goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河野俊一「そのたびに」、愛敬浩一「観念的な悩み」

2021-07-18 10:37:41 | 詩(雑誌・同人誌)

河野俊一「そのたびに」、愛敬浩一「観念的な悩み」(「潮流詩派」262、2021年07月10日)

 「潮流詩派」262が「短詩」の特集を組んでいる。そのなかから一篇。河野俊一「そのたびに」。

  同じことを
  何度も繰り返して
  話す日が来るように
  同じ詩を
  何度も書く日が
  きっと私に訪れる
  いくつかのテニヲハは違って
  ものの名前も
  似たようなものに
  すり替わっているかもしれないが
  なかみは概ね同じで
  でも書くたびに
  新しい気持ちに戻り
  ふりだしに引き返しては
  怒ったり
  喜んだりする

 私は、毎日同じような感想を書いているので、それでいいと思っている。特に「新しい気持ち」にならなくてもいいかなあ、とも思う。
 この詩の感想を書く気持ちになったのは「概ね」ということばが印象に残ったから。
 「概ね、か……」と、私は、ふと思ったのだ。声には出さなかったが。
 そうか、河野はこういうことばをつかうのか。私は、河野のことを個人的に知らないからわからないが、こういう少し形式ばったことばで日々を繰り返しているのだろうか。「同じこと」と書き出されているが、その「同じ」を支えるのは「無意識の形式」かもしれない。
 さて。
 この「形式」というのは、暮らしの中で、どんなふうに生きているだろうか。
 愛敬浩一「観念的な悩み」は、実家の居間と駐車場のあいだにある木のことを書いている。

  「そこに緑があって、助かるねえ」と
  ふいに、母が言う。
  表からの“目隠し”になるというのだ。

 この「目隠し」が「形式」である。自分の家を覗かせない。しかし、居間からは外の様子が伺える。内と外を切り離し、同時につなぐ暮らしの工夫。それが暮らしの工夫であることは、母のことばを聞きながら、父を思い出すからである。

  たぶん、父がそう言っていたのだろうと思った。
  父親が亡くなってからは、ほぼ毎日
  仕事帰りに、実家に寄った。
  日曜日は、昼前には顔を出していた。
  なぜか、父親の座った場所に座らされ
  今さら、母親と話すこともないのだが
  「そこに緑があって、助かるねえ」という
  ほとんど意味を持たない母親の言葉に
  その時、上手く反応できなかったことを
  母の三回忌も過ぎた今
  「観念的な叫び声をあげ」(田村隆一)、悩んでいる。

 「形式」は共有されて始めて「形(式)」になる。どんなふうに暮らしを整えるかという意識が「形式」を生み出す。それは暮らしの中で共有されて、無意識(無意味)になっていく。これが「繰り返し」の持ついちばん重要なものだろう。
 無意識、無意味だから、それを「観念」にまで拡大し(?)、精錬し(?)、点検するのはとても骨が折れる。そういうとき「観念的な叫び」というのは生まれるのだろうか。それは「観念」になろうとする「叫び」かもしれないなあ。
 ここで、私はふいに、河野の「概ね」に戻るのである。
 「観念」と「概ね」。それは違うことばだが、二つをごちゃまぜにしてしまうと「概念」ということばがあらわれる。「観念」と「概念」はまた違うものである。
 こういうどこからともなくあらわれてきた思いつき(?)が、再び、「観念的な叫び」とは「観念」になろうとするまえの「未生の観念」であるという感じを強くし、その「未生の観念」が愛敬の「肉体」を感じさせる。「悩み」ということばが、その印象をさらに強くする。きっと「観念」になってしまえば、「悩む」ということはない。「観念」は「目隠しの木」のように「家のなか(家の内部/家の肉体/家の裸)=愛敬の裸体(肉体)」を隠すからである。そうであるからこそ、悩むのだ。愛敬は、いま、外からはみえない「家のなかの肉体」と向き合っている。それは、父からなのか、母からなのか、まあ、「家」からなんだろうなあ、愛敬のなかで「繰り返されている」「同じこと」なのだ。そういうものが、あるのだ。

 

 

*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』再読

2021-07-17 18:16:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

2021年07月17日(土曜日)

嵯峨信之『小詩無辺』再読

 嵯峨信之『小詩無辺』は1994年の詩集。(テキストは「全集」をつかった。)
 「魂しい」という嵯峨独特の表記が出てくる。「魂しい」とは何なのだろうか。

  言葉よ
  まだ目ざめないのか
  ぼくの魂しいのどのあたりを急いでいるのか (* 450ページ)

 「言葉」と「魂しい」は関係がある。だが、どんな関係なのか、わからない。「魂しい」をきちんと通過したら、「言葉」は「目ざめる」。

  もし ぼくの魂しいだけが
  走りさつた多くの魂しいに置きざりにされたのなら
  夕べの川ぎしで
  ぼくは夜明けを待つだろう  (孤独 452ページ)

  魂しいを失う日がある
  横糸のひきつつた絨毯のようなものだ
  人を憎んだことを
  愛したことを
  生命の皿の上にのせてみる

  ぼくはぼくの現し身を離れても
  まぎれもなく思いは残る  (* 453ページ)

 「魂しい」と「思い」に似通っているか。ぼくが死んでも「思い」は残る。ぼくの魂しいがぼくの肉体を離れても、つまり死んでも、ぼくの思い(魂しい)は残る。 
 「魂しい」はぼくのものだが、ぼくを超越している。
 人を憎む、愛する。それを思い出すとき「魂しい」を失う、と言っているのか。「魂しい」は「思い」よりも繊細な存在か。

  空をゆく鳥は跡を残さない
  なぜ地上を歩くものは跡を残すのか
  それは言葉があるからだ
  その言葉が魂しいの影を落とすのだ  (* 461ページ)

 言葉と魂しいは関係がある。言葉は魂しいによって影響を受ける。言葉は、それ自体はだれにでも共通しているが、それぞれがつかう言葉にはそれぞれの魂しいの影響があり、そのために違って見える。違って聞こえる。違った意味になる、ということか。

 「言葉」については、こういう一行がある。

  言葉はだれが脱ぎ捨てた影だろう  (* 464ページ)

 「影」という表現がある。言葉のなかに、ひとは魂しいを脱ぎ捨てる。それが「かげ」か。
 「影」については、こういう一行がある。

  生命は
  どんな小さなものでもやさしい影を落としている  (* 465ページ)

 生命は、どんな小さなものでも、やさしい「魂しい」を抱えている。「影を落としている」は影響を受けているということだろうが、影響を受けることができるのは、似通ったものが生命のなかにあるからだろう。そう考えれば、「生命は、やさしい魂しいを内に抱えている、持っている」という意味になるかもしれない。

  夢は
  魂しいの内側をすべつて
  夜明けは
  魂しいの外側から明るくなつてくる  (* 465ページ)

 「夜明け」は「目ざめる時間」と考えれば、最初に引用したことばと、不思議な交錯がある。ことばが不思議に交錯する。

  魂しいよ
  まだ目ざめないのか
  ぼくの夢のどのあたりを急いでいるのか 

 と読み替えたくなる。そして、そのとき、目覚めた魂しいとは、言葉なのだ。夢を破って、言葉の中で目覚める、夢の外に飛び出してくるものが魂しいなのだ、と言ってみたくなる。
 「どのあたり」とははっきりしない場所。遠いところ、だろう。「ここは何処なのか」という詩には、こういう行がある。

  遠いことはいいことだ
  愛が 憎しみが 心だつて
  なにもかも遠くなる  (469ページ)

 魂しいが、「遠くなる」、遠くなることで「愛/憎しみ」とは違う存在になる、と読むことはできないか。
 同じ詩の最後。

  ああ 在りし日にぼくは何処を彷徨つていたのか 
  ここは何処なのか--  (469ページ)
 
 ぼくの魂しいは、どこを彷徨っていたのか。いま「ここは何処なのか」と自問するとき、やはりそこには魂しいは存在しない。いま、ここは魂しいから遠い場所なのかもしれない。
 魂しいの不在については、「鐘」という詩がある。

  大きな鐘がそこに在る
  どこを叩いても鐘は鳴らぬ

  沈黙にすつぽり覆われているのか
  魂しいの不在か

  手で撫でる
  強く重く吸いついてしまう

  時間が消えて
  空間だけになつたのだろう  (472、473ページ)

 「鐘」は「言葉」の比喩だろう。象徴だろう。沈黙とは、言葉不在。言葉と魂しいは、ある部分では同じものである。言葉のなかに魂しいが存在するとき、言葉には何かが在る。「意味」と言ってしまってもいいのかもしれないが、むしろ「意味」を超えるものだろう。だから、それを「魂しい」と呼ぶのかもしれない。
 そして、この魂しいの不在を、嵯峨は「時間の不在」と同じ意味につかっている。「魂しいの不在」によって取り残される「空間」とは「空虚」のことかもしれない。魂しいは言葉も、空間も充実させるのである。
 「人間小史」には、こんな不気味な行がある。

  ぼくの魂しいに灯をともすと
  言葉の上を
  死んだ女の影が通りすぎる  (473ページ)

 女の影は、女の魂しいの影だろうか、女の肉体の影だろうか。女の愛の影だろうか。憎しみの影だろうか。言葉ではあらわすことのできない何かだろう。だから「影」と比喩にしている。
 「嘘の傘」は、こういう詩である。

  どこまで行つても一つの言葉にたどりつけない
  言葉は人間からはなれたがる

  水のような
  こうもりの翼のような言葉は
  魂しいにさしかけている嘘の傘ではないか  (476ページ)

 私は、無意識にことばを入れ換えて、こう読んでしまう。

どこまで行つても魂しいにたどりつけない
魂しいは言葉からはなれたがる

水のような
こうもりの翼のような嘘は
人間にさしかけている言葉の傘ではないか

 嘘が行き交うとき、魂しいは不在である。あるいは、魂しいは行き場、居所を失う。

  ぼくの魂しいのなかで大きな梯子が揺れはじめた
  その日から友だちからしだいにぼくは離れていつた  (483ページ)

 「死んだ女」のかわりに「友だち」が登場していると言えないだろうか。「嘘」にでじんたとき、魂しいは揺らぐ。魂しいを守る(安定させる)ために、ぼくは女から離れ、友だちからも離れる。
 孤独は魂しいを守る方法のひとつである。
 「引力をめぐる夏野」は中西博子を追悼する作品。「眠つた ああ 魂しいと全身で眠つた」(484ページ)という行で始まる。その作品の途中に、

  生命から遠くへ帰るのだ  (484ページ)

 という一行がある。「遠く」とは「永遠」のことである、と私は読んだ。魂しいは永遠とつながっている。個人の命から離れ、永遠の命になる。
 でも、永遠とは何か。

  人間も
  言葉もはてしなくむなしい
  そして〈永遠〉という言葉の意味はいまもつてわからない
                        (永遠とは何か、486ページ)

 「ふるさと」には、こんな行がある。

  思い出の町はすつかり消えて
  ここはもはやぼくの見知らぬ遠い町のようだ  (486ページ)

 さらに「対話」には、こう書かれている。

  ぼくから言葉が生まれないのは
  去つて行く遠い地が失われているからだ
  遠い地つて何処よ
  近いところの果ての果て
  --たとえばあなたの傍らよ

  ぼくに人を愛するという心はもう起こらない
  もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから  (487ページ)

 「遠いところ(永遠)」の場所を生きる魂しい、いま(いちばん近いところ、時間)を生きる生きる言葉。ふと、そういう思いが浮かんでくる。
 「言葉」に帰って、もう一度『小詩無辺』を読み返さないといけない。

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案再読(14)

2021-07-16 17:55:46 |  自民党改憲草案再読

 信教(宗教)の問題は、「こころ」の問題。信教(宗教)は、かならずしも人には語らない。語らなければある宗教を信じていないというわけではない。「無言」でできる思想、良心の活動。語る人もいるが「無言」という表現もある。
 一方、思想には「無言」とは相いれないものもある。ことばであらわし、肉体であらわす「思想/良心」もある。生きている限り、人は必ずと言っていいほど、語り、行動する。第21条は「無言」ではなく、「有言」の「自由」について規定したものだ。

(現行憲法)
第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
(改正草案)
第21条(表現の自由)
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
第21条の2(国政上の行為に関する説明の責務)
 国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う。

 改正草案は、ここでも「これを」を削除している。テーマが何であるかを意識させないようにしている。しっかり読んでください。テーマはこれです、というのが「これを」の重要な意味であり、つかい方なのだ。「保障する」は「侵してはならない」であることは何度も書いた通り。
 改正草案の問題点は「第二項」と「第21条の2」の新設である。

前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

 「前項の規定にかかわらず」は非常に乱暴な規定である。第20条の「この限りでない」どころの騒ぎではない。
 そして、ここに「公益及び公の秩序」ということばがつかわれていることに注意しないといけない。改正草案は「公共の福祉(みんなの助け合い)」ではない、あくまでも「公益及び公の秩序」という。そして、それを「害する」という行為を禁じることで維持しようとする。
 「公の秩序」というのは、非常にあいまいなことばだが、いちばん大きくとらえれば「憲法がつくりだす秩序」というものがある。それから憲法の下の法のつくりだす秩序というものがある。
 それを「害する」活動とはなんだろうか。「改憲」というのは「害する」活動ではないと言えるだろうか。たとえば、改憲草案をつくるというのは「憲法を害する活動」ではないのか。たぶん、自民党は、「害するではなく、時代に合わせて改良する活動」というだろう。一方、改憲に反対している人は、自民党の改憲草案は「憲法を害する活動」と定義するだろう。「改良する/害する」は、立場によって、違ってくる。
 これが大事。
 つまり、菅政権は許せない、あるいは東京オリンピック開催に反対と国民が叫んだとき、それは許せない、反対と叫んだ人にとっては「国を改善する活動」であるけれど、菅から見れば「国を害する活動」になる。これを考えると、「公益及び公の秩序」とは、政府が考えている「利益、秩序」、つまり「政府の利益、政府の考える秩序」にすぎない。
 言い換えると、現行憲法は、革命の自由を認めていると読むことができる(そのための結社や言論の自由を認めていると読むことができる)が、改正草案は、そう読むことはできない。
 革命というおおげさなことばではなく、たとえば投票によって政権を交代させるという活動をこれにあてはめると、どうなるか。「自民党が過半数割れをした選挙結果は、公の秩序を乱すから認められない」ということになる。それ以前に、自民党を批判する選挙活動は公の秩序を害するから禁止する、ということも起きるだろう。
 これは、おおげさな「予測」だろうか。かもしれない。しかし、次の「検閲は、これをしてはならない」と、現実に起きていることを組み合わせると、私にはおおげさな予測には思えない。
 菅は学術会議委員の任命に当たって、六人を拒否した。それまで学術会議から提出された候補者を全員任命するという形だったものを、名簿を事前に調べ(検閲し)、そこに菅の意思を反映させた。「検閲ではない」と、もちろん菅は言うだろう。しかし、その六人が菅政権にとっての「利益、秩序」に反すると事前に判断するというのは、私から言わせれば検閲である。六人が学術会議でなんらかの活動をして、それが「国益、国の秩序を害する」ということなら、まだ六人を排除する(任命したけれど、辞任させる)ということはありうるだろうが、学術会議で活動する前に、その活動を、別の情報をもとに封じるというのは検閲に等しい行為だろう。
 改正草案に第四項目は書かれていないが、きっと、存在する。それは

前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした文書や通信については、この限りではない。(検閲してもいい、通信の秘密を侵してもいい)。

 である。書いていないけれど、前条項を適用する、ということが行われるだろう。
 これと密接に関係するのが、次の新設条項。

第21条の2(国政上の行為に関する説明の責務)
 国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う。

 この唐突な感じはなぜだろう。もし国が、ある活動を「公益及び公の秩序を害する」と判断し、その活動に規制を加えた場合、国は国民に説明する責任がある。だが、第21条は「表現の自由」に関するする条項である。これは、言論を弾圧したとき、あるいは結社の自由な活動を侵害したとき、国はその責任を負う、という意味だろう。もし、他の「表現の自由」に関すること以外のことをいうのだったら、この条項がここにある必要はない。
 この条項をわざわざ「国が表現の自由を国が侵害したとき」ということばを省略してまで、ここに挿入したのはなぜなのか。きっと、「表現の自由」に対して「規制をかけることがある」ということを前提にしているのだ。そして、そういうことをした場合、説明責任を負う。
 現実では、どういことが考えられるか。
 名古屋での「表現の不自由店」が妨害され、中止に追い込まれるということが起きた。こういうとき、ほんとうは国に説明責任がある。国は、展覧会を聞かした人の「表現の自由」を守ることができなかった、保障できなかったからである。
 きっと、国は(当時は、安倍が首相だった)、「表現の不自由店」に関して中止させたのは国ではなく、名古屋市長だから、国は関係ないというかもしれない。しかし、国には「表現の自由を保障する」義務がある。また、、そのとき問題になった「表現のテーマ」は、慰安婦問題であり、天皇制である。それは「名古屋市政」の問題ではなく、国が向き合うべき問題、国として解決しなければならない問題である。あのとき、国は「知らん顔」をしたのである。展覧会を企画した人の「表現の自由」「思想の自由」を保障しなかったのである。しかも、何の説明もしなかったのである。説明か何かわからないものを、名古屋市長に丸投げして、知らん顔をしたのである。
 もう一つ別な問題にも結びつけて考えてみたい。最近の事件に「赤木ファイル」がある。「赤木ファイル」は安倍政権時代の森友学園の土地買収に関係する一連の文書である。それは、ある意味で、赤木さんの「思想(公務員としての価値観)」「言論、表現」をまとめたものだ。「内部告発」は「思想の自由」であるはずだ。その公開を遺族が求めている。これに対して、国は公開を拒み続けた。公開したものも、黒塗りが多くて公開とは言えない。赤木さんの「表現の自由(思想の自由)」を保障したとは言えない。黒塗りにすることで、自由を侵害した。このことに対して、改正草案を当てはめると「国は説明責任を負う」のだが、実際は、説明していない。
 これについても、

前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした文書については、この限りではない。

 と主張するだろう。「赤木ファイル」の公開(表現の自由、まとめたものを公開すること)は、「公益及び公の秩序」を害することになるから、公開しない。そもそも財務省内の文書は、赤木さんの「表現」ではない、と言うだろう。「公文書」である、と。だから、「情報公開」には応じない。
 これは、言い換えれば、公益及び公の秩序に合致する場合に限り、国民に説明するということだ。そして、公務員による「内部告発」は、これを禁じる、ということになる。
 改憲草案は「国政上の行為に関する説明の責務」と定義しているが、私には「情報公開に関する国の説明の責務」とも読める。というよりも、「情報公開」と、全体に関係すると思う。「国政上の行為」は範囲が広すぎるし、なによりも、「国政上の行為」あまりにも唐突で、なぜ「思想及び良心の自由」と関係するかわからない。
 「結社の自由」と結びつけると、この「情報公開」を念頭に置いた条項だということが少しはわかりやすくなるかもしれない。「情報公開」を求めるのは、たいていの場合は政府の行為に関する疑問を持ったひとである。情報公開請求は個人でもできるが、多くの場合同じ疑問を持った人があつまり(結社の前身、ということもできる)、請求の準備を進める。そういうことを「封じ込めたい」のだ。「表現の自由」には自分で表現する自由と同時に、表現されたもの(たとえば情報)を自由に閲覧させろというものもある。「表現の自由」は同時に「閲覧の自由」なのである。
 ここからもう一度「表現の不自由展」に戻ってみる。あのとき「侵害」されたのは、制作者の「表現の自由」だけではなく、鑑賞者の「鑑賞の自由」も侵害されたのだ。だれでも、自分の好きなものを見る権利がある。それを多くの人が剥奪された。「見る権利の剥奪」というのは、あまり問題にならないが、もっと問題にすべきことがらである。
 「表現の不自由展」の問題が起きたとき、「表現すること自体を禁じたものではない、どこでも芸術はできる」というような意見がネットに飛び交っていたが、「表現」は制作者がいれば成り立つというものではない。鑑賞者との共同作業の一面がある。「表現の自由」は「表現をする自由」と同時に「表現を見る自由」でもある。(これは、あとで出てくる「学問の自由」についてもいえる。)
 この条項は「森友学園事件」が発覚する前に書かれたものだけれど、私は、そんなことを考えた。「内部告発の禁止」(内部告発も、思想の自由、である)、「見る権利の要求を弾圧する」(情報公開の禁止)につながっていく問題が隠されていると思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳永孝「雲と太陽」、池田清子「雲」、青柳俊哉「空の家」

2021-07-15 17:49:22 | 現代詩講座

徳永孝「雲と太陽」、池田清子「雲」、青柳俊哉「空の家」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年07月05日)

 テーマを決めていたわけではないのだが「雲」「空」の詩がそろった。

  雲と太陽  徳永孝

  空一面に
  のっぺりと広がる
  灰色の雲

  太陽からのあまりにも強い紫外線から
  生き物を守り
  雨を降らしうるおいを与えるお母さん

  太陽の光は全ての生き物の命の元(もと)
  でも時にはそのはげしさが
  生き物を死に至らしめる

  そのはげしさは
  雲の優しさが有って
  始めて生きる

  強い陽射しをさえぎり
  ゆるやかに流れる雲の下
  公園で遊ぶ数組の親子連れ

  互いに呼び合い走り回る子供達
  穏やかに見守るお母さんは
  廻(めぐ)る子供達のもう一つの太陽

 これは推敲後の作品。講座で読んだ作品は四連目までは同じだが、そのあとは、こうなっていた。

  お母さんは
  その周りを廻(めぐる)る子供達を
  穏やかに包むもう一つの太陽

 受講生から、最初の形の作品に対して、最終行の「(雲は)もう一つの太陽」という比喩が新鮮、雲は従属的なことが多いが、太陽と同一という視点はインパクトがある、雲のいろいろな形を思い浮かべたという感想が聞かれた。ただし、「子供達」というのは何の比喩なのだろうか、わからない。子供達はいろいろな生き物の比喩なのだろうか、と疑問も聞かれた。私も子供達がわからなかった。最終連が唐突な感じがした。
 徳永は、公園で遊ぶ子供達と、それを見守るお母さんのことを書いた。太陽の周りを地球などが廻るように、子供達がお母さんの周りを廻っている。
 この説明を聞くと、最終連の「お母さん」が「雲」ではない、比喩ではないということがわかるのだが、それではやはり唐突だろう。二連目に出てくる「お母さん」は比喩であり、実際は雲のこと。どうしても「お母さん=雲」と読んでしまうので、いまのままでは最終連は公園の風景とは思わない。
 そういう感想を受け止めて、推敲したのがこの作品。
 公園であることを五連目ではっきりさせ、そのあとでお母さんを登場させている。五連目では「親」ということばだが、六連目で「お母さん」に変わっている。このとき、同時に「お母さん」は「もう一つの太陽」という比喩になる。
 ここに問題がある。
 二連目では「雲=お母さん」(お母さん=雲)、最終連では「お母さん=太陽」。比喩が二つ存在する。「お母さん」が共通するので、「雲=お母さん=太陽」という「等式」になる。これを簡略化すると「雲=太陽」になってしまう。そうすると、なんだかよくわからない。
 ひとつひとつの連はわかるが、全体では印象がごちゃごちゃになる。
 書きたいことが多く、よくばりな詩になる。書きたいことを絞り込んだ方がいいと思う。「雲=お母さん(太陽の激しさから生き物を守る)」という最初のテーマは新鮮なので、それが引き立つようにする方がいいと思う。

  雲  池田清子

  真っ白ではなく
  少しおさえた白のレースのカーテン
  開けると
  青い空と白い雲
  屋根と屋根と屋根と屋根の
  間に見える濃い山
  唯一の遠景ダ

  トーストが焼けた
  ハムときゅうりとトマトと卵
  セイロンティーのウバ茶
  おろしショウガが入ってる
  二杯目はレモン

  母と全く同じお昼
  母はリプトンだったっけ

  今日の雲は
  懐かしさのかたまり

 「屋根と屋根と屋根と屋根の」ということばのつかい方がおもしろい、景色が見える、と、この一行に称賛が集まった。最後に母親が出てきて、懐かしいと結びつくところがいいという声も。
 この詩は、視線の動きがとてもくっきりしていて、それが印象に残る。一連目は「カーテン」という「中景」から始まるが、屋根のつらなりを超えて「遠景」に開放される。そのあとテーブルの上の「近景」が描かれる。三連目は、「心象の遠景」。母親との昼食を思い出している。同じ昼食でも紅茶の種類が違う。その「違い」がより一層「遠景」にリアリティーを与える。そして、リアリティーというのは、いつでも「身近」なもの。「遠い心象情景」が、ぐいと近づく。「近景」になる。それが「懐かしさ」。遠い空にある雲を懐かしいと言っているのだが、同じ雲を母と見たのかもしれない。雲は母でもある。この「心象の近景」の描き方が絶妙だと思う。近いけれど、遠い。遠いけれど近い。こころには「遠近感」はあって、ないのだ。
 最終連に「雲」を描いたのは、とてもすばらしいと思う。雲を描くことで、情景が広々としたものになった。

  空の家  青柳俊哉

  鳥かげのみえない春の
  透明な空の家にわたしたちは住む
  土の匂いを断ち 均一な箱舟が空へ伸びて
  薄氷のうえを漂うように 
  根づくことのないわたしたちの住み処
  澄んだ生物の瞳から 
  萌える草木の想いから遠くはなれて 
  わたしたちはこよなく透明である
  休日の朝 わたしは空のベッドで本をよむ
  わたしの少女が死の絵本とよぶ
  罌粟の記憶を黒いミルクのように飲み
  空に生きるための糧とする

  少女は紙の鳥をベランダから放つ
  鳥は舟の間をさまよいながら
  鳥のなかない沈黙の空の白をさらに深める
  わたしたちは鳥を追って熱しすぎる赤い大地に降りる
  地上は硬い春の光線がふりそそいで
  仮面を嵌めた人間がまばらに通り過ぎていく
  鳥は公園のまぢかな上空で
  鳥の形をした人工の星と交わっている
  わたしたちは砂場の砂に青いバラの花を育て
  青いバラの鳥を折り 青い鳥に身を移して
  審判を受ける者のように わたしたちを生んだ
  郷愁の空の中へ投身するのだ

 ことばがことばを呼びながら、詩の世界が展開していく。「最終行の意味はよくわからないけれど、いいなあと思う」「空と地上の対比を感じる」「罌粟から阿片を想像し、不気味な感じもする」「人工的なものと自然なものの対比が描かれているのかも」という感想。
 青柳から少し解説があった。「空の家」というのは「高層ビル(マンション)」のこと。ここに書かれていることは、したがって「現実」であるけれど、同時に「比喩」である。何が何の比喩であるかは、たぶん、特定しても意味を持たない。ことばの運動が、次々に新しい比喩をもとめて動き続けるからである。
 一連目は、高層マンションの一室、つまり空から見た風景。二連目は逆に地上から見た風景だろうか。ふつうは高いところから地上へ「投身する」のだが、この詩では逆に地上から「空の中へ投身する」。それは地上への投身が死を意味するのに対して、逆に生を意味する。あるいは死を超えた「再生」を意味するだろう。
 「紙の鳥」は少女の「死への希求」のようなものかもしれない。しかし、それも現実というよりも夢だろう。若いとき、死は、ひとつの憧れである。まだまだ死なない、という命の強さが死を夢見ることを許してくれる。もちろん、その憧れは虚構であり、虚構を言いなおせば「人工」ということになるか。自然にあるのではなくあえてつくりだしたもの。「鳥の形をした人工の星」「青いバラの鳥を折り」などイメージが早いスピードで駆け抜けていく。意味を負うことも大切かもしれないが、ことばのスピードに酔うことも、詩を楽しむひとつの方法である。

 

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若者のテレビ離れ。

2021-07-15 16:34:17 | 考える日記

日刊ゲンダイに興味深い記事があった。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/291931

「10代20代の半数はテレビを見ない」

というのである。
私もテレビを見ないが、私のような老人がテレビを見ないのと、若者がテレビを見ないのでは「意味」が違うと思う。
記事には、いろいろなことが書いてあるが。

私が私なりに要約すれば、これは別なことばで言えば「時間」を共有しなくなったということだね。
昔は、たとえば人気ドラマがあると銭湯ががらがらになった、といわれた。
銭湯も単に体を清潔にする場所ではなく、一種の「時間の共有」だった。
銭湯で「時間を共有」するかわりに、各家庭で、銭湯で出会う人と「時間」を共有している。
だから、次の日、前日見たドラマの話をすることで、「時間の共有」を確認する。
「時間の共有」が「生きる」ことの「共有」だった。
いまは、「時間」ではなく「コンテンツ」の共有に代わっている。
昔も「コンテンツ」を共有してはいたけれど、コンテンツ以外の「時間」の共有こそが人間をつないでいた。
みんな「おなじこと」を「同じ時間」にしている。
これがなくなるのは、大変な変化だとも言える。
時間を共有するというのは、いっしょに生きているということを感じることだからね。
「時間の共有」感覚がなくなると、きっと「他人の肉体感覚」というのも消えるな。
側にいる人が「肉体」をもった人間ではなく、単なるある「コンテンツ」を知っているかどうかだけでつながることになる。
ネットで問題になる「炎上」というのは、そういう類のものだな。
ことばを書いているのは、肉体を持って生きている人間であるということを忘れて、肉体を欠いたことばが暴走する。
古いことばだけれど「裸のつきあい」というのは、とても大切なのだ。
それが、「若者のテレビ離れ」というのは、ある意味で「裸のつきあい」の機会を減らしていくことになる。
飛躍した論理のように見えるかもしれないが、私が若者に感じる不気味さは、「他人の裸を知らない人間」の不気味さなのだ。
「裸の肉体」を「共有」したことがない体験の不気味さなのだ。
そういうことを思い出させてくれる記事であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案再読(13)

2021-07-15 11:29:30 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(13)

 憲法の条文は、常に前に書いた条文を説明する形で展開する。

第19条
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 この規定だけでは「思想及び良心の自由」というものが具体的に何を指すか(どういうものを「思想」「良心」と定義しているかわからない。わかるのは「侵してはならない」と国に禁止を命じているということだけである。
 だから、こう言いなおす。

(現行憲法)
第20条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
(改正草案)
第20条(信教の自由)
1 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

 私は信仰心がないし、死んだら何もないと思っているので、この条項をしっかり受け止めることができないのだが。
 しかし、多くの人は生死の問題を心の平安の問題ととらえているように思える。生きているときもそうだが、死んだらどうなるのか。生きているときは生きる努力をするが、死んだら「努力」できるのか。「努力」で死後の世界を平穏に暮らしていけるのか。そういう不安から「宗教」に頼る。生死にかかわるからこそ(あるいは死にかかわるからこそ)、「思想」のいちばんの問題として「信教」を取り上げているのだろう。何を信じるか、それは各人の自由である。「何人」を私は「個人(ひとり)」ではなく、「複数の人間」(だれであっても)と私は読んでいる。「何人」を私は「各人」と読んでいる。「各人」に、その「自由を保障する」。「保障する」は、「(国はこれを)侵してはならない」(第19条)ということである。
 そして、宗教というのは、たいていの場合、「個人」のものであるけれども、「個人」だけでは「宗教」にならない。たいてい、寺とか教会とか、いわゆる「組織/団体」といっしょに存在する。「組織/団体」というのは「個人」に比べて「力」を持っている。言いなおすと、「個人(ひとり)」は「組織/団体」に対して、その「権利を侵す」ということはしにくい。しかし、「組織/団体」は「個人(ひとり)」に対しては「権利を侵す」ということがあり得る。寺や教会が「あなたの考え方は私達の信仰とはあわない。だから、この寺、教会から追放する」ということが起き得る。それはもちろん「組織/団体」と「個人」の問題なのだが。
 ここで、現行憲法は釘を刺す。宗教団体と個人の力関係を配慮してのことだと思う。
 宗教団体は常に個人の上位に立つ。だからこそ「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」。国から特権を受けて、信者に対して政治的に働きかけてはいけない。
 これは「主語」が「宗教団体」だが、憲法は「国の行動を拘束するもの」という立場から読み直すと、「国は、いかなる宗教団体にも特権を与えてはならないし、または宗教団体を通じて政治上の権力を行使してはならない」ということ。つまり、政治団体を政治のためにつかってはならない、宗教団体を通じて、国民に「信教」を強制してはならないということである。
 この条項から見ると、たとえば靖国神社で戦没者慰霊は、靖国神社を通じての「ひとつの宗教」の強制であるから、違憲である。靖国神社で慰霊されたくないという遺族の「信教の自由」を「侵している」からである。
 改正草案は
①「何人に対してもこれを」を削除している。したがって、改正草案が成立すれば、第二次大戦での戦没者は例外的に全員を靖国神社で慰霊する、ということが可能になる。「だれに対しても」ではないからだ。例外の余地を残すことになる。(これを、を削除しているのは、20条のテーマが「信教の自由」であることを、あいまいにしている。憲法を読む人に対して、これがテーマであるということを意識させないようにしている。)
②は「政治上の特権を行使してはならない」を削除している。つまり、国は「政治上の特権を、ある宗教団体を通じて行使できる」という可能性を残している。靖国神社を通じて「戦没者慰霊祭」を開催し、そこに遺族を集め、慰霊させるということができるのである。
 「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」は、現行憲法と改正草案に共通する(改正草案は、変更をくわえていない)が、意味合いが違う。
 現行憲法は、あくまで第一項で「国に対する禁止事項」を明記し、次に「国民」の「信教の自由」を言いなおしたのものである。国は宗教団体を通じて政治活動をしてはならないのだから、「何人(国民各人)」は、そういう催しに参加しなくていい(参加を強制されない)自由を持っている。
 改正草案は、こういう「国に対する禁止」→「各人の自由(の保障)」がはっきりとはつたわらない。
 第三項は、国の宗教活動禁止。現行憲法は「宗教教育その他いかなる宗教的活動」と書いているが、改正草案は「特定の宗教のための」を挿入し、「いかなる」を削除している。つまり「特定の宗教のため」でなければ「なんらかの」宗教活動ができるのである。
 私は「組織/団体」を「寺、教会」と書いてきた。簡単に言いなおせば「仏教、キリスト教」だが、実際の「信仰(宗教)」というのは「仏教/キリスト教」というあいまいなくくりではない。いつでも「門徒」のような問題といっしょに動いている。きわめて個別的なものである。同じようであっても、各人にいわせればまったく違うものであり得る。そういうことを改正草案は無視している。
 そして、「信教」を個別的ではない存在にしてしまったあとで、「なんらかの」宗教活動を、「社会的儀礼又は習俗的行為」と言いなおす。靖国神社での慰霊の奉納、慰霊行事は「宗教行事」ではなく、戦没者を追悼するという「社会的儀礼」であると定義することで「信教の自由」を「侵害した」ということにはならない、と定義しようとするのである。
 死者を悼まないというのは、一般的には批判を受ける行為であるけれど、死者を悼まないからといって「公共の福祉」に反するわけではない。追悼式の会場に侵入し、そこで祝い歌を歌えば、「みんなで悲しみを共有している(悲しみを共有することで、生きる力を支えあっている)」ことを妨害する(公共の福祉)に反するだろうけれど、その会場に行かない、家で一人で個人を思っているということは「公共の福祉」に反しない。だから、個人の自由である。しかし、改正草案の「理念」から言えば、「みんなが参加する」という「公の秩序」に反するという理由で、一人で家で個人を忍んでいる、という行為は許されないことになるだろう。つまり、追悼行事への参加を強制されることも起き得るだろう。
 改正草案は、国への「禁止」が、あいまいであり、緩やかである。「この限りではない」という「例外」があることを、わざわざ憲法に書き込むのは「例外」を実行するということである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新倉俊一『ビザンチュームへの旅』

2021-07-14 15:50:16 | 詩集

 

新倉俊一『ビザンチュームへの旅』(洪水企画、2020年07月25日発売)

 新倉俊一『ビザンチュームへの旅』は、「西脇順三郎が大好き」という感じがあふれる詩集である。新倉は「大好き」というようなことばでは感情(思い/思想)をあらわさないとは思うのだが、私はミーハーなので「大好き」と言いなおすのである。
 それがどれくらい「大好き」かというと、「あとがきに代えて」というページにあふれている。新倉はなんと、自分のことばのかわりに草野早苗の「岩礁」という作品を転写している。草野早苗というのは新倉俊一のペンネームだったのか。違うと思う。はっきりとは覚えていないが、私は「草野早苗」という名前に記憶がある。作品の感想を書いたことがあるかもしれない。もし新倉俊一と草野早苗が「別人」ならば、なぜ他人の作品を自分の詩集の「あとがき」に代えて、転写しているのか。
 「岩礁」のなかには西脇順三郎と思われる人間が登場している。最終連だけを引用する。

  夜 スマホを見ると
  写した記憶のない海と岩礁と海鳥と
  中折れ帽の長身の人の横顔のシルエットが
  定まらない季節の大気のなかで
  ほのほのと揺れていた

 新倉は草野の詩を読み、草野が西脇を敬愛していることを知ったのだ。そして、自分の「西脇大好き」を引き継いでくれるのは草野だと確信したのだ。つまり、新倉は、これからは西脇のことを思い出すなら、草野といっしょに西脇の詩を読んでほしい、と言っているのだ。
 新倉が西脇をどれくらい「大好き」かが、ここに端的にあらわれている。私は「大好き」なものは自分で独り占めしたいが、新倉は違う。「大好き」なものは仲間と分かち合いたい。分かち合うとき、その分かち合った対象(西脇)がより多きな存在として存在し始める。そういうことを知っている。
 「詩人の曼陀羅」という散文をあつめた章には多くの詩人の名前が出てくる。新倉は、彼らと西脇を共有した。そして共有する体験を通して、西脇が新倉の知っている西脇からもっと大きな存在に変わることを実感したのだ。その喜びを、なんとかしてほかの人に引き継ぎたい。散文に出てくる詩人たち、仲間たちは、死んでしまっている。ここのままでは大好きな西脇が、新倉が死んだときに死んでしまう。それは残念。なんとか新倉が死んだ後も、だれかのことばのなかで西脇が生きつづけてほしい。そう願っている。そして、その願いを託すことができる詩人を見つけたのだ。それが草野早苗なのだ。
 この詩集は、一方で西脇順三郎に捧げられているが、もう一方で草野早苗に引き渡されている。引き渡すことで、新倉は身を引いている。草野を立てて、自分のことは忘れてもいいと言っているようにさえ見える。
 これは、すごい。
 私は、こんなふうに捨て身になってだれかを愛したことはない。だれかのことばを好きになったことはない。「好き」を超えている。「大」好きなのだ。

 どの詩にも、西脇の姿が見える。「ビザンチュームへの旅」は西脇を追いかけながらエーゲ海を旅する詩である。この詩を紹介すべきなのかもしれないが、部分を取り上げるのは、なにか詩を(気持ちを)切り刻むような感じがするので、引用しにくい。
 あてずっぽうに開いたら「桔梗」「紅葉」という作品。「冬の旅」のなかの作品である。「桔梗」を引用する。

  「夏の路は終わった」
  と呟いた詩人のあとを
  追って秋も過ぎ唯一人
  冬の旅を続けている
  もう学問も研究も忘れて
  ただ白露の下に眠る
  宿根の蒼白な桔梗を
  ひそかに探しているだけだ
  古今集に詠まれている
  中国から渡来したという
  あの桔梗の花には遥かな
  淡い色彩が宿っている

 ああ、いいなあ。全部が「西脇の音楽」に聞こえる。一行から次の一行への変化。そのときのリズム。私の記憶のなかに生きている西脇があらわれてことばを動かしているようだ。
 西脇そっくり。
 こういう感想は、ふつうならそれを書いた人の否定になる。
 でも、新倉の場合は、きっと違うと思う。西脇そっくり、は絶対的肯定になる。
 終わりから二行目「あの桔梗」の「あの」の強さ。これは、もう、私は涙が流れるくらいにうれしい。
 「あの」って、わかります? 「この」でもなく、「その」でもない。「あの」は、いま/ここにはない何かを指す。ただし、それを「あの」と呼べるのは、その対話をしている人(たとえば西脇と新倉)が「あの桔梗」を知っているときだけなのである。「その」も「いま/ここ」から離れたところにあるものを指すが、「その」で指し示されるのは一方が知っていて、他方は知らない何かである。「あの」は「その」とも「この」とも違う。二人の、秘密のような、共有感覚がある。
 そして、その「あの」は「遥かな」「淡い」ということばであらわされるものなのだ。だれでもわかるものではない。そこには、ある種の「特権」がある。「選ばれた二人」という特権である。「宿っている」もいいなあ。それは「宿っている」だけであり、まだ「表」には出てきてないのだ。そういう「秘密」の共有。
 新倉の「引喩集成」は、新倉が西脇と「共有」した「秘密」をまとめたものである。西脇の「秘密」を新倉が七年かけて聞き出し、一冊にしたものだ。一冊にすることで「秘密」が多くの読者にも「共有」できるものになったのだ。もちろん、そういう「秘密」を「共有」しなくても、詩は楽しい。しかし、「秘密」を「共有」すると、詩はもっと楽しい。「共有」は「分かち合い」になる。そういうこともこの詩集には書かれている。

 

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/item/DS2001652


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案再読(12)

2021-07-13 17:15:06 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(12)

 第19条に触れる前に、少し復習。
 第10条は、国民の定義。
 第11条は、国民は基本的人権を持っている。それを国は侵すことができない。
 第12条は、国民は基本的人権を濫用できない。公共の福祉のために利用しなければならない。
 第13条は、しかし、「公共」(みんな)よりも「個人」が大事。「公共の福祉(みんなの助け合い)」の妨げにならないなら、何をするかは「個人の自由」。つまり「公共の福祉(みんなの助け合い)」に参加しなければならないというわけではない。
 第14条は、国民(個人)はみんな平等。差別されない。これは、ここには書いていないが「公共の福祉(みんなの助け合い)」に参加しなくても差別されない、ということ。「信条」によって差別されないとは、そういうことを指すと思う。
 そのあと、公務員、犯罪者のことが書かれ、第19条に移る。ここで、もう一度ふつうの、つまり公務員でもなく、犯罪者でもない「国民(個人)」のことが書かれる。「自由」が定義される。私は、国民(個人)は、「公共の福祉(みいんなの助け合い)」を妨害するのでなければ、何をしても個人の自由と、憲法のこれまでの条文から理解しているが、ここからはその「自由」について定義していると読む。

(現行憲法)
第19条
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(改正草案)
第19条(思想及び良心の自由)
 思想及び良心の自由は、保障する。
第19条の2(個人情報の不当取得の禁止等)
 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。
 同じことを書いているように見えるが、私は違うと思う。

 現行憲法は「侵してはならない」と「禁止」を明確に書いている。「侵す」の「主語」は国民ではなく政府(国)である。国家権力は、国民(個人)の「思想及び良心の自由」を侵してはならない。まず、テーマが「(個人の)思想及び良心の自由」であり、国家権力は「これを侵してはならない」と「禁止」であることを明確にしている。
 「侵してはならない」と「保障する」は似ていて違う。「保障する」では「禁止事項」がわからない。その条項によって、だれの暴走を拘束しようとしているのかわからない。
 憲法は、国に対して「〇〇をしてはいけない」という「禁止条項」をまとめたものである。
 第9条では、国民を主語にして、「国権の発動たる戦争(国が指揮して行う戦争)」は、「これを放棄する」と書いているが、これは、国民は「国権の発動たる戦争」を国に対して「禁止する(認めない)」といっている。まず、国への「禁止事項」から語り始める。
 それは国民の基本的人権も同じ。

(現行憲法)
第11条
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 まず「妨げられない」(妨げてはいけない)と書いた上で、こういうことを「保障する」と言いなおしている。「〇〇を守る」では「〇〇を侵してはならない(禁止)」が憲法で言う「保障する」なのである。
 改憲草案は、この「〇〇を侵してはならない」という「禁止」をあいまいにしたまま、「守る」(保障する)とすりかえている。「守る」ために何をするか。それは憲法の場合、国は国民(個人)の権利を侵さない(侵してはならない)、なのだが、それがあいまいにされている。
 「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と「思想及び良心の自由は、保障する」という文章を、文章的観点からだけでみると、改憲草案の方が自然な日本語に感じられる。現行憲法は「翻訳調」であり、なんとなくぎくしゃくしている。不自然な感じがする。しかし、これはテーマを明確にし、次に国に対してはこういうことを禁止すると明言するために、そうなっているのである。「ぎくしゃく」していると感じるならば、それは憲法が国に対する禁止事項を国民がつきつけているという「基本」を忘れているからだ。国には、絶対にこういうことをさせない(たとえば戦争をさせない)と要求するときは、その要求がより明確になるよう「文体」を整える必要がある。こういう「文体」を嫌うのは、自民党が「国民から〇〇してはいけないと言われるなんて、真っ平御免」と考えているからである。国民(個人)の視点ではなく、「独裁者」の視点からことばを考えているからである。
 このあと、憲法は「思想及び良心の自由」では抽象的すぎるので、「思想(=良心)」とは、具体的には何を指すかについて書いていくのだが、その個別の「思想自由」について触れる前に、改憲草案は、条項を追加している。重複するが、もう一度引用する。

(改憲草案)
第19条の2(個人情報の不当取得の禁止等)
 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。

 「個人情報」を「不当に取得する」「保有する」「利用する」を「禁止」するのは当然だが、「だれが」それをしてはいけないのか。
 改憲草案の「主語」は「何人」である。「何人」は「国民」と同じようにつかわれているが、「何人」は「個人(ひとり)」というよりも「複数(だれであっても)」を指しているように私には思える。一人のこと(個人のこと)を問題にするのではなく、複数の人間をテーマにするとき「何人」とつかいわけているようだ。(きちんと分析したわけではないのだが。)
 この条項がいちばん問題なのは、憲法が「国の禁止行為」を定義しているはずなのに、ここでは「何人(国民)」に対して「してはならない」と「禁止」していることである。これでは、国民は他人の個人情報を取得する、保有する、利用することはできないが、国はしてもいい(国に対する許可)のように読めてしまう。
 実際、いま「デジタル庁」の創設をはじめ、マイナンバーカードの所持強要なども、国が(自民党が)国民の個人情報を取得、保持、利用するためのものだろう。個人情報(なんと、小学校のときの成績さえマイナンバーカードに記録させるという案があった)を「管理/監視」し、国民を支配しようとしている。
 その一方、国民が政府に対して「情報の開示」を求めると、「個人情報があるから開示できない」と言っている。
 このことからも、改憲草案の「新設条項(第19条の2)」は、国が「個人情報」に限らず、あらゆる情報を一元管理、支配するための条項だといえるだろう。
 すでに何度か書いてきたが、自民党の政策は「改憲草案(2012年)」を「先取り実施」する形で展開されている。思いつきでやっているのではなく、「改憲草案」を踏まえてやっている。
 憲法改正ができなくても、憲法を改正したのと同じことができるように政策を展開している。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤芳博『いのちの籠を編む』

2021-07-13 11:27:21 | 詩集

伊藤芳博『いのちの籠を編む』(ふたば工房、2020年08月10日発売)

 伊藤芳博『いのちの籠を編む』には詩に関する文章と憲法に関する文章が収録されている。
 憲法で伊藤が指摘しているのは「国民」と「何人(なんぴと)」の使い分けである。この問題を、伊藤は「英文」と比較している。英文というのは、主にGHQ草案のことである。英文そのものも引用されているが、私は英語のニュアンスがわからないので、伊藤の指摘については、それが納得できるとも、納得できないとも言うことができない。
 伊藤は、「国民」は日本人を指し、「何人」は「外国人を含む人間」を指していると把握している。しかし、そこには「外国人を含む」という明確な定義が言語化されていないので、結果的に、現在も根強く残っている外国人差別(中国国籍人、韓国国籍人、北朝鮮国籍人)を生み出す「温床」のようになっている、「人権」意識が歪められる結果を生んでいる、と指摘する。
 これは丁寧で鋭い批判である。とても多くのことを教えられた。

 また「公共の福祉」(現行憲法)と「公の秩序」(自民党新憲法草案=2005年)を比較して、その書き換え(改正)に異議を語っている。
 私は「自民党新憲法草案=2005年」を読んでいないので、その全体に対する批判はできないけれど、この「公共の福祉」を「(公益及び)公の秩序」と言いなおしているのは、やはり問題だと思う。
 「公共の福祉」を伊藤は「国民の幸福」と定義している。「自分と他人の幸福」について考え、話し合うことを「公共の福祉」の概念だと言いなおしてもいる。ここでも伊藤は英語と比較しながら「福祉」の定義を進めている。
 私は「福祉」を「幸福」というよりも「助け合い」と考えている。助け合いといっても、もっぱら困っている人がいれば助けることが「福祉」、つまりだれかが困っているなら困っている人のために自分のできることをしなければならない、する責任があるが現行憲法の「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」(第12条)だと思っている。
 ただし、「責任を負う」といっても、いつでもかならず困っているだれかを助けるということはむずかしい。できないときもある。だから、最低限、だれかが困っているだれかを助けているのを妨害してはならないというのが、現行憲法の「公共の福祉に反しない限り」最大の尊重を必要とする(第13条)だと読んでいる。13条は12条の補足。みんなが助け合いをしているとき、それを妨害しないならば好きなことをしていい、と読んでいる。みんなが助け合いをしているから、自分も必ず助け合いに協力しなければならないという義務づけをしているとは読まない。
 
 さらに、伊藤は「公の秩序」を「戦争の放棄」とも結びつけて語っている。その指摘は重要であると思う。
 ところで、「戦争放棄」について、伊藤は、「国際紛争を解決する手段としては」ということばの座りが悪い、と指摘している。そして、この「保留」は、「国際紛争を解決する手段として」でなければ、戦争も武力の行使も行ってもよい、というおかしなことになる、と指摘する。( 136- 137ページ)
 その指摘を読みながら、私は、少し考え込んだ。
 現行憲法に番号をつけて読み直してみた。

日本国民は、
①正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
②国権の発動たる戦争と、
③武力による威嚇又は武力の行使は、
④国際紛争を解決する手段としては、
⑤永久にこれを放棄する。

①は「理念」(理想)の表明。
②は「戦争」というテーマを掲げ、それを「国権の発動によるもの」と定義していると思う。修飾語(定義)が戦争の前に来ているのは、単に、その修飾語が短いからである。
③は「武力による威嚇又は武力の行使」というテーマを掲げている。
④は「武力による威嚇又は武力の行使」というテーマの説明ではないのだろうか。伊藤も「修飾語」と認識している。修飾語が長いから、テーマが隠れてしまわないようにするために、後に回したのだろう。
⑤の「放棄する」は「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を「放棄する」と読むことができる。
④で「武力による威嚇又は武力の行使は」と「は」をつかっているのは、それがテーマであることを指し示しているからではないのか。
 現行憲法は、テーマを明示するという文体をしきりにつかっている。(自民党改憲草案では、このテーマの明示を分かりにくくしている。テーマを「一般概念」のようにあつかう文体に変更している。)
 伊藤は、このときも英文を参照しながら「文体」を読んでいるけれど、憲法全体の文体との比較も必要なのではないか、と私は思う。
 また「国際紛争」は「戦争」かどうかは、意見が分かれると思う。
 国が発動しなくても「国際紛争」は起きうるのではないか。たとえば日本近海では、よく外国漁船の「拿捕」がある。日本の漁船が外国沿岸で「拿捕」されることもある。これも「国際紛争」の一つではないだろうか。そう考えれば、そういう「国際紛争」のとき、それを解決するために「武力による威嚇又は武力の行使は」しない(放棄する)といっているのではないだろうか。
 というのも、いったん「武力による威嚇又は武力の行使」をしてしまうと、武力衝突は拡大し、「国権の発動たる戦争」につながっていくからである。
 伊藤の訳出している、「日本国民は、国権の発動たる戦争と、国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇又は武力の行使を、永久にこれを放棄する」は伊藤の言うように「わかりやすい」文章だけれど、問題は、「は」が「を」になっていること。そして、「武力による威嚇又は武力の行使」というテーマが「国際紛争を解決する手段としての」という長い修飾語によって見えにくくなっていること。
 私はテーマの明示が、憲法の場合は重要なのではないか、と考えている。
 このことについて考えましょう、こういうことについては、国には(権力には)こうさせるのをやめよう(禁止しよう)ということを明確にするためには、まずテーマの明示が重要、という文体で書かれていると思う。
 第9条は修飾語を省略すれば(骨格化すれば)「日本国民は、戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、永久にこれを放棄する」になると思う。「テーマ」は「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」。この二つを「永久に放棄する」。(〇〇は、これを〇〇する、というテーマを先に明示し、それを「これを」と言いなおすのは、現行憲法の文体の特徴の一つである。)
 私は英語を話さないのでわからないけれど、英語では重要なことは先に言う。説明は後回しにする。伊藤の引用している英文では「as」をつかって説明を後回しにしているのがよくわかる。その重要なこと(テーマ)が先、説明は後、という「文体」を忠実に再現しようとしたのが、現行憲法の表現ではないだろうか。先にも書いたが「戦争」について「国権の発動たる」が先に来ているのは、それが短いからである。
 わかりにくい、あるいはふつうの日本語の「文体」と違う、というのは、考えてみれば憲法のようなものには重要なことではないだろうか。ふつうの日本語にしてしまうと、見えにくくなるものがある。
 私がいちばん気にするのは、そこである。
 現行憲法について、「翻訳体(翻訳調)の不自然な日本語である」という批判がしばしば聞かれる。「こんな日本語はない」だから、もっとに「日本語らしいこなれた文章」にしなければならない。私は、こういう論理に疑問を持っている。

 だんだん書いていることが伊藤の論の紹介ではなくなってきてしまったが……。

 いろんなひとが、いろんな立場から憲法を読み直す。自民党の改憲の動きと合わせて、憲法を考え直すというのは重要なことだと思う。いろんな読み方があれば、そこから気づかされることが多い。ひとりでは、わからないことが多い。
 衆院選では、絶対に自民党はコロナ対策がうまくいかなかったのは「緊急事態条項」が憲法にないからだと言いはり、改憲をからめて選挙運動をすると思う。その動きに向き合うために、多くの人が憲法を読み直し、何が書いてあるのか考えることが大切だと思う。憲法は、自民党のためのものではなく、国民のためのものなのだ。そして、それをどう読むかは、国民一人一人の「自由」なのだ。自分の暮らしから憲法を読む。人の数だけ、憲法の読み方があっていいはずだと思う。

 詩についての文章(一年間の時評)のなかに、こういう文章がある。
 「私というの一人の人間には、そう多くの詩はいらない」。これは美しいことばだ。憲法についていえば、私は、その全部の条項を必要とはしない。私には絶対に譲り渡したくない条項がある。そのことはすでに書いたので繰り返さない。その条項を中心にして、憲法を読み直す。そうすると、私にとっての憲法がどういうものかが見えてくる。多くの人が「私にとっての憲法」を語り合うとき、憲法がいっそう身近になると思う。
 多くの人の「憲法」を読みたい。憲法学者の憲法ではなく、暮らしからわかる憲法を読みたいと思う。

 

 

 

 

*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高柳誠『フランチェスカのスカート』(18)

2021-07-12 10:54:28 | 高柳誠「フランチェスカのスカート」を読む

高柳誠『フランチェスカのスカート』(15)(書肆山田、2021年06月05日発行)

 「時の糸」。「時の流れ」は「意識の流れ」。これは高柳の詩に共通する性質のように思える。「意識」は「想像」でもあり「理想」でもある。想像と理想が同じものであることは、ふたつのことばがともに「想」という文字を抱え込んでいるところからもわかる。

                  理想的な時の糸を常に選択して
  いけば、ひょっとして時の糸の方で勝手にこちらを選択してくれる
  ことがないとも限らない。

 「選択する」という動詞が「選択してくれる(選択される)」にかわる。人間(自分)が時を「選択する」と、時が人間(自分)を「選択してくれる」というのは、能動から受動への「文体」の変化だが、「文体」を能動にととのえなおすと、時が人間(自分)を「選択する」になる。
 これは何を意味するか。
 高柳は、実は、書かなくていいことを書く。「余剰」を書く。「余剰/書かなくていいこと」というのは言い過ぎだが、なんといえばいいのか、ひとつのことを裏と表、二重の視点から書くことで世界を「合わせ鏡」のように押し広げ、同時に閉ざすのである。
 「文体」の変化が世界を「完結」させる。
 これはもしかすると「悪い癖」かもしれない。「完結」せずにはいられない、という癖が、時里二郎と共通しているように思う。
 この詩では「選択する/選択される」という「完結」を破壊し、解放するために(作品の中につかわれていることばで言えば「寸断する」ために)、「時の糸」に「矢」が放たれる。糸に矢があたり音が鳴り響く。それが音楽になると展開するが……。

               長い糸から発せられる音楽は、あまり
  にも周波数が低いため人の耳には聴き取れない。それでもその音楽
  は、心の奥底にそれと知れずに忍び入って、ひそかにその人の運命
  と共鳴する。

 しかし、その「寸断」は「時=運命」ということばで、再び完結する。
 「ことばの肉体」にしみついてしまった癖(思想)というのは、なかなか振り切ることがむずかしい。

 

 

 

 

 

*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/item/DS2001652


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高柳誠『フランチェスカのスカート』(14)

2021-07-11 10:31:09 | 高柳誠「フランチェスカのスカート」を読む

 

高柳誠『フランチェスカのスカート』(14)(書肆山田、2021年06月05日発行)

 「泉」。町を潤す水脈。その水は甘い。

  人々は、星降る丘に降りそそぐ流星の成分が地中深くに溶けこむか
  らこそ、泉は星空のように甘いのだと考えている。また、水の音楽
  自体も、もとは満天の星たちが奏でていたものの残響だともいう。

 これは、美しい。しかし、このままでは美しすぎて、なにかはかない感じがする。それを高柳は、こう変えていく。

  一方、地下に眠る死者の記憶を透過することこそ、甘さの原因だと
  信じる人々もいる。結晶化した記憶の成分を含むからこそ、この水
  を飲み続けると、死者固有の記憶がしだいに体内に降り積もって、
  生きている人のなかで確かな経験に析出してくるのだし、水の音楽
  も死者が地中でうたう歌のひそかな反響にほかならないというのだ。

 「透過する」「結晶化」という高柳好みのことばが出てくるが、私がなによりも注目するのは書き出しの「一方、」である。
 ある存在を一方向から描く。それを、別の「一方」から見つめなおす。それは「鏡」の文体である。鏡の存在によって、実在と鏡像の間で、実在と虚構からあふれだしてくるものがダンスをする。
 それが高柳の詩なのである。
 一方に夜空の星の音楽がある。それは地上に降り注ぐ。一方、その地中には死者たちの記憶がある。それを人々は飲むことで地上へすくい上げる。これを「降り積もる」ということばで「降りそそぐ」と対照的に描いているも「鏡の文体」である。このとき「鏡」とは星空か、地中か。限定されない。あるいは、ふたつもとが「鏡」になる。そのふたつの「鏡」のあいだで人間が生きる。夜空と地中というふたつの存在を結びつけながら。

 

 

 

 

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/item/DS2001652


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案再読(11)

2021-07-11 09:55:56 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(11)

(現行憲法)
第16条
 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
(改正草案)
第16条(請願をする権利)
1 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願をする権利を有する。
2 請願をした者は、そのためにいかなる差別待遇も受けない。

 現行憲法は、一項目でおさめている。改憲草案は二項目に分けている。第18条でも同じスタイルをとっている。この「改正」の意図は何なのか。
 「請願」は別なことばで言えば「苦情/注文」だろう。「これでは困る。こうしてほしい」。「困る」という訴えが先にある。訴えられれば、どうしたって「反応」がある。反応は大きく分けて「受け入れる」「拒絶する」。そして、その「拒絶」にはときどき差別待遇が含まれる。それは、いわば「ひとつづき」のものである。そういう意識が現行憲法にあるのだろう。苦情、注文をつけられたからといって、苦情、注文をつけたひとを差別待遇してはいけない。
 改憲草案は、これをふたつにわけている。国民は請願する(苦情/注文を言う)権利を持っている。そして、補足として、請願者に対して差別待遇をしてはいけない、と苦情を受け付けた側に注意している。「請願をした者は」と「主語」が「請願者」になっているけれど、行為としては「請願を受けたもの」が主語だろう。差別待遇をしてはいけない。能動があって、はじめて受動が成り立つ。
 実質的な「主語」を切り離して、二項目にしている。
 これは第9条でも見られたことだが、かなり注意をしないといけない。何か問題があったとき、「第一項目」は適用するが、「第二項目」は適用しない、というときの「根拠」(よりどころ)にされてしまう危険性がある。
 この項目の分離は、たとえば「第7条解散」のように、実際に行われている。ひとつのことがらが何項目かにわけて規定されてるときは、それが「悪用」される危険性が高い。たぶん、悪用するために分離しているのだろう。
 この「差別待遇」では、菅のもとで、こういうことがあったはずだ。「ふるさと納税」という制度がある。その制度(特に返礼品)には問題がある、と官僚が菅に進言した。これは「請願」ではないが、「請願/注文/苦情」にいくらか似ている。そのとき菅はどうしたか。その官僚を異動(左遷)させた。これは「差別待遇」である。
 官僚とふつうの国民を同一視することはできないが、官僚に対しておこなわれたことは国民に対してもおこなわれるだろう。国民を直接異動(左遷)させるわけにはいかないから、別な「差別待遇」がとられることになるだろう。
 現実に起きていることと関係づけながら、私は、そんなことを思うのである。

(現行憲法)
第17条
 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
(改憲草案)
第17条(国等に対する賠償請求権)
 何人も、公務員の不法行為により損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は地方自治体その他の公共団体に、その賠償を求めることができる。

 改変点は二点。
①「公務員に不法行為により、損害を受けたとき」と「公務員の不法行為により損害を受けたとき」の違いは「読点」の有無。改正草案では「読点」がない。これはあまりにも微妙な改変である。なぜ、読点を削除したのか。
 たぶん改正草案は、公務員の不法行為により「直接」損害を受けたとき、に限定しているのだと思う。たとえば静岡県の盛り土の土石流。盛り土(土砂投棄?)処理を許可したの公務員がいる。そのとき何らかの規制ミス、管理ミスをしている。しかし実際に土砂を投棄をしたのは業者であり、施工ミスであるという場合。改正草案では公務員には(つまり、国には)賠償責任がない、ということになるのではないか。そういう結論を出したいがために「直接」ということばはつかってはいないが(つかうと目立ってしまうからね)、読点を削除することで「含み」を持たせたのではないか。
 疑り深いから、私は、そう考える。
②「国又は公共団体」に「地方自治体」と「その他の」が追加されて「国又は地方自治体その他の公共団体」になっている。これは、どういうことか。地方自治体の公務員の不法行為については、国は責任をとらない、ということにしたいのではないのか。「国家賠償」ではなく「地方賠償(?)」という形にしたい。「その他の」が追加されたのも、なるべく国ではなく他の「団体」に賠償責任を押しつけようとする意図があるように思える。国家公務員でない限り、国は賠償責任を持たないということにしたいのではないか。

(現行憲法)
第18条
 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
(改正草案)
第18条(身体の拘束及び苦役からの自由)
1 何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
 この条項でも、条項の分割がおこなわれている。「奴隷的拘束」が「社会的又は経済的関係において身体を拘束」と言いなおされ、「その意に反すると否とにかかわらず」が追加されている。「奴隷的拘束」ということばが避けられているのは苛酷な印象を隠すためだろうか。しかし「奴隷」が「社会的又は経済的関係において身体を拘束」と言いなおされるとき、抜け落ちるものがある。「精神的拘束」が欠落する。「精神的」というのは「その意」の「意」のことだろう。「その精神に反すると否とにかかわらず」というとき「精神」とどうあつかわれているのだろうか。よくわからない。
 現実には、パワーハラスメント、モラルハラスメントが問題になっている。「身体的拘束」ではなく「ことば」による「精神的拘束」。これも一種の「奴隷状態」と言えるが、改正草案では、それは「身体的拘束」ではないから許される、ということになるのか。
 「ことば(精神)」による支配は、「空気を読む」という支配、「忖度を強要する」という支配につながりかねない。それは「身体的拘束」のようにはっきりとは目に見えないから、逆におそろしい問題を含んでいると思う。
 改憲草案は「犯罪者」を別項にし、強調することで、「奴隷的拘束」の「言い直し」から目をそらさせようとしているのかもしれない。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロバート・エガース監督「ライトハウス」(★★★★★)

2021-07-10 18:52:36 | 映画

ロバート・エガース監督「ライトハウス」(★★★★★)(2021年07月09日、キノシネマ天神、スクリーン3)

監督 ロバート・エガース 出演 ウィレム・デフォー、ロバート・パティンソン、鴎、汽笛、螺旋階段。

 モノクロの真四角なスクリーン。そしてそのスクリーンには「余分」なのものが何もない。余分なものがない、というのはこんなに美しいものなのか、と改めて思う。
 その余分なものがない中で、ウィレム・デフォーとロバート・パティンソンの、二人だけのドラマがはじまる。北海の孤島。灯台が舞台。余分なものはないと書いたが、余分なものはある。通りすぎていく霧笛の音、そして鴎。ふたりの男以外には、それだけ。そして、その余分が二人を刺戟する。たぶん鴎も霧笛も自由だからだ。どこへでも行くことができる。けれど灯台守の二人は、交代の人間が来るまで、どこにも行くことができない。
 しかし、そういうときでも、人間のこころはどこかへ行ってしまうのだ。どこかへ行きたがる。こころが「肉体」のなかからはみだし始める。これがモノクロに、不思議な色をつける。
 まず、他人が気になる。孤島に四週間、二人だけで生活しなければならないので、どうしても相手が気になる。こういうとき、ふつうは互いに自己紹介をする。名前を名乗る。ところが、二人は名前を呼ばない。二人しかいないから、「おまえ」で通じるから、名前は必要ない。実際、映画を見ていて、名前を呼ばないことを、最初は不自然に感じない。二人は、ここに来る前に当然名乗りあっていると思って映画を見ている。
 しかし、若いロバート・パティンソンがまず耐えられなくなる。「名前で呼べ」と反抗する。ウィレム・デフォーは名前で呼び始めるが、彼自身が名を明かすのはずっとあとだ。名前を名乗ったときから、ロバート・パティンソンの「過去」が語られ始める。名前とは「過去」というか、アイデンティティーなのだ。私は、久々に、アイデンティティーということばを、この映画を見て思い出した。アイデンティティーとは、単なる過去ではなく、「相手が知らない過去=過去の秘密」ということである。「過去の秘密」がロバート・パティンソンに、孤高の灯台守という仕事を選ばさせたのだ。
 ウィレム・デフォーは、そのことにうすうす感ずいている。「過去の秘密」がない人間が、孤島の灯台守の仕事なんかをするはずがない。「若いくせになにか隠している」と直感的に思う。そして、それは同時にウィレム・デフォーにも「過去の秘密」があるということを暗示する。
 ここから「世界」が狂い始めていく、というのがなんともおそろしい。ふつうは名乗ることから安定した関係(世界)がはじまるのだが、この映画では逆なのだ。名乗ることで、その名前の背後にはあった「過去」が「現在」へと噴き出してくる。しかも、こういうときは、どうしても「過去を隠したい」という気持ちもあるから、それは「ほんとうの過去」ではないことになる。嘘を語る。
 そして、嘘を語ってみてわかることがある。ウィレム・デフォーはしきりに「白鯨」(だと思う)のことばを「引用」する。他人のことばを引用する。自分のことばでなにかを語るのではなく、他人のことばで語るのは、それが嘘だからだ。
 こうやって互いの「秘密」の暴き合いがはじまる。このときも自分の嘘に耐えられなくなるのは若いロバート・パティンソンである。自分が名乗った名前は嘘だった。それは前の仕事をしていたとき(木こり、筏で丸太を運搬する)、仲間を事故で死なせてしまった。もともと折り合いが悪くて、なんとかしたいと思っていた。
 そして、その気持ちは、いまの相手、ウィレム・デフォーに向かって爆発する。嘘ばかりしゃべって、ほんとうに大切なこと(灯台守の仕事)を教えてくれない。こき使われているだけだ。しかも、相手はなにかいかがわしい秘密を持っている。(と、ロバート・パティンソンは思う。)
 こんなふうにストーリーを追っていくと、まるで映画というよりも舞台劇のようでもある。実際、ことばが重要な働きをしている。嘘はことばだからね。しかし、ウィレム・デフォーのセリフが「暗記(他人のことば)」であることが最初からわかっているので、これが逆に「芝居」を感じさせない。芝居しかできない人間のうさんくささがスクリーンからあふれてくる。
 モノクロという色を剥いだ映像が効果的なのだ。観客は、自分の記憶している色(肉体が覚えている色)でスクリーンを見つめる。自分自身の「過去」が噴出してきて、二人の葛藤とまざりあう。二人が憎しみ合いながら、それでも酒に酔って気晴らしに夢中になる気持ち悪さは、出色である。ほかの幻想のシーンよりも、二人のダンスのシーンの方が悪夢のように幻想的である。
 悪夢的幻想といえば、重たい霧笛、暴力的な鴎、荒れる波、断崖の岩、さらに灯台内部の螺旋階段がとても美しい。螺旋階段は霧笛と鴎がさんざん登場し、風景になってしまったあと、さっと出てきてさっと消える。螺旋階段が「主役」、霧笛と鴎が「準主役」、ウィレム・デフォーとロバート・パティンソンは「脇役」かもしれないなあ、とも思う。登場回数とは逆だけれど。二人が死んでも、霧笛も鴎も螺旋階段も生き残る。そこに、非情の美しさがある。

 

 

 

 

 


*********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ばかばかしい「論理」

2021-07-10 08:54:28 | その他(音楽、小説etc)

 

 東京五輪の「無観客開催」が決まった。そのことを受けて、菅がこんなことを言っている。(読売新聞、https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20210710-OYT1T50099/ )

「大きな困難に直面する今だからこそ、人類の努力と英知によって難局を乗り越えていけると東京から発信したい」とも語った。
↑↑↑↑
 菅は「安心安全」とか「努力」とか「英知」ということばが好きなようだが、もしほんとうに「人類の英知」によって困難を乗り越えようとするのなら、「英知」は観戦の危険があるときは五輪を開催しないという決断することだろう。
 それは「英知」というほどのものでもないし、努力というほどのものでもない。あえていえば「我慢」だろう。楽しみたい気持ちはわかるけれど、いまは我慢しよう。我慢することが、自分を助け、みんなを助けること。みんなで助け合いをすることを「公共の福祉」(憲法第12条)と呼ぶことができるが、いまこそ「公共の福祉」の精神を行かすべきときである。
 自民党はこの「公共の福祉」ということばが嫌いで、「公益及び公の秩序」(自民党憲法改正草案、2021年)と言う。さしずめ「無観客」というのは「公の秩序」になるのだろう。「公益」というのは、オリンピックを開催することでもたらされる「お金」ということになるのだろう。でも、オリンピック開催によって「潤う」のはだれなんだろう。「公益」というが、だれのところに「益」が入ってくるのだろうか。IOCには巨額の「放送権料」がころがりこむらしいが、その「益」は日本国民に再配分されるもの? 違うだろうなあ。。日本と日本人にとっては「益」でもなんでもない。せいぜいが、菅の周辺に何がしかの「見返り」がある程度だろう。
 コロナの感染拡大の危険性を考えれば、大会を開かないことがいちばん。そして感染拡大がおさまるならば、医療費の国民負担(税金も含む)も少なくなる。支出が減るということは、収入が入るように目に見える「益」ではないが、やはり「益」なのである。金を使わずにすむ。金をほかのことに使うことができる。
 そういう方法を考えるのが「英知」というものだろう。
 「安心安全な大会」といっていたのに、その「安心安全」のために「無観客」にするというのが「英知」だろう。難局(コロナ感染拡大)を「乗り越える」のが「無観客」というのなら、大会を開かない方がもっと万全だろう。万全の策を探り、それを実践するのが「英知」のつとめだろう。

 五輪ではほとんどの競技で児童・生徒向けの観戦特別枠が取りやめになった。このことについて、読売新聞は、菅に劣らずばかばかしいことを書いている。
https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20210710-OYT1T50086/ 
無観客となった自治体の子どもたちは、完全に観戦の機会を失うかもしれない。将来を担う世代に五輪の意味や価値をどう伝えるかも、今後の大きな課題だ。
↑↑↑↑
 「五輪の意味や価値」ということばが出てくるが、読売新聞は「五輪の意味や価値」を同定義しているのか。菅の「英知」とか「努力」と同じように、単なる飾りことばだ。
 五輪は世界の選手が一堂に集まり競技し、選手だけではなく観客も一体になって楽しむことで、世界がひとつであることを実感することだろう。広い会場の観客席で、児童生徒だけが世界一流の選手の競技を見たとして、それでどうして「五輪の意味や価値」を体得できるだろうか。そこから生まれるのは「自分たちは選ばれた人間だ(特権階級だ)」という意識ぐらいだろう。世界にはいろんな人がいるということを実感することもできない。広い会場に世界中からいろいろな人が集まってきて、ことばの通じない隣の人といっしょに楽しんでこそ「世界」を実感できる。同級生と一緒に見ているだけでは「世界」は実感できない。
 そんなことをするくらいなら、大谷選手が打つホームランを見に、アメリカへ旅行した方がいい。「世界中」とはいわないが、多くの人がホームランを見に来ていて、大谷がホームランを打てばスタジアムがどよめくだろう。三振したって、それはそれで、がっかりのため息がスタジアムをつつむだろう。そういう瞬間を体験してこそ、感動の共有がある。
 「英知」だとか「価値」だとか、そういうことばは、それだけでは何の意味も持たない。そのことばが指し示している「実態」と結びつけて「内容」を特定しないといけない。ことばの「空回り」に、ジャーナリズムが手を貸して、一体何になるのだろう。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田ナオ『ぽとんぽとーんと音がする』(2)

2021-07-09 17:34:10 | 詩集

黒田ナオ『ぽとんぽとーんと音がする』(2)(土曜美術社出版販売、2021年06月25日発売)

 黒田ナオ『ぽとんぽとーんと音がする』の「バナナ日和」は短い詩だが、黒田の特徴をあらわしている。

  食べても食べても
  バナナを食べる
  ぽとりぽとりと
  落ちてくる

  空っぽの
  青い空から落ちてくる
  何本 何本 何十本
  黄色いバナナが落ちてくる

  わたしは待つ
  両手を大きく広げて
  ひとりぼっちで
  なーんにもしないで

  酸っぱいわたしの胃袋のなかは
  甘くて黄色い匂いで満ちる

  それから
  それから
  それから

  ぽとりぽとりと
  わたしが落ちる
  空っぽの
  青い空から落ちてくる
  何人 何人 何十人

  ゆっくり空から落ちてきて
  だんだんわたしが
  遠くなる

 バナナを食べている。そのうちにバナナとわたしが入れ替わる。入れ替わるといっても、バナナにわたしが食べられるわけではない。「空から落ちてくる」という動詞をとおして「主語」が入れ替わる。
 バナナが空から落ちてくる、ということ自体、いくらか現実と外れているのだが、完全に非現実とは言えない。たとえばバナナの木下へ行く。バナナは上の方で実っている。それが落ちてくる、ということは絶対にありえないとは言えない。バナナを食べるとき、それがどうやって収穫され、どうやって市場に出回るかを、ふつうは、考えない。だからその「考えない部分」を省略して、空から(高いところから)バナナが落ちてくる。それを食べる、と考えても、そんなに不思議なことではない。
 バナナを食べていると、だんだん満たされてきて、体中がバナナでいっぱいになった気持ちになる。これだって好きなものをいっぱい食べたらそういう気持ちになるだろう。ひとによって、ステーキだったり、饅頭だったりするかもしれない。
 不思議なんだけれど、不思議ではない。
 そして、なんといえばいいのだろうか、こういう詩を読むと、ぼんやりとバナナを食べてみたくなる。バナナを食べて、空から落ちてみたい気持ちになる。黒田のことばのリズムには、そういう不思議な力が隠れている。
 「緑色の、どろどろの」は「バナナ日和」といくぶん似たものがある。「緑色の、どろどろの」はタイトルがちょっと気持ち悪い感じがしないでもないが、読んでしまうと、あ、それしかないなあ、と思う。「緑色の、どろどろの」ものを食べてみたくなる。どうやって? こうやって。

  真夜中に女は暗い台所で
  残ったパンを食べる 少し干からびたチーズも食べる
  胡瓜を齧る 味噌をつけながらぽりぽり齧る

  齧りながら女は 昼間 男から聞いた話を思い出していた
  ライオンはね シマウマを食べるとき
  まず腸を引っ張り出して食べるんだ
  ライオンは肉しか食べないから
  体の中に葉っぱを分解する酵素が無いんだよ
  だからシマウマが消化した葉っぱを
  むしゃむしゃむしゃむしゃ食べて
  ビタミンやら植物繊維やらを吸収するんだ

  シマウマの腸 と女は小さな声でつぶやいた
  それから長い長い腸の中で消化される葉っぱのことを考えた
  いったいどんな味がするのだろう
  口じゅうにひろがる草や土の匂いと
  緑色のどろどろがいっぱい詰まった栄養たっぷりの腸のこと
  うまいうまいと涎をたらしながら食べるライオンのことを考えた

  それからふーっと大きく息を吐くと
  女はまたぽりぽりと胡瓜を齧り始めた

 女は胡瓜を齧ることで人間に戻るけれど、なんだかシマウマの腸を食べているライオンになった気持ちにならないかなあ。なるよなあ。ライオンになってシマウマを食べてみたい気持ちにもなるし、ふとシマウマになってライオンに食べられてみたいという逆の気持ちにもなったりする。
 すべてがいれかわる。
 このすべてというのは、胡瓜と人間(女)についても言える。胡瓜を齧りながら、シマウマを食べるライオンになってみたいと思ったり、台所でたったまま胡瓜を齧ってみたいという気持ちになるだけではない。胡瓜になって人間に齧られてみたいという気持ちにもなる。そのとき、ライオンに食べられるシマウマの気持ちがよくわかるかな? そんなもの、わからなくてもいいんだけれど。それだけではなく台所で胡瓜を齧る女の気持ちも、わからなければわからなくても全然かまわないのだけれど……。
 こういうどうでもいいことを考えてしまうというのは、きっと大事なことだなあと思う。そういう大事な時間を教えてくれるのが詩というものだろう。
 この詩には「どろどろ」をはじめ、「ぽりぽり」とか「むしゃむしゃ」「うまいうまい」「長い長い」ということばの繰り返しがある。そういうことばによって、詩自体は「長く」なっているのだが、読むと、逆に、そういうことばが詩を「短く」感じさせる効果をあげていることがわかる。肉体に染みついている簡単なことば、その繰り返しが、長いはずの「回路」を短く感じさせる。
 「それからふーっと大きく息を吐くと」というような、一見すると「間延び」したような行も、ことばの呼応がとても自然なので「短く」感じられる。黒田は「口語」がきちんと肉体になっているのだと思う。「文語」で書く詩人が多い中にあって、これは貴重なことばの運動だとも思う。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」2021年6月号を発売中です。
132ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2001652">https://www.seichoku.com/item/DS2001652</a>


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする