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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

改憲論の問題点(民族主義を見落とすな/情報の読み方)

2018-05-03 17:27:09 | 自民党憲法改正草案を読む
改憲論の問題点(情報の読み方)

 憲法記念日。
2018年5月3日の朝日新聞朝刊(西部版・14版)の一面に「憲法を考える」が掲載されている。そのなかに、改憲論者の「出発点」が次のように簡単に紹介されている。

自民党の誕生前、安倍首相の祖父、岸信介元首相(故人)は、講演会誌の1954年1月号でこう訴えた。「民族的自信と独立の気魄を取り戻す為には吾々の手に依つて作られた憲法を持たねばならぬ」

安倍はこの「遺志」を引き継いでいる。アメリカによる押し付け憲法ではない「日本らしい」憲法を、というわけである。
この主張には、巧妙に隠されていることがある。
岸は、

民族的自信と独立の気魄を取り戻す

と言っている。その主張から「民族」ということばが省略されている。
ここを見落としてはいけない。
言い換えると、安倍の改憲論は、「民族」を取り除いたものであるかどうか、あらゆる民族に開かれたものであるかどうかを問い直さなければならない。
 日本に住むあらゆる民族(当然、韓国・北朝鮮人、中国人、他のアジア諸国の人々)でありながら「日本国籍」を持っている人を意識しているかどうか、という点から問い直さなければならない。
 民族がなんであろうが、日本に住み、日本国籍を取得し、暮らしている人を含めて、「日本国民」の憲法を目指しているか。
 社会にあふれる「民族ヘイト」を見る限り、(安倍を支持している右翼の言動を見る限り)、そこには「他民族」への配慮は見られない。
 これは大問題である。
 日本の人口(日本民族の人口)はどんどん減っている。労働力の多くはすでに「外国人」に頼っている。
 これからの日本は、外国人(移民)に頼らないことには成り立たない。
フランスは人口減を移民を受け入れることで乗り切った。
 同じ政策なしでは、日本は立ち行かない。
 外国人を「研修生」と呼んで安価に労働させるという手法では、日本は確実に滅ぶ。

 ここから、自民党の「改憲案」を見直すことも必要である。
 安倍が目指しているのは、単純に「国民のために頑張っている自衛隊を違憲と呼ぶのはかわいそう」というだけの視点からみてはいけない。
 安倍が狙っているのはナチスと同じ「民族差別」と「民族差別による独裁」そのものである。

憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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憲法について考えよう

2018-05-03 09:42:19 | 自民党憲法改正草案を読む



憲法記念日。
憲法について考える映画の宣伝です。

松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会
日時 2018年5月20日(日曜日)13時(上映時間1時間51分)
場所 福岡市立中央市民センター視聴覚室
料金 1000円(当日券なし、定員70人)
主催 「不思議なクニの憲法2018」を見る会

問い合わせ、申し込みは谷内(やち)
yachisyuso@gmail.com
090 4776 1279

(「東京、横浜の友人から聞いた」という申し込みもありました。PRしていただいた方、どうもありがとうございます。福岡県に友人、知人がいましたら、ぜひ、おすすめください。)
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水下暢也「はるさきで」

2018-05-03 09:40:52 | 詩集
水下暢也「はるさきで」(「現代詩手帳」2018年05月号)

 水下暢也「はるさきで」は投稿作品。第56回現代詩手帳賞を受賞している。この作品で、ということではなく、年間の投稿作品が対象なので、あれこれ書いてもあまり意味はないのかもしれないけれど。
 4月号の作品に比べると、面白みに欠ける。動詞の呼応が単調だからだ。
一連目。私は、つまずいた。

 このふじははずれだった
独りで納得するような
ちからのこもらない声がして
確かに毎年のように貰っていた疵物のふじは
蜜をたっぷり含んで透き通り
齧ったすぐあとに果汁が溢れたなと
ふじの仄かな淡黄色を
爪楊枝でからかいながら思い出した

 動詞がいくつもあるが、基本になっているのは「思い出す」である。
 書き出しの「はずれだった」ということばが「過去形」。これが「思い出す」ということばへ向かって動き始める。「思い出す」ということがテーマであると告げる。「過去形」は「貰っていた」「齧った」「溢れた」という具合に動いている。そして「思い出した」と「思い出す」という動詞までが、「過去形」で語られる。
 これを、ときどき「現在形」の動詞がひっかきまわすのだが、「過去形」とのつながり(脈絡)が、私にはよくわからない。「納得する」「こもらない」「する(して)」「含む」「透き通る」「からかう」。
 「独りで納得するような/ちからのこもらない声がして」という二行には、「独り」と「力のこもらない」の呼応があり、たしかに「独りで納得する」には「力はいらない」(他人を納得させるには、それなりの力がいる)とは思うけれど、「仄かな」「淡(黄色)」ということばへとうまくつながらない。
 「たっぷり」「溢れた」という過去と対比すること、「いま」のたよりなさを間接的に表現しているのかもしれないが、ちぐはぐな感じがする。動詞の動きが持続しているという感じがしない。
 特に「からかう」という動詞がわからない。必然性を感じない。どの動詞と呼応しているのか、私には見当もつかない。

 かおりはいいけれど
口へ運ぼうとしたのを半ばでやめ
静かにわらった
青果のかおりにつられて
王林をとったものの
色味に気分がのらず
ふじに目移りしたらしい

 うーん、これでは「ふじ」の思い出(過去)を書きたいのか、「王林」の現在(と木下の関係)を書きたいのか、わからない。ひとつのリンゴから別のリンゴへと移っていくときの、その動きを動かしているものが何なのか、わからない。
 この奇妙な数行をはさみ、

命日が近づけば
ふたりで流しに立って
とりとめもない小言を交わすようになる

 と「思い出す」ことのハイライトが登場する。歌謡曲でいう「サビ」が展開する。「サビ」は、それまでの動詞の基本が「過去形」であったのに対し、ここでは「かわすようになる」と現在形である。
 この日本語の呼吸は、私のように古い人間には、とても落ち着く。
 「過去形」で淡々と描写していても、肉体が感情がいきいきと動くと、その部分は「現在形」になってしまう。「過去」を描写していても。たぶん、肉体、感情というものに「過去」はなく、あるのはただ「いま」だけだからだろう。
 むかしから、日本のことばは、そういうつかい方をされてきている。
 だから、この「現在形」というのは、「現在形」であるけれど「過去」でもあると読み直すことも必要になる。
 「ふたりで流しに立って/とりとめもない小言を交わすようになる」と書いているが、「ふたり」のうちの「ひとり」はすでにこの世にはいなくて、そのひとりを思い出してしまう、と読むことができる。「思い出す」がなまなましいから、動詞(肉体)が「現在形」となって動いていると読み直すことができる。
 こういうほとんど無意識の読み直しがおきる瞬間というのは、私は、とても好きである。「この作品はいいなあ」と思っている瞬間である。
 なのだけれど、やっぱり、思い返すと最初の部分と、「ふじ」を「王林」とずらしてみせる操作が、なんともおちつかない。「からかう」という動詞は、ふたりのじゃあった感じを暗示させるのかもしれないが、なんだかなあ。
 最後の部分は、水下の得意なところである。

床を延べて居間にゆき
片すことも出来ず
不自然に伏せたままの写真立てを起こし
朝を迎える目付きで
灯りを落とした

 直前の「流し」を含めて、いまどき、「床を延べる」だの「片す」だの「灯りを落とす」だの、こんなことばをつかうひとがいるのかねえ、とは思うのだけれど。
 「現代詩」ではなく「一昔前の短編小説(創作)」と読めばいいのかもしれないけれど。




*

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清水哲男「外れかけた男」

2018-05-02 09:49:58 | 詩(雑誌・同人誌)
清水哲男「外れかけた男」(「現代詩手帳」2018年04月号)

 清水哲男「外れかけた男」の一連目。私は、つまずいた。

八十歳になった
ほとんどのアンケートや世論調査の端っこに
おまけのようにくっついている年齢だ
統計から外れかけた男は
統計の真ん中にいる人と同じ膳に着く

 「端っこ」は「外れかけた」と言いなおされる。そして「真ん中」と対比される。ここに「真ん中」が出てくることに、私はびっくりしたのだ。
 「真ん中」かあ。
 おそらく清水はいままで「真ん中」にいたのだろう。「真ん中」にいながら「真ん中ではない」を装って詩を書いていたのだと思う。「真ん中」を「外れる」瞬間を「敗北」としてとらえ、それを「美化」する。「やわらかな悲しみ」でつつむ。その瞬間に生まれる「抒情」。「真ん中」を外れても、生きていける。そういう「意識」が生み出す「虚構」の完璧さ。「虚構」が新しい「自己存在の中心」になるという感じ。あたらしい「中心」をつくると言い換えてもいい。その「名残」のようなものが、「真ん中」ということばを呼び出した。清水は、もともと「真ん中」指向の人間なのだ。

 別な言い方をしてみる。「端っこ」「真ん中」という「名詞」ではなく、「外れる」という「動詞」を中心に見ていく。
 「外れる」といっしょにつかわれていることばに「くっついている」がある。このとき「外れる」は「剥がれる」でもある。そして「くっつく」という動詞が「くっつく」ところは、それこそ「端っこ」(外縁)であり、「真ん中」ではない。「外れる」が「くっつく」という動詞といっしょに動くとき、動詞が動く「現場」は「端っこ/外縁」である。あえていえば、「外れる」「くっついている」が意識されるとき、いちばん問題なのは、「外れてしまうこと」である。「ほうりだされること」である。「外」が問題になる。なぜ「外」が問題化というと、その人はそれまで「外」では生きたことがないからだ。そこは「未経験」の場所だからである。「未経験」の場所で動けるかどうかわからない、という「恐怖」が「外れる」という意識の中心である。
 こんなとき、絶対に「真ん中」は出てこない。それなのに「真ん中」ということばを清水は持ち出してきている。ここに、私は、ぎょっとした。恐ろしい人だなあと思った。私とはまったく違う人間である、と実感する恐ろしさである。

 「外れる」の反対の動詞はなんだろうか。「真ん中」の「中」という漢字は「中る(あたる)」である。「中」に動詞があるとしたら、それは「あたる」である。
 「外れる/あたる」は「外す/あてる」と、どう違うだろうか。あてようとしたが、外れた、外してしまった。外そうとしたが、あたってしまう、ということもあるかもしれない。よくわからない。「外れる/あたる」は客観的な事実を言っているかもしれない。何かが「外れる/あたる」。「外す/あてる」は、その何かを動かす「主体」を含んでいる。能動的、主体的な意味をもっているかもしれない。

 清水の書いている「外れかけた」は主体が動いて「外す」というのではない。何かの力が及んできて「外れかけた」になっている。主体としての能動的な動詞が動いていない。だから「あたる/あてる」ではなく、その「あたる/あてる」場としての「真ん中」というものが、「名詞」としてあらわれてきている、ということになるのか。

 というようなことを、うろうろ考えてしまう。
 そして、もうひとつ、そこにはぞっとすることばがあるのにも気づく。
 「同じ膳に着く」の「同じ」である。この「同じ」はなんだろうか。「同じ」は「形容詞」になるのか。「動詞」にすると、「同じくする」か。「膳を同じくする」とはいっしょに膳を囲むということだが、清水の書いているのは、その「同じ」ではない。あつまるという意味を含まない「同じ」である。「いっしょにいる(あつまっている)」わけではないのに、「同じ」と言う。
 かけはなれているに「同じ」がつかわれている。
 「同じ人間なのに……」というときは、「あつまって、いっしょに何かができるはずなのに、それができない」という意味を含むが、清水の書いている「同じ」はそういうものを含んでいない。まったく違う(個別を全弟子としている)のに「同じ」と強引に呼んでいる。そしてそれが「真ん中」とつながっている。
 ここに、私は警戒してしまう。
 清水は、いったい「どこ」にいるのか。「外れかけた男」(外縁部にいる人間)なら、清水一人ではないだろう。外縁部には似たような男があつまっているのではないか。「同じ」人間がいるのではないか。でも、清水は、そこに目を向けない。
 二連目は、こう展開する。

コップに半分ほどのビールを注いで
統計から外れかけた男は不自由な右手を使わずに
左手でその半分を飲む
コップを置いた左手で箸を握り
納豆を苦心してかき混ぜる

 男の「描写」だが、このとき清水はどこにいるのか。その男を「客観視」していないか。いっしょに生きている感じが、私にはしない。
 清水は「真ん中にいる」人と「同じ」視線で、「外れかけた男」を描写している。そう感じる。
 これが、こわい。
 「外れかけた」男には、「外れかけたところから見える」ものがあるはずなのに、「真ん中」から見ている。「意識」が「肉体」とならずに、「頭の中」で動いている。それは「頭」が健康ということなのかどうか、私にはわからない。

 恐怖そのものの違和感が残る。そのことを書いておきたい。



*

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北朝鮮の本気度(情報の読み方)

2018-05-01 16:28:17 | 自民党憲法改正草案を読む
北朝鮮の本気度(情報の読み方)

 北朝鮮の「本気度」を疑う人がいるが、私は、「本気」を確信している。
2018年5月1日の読売新聞朝刊(西部版・14版)に非常に興味深い記事があった。
「北の時間 韓国と統一/5日から」という見出し。

【ソウル=中島健太郎】北朝鮮の国営朝鮮中央通信によると、北朝鮮の最高人民会議(国会)常任委員会は4月30日、韓国より30分遅い北朝鮮の標準時を5月5日から韓国と同じ時間とする政令を発表した。北朝鮮は2015年8月、韓国よりも30分遅い「平壌(ピョンヤン)時間」を導入していた。金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長が4月27日に韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領に対し、南北の標準時を統一する考えを示していた。

 武力(核)とは無関係である。だからこそ、そこに「本気」が見える。
 時間はすべての国民にかかわる。暮らしそのものが変わる。どこから「統一」を進めるかは難しい問題だが、こういう「基本」の変化は非常に大きい。政治を「暮らしのレベル」で動かしていく。
 これは、ほんものの「思想」。「暮らし」に根付かない「思想」はない。
 金正恩は偉い。私は心底そう思う。


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詩はどこにあるか2018年4月号

2018-05-01 10:00:19 | その他(音楽、小説etc)
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目次

ジェフリー・アングルス「騙る語り」2  白井知子「タブリーズの古い古いバザール」、吉本洋子「重力談義」9
高木敏次「幹」13  廿楽順治「亀戸落語」、高階杞一「サザエさんの日々」19
荒木時彦『NOTE 003』23  國峰照子「帽子屋」25
劉暁波『独り大海原に向かって』27  井崎外枝子『出会わなければならなかった、ただひとりの人』33
後藤光治『松山ん窪』36  劉霞『毒薬』39
三上寛「ぼうしをかぶる犬」44  神原芳之「石蕗の花」「泰山木」47
工藤正廣「すべての祝福の始まり」、吉田文憲「二つの声」50
斎藤恵子「うさぎ島」、宗田とも子「遠い水」、若尾儀武「答」54  白鳥信也「とぜん」58
林嗣夫「柿」、石川逸子「花桃咲く村で」63  季村敏夫「家庭生活」、阿部日奈子「八月十五日」68
近藤久也「暗くてみえない」73  松尾真由美「乾きという地理の密度」、三角みづ紀「けあらし」80
苗村吉昭「ふらんす日和」84  星野元一「髭がのびる」87
未知野道「旅行時計」91  未知野道「いまからおもふと」、池井昌樹「あたし」「金色」95
高階杞一「フタ」99  愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』104 
大橋政人「大きい女の人」、金井雄二「ぼくは、あったよ」115
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木下暢也「訪問あるいは」

2018-05-01 09:03:58 | 詩(雑誌・同人誌)
木下暢也「訪問あるいは」(「現代詩手帳」2018年04月号)

 木下暢也「訪問あるいは」は投稿作品。岸田将幸、広瀬大志のふたりが選んでいる。むかしの短編小説の描写を切り取ったような作品である。かなづかいが現代とは違う。漢字のつかい方も古めかしい。描かれている「素材」も古めかしい。しかし、それだけではない。

番ひの頬白が
俄拵への板縁に伸びた
墨色の翳を啄んでゐる
木目に閉ざゝれた死者らは
をちかたから燻る祭り囃子に乗つて
破顔のけしきをみせる
閉てた障子が少しく鳴つて
もの云はぬ尨犬が顔を出し
重たそうに左眼を眇める
頬白は飛び去り
板縁の美貌も沈んで
鉦の音をさいごに囃子も止む
躰の重心を移し
はたはたと洗濯物が躍り
日入りの淡色へ歩を浮かせる
     (「はたはた」の二回目の「はた」は、出典は「踊り字」)

 私が注目したのは「ことば」の呼応である。とても落ち着いている。「頬白」「墨色」の「白」と「墨」、あるいは「頬白」と「翳」の「白(光)」と「翳」という呼応だけではない。
 「俄拵への板縁に伸びた」と「木目に閉ざゝれた死者らは」には、「伸びる(広がる、開かれる)」と「閉ざす」という動詞の呼応がある。動詞は「述語」だけではなく、連体形となった修飾のなかに隠れて動くことがある。これを巧みに利用して、ことばを呼応させている。こういう呼応に出会うと、私は、非常に落ち着いた気持ちになる。「文体(ことばの動きを支配する構造)」にことばを任せることができる。
 「閉ざす」は「破顔」の「破れる」を誘い出し、「破れる」は「見せる」(見える)」を誘う。さらに「鳴る」と「ものもの云はぬ」の「音」と「沈黙(静寂)」という対比があり、「重たそう」と「飛び去り(軽さ)」の対比、「飛び去り(浮く)」と「沈む」の対比がある。「沈む」はもういちど「浮かせる(浮く)」という動詞とも向き合うのだが、その間に「重心」ということばもある。「重心を移す」、上へ移すと「浮く」ということになるのか。
 「鉦の音をさいごに囃子も止む」の「さいご」と「止む」は重複のようにもみえるが、一種の「きまりごと」である。
 たぶん、他のことばの呼応も「決まりごと」なのかもしれないが、「決まりごと」を正確につかまえていることが、木下のことばの力である。この力が静かで落ち着いているので、短い作品なのに、充実感がある。
 岸田が指摘しているが「板縁の美貌」ということばへと美しく結晶している。
 最近の「現代詩」の主流は、木下が採用している文体とは逆に、「ことばの呼応」を脱臼させて見せるものだが(いかにアクロバティックに脱臼させるかを競うものだが)、私は古い人間なので、こういう文体に触れるととても安心する。
 ことばの基本はどの国のことばも「動詞」、「動詞」が文体をつくっている。「動詞」がしっかりと動く文体が、私は好きだ。






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「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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