「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評第144回 空白と時間 魚村晋太郎

2019-04-05 11:32:58 | 短歌時評


 昨年刊行された加藤治郎歌集『Confusion』とつい先ごろ刊行された吉田恭大の『光と私語』を中心に、視覚詩=ヴィジュアル・ポエトリーとしての短歌について考へてみたい。「加藤治郎歌集」と書き「吉田恭大の」と書いたのは、加藤の歌集の背表紙には多くの歌集がさうであるやうに書名の上に小さく「歌集」と書いてあるのに対して吉田の歌集の背表紙にはその文字がないからだ。背表紙だけではない。吉田の『光と私語』には扉にも目次にも「歌集」の文字はない。あとがきでは「この本と、歌と、暮らしに関わってくれたみなさま」とあへて「歌集」の語を避けている。意地悪くこの一冊が歌集であることの物証をあげるとしたら奥付に小さく印刷された「塔二十一世紀叢書333」の文字だけである。
 さて、昨年5月に書肆侃侃房の現代歌人シリーズの一冊として刊行された加藤治郎歌集『Confusion』である。歌集を手に取つたときの第一印象は、肯定的な意味での「やられた」だつた。今までの現代歌人シリーズの装釘と印象がまるで違つた。恰好よかつたのだ。しかし読みはじめると当惑もあつた。
 『Confusion』と『光と私語』の装釘・レイアウトは、どちらも山本浩貴+h(いぬのせなか座)が手掛けてゐる。
 いぬのせなか座について私は彼らがHP(http://inunosenakaza.com/index.html)で発信してゐる以上のことを知らない。山本浩貴+hとはその集団のメンバーで、山本さんとhさんの二人組らしい。書肆侃侃房のHPの『Confusion』のページには「いぬのせなか座プロデュース。レイアウト詩歌の世界」とある。レイアウトされた詩歌であると同時にレイアウト自体も詩歌である、といふことだと受け取つた。読んでゐない方には紹介するのが難しいが、ページの中の短歌のレイアウトが上だつたり下だつたり、連作によつては横書きだつたり、横書きと縦書きが混在してゐたり、レイアウト自体が表現になつてゐる。
 私が『Confusion』を読みながら感じた当惑はいくつかの要素から生じたものだと考へられるが、まづ単純に歌が読みにくいといふことがあつた。もちろん、『Confusion』といふタイトルが示してゐるやうにある種の混乱はこの歌集のテーマであるし、それはおそらく2015年に強行採決された安保法案成立前後の国内の緊張やその時期の作者のこころの動揺を反映したものだらう。一冊の書物としてそのレイアウトは刺激的で美しいかも知れない。しかし、読者との関係に重点をおいて考へるとき、読みにくさと引き換へにどれほどのものがそこから生まれたのか私には疑問もあつた。
 たとへば「平和について」といふ連作には「二〇一五年七月十六日、安全保障関連法案が衆議院本会議で可決。」といふサブタイトルがあり、テキストからは法案可決前後のひりひりした思ひが伝はつてくる。

 どちらの言葉も、醜いことがたまらない牛肉石鹼 美しい歌をだれかうたってくれないか
 コメダのマメを持ち帰る 官僚の夏は長く平和祭前夜祭
 コメダのコーヒー・トースト・ゆで卵の聖三角形 きみたちはみな傭兵志願者だ
 天国介護ホーム牛肉石鹼最後まで使い切り首相の哄笑


 17首中、巻頭の4首をレイアウト抜きのテキストとして引いたが、作者の違和感や動揺はすでに破調や字余りに表れてゐる。それが一応横線で区切られてはゐるものの、ななめにつながつてゆくやうにレイアウトされてゐて、後半には初出では詞書風に添へられてゐた俳句2句がはさまれてゐることもあり、歌集で読むと短歌の連作といふより散文詩のやうな印象があつた。
 『Confusion』で私が最も歌を読むよろこびを感じたのは短歌の部分の終はりに近い「ヘイヘイ」といふ連作である。引用しようと思つたが、初出がこの「詩客」でありまだ読めるのでURLを附すことにする。

http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-08-05-18644.html

 短歌と挿入される七五調の四行詩の響きあひが絶妙である。やはり一部引用しよう。

   蜂蜜の流れる部屋にきみといるなんに濡れたか分からない髪

  水風呂に夏のひかりのみちていてあなたの指がおへそをさわる

                   つめたい雲がまぶしくて
                   おなかの上におりてくる
                  あたっているのあたってる
                 シャワーの水はくすぐったい


 喪失感を湛へた前半と虚無感のなかで生きる意志を確認するやうな最後の部分にはさまれた引用部分には、性愛のイメージが描かれてゐる。それは遠い記憶のなかのことのやうであり、連作全体に遠い記憶のなかから現在をみつめてゐるやうなかなしみと、かすかな希望のやうなものがうつくしくにじんでゐる。
 初出では文頭をそろへられてゐたものが歌集では文末をページの下にそろへられてゐるものの、この連作ではレイアウトがかなり抑制的に働いてゐる。読みにくく混乱した感のある短歌部分の終はり近くでこの連作に出会ふことで、静謐な希望のひかりが差し込むやうな印象を感じた。単に抑制的なレイアウトだからよいのではなく、歌集全体の流れのなかで、この連作にそのレイアウトであつたからよかつたわけだが、私にとつてもつとも感動した部分がレイアウトがもつともシンプルな部分だつたといふのは、やはりもやもやした気持ちになる。
 加藤、或いは山本浩貴+hの念頭には萩原恭二郎の詩集『死刑宣告』(1925年刊)があつたのではないか。(といふか歌集刊行当時、加藤自身のツイッターに歌集の紹介文として「現代日本の死刑宣告」と書かれてゐるのでまづ間違ひのないところだが。)『死刑宣告』はダダイズムとか未来派とか立体派とかアナキズムの思想とかが詩人のなかで混然一体となつて独自の表現として噴出したものだ。大きさの違ふ活字を組み合はせたり幾何学的な版画や黒い帯やドットなどを使用した視覚詩で、今の言葉で言へば、すげえパンクな感じ。私自身十代の頃、アンソロジーではじめて見たとき、文学でこんな恰好いいことができるものかとしびれた。さらに、『死刑宣告』は関東大震災の二年後に刊行されてをり、その禍禍しいヴィジュアルにはおそらく震災の反映もある。さうしたことも加藤たちの思ひを捉へたのだらう。この歌集全体が『死刑宣告』の本歌取りであるとも言へるかも知れない。いろいろ考へさせられたところもあるが、視覚詩の可能性をひらかうとする果敢な実験であつた。

 ここで、視覚詩としての短歌について考へるために塚本邦雄と岡井隆の短歌を引用しておく。

  塚本邦雄『緑色研究』(1965年)より(3首)

        剣
        の
       醒鞘水
      渇むなに花
     樂くるす漂菖呪
    鏤音花午 ひ蒲は創
  殃るめに饐 死 禁るめの愛
    た悉うわ 血色るに
     くるがの塗の者
      魂地蕾れ胎
       獄睡の
        る
        夜


  岡井隆『E/T』(2001年)より(2首)

梅のすぐむかうに
ふかい闇がある
妻のむかうに

月が
出る
まで


無論
さう
騎乗
する
位置

見る
もの

シーザーも
見た
実朝

見た


 塚本の作品には「死の核を繞るイリスの三首」といふ題がつけられてゐて、右端から縦書きに読んでゆくと「愛の創めに呪はるる者花菖蒲禁色の胎水に漂ひ」、「血塗れの剣に鞘なす 死 の蕾睡る夜醒むる午 わが地獄」、「渇く花饐うる魂樂音に悉く鏤めたる殃」と読める。かたどられてゐるのは、イリス=アイリス、つまり花菖蒲などのアヤメ科の花であり、アイリスが虹彩を意味するところから、瞳のイメージもおそらく重ねられてゐる。
 岡井の作品については解説は必要なからう。北園克衛の詩に1字や2字での改行を多用することによつて縦と横の両方向に読み進めてゆく詩があるが、丁度その縦横を逆にした作りである。
 視覚詩について考へるうへで、私は3本の補助線を引いておきたい。ひとつめは引用の可否といふ補助線である。明朝体で印刷された「死の核を繞るイリスの三首」をゴシック体で引用したら塚本は激怒するかも知れないが、作品の概要は伝はるだらう。岡井の作品についても同様である。しかし、『死刑宣告』や『Confusion』の多くの作品はさういふわけにはいかない。私は詩は原則として引用可能であつた方がいいと考へてゐる。それは、ある意味ですべての詩が先行する詩の引用であると考へてゐるからである。もちろんここで引用といふのは本歌取りに近い意味だ。たとへば加藤の『Confusion』は『死刑宣告』の本歌取りだといへなくもないのだから、違ふ字体で引用可能であるべきだといふ考へは、実際的でない宗教上の敬虔さのやうなものかも知れない。しかしさうした敬虔さが詩歌にとつては結構大切なもののやうにも思ふのである。
 ふたつめはコラボレーションか否かといふ補助線だ。塚本と岡井の作品は視覚的な部分も含めて作者単独の創作である。一方、加藤の作品は前述の通りレイアウトは山本浩貴+hが担当してゐて、吉田の『光と私語』も同様である。これはひとつにはコンピューターやアプリケーションの進化によつて視覚表現の可能性が広がつたぶん専門性も高まつた、つまり餅は餅屋といふことと、いまひとつには現在の作者に「私」のなかに「他者」を呼び込みたいといふ欲求があるといふことがあるだらう。「私」を錯綜させたいといふ欲求である。
 みつつめは、共時的表現なのか通時的表現なのかといふ補助線である。空間的表現、時間的表現と言い換へてもよい。詩歌は基本的に時間を含んだ表現だが、塚本の作品は絵画のやうだといふ意味でどちらかと言へば共時的つまり空間的な側面がつよい。岡井の作品は塚本の作品にくらべると通時的つまり時間的な側面がつよい。そして、岡井の作品は、空間と時間が対立するものではなく、むしろ相補的なものだといふことに気づかせてくれる。文字列の作る空間的なひろがりが、一首目ではゆつたりとした時間の奥行きを、二首目では疾走するやうな時間の躍動を読む者に手渡してゐる。

 吉田恭大の『光と私語』もまた空間的表現がが時間の感覚を呼びこむ幸福な書物である。これから読まうと思つてゐる方は、どうかこの先は読まずにまづ一冊を読んでいただきたい。『光と私語』を読むことは、きつと稀有な経験になるはずだ。私の文章が的を射てゐるかは別として、先入観なく読んでほしいと思ふ。すでに読んだ方と、金輪際読むつもりがないといふ方のみ以下を読んでいただきたい。

 エッジの効いた、といふ言葉はふつう比喩的に用ゐられるが、『光と私語』は文字通りエッジの効いた直方体を思わせる装釘である。内容は3部構成で、第1部と第3部は頁の右端に1首づつ歌が載り、余白にはほんの少し赤みがかつた灰色の矩形や円が端正に配置されてゐる。第2部の部分では第1部の構成が少しづつ崩れて頁のなかで歌が動きはじめる。

  一月は暦のなかにあればいい 手紙を出したローソンで待つ
  PCの画面あかるい外側でわたしたちの正常位の終わり
  恋人の部屋の上にも部屋があり同じところにある台所
 
 
 第1部から3首引いた。1首目が典型的だが、時間的なものもふくめたへだたりの感覚、距離の感覚が作者の特徴だと思ふ。2首目、3首目にもカメラを引いてゆく感じ、或いは俯瞰してゆく感じがある。大切なものをあへて遠くにおいてみる距離の感覚によつて、大切なものがそこにあること自体のいたみ、のやうなものが表現されてゐる。
 視覚詩として見るとき『光と私語』のなかで特に印象的だつたのは第2部の「ト」と「末恒、宝木、浜村、青谷」である。「ト」は23首の連作で灰色が地になつた見開きの2頁に白抜きの文字で11首づつ、次の頁に最後の1首がレイアウトされてゐる。基本的に1頁1首、第2部に入つてからも1頁にせいぜい2、3首で進んできた歌集の時間に、せきとめられて深さを増す水の流れのやうな異変が起こる。

  昨日のことはいくらか覚えている。床は白くて床は冷たい。
  部屋を出てどこかへ向かう。戻るとき牛乳のコップを持っている。

  横たわるあなたの上を跨ぐとき、まだ生きていることを確かめる。
  家具を買うことを、おそらく本能的に怖れている、から白い部屋。


 「ト」の左右のページからそれぞれ連続する2首を引いた。連作では同棲してゐるらしい二人の一日、といつても右頁では起きてから一人が出勤するまで、左頁ではその一人が帰宅してから寝るまでが描かれてゐる。「ト」とはト書きのトだらうか。引用2首目のやうにト書きのやうな歌もあれば、1首目のやうに主人公の独白のやうな歌もある。小説でも映画でも、物語は独白のやうな一人称目線とト書きのやうな三人称目線が混在して進んでゆくことが多いが、連作ではその構造を利用して左と右の頁で主人公を入れ替へてしまふ。連作の中でふたりは言葉を交はさない。セックスもしない。ト書きのやうな言葉には、二人の暮らしを作者または主人公自身が、少し引いたカメラで距離を置いてみてゐるやうな印象がある。主人公にとつて切実なのは二人が「家具を買うことを、おそらく本能的に怖れている」といふことである。大切なひととゐて日日に充足しながら未来が見えないといふ状況は、若者にとつて普遍的なことだともいへるし、文学青年らしい主人公ならではのものだともいへる。いづれにしても、時代の生きづらさとかとは、おそらくあまり関係がない。主人公の怖れは先に述べた、大切なものがそこにあること自体のいたみ、と同じ根をもつものだらう。
 「末恒、宝木、浜村、青谷」は見開き2頁の左頁の右端中央に1文字大ほどの灰色の正方形がプリントされてゐるのが基本フォーマットで見開きの左右の端または右端だけに歌が配置されてゐる。何首か引用したいのだが、どうにも引用が難しいので、私が取つたメモの引用、といふ形をとらせていただく。

  158-p159
  風邪の日の水薬がずっと口の中に溜まっていて 長いホームでひと月を
  ずっと待っている
  昼食も朝食もずいぶん食べていない


  [頁をまたぐ空白。左頁右端に小さな灰色の矩形]

  p160-p161
  祝日のダイヤグラムでわたくしの墓のある村へゆく

  [頁をまたぐ空白。左頁右端に小さな灰色の矩形]

                          鎧、餘部、久谷、浜坂

  p162-p163
  風邪の日の水薬が虫歯にしみる 今日から明日にかけての忌引き
  
  [頁をまたぐ空白。左頁右端に小さな灰色の矩形]

            海に沿い小さな港 隧道を抜けるたび小さな船を見る
            暦では水母に埋まる海岸を誰かかわりに歩いてほしい

                         諸寄、居組、東浜、岩美

 連作の冒頭から6頁分のメモを引いた。オリジナルは縦書きである。
 はじめの2頁は私のなかで、読み方がぶれる。「風邪の日の水薬がずっと口の中に溜まっていて」を詞書、「長いホームでひと月を/ずっと待っている/昼食も朝食もずいぶん食べていない」を一首と読むか、或いは「風邪の日の水薬がずっと口の中に溜まっていて/長いホームでひと月を/ずっと待っている」を一首と読み「昼食も朝食もずいぶん食べていない」を下句の変奏と読むか。後者の読み方はイレギュラーであるが、朗読の現場などではそれほど違和感なく行はれるのではないか。次の2頁には1首、その次の2頁には3首とほぼ無理なく読める。もつとも、p158の「風邪の日の…」が詞書だとしたら、p162の1行も詞書として読むべきかも知れない。また、p163の「暦では…」は1行だけで1首の定型をなしてゐるので、添へられた「諸寄、居組、東浜、岩美」はやはり下句の変奏のやうに読むべきだらう。
 およそ15首ほどからなる連作は、家族か親戚の葬儀のための帰郷といふシュチュエーションで詠まれてゐるらしい。らしい、といふのは葬儀自体は描かれないし、家族や親類も登場しないからだ。詠まれてゐるのは帰郷ルートと思はれる山陰線の駅名とさびしい海辺の町の景色だけである。
 連作の冒頭で私の読みがぶれたことはすでに書いたが、2首目についても3句目までの韻律の捉へ方はぶれる。しかし見開きほぼ2頁分の余白をはさんで下句の駅名にたどりつくと「よろい、あまるべ、くたに、はまさか」と綺麗に定型に収束する。駅名は列車の運行順にならんだ4つづつが、とびとびの5首の下句に出てくるのだが、その音数も7・7、7・8、7・7、6・7、8・8となつてゐて絶妙だ。
 連作を読みながら、淡くほどけてゆきさうな言葉や地名がやはらかく定型に回収される感覚を頁をめくるごとに感じてゆく。その感覚が駅名をたどりながら故郷に近づいてゆく列車のなかの主人公の時間の感覚、そしてさびしい海辺の町を歩く主人公の時間の感覚と響きあひ、砂に水がしみるやうに胸に沁みこんでくる。不思議な感覚である。
 ふつう1頁1首組の歌集の場合、たとへば堂園昌彦の『やがて秋茄子へと到る』などがさうだが、1首が屹立する印象があり連作性は少しうすれることが多い。「末恒、宝木、浜村、青谷」は20頁に約15首だから、平均すると1頁1首よりも少ないのにゆつたりとした連作の時間が流れてゐるのはなぜだらう。
 ひとつには空白を生かした頁のレイアウトによる効果だ。多くの1頁1首組の歌集では頁の真ん中に歌が配置されるが、『光と私語』の第1部では頁の右端に配置されてゐる。そのことにより歌と空白のしづかなリズムのやうなものが読者に印象付けられる。第2部に入ると歌の配置や頁あたりの歌数に微妙な変化が生じるが、「ト」の3頁を除けば大きな変化はないので、読者は歌集の持つしづかなリズムにのつて、ときにほどけさうになる言葉をむかへにゆき、定型に回収するよろこびを感じるのだ。
 空白は空間的なひろがりであるが、読むといふ行為によつて時間が介入する。散文を読むときでもさうだが、散文よりも詩、詩よりも短歌を読むときの方がおそらく空白は身体的な時間の感覚を伴ふ。実際には短歌の空白はふつう歌と歌の間に等間隔にせまく存在するので、身体的な時間の感覚は顕在化されない。しかし『光と私語』の空白は、第1部では読者が歌集を読みすすめるリズムを統御し、第2部の「末恒、宝木、浜村、青谷」では上句と下句の間に介入して身体的な時間の感覚を顕在化させるのだ。
 『光と私語』はオブジェのやうな装釘の美しさに目をうばはれさうになるが、レイアウトのなかに時間をたくみに呼びこむ構成にこそ目を瞠るべきである。まさに視覚詩としての短歌の可能性をひらく一冊と言へよう。