度も差別を経験しているからです。だとすれば、どんな差別があるのかを理解するため努力すべきなのは、はたしてどっちなのでしょうか?」
「苦しみに耐えて、努力すべきなのは、あなたではなく「知りたい」と思う側なのです」
「平和な世界に住んでいたのは男性ばかりだったので、そこに戻るという選択肢はありません。うるさい声が聞こえないように耳をふさいで、以前のような静けさを取り戻したいでしょう。ですが、それは彼らに選択できることではありません」
「さて、選択肢は次の二つです。「愛し合うべき」である相手の悲鳴を耳にしながら今まで通り暮らしていくか。男女が勘ちがいではなくほんとうに仲よく過ごせる社会にするため力を添えるか」
(イ・ミンギョン/すんみ・小山内園子訳『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』タバブックス、2018年)。
冒頭でも引用したイ・ミンギョンの著作から再度、幾つかの言葉を引きました。こうした声をこれまで無かったことにしてきた構造の暴力を、その暴力を温存し再生産し続けようとする者を、私は決して容認できません。これは単なる価値観の相違や時代の変化による問題提起ではないのです。その辺をまだ勘違いしている人は、この文章の冒頭に戻って、よりメタ的視点から読み返してみると良いでしょう。他者の価値観を尊重しつつ対話することと、内側で甘い汁を啜り合う仲になることは、決してイコールにはならないはずです。ただでさえ、「歌壇」とか「短歌界隈」等と言われて仮想敵にされがちなのだから(それはある意味仕方のないことでもあるのですが)、せめて風通しの良さを保つことくらいは、常に意識しておいて良いのではないかと思うのです。
*
ところで、この原稿を渋りかけた理由について、書いておく必要があるでしょう。
この文章を含む今回の企画に対して、「詩客」短歌部門の顧問に加藤氏が名を連ねていることを踏まえた上で何らかの「配慮」をするように、という主旨の通達が「詩客」主宰の森川雅美氏からあったと、企画担当者から知らされたことがありました。原稿依頼時点では「ミューズ問題を考える」だった企画案も、いつのまにか「ニューウェーブ再検討」にまではっきりと後退を見せていた(結局、正式な企画タイトルはどうなったんですか? 決定事項としては今もって聞かされていないのですが)。表立って「ミューズ」と書いて今回の事件(と言って相違ないでしょう)を取り上げる機会を、私も、他の執筆者も、企画担当者も、あらかじめ奪われた上での、今回の掲載なのです(似たような話が最近、早稲田大学の「蒼生」という機関誌でもあったばかりなので、個人的にはとてつもないデジャヴを食らっています)。
まさか目の前でこんな忖度を強いられるとは思っていなかった。ここまで立場不均衡を強いているにもかかわらず、身に滲みた権力や差別の構造に無自覚で、自分では地位も権力も無いと嘯く。何だこれは。何も分かっていないじゃないか。
私たちは何故こんなにも傷つけられ続けるのでしょうか。平等を実践する意志のないまま、ヒエラルキーの上位に安住するものから見せかけの「対話」や「議論の場」を与えられたところで、そんなものは所詮、相手の利益として計上されて終わる。それでいて、こちらはいつまで経っても、無視され、葬り去られ、干され得る存在なのです。なのにどうして、声を上げることを強いられているのでしょうか。ならば最初から原稿など書かず、短歌の世界との関わりを遮断してしまえたら、どれだけ平穏な生活が送れることでしょうか。
――けれども、何も言わないことで差別の温存や再生産に加担することになる方が、今の私には辛いことなのです。だからこそ、私はこうして書くことを選び、掲載してもらうことを選びました。
最後に。私は加藤治郎という歌人を抜きに80年代後半以降の現代短歌は語れないと思っています。今後、加藤治郎論は複数の人間によって書かれるべきだとも思います。だからこそ、作家がこうしてみずから公の場で、断ち切れずに残ってしまっている過去由来のヒエラルキーを開陳してしまうことは、作家の現在の評価にも著しく悪影響を及ぼしかねません。最前線に立つ者であれば、常に批判の矢面に立ち続け、自身を解体し再構築し続けていってほしい。あなたは氷山の上に立っていて、私はその氷山の海中に隠れた部分についてあなたに伝えるために、ここまで海を泳いで渡ってきた。こんな願いは後続世代の勝手かもしれませんが、蛇足であったとしても書き記しておきます。
<短歌時評alpha(2) 言葉~想像力と価値観のコウシンを見据えて~>
※短歌時評alphaは短期集中企画です。