スティーブン・スピルバーグ監督「ジョーズ」(★★★★+★)
監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 ロバート・ショウ、ロイ・シャイダー、リチャード・ドレイファス
この映画で見たいシーンは、やっぱり最初の、若い女性がジョーズに襲われるシーン。冒頭の海中のシーン、あの音楽がいったん中断し、浜辺の若者集団(ヒッピー? いま、このことばを知っている人が何人いるか)のシーンがあって、女が海に入ると再び音楽、ズーン、ズーン、ズンズンズンズンズンッとスピードがあがってくる。いやあ、わくわくしますねえ。
この女を海中から撮るときは、女はなぜかバック(背泳)で泳いでいる。これって、性器が映らないようにって、ことなんだけれど。こういう「遊び」のシーンが、1970年代の映画には必要だったんだねえ。そのころは私も若かったから、一種の「わくわく」感で見たことは確かなので、悪口は言えないけれど。
で、そのあと。
ジョーズが女性を襲う。ここ、問題は、ここ。変でしょ? あのジョーズに噛まれて、女が異変に気づく。それが、最初はまるで小さい魚に足の指でもつつかれたような感じ。それから噛まれていると気づく。こういうとき、何が噛んだか、それを見るのがふつうだけれど、女は見ない。見ないまま、助けを求める。その助けを求める女の上半身が水上を左右に走る。ジョースがひっぱり回している。こういうことって、ある? あの巨大なジョーズが、ぱくっ。女の体は一気に噛みちぎられそう。とても「助けて」なんて、叫んでいる暇はないし、その女の体をわざわざ水上に見えるようにジョーズがふりまわすなんてこともありえない。
と、いいながら。
見たいのは、ここなんだよなあ。こんなシーン、映画でないと見られない。泳いでいた女が突然見えなくなる、というのではぜんぜんおもしろくない。推理小説ではないのだからね。
ありえない、でも、女の方からすれば、こうでしかない。即死かもしれないけれど、ジョーズに襲われた、えっ、どうしよう、助けて、早く助けて、助けてくれないと死んでしまう。必死に叫んでいる。きっと、それはとてつもなく長い時間。その「ありえない切実な時間」を、観客は、自分は大丈夫、映画を見てるんだからと半分安心しながら、自分こと、自分の恐怖として体験する。
そして、女が水中に引き込まれたあと、なんとなく安心する。半分安心ではなく、完全に安心する。さあ、映画がはじまるぞ、と思いなおすといえばいいのか。
見るものを見てしまうと、あとは、余裕(?)で見てしまうというか、半分よそ見をしながら映画を見てしまう。
そしてよそ見をしながら気づいたことがある。
この映画では「眼鏡」が以外に働いている。ロイ・シャイダーとリチャード・ドレイファスが眼鏡をかけているが、もうひとり、二番目の犠牲者になった少年の母親がやはり眼鏡をかけている。それに対してロバート・ショウと市長が眼鏡をかけていない。ここに「キャラクター」が反映されている。眼鏡をかけている登場人物は、舞台の「島」からみると「部外者」、よそ者。少年の母親は島の住民だが、息子がジョーズに殺されたことによって、島の住民からは違った立場になってしまった。彼女は「守られる人」から「守る人」になった。「島を守るための人」が眼鏡をかけているのだ。島の人ではない、という「アイデンティティ」のようなものだ。
ロバート・ショーは「守る人」なのに眼鏡をかけていない、と反論する人もいるかもしれないが、彼はまた「立場」が違う。ロバート・ショーは島を守っているのではなく、自分を守っている。鮫に復讐するために戦っている。島の人を守りたいからではない。もうひとりの眼鏡をかけていない重要人物、市長もまた自分を守っている。保身のために行動している。人食い鮫があらわれた、ということでバカンス客がやってこなくなれば、島の経済は成り立たない。それでは市長の職を奪われてしまう。関心は住民、バカンス客の安全ではなく、自分の「地位」。
このあたりの「細工」がなかなか手が込んでいておもしろい。ロイ・シャイダーがジョーズ退治にゆくとき、妻がちゃんと「予備の眼鏡は靴下といっしょに入れてある」というようなことをさりげなく言うのもいいなあ。ロイ・シャイダーが泳げないという設定も、「よそ者」を強調していておもしろい。
それから。
このころのスピルバーグは、小柄な役者が好きだったんだねえ、と思ったりした。ロバート・ショウ、ロイ・シャイダー、リチャード・ドレイファスは三人とも小さい。小さいと、なんというか、「人間(役者)」がスクリーンを動かしていくというよりも、「ストーリー(映像の変化)」がスクリーンを動かしていくという感じになる。役者のダイナミックな表情や動きにひっぱられてスクリーンに釘付けになるという感じではない。「未知との遭遇」のトリュフォーも小柄だった。「インディ・ジョーンズ」のハリソン・フォードは小柄ではないかもしれないが、存在感が薄っぺらい。リーアム・ニーソンとか、ダニエル・デイ・ルイス、トム・ハンクスのような大柄な役者をスクリーンに定着させる技術をまだ確立していなかったのかもしれない。スピルバーグがどんな役者をつかってきたか、それを辿りなおすことでスピルバーグのやっていることが、また違って見えてくるかもしれない。
見落としてきたスピルバーグの発見という意味では、制作しているという「ウエストサイド物語」に、私はとても期待している。音楽とスピルバーグは、どう向き合うのか。バーブラ・ストライザンドが「イエントル」を監督したころ、どこかで二人が目をあわせ、そのとき火花が散ったというような記事を読んだ記憶がかすかにあるが、そのころから「音楽」を映画にすることに関心があったのだろうか。「ウエストサイド」の音楽は変えようがない。それを、どう使いこなすのか。私は、わくわくを通り越して、実は、ドキドキしている。見たい。
(午前10時の映画祭、2019年04月23日、中州大洋1)
監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 ロバート・ショウ、ロイ・シャイダー、リチャード・ドレイファス
この映画で見たいシーンは、やっぱり最初の、若い女性がジョーズに襲われるシーン。冒頭の海中のシーン、あの音楽がいったん中断し、浜辺の若者集団(ヒッピー? いま、このことばを知っている人が何人いるか)のシーンがあって、女が海に入ると再び音楽、ズーン、ズーン、ズンズンズンズンズンッとスピードがあがってくる。いやあ、わくわくしますねえ。
この女を海中から撮るときは、女はなぜかバック(背泳)で泳いでいる。これって、性器が映らないようにって、ことなんだけれど。こういう「遊び」のシーンが、1970年代の映画には必要だったんだねえ。そのころは私も若かったから、一種の「わくわく」感で見たことは確かなので、悪口は言えないけれど。
で、そのあと。
ジョーズが女性を襲う。ここ、問題は、ここ。変でしょ? あのジョーズに噛まれて、女が異変に気づく。それが、最初はまるで小さい魚に足の指でもつつかれたような感じ。それから噛まれていると気づく。こういうとき、何が噛んだか、それを見るのがふつうだけれど、女は見ない。見ないまま、助けを求める。その助けを求める女の上半身が水上を左右に走る。ジョースがひっぱり回している。こういうことって、ある? あの巨大なジョーズが、ぱくっ。女の体は一気に噛みちぎられそう。とても「助けて」なんて、叫んでいる暇はないし、その女の体をわざわざ水上に見えるようにジョーズがふりまわすなんてこともありえない。
と、いいながら。
見たいのは、ここなんだよなあ。こんなシーン、映画でないと見られない。泳いでいた女が突然見えなくなる、というのではぜんぜんおもしろくない。推理小説ではないのだからね。
ありえない、でも、女の方からすれば、こうでしかない。即死かもしれないけれど、ジョーズに襲われた、えっ、どうしよう、助けて、早く助けて、助けてくれないと死んでしまう。必死に叫んでいる。きっと、それはとてつもなく長い時間。その「ありえない切実な時間」を、観客は、自分は大丈夫、映画を見てるんだからと半分安心しながら、自分こと、自分の恐怖として体験する。
そして、女が水中に引き込まれたあと、なんとなく安心する。半分安心ではなく、完全に安心する。さあ、映画がはじまるぞ、と思いなおすといえばいいのか。
見るものを見てしまうと、あとは、余裕(?)で見てしまうというか、半分よそ見をしながら映画を見てしまう。
そしてよそ見をしながら気づいたことがある。
この映画では「眼鏡」が以外に働いている。ロイ・シャイダーとリチャード・ドレイファスが眼鏡をかけているが、もうひとり、二番目の犠牲者になった少年の母親がやはり眼鏡をかけている。それに対してロバート・ショウと市長が眼鏡をかけていない。ここに「キャラクター」が反映されている。眼鏡をかけている登場人物は、舞台の「島」からみると「部外者」、よそ者。少年の母親は島の住民だが、息子がジョーズに殺されたことによって、島の住民からは違った立場になってしまった。彼女は「守られる人」から「守る人」になった。「島を守るための人」が眼鏡をかけているのだ。島の人ではない、という「アイデンティティ」のようなものだ。
ロバート・ショーは「守る人」なのに眼鏡をかけていない、と反論する人もいるかもしれないが、彼はまた「立場」が違う。ロバート・ショーは島を守っているのではなく、自分を守っている。鮫に復讐するために戦っている。島の人を守りたいからではない。もうひとりの眼鏡をかけていない重要人物、市長もまた自分を守っている。保身のために行動している。人食い鮫があらわれた、ということでバカンス客がやってこなくなれば、島の経済は成り立たない。それでは市長の職を奪われてしまう。関心は住民、バカンス客の安全ではなく、自分の「地位」。
このあたりの「細工」がなかなか手が込んでいておもしろい。ロイ・シャイダーがジョーズ退治にゆくとき、妻がちゃんと「予備の眼鏡は靴下といっしょに入れてある」というようなことをさりげなく言うのもいいなあ。ロイ・シャイダーが泳げないという設定も、「よそ者」を強調していておもしろい。
それから。
このころのスピルバーグは、小柄な役者が好きだったんだねえ、と思ったりした。ロバート・ショウ、ロイ・シャイダー、リチャード・ドレイファスは三人とも小さい。小さいと、なんというか、「人間(役者)」がスクリーンを動かしていくというよりも、「ストーリー(映像の変化)」がスクリーンを動かしていくという感じになる。役者のダイナミックな表情や動きにひっぱられてスクリーンに釘付けになるという感じではない。「未知との遭遇」のトリュフォーも小柄だった。「インディ・ジョーンズ」のハリソン・フォードは小柄ではないかもしれないが、存在感が薄っぺらい。リーアム・ニーソンとか、ダニエル・デイ・ルイス、トム・ハンクスのような大柄な役者をスクリーンに定着させる技術をまだ確立していなかったのかもしれない。スピルバーグがどんな役者をつかってきたか、それを辿りなおすことでスピルバーグのやっていることが、また違って見えてくるかもしれない。
見落としてきたスピルバーグの発見という意味では、制作しているという「ウエストサイド物語」に、私はとても期待している。音楽とスピルバーグは、どう向き合うのか。バーブラ・ストライザンドが「イエントル」を監督したころ、どこかで二人が目をあわせ、そのとき火花が散ったというような記事を読んだ記憶がかすかにあるが、そのころから「音楽」を映画にすることに関心があったのだろうか。「ウエストサイド」の音楽は変えようがない。それを、どう使いこなすのか。私は、わくわくを通り越して、実は、ドキドキしている。見たい。
(午前10時の映画祭、2019年04月23日、中州大洋1)
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