吉本隆明の個人誌『試行』を読んでいたことがあります。ずいぶん昔の話ですけれど。吉本が「心的現象論」を書き継いでいたころ、多分、精神分裂症かなんかについて書いていたころです。その『試行』に永瀬清子がエッセイとも散文詩ともいえない「短章集抄」という詩文を書いていたんですね。そのときはじめて彼女を知って、強い印象を受けました。そのときは、もうすでに『永瀬清子短章集』が出版されていたはずですが、全く知らなかったのです。今振り返れば、彼女はもう晩年に差しかかっていました。『試行』に「短章」を連載しはじめたころには、もう70歳を迎えようとしていました。でも、どうして「短章集抄」が『試行』に連載されるようになったのでしょう。そのいきさつは短章集『流れる髪』の「あとがき」に次のように書かれています。
しかし前著『短章集』の原稿はおよそ十数年も日の眼をみないでいました。それが出版されるよう進めてくださり、又ひきつづきご自分の編集される雑誌「試行」に自由に書くようはげまして下さったのは吉本隆明氏でした。はじめて、しかも偶然にお目にかかった時のこれらのご好意を「なぜ?」と私はいぶかしくおたずねしました。吉本さんは一言
「僕は『諸国の天女』を前によんでいるのです」とだけ云われました。それがすべての自明の答えであるかのように――。
「なぜ?」と、ぼくも当時は思ったものです。それは、それまでの『試行』で、とても異質なものだったから。それは、批評誌のなかに差し込まれた詩のようなものでした。ただ、それは、散文詩そのものではない。エッセイでもない。アフォリズムだけれど、それだけではない。それは、詩文としか名づけようのない、なにものかでした。そして、最も多く書かれていたのは、詩についてでした。それは、詩を書こうとする人たちへの、必須の手引書と今なら言えるでしょう。例えば、『蝶のめいてい』から「世の中は孤独な男性と」。
世の中は孤独な男性と孤独な女性から成っているが、もしそれがそうでなかったら少なくてもいい詩は半減しているだろう。そうすれば孤独の事情もやや慰められる。どんな悲しむべき事情にも一点のよい面はあると云うものである。
詩を書く以上は絶対の絶望はあり得ない。そうした無限の根拠が長く詩を書かすのである。そしてすぐ幸福になれる人は詩を忘れる。又それでよいのだ。詩が多すぎる必要はない。
詩集『諸国の天女』は、1940年に発行された第二詩集ですが、その詩集ではじめて、のちに「短章」と名づけられる詩文が登場しました。それについて萩原朔太郎が次のようにはげましたそうです。「今、詩を書いている人達には抒情があってもThoughtがないのです。あなたにはそれがある。あなたはこうしたものをぜひつづけてお書きなさい」と。ここで朔太郎がThoughtとした、日本語ではいわく言い難い概念はどのようなものか。彼女は「思い方」と訳していますが、それは多分、「思念」あるいは「思考の根拠」といったものの「比喩」だと思えます。それが彼女にはある、ということですね。
さて、この詩集に高村光太郎が序文を寄せています。だから十代の吉本隆明が、この詩集を読んだのかもしれません。彼女が高村光太郎にはじめて会ったのは、1933年、東京で開催された「宮沢賢治追悼の会」の席上でした。この日、賢治のトランクから、あの「アメニモマケズ」の書かれた手帳が発見されたのです。その場を彼女も高村光太郎も目撃したのでした。この歴史的な時空を、ある物語の一場面として劇的に脚色したい、という抗いたい欲望に捉えられます。この先、彼女と高村光太郎の交流は深まり、詩集の序文に至ります。すでに賢治の『春と修羅』に強いインパクトを受けていた彼女は、今ならだれでも知っている「アメニモマケズ」という天啓を受けます。なぜなら、「アメニモマケズ」は、詩のようですが詩とはとても言えない何かなのです。そう、それこそ「短章」というべき詩文に外なりません。どうでしょう、そう思えませんか。と、まあ、「アメニモマケズ」が彼女の「短章」のきっかけだった、という物語を述べようとしたわけですが、それはもちろん、筆者の空想にすぎません。空想にすぎませんが、的が外れているような気がしないのです。
ということで、なぜ、永瀬清子が好きなのか、それは宮沢賢治が好きだから。そういうことですね。
最後に、谷川俊太郎の詩集『夜のミッキー・マウス』のなかに、「永瀬清子さんのちゃぶだい」という詩があります。その最終部を。彼女は仕事も家事もすっかり終えたちゃぶ台の上で詩を書き続けました。
日々の汚れた皿が
永遠の水にすすがれている
今日のささやかな喜びが
明日への比喩となる
永瀬さんのちゃぶだい
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