詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ユキノ進『冒険者たち』、加藤治郎『Confusion 』

2018-05-12 11:31:53 | 詩集
ユキノ進『冒険者たち』(書肆侃侃房、2018年04月16日発行)

 ユキノ進『冒険者たち』を読みながら、どうにも、わくわくしない。

飛べるのだおれよりもずっと高くまでローソンのレジの袋でさえも

いますぐに飛んで行きますとクレームの電話を切って翼を捜す

 意味はわかる。けれど、私には「音」が聞こえない。そのために「感情」が共振しない。「頭」でしか意味をつかめない。
 「袋でさえも」の「でさえも」には「論理」がある。「袋でさえもおれよりもずっと高く飛べる」。「論理」につながれて、「論理」のなかに「感情」を探す。
 「いますぐに飛んで行きますと」の「と」もいやだなあ。「と、返事をして」、それからという「時間の論理」が動いている。
 「散文」なんだなあ、と思う。「短歌」という形式ではなく、小説の中の一行として出てきたらおもしろいかもしれない。「論理」がそれまでのリズムとは違って動く。その「変化」の瞬間が「感情」になる。「散文」ならば。
 でも、「短歌」は、「散文」ではないよなあ、と私は思う。
 一首のなかに音がないとおもしろくない。リズムと旋律がないと、「意味」だけを読まされている気持ちになる。だから、わくわくしない。「意味」なんかどうでもいいというといけないのだろうけれど、私は「意味」には感動しない。「意味」はあとからつくることができる。「感情」は、あとからはつくれない。その瞬間にあふれてくるものだ。泣いてはいけないのに涙が出るとか、笑ってはいけないのに声に出して笑ってしまうとか。抑制がきかないところに「感情」の「真実」がある。

 違った言い方をしてみる。ユキノの「論理」構造を見てみる。

「派遣でもできる仕事」と会議中屈託もなく話す同僚

二十一時消灯令に「無理です」と小さく部下は応える

効率的な働き方を、ときれいごとを並べるおれに集まる視線

派遣なのにヒールが高いとそこにいない人を咎める人のさびしさ

 ここに書かれている「と」は「と、話す」という意味である。「話す」(声に出す、ことばにする)という動詞を省略している。「派遣でも……」には、離れた場所で「話す」という動詞が書かれているが。
 そして、その「話す」は「独白」ではなく、かならず「聞き手」を引き寄せる。「聞く人」がいる。「話す/聞く」という「ドラマ」がそこにある。「話す/聞く」ことで「意味」を共有する。そのとき「感情」も共有するのかもしれないけれど、それは「話し手」の感情なのか、「聞き手」の感情なのか。そうではなくて、「話し手/聞き手」のあいだにある「空気」を意味するかもしれない。「空気が読めない」というときの「空気」。
 「短歌」はそういうものを読むようになった、ととらえればいいのかもしれないが、私は、「自分」というものが「空気という意味」に剥がされていくような感じがして、どうもいやな気分になる。

ストラップの色で身分が分けられて中本さんは派遣のみどり

かさついた声で伝える正社員登用制度という狭き門

院卒で離職歴のある履歴書に浜辺のように広がる余白

吹く風のゆくえも知らずサイゼリヤでパソコンを開く遊牧民たち(ノマドワーカー)

拾い上げた影を畳んで持つように日盛りの街でスーツの上着を

 「で」が乱用されている。「で」はなんにでもくっつく便利なことばだが、そこに「論理」の省略がある。簡単に言うと「手抜き」である。「論理」を書きながら、その「論理」の運動のなかで「手抜き」をしてしまう。
 これもリズムを無視した、「頭」の働きである。
 ユキノはきっととても「頭のいい」歌人なんだろうと思う。「おまえ、頭が悪いぞ」というような指摘を受けたことのない人だと思う。学校ではね、あるいは職場ではね。
 「で」を「動詞」として言いなおすとき、そこに「肉体」があらわれてくる。「肉体」があらわれてくると、そこに「感情」も生まれてくる。
 いちばん簡単な説明をすると、「かさついた声で伝える」ではなく、「伝える声がかさつく」と言いなおすと、声を出すときの、声のかさつきがそのまま「肉体」に反映してくる。「伝える」よりも「声がかさつく」の方に「感情」がある。

 比較してはいけないのかもしれないが。
 先日読んだ加藤治郎の歌集『Confusion 』に、こういう歌がある。

爾(なんじ)、とだれか言ったかまさか校庭に運動靴の九十九足

 「なんじ」というルビは、原典では本文活字(?)よりも大きい。(65ページ参照)
 この歌でも「と」はつかわれている。しかし、そこには「話す/言う」という動詞は省略されずにきちんと書かれている。そのために「言う」「聞く」が直接的になり、「頭」で考える必要がない。さらに「聞く」方の感情は「なんじ」という大きなルビによって強調されている。「なんじ、って何だ」である。(こういう視覚化は、私は、押しつけのようで嫌い。爾という漢字だけで、たいていのひとは違和感を感じるだろう。それで十分だ。)そして、その「感情(あるいは、意味でもいいが)」をたたきこわすかのように「まさか」以下のことばがつづく。
 「まさか校庭に運動靴の九十九足」の意味は?
 意味はあるかもしれない。
 けれど、意味なんかはぶっとばして、「校庭」と「運動靴」と「九十九足」が見えてきる。いや、「九十九足」が見えるというのは、嘘なんだけれどね。「九十八足」か「百足」か、それを識別するのは「頭」なんだけれどね。
 「頭」なんだけれど。
 「うんどうぐつの/きゅうじゅうきゅうそく」の「音」そのものが、ぐいと「肉体」を動かしてしまう。「声」に出すと(私は音読はしないのだけれど、無意識に発声器官が動くのだと思う)、そこに「快感」がある。「耳」も気持ちがいい。「音」のなかにある緩急のリズム、詰まった音とのばす音。さらに「うんどうぐつ」の「つ」の音と最後の「そく」の「く」の音。この音は、アナウンサーなんかは「TU」「KU」と明確に「母音」を声にするかもしれないが、いまの若者早口言葉では「T」「K」と母音抜きでも発音されるかもしれない。で、こういうことは「脚韻」というには変なのだけれど、「脚韻」のない日本語の場合は、母音省略というあたらしい「音韻」のようにも聞こえる。

どちらの言葉も、醜いことがたまらない牛肉石鹸 美しい歌をだれかうたってくれないか

 この破調の短歌(?)も、音が響くから楽しい。

 で。
 ユキノの短歌にもどって、「音」が響いてくる作品がないのか、というとそうでもない。ある。

船乗りになりたかったな。コピー機が灯台のようにひかりを送る

残業の一万行のエクセルよ、雪原とおく行く犬橇よ

 この二首に特徴的なことは、句読点があること。「切断」がある。「切断」があるのだけれど、読む方はそれを「切断」ではなく「飛躍」と感じる。「切断」を乗り越えて、勝手に「接続」する。これが、音に変化を与えている。
 「と」とか「で」で「接続」を強調すると、「飛躍」がなくなり、音が「論理」に固められてしまうことになるのかもしれない。




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