「詩客」短歌時評

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短歌時評第146回 2019年の『ピクニック』   水沼朔太郎

2019-06-29 06:13:40 | 短歌時評

 

短歌の〈全体〉を把握することがむずかしくなっている。これまでにそんなことが可能だった時期などあったのか?という疑問はもっともだと思うけれど、わたしが短歌を始めた時期、2015年、16年あたりは少なくともTwitter上では可能だったように思う。文フリで出る同人誌の新刊の感想戦がしっかりと行われていた。感想戦がしっかりと行われることはとても大事なことだ。たとえ〈全体〉を把握することが不可能であったとしても〈全体〉につながりうる〈流れ〉を把握することが出来るからである。わたしの現在の〈全体〉についての把握をあえて乱暴にまとめるならば「『She Loves The Router』から『ねむらない樹』、『ピクニック』にいたる流れと「死ね、オフィーリア、死ね」以降のフェミニズムの流れとがときにニューウェーブを蝶番にすることもありながら拮抗している。」となるが、この現状把握に以降3回の時評でどれだけの説得力を持たせられるか。

 

 

2018年の11月末、宇都宮敦第一歌集『ピクニック』が現代短歌社から刊行された。歌集そのものの大きさに圧倒されているうちに年を越え、元号が変わった。あくまでも自身のタイムラインの範囲内ではあるが、歌集そのものの評判も上々だったように思う。しかし、わたしにはその状況が奇妙だった。いくらなんでも評判が上々過ぎはしないか。『ピクニック』はいまの時代にあまりに合いすぎている。

 

わたしが宇都宮敦の名前を知ったのは『早稲田短歌45号』(2016年3月)のふたつのコンテンツからだ。ひとつは、「瀬戸夏子ロングインタビュー」、もうひとつは永井亘による評論「現代短歌の幼稚なポエジー」。永井の評論で引用されていた〈生きていることはべつにまぐれでいい 七月 まぐれの君に会いたい/宇都宮敦〉に惹かれTwitterで引用をした記憶がある。この当時の宇都宮は、と言いつつたったの3年程前だけれど、まだ、限定的な文脈でしか取り上げられていなかった。事実、瀬戸のインタビューや永井の評論でも宇都宮はポストニューウェーブの文脈で永井祐、仲田(中田)有里、兵庫ユカ、斉藤斎藤らとともに語られている。

 

宇都宮敦のデビュー当時、つまり第4回歌葉新人賞次席(2005年10月)を審査員として経験している穂村弘はフラワーしげると盛田志保子を加えた3名での「作品季評」(『短歌研究』2019年5月号)において宇都宮の短歌そのものと『ピクニック』という歌集自体については高い評価をくだしながらも『ピクニック』という歌集が2019年の11月に出たことについては「できれば、リアルタイムで十年前に出して欲しかったけど。」と穂村なりの正直な感想を述べ、また、同時に「このリアル感のつくり方は、僕が初めて見たときから十五年ぐらいたっていると思うけれども、その間にかなり共有資産化したところもあると感じています。」といった発言もしている。穂村は宇都宮の歌集が出たタイミングについてどうも納得していないようだ。第5回歌葉新人賞最終候補作に残った経験を持つフラワーしげるも穂村とおなじく宇都宮の短歌やその試みについては「文体を個人的な執着で組みたてているということだけで、僕はそれだけで十分と思っている。」としつつも「この歌集は三十年後にもう一度精読したい。そうすると時代にしばられていない美質が逆に見えると思う。」と発言し2019年の〈現在〉における『ピクニック』の評価には踏み込んでいない。

 

では、2019年の〈現在〉『ピクニック』はどのように読まれているのか。「未来」所属の漆原涼と「かりん」所属ののつちえこによるちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が2019年3月から5月にかけて『ピクニック』について互いに20首選をした上で語り合う全11回の対談形式のエントリーをうるしのこのブログにアップしている。全体について逐一取り上げることは出来ないが、漆原、のつともに実に楽しそうに生き生きと語っていてまずそのことに驚く。しかし、歌集について楽しそうに生き生きと語ることになんともいえない居心地の悪さを感じてしまうのも事実だ。うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その4(2019年3月23日)〈嫌なやつになっちゃいそうだよ もうじゅうぶん嫌なやつだよと抱きしめられる/宇都宮敦〉[i]についてのふたりのやりとりを見てみよう。

 

筆者注:《う》は漆原、〔の〕はのつの発言

 

《う》これね〜!

 

〔の〕相手がいる状況で、主体は「自分がなりたくないと思っている『嫌なやつ』になってしまいそうだ」というちょっとした自己嫌悪にある。

 

〈なっちゃいそうだよ〉というところにはちょっと自意識が表れてて、それは感情が波立っていないときは「ごく普通にいいやつ」という自負に基づいた自己イメージが主体にあって、それがちょっと揺らぎ出したと主体は思って発話した。

 

そしたら、相手から〈もうじゅうぶん嫌なやつだよ〉と全部ひっくり返されてしまって、その上で相手に受容されるというどんでん返しが一首の中で起こるんだよ。思わずおおおってなっちゃった。

 

《う》「自己イメージが揺らぐ」という読みについてうなずける反面で、いまは〈嫌なやつ〉ではないという含みを「いいやつと自認」しているとまで読んでいいかは迷う。

 

唐突に今現在の揺れているところから話を切り出していることにも読みどころがあるような気がして。それは、〈なっちゃいそう〉の語気の負うところでもあるんだけど。

 

「てしまいそう」にある不随意さの含み、しかもくだけて「ちゃう」だから、よりかよわいニュアンス。

なので、自意識が発話によって外部に出てきたことより、主体の視点が自分自身の弱さに向かっていること、内省しようとしていることに重きを置いて読んでる。

 

そっから先の読みはちえこさんと同じかな。他者が登場してばっさり斬られる。内心だけの出来事とも読みうるけど、自分の視点の先を行ってるから他者と思う。そこで、さらに抱きしめて弱さもまるごと肯定してくれるんだから、読者としてもその人には「敵わないよね」と思っちゃう。

 

〔の〕今言ってもらったみたいに、自分の視点を凌駕する人が登場することはやっぱりとてもよくって、その人が凌駕しつつ主体を受容するにいたることが、うわーすごいなあって思った。

 

《う》相手、器が大きいよね。

 

〔の〕うん。それで、私が自意識という言葉を使ったのは、やっぱり相手がばっさり斬ってくる状況があって、その斬られっぷりに見合うのは自意識ぐらい強固なものというのが念頭にあることが大きいかも。

 

《う》なるほどね。自分では覆しがたいものを自分より先に察知していて、しかも大きな肯定をくれるところに、読者も主体に感情を移入して安堵しちゃうね。

 

わたしが歌の読みとして違和感を感じるのは「他者が登場してばっさり斬られる。内心だけの出来事とも読みうるけど、自分の視点の先を行ってるから他者と思う。そこで、さらに抱きしめて弱さもまるごと肯定してくれるんだから、読者としてもその人には「敵わないよね」と思っちゃう。」(漆原)「自分では覆しがたいものを自分より先に察知していて、しかも大きな肯定をくれるところに、読者も主体に感情を移入して安堵しちゃうね。」(のつ)という箇所についてである。ここでは、歌の読みがそのまま作中主体と読者の関係性にスライドしている。歌の読みを作中主体と読者の関係性にスライドさせて読む読み方は宇都宮が〈現在〉にカムバックするきっかけにもなった同人誌『She Loves The Router』(2017年11月)において谷川由里子による歌会評「感覚の逆襲」で言語化されている。谷川は序文で「歌会は、作者が目の前にいるところがいい。そしてその目の前にいる作者たちの最新作を、自分の最新作一首と引き換えに読むことができるのが素晴らしい。私の渾身の一首が彼らの作品と同じ紙面に並べられる。彼らの短歌と私の短歌が紙のなかで互いに、こう、立ち向かう。」と述べる。なるほど、確かに漆原とのつの対談は彼女たち自身の歌は差し出していないけれども、目の前にある一首をまるで「作者が目の前にいる」かのように読んでいる。この問題についてはすでに2018年1月の段階で本サイトの短歌時評において吉岡太朗が指摘している。吉岡は短歌時評第131回「批評にとって短歌とはなにか 後編」[ii]において谷川による〈菜の花を食べて胸から花の咲くようにすなおな身体だったら/山階基〉評を引きながら「技術を駆使しても負けないのは、作者が主体よりも強くその無邪気さに焦がれているからではないだろうかと(ママ)言葉でこの「一首評」は結ばれるのだが、ここでは「作者」と「主体」が並置されて語られている。/主体はいわゆる「作中主体」のことだろう。いつの間にこの二つの概念は向かい合うようになったのか。」と述べる。あるいは、noteで公開されている橋爪志保「宇都宮敦『ピクニック』について考える」(2019年3月9日)[iii]ではあくまで「ゼロ年代以降の文学」のひとつとして考える場合の比喩としてではあるが、『ピクニック』が週刊少年ジャンプサイズの黄色い表紙の歌集であることから「黄色い大きな盾のように、わたしには見えてくるのだ。」と表現されている。谷川が向かい合わせた作者、作中主体(主体)と読者としてさらに向かい合うことになったのが漆原・のつの読みだったが、橋爪の場合は物質としての歌集と読者とが向かい合った。穂村・フラワーが積極的に踏み込もうとはしなかった〈現在〉とは作中主体と読者、歌集と読者とが向かい合う〈現前性〉の時代のことだ。わたしはこれらの発言を引き合いに出してなにも彼女らが歌を読んでいないなどと言いたいわけではない。むしろ反対に彼女たちの発言は歌を読み込んだ結果なのだと思う。しかし、繰り返しになるが、わたしは『ピクニック』をめぐるこれらの言説に奇妙な居心地の悪さを感じている。

 

『鴨川短歌』(2017年9月)での誌上企画「わたしの好きな一首」で橋爪が選んだ〈いつまでもおぼえていよう 君にゆで玉子の殻をむいてもらった/宇都宮敦〉の〈ゆで玉子〉が武装解除(穂村弘)か否かというくだりのなかで濱田友郎は「すごく抽象的なことを言うんですが、いまは時代の過渡期だからそういう対決的な構図になるのは自然なんでしょうけど、いつか、そんなことが話題にならない別次元のところに行くんだろうと思いたい(直感的な物言いになりますが)」と発言した。直後、濱田「谷川さんとか阿波野さんとかはそういうプログラムなんじゃないですかね」土岐「宇都宮さんは、たしかに谷川さん阿波野さんの源流なのかもしれない」濱田「個人的にはそういう世代間の対決や調停にエネルギーをつかわない方法でやっていきたいです(疲れますから)。」とやりとりは続く(阿波野は阿波野巧也、土岐は土岐友浩)。ここで濱田が言っている「世代間の対決」で念頭に置かれているのはもちろん穂村弘なのだが、わたしがここまで書いてきたことはいま起こっている問題のいくつかは「そういうプログラム」そのものが引き起こしているのではないか、ということだった。「そういうプログラム」とは「ワンダーとか人生は一回とか、そういう前の価値観を乗り越えていく」(土岐)ことだと表現されてもいるが、2019年の『ピクニック』、あなたの目にはどう映っていますか?


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