わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第207回 ―寺山修司― 二三川 練

2018-04-26 01:06:49 | 詩客

 俳句から短歌へ、そして現代詩から小説、ラジオドラマ、テレビドラマ、映画や演劇と多岐にわたる表現活動を行った寺山修司を「詩人」と限定するのには抵抗がある。しかしあらゆる芸術は詩であるという思想に従うのであれば寺山は間違いなく詩人である。もちろんそこで指す「詩」とは現代詩のことではないが、ここでは寺山の詩作品から彼の思想や向き合った問題を見てみようと思う。

 

 ぼくには何も画くことが出来ない。小学校の机の上の藁半紙には鉛筆を持ったぼくの手が書いてあり、その鉛筆は藁半紙から脱
 け出して「画いているぼくの手」を画いているのだ、……


 これは長編叙事詩『地獄変』の冒頭である。「描く私/見る私」と「描かれる私/見られる私」の逆転は寺山修司の作品にはよく見られる。そしてそれはしばしば恐怖や戸惑いを伴っている。以下は『わたしのイソップ』の冒頭である。


 肖像画に
 まちがって髭を描いてしまったので
 仕方なく髭を生やすことにした

 門番を雇ってしまったので
 門を作ることにした

 一生はすべてあべこべて
 わたしのための墓穴を掘り終ったら
 すこし位早くても
 死ぬつもりである

 (中略)

 ときどき悲しんでるのに悲しいことが起らなかったり
 半鐘をたたいているのに
 火事が起らなかったりすることがあると、わたしはどうしたらいいか
 わからなくなってしまうのだ


 自身の虚構に現実を合わせる。それは、虚構を通じての自己変革を志した寺山にとっては当然のように思われる。しかし、そう簡単なことではない。寺山が苦しんだのは虚構の独り歩き、そして変革できない自分自身であった。
 映画「田園に死す」では、原体験を基に書いた詩が現実から遠ざかってしまうことに苦しむ主人公が登場する。そして、そんな主人公に対して映画評論家は原体験を自在に編集できなければ作家とは言えないと告げる。この二人の会話は寺山の課題を明確に表現している。寺山は常に自身の作品が社会にどのような衝撃を与えるか考えてきた。それは見られ方を意識するということであり、そうである以上作品は寺山の本心から遠ざかるだろう。遠ざかる虚構の「私」を現実の「私」が追いかける。その間にも、世間は虚構の「私」を本当の「私」だと思いこむ。寺山が苦しんだのはそこであり、そして自己変革を為すことができないまま死を迎えるのだ。
 しかし、寺山修司はそれでも「故郷」「母親」といったテーマを手放さず、自己変革のための「私」の構築を試み続けた。そこにこそ寺山修司の価値はある。自身の作品を通して自身に変革を起こすということ。それを常に目指したために、寺山は売れたいばかりの偽芸術家にはならなかったのである。


 子供の頃、ぼくは
 汽車の口真似が上手かった
 ぼくは
 世界の涯てが
 自分自身のなかにしかないことを
 知っていたのだ


 「懐かしのわが家」からの抜粋である。世界の涯てに至るには、自身を汽車に変える想像力を持たねばならない。それはあらゆる表現者に通じることではないだろうか。

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