詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アンドリュー・ヘイ監督「さざなみ」(★★★★)

2016-05-02 10:26:35 | 映画
監督 アンドリュー・ヘイ 出演 シャーロット・ランプリング、トム・コートネイ

 イギリスの映画だなあ、と思う。ことばとプライバシーの関係が、イギリスそのもの。他の国の映画では、こんな感じのことばとプライバシーは存在しないなあ、と思う。イギリスでは「事実」はことばになって、初めて「事実」として認められる。ことばになる前は、「事実」は存在しない。
 映画のはじまりは夫にスイスから手紙が届く。手紙には昔の恋人の遺体が氷河から見つかった、ということ。夫が昔恋人とアルプスへ行った。そこで恋人が遭難した。遺体は深い亀裂の底にのみ込まれ、見つからなかった。それは「事実」。けれど、その「事実」は妻との会話のなかで語られてこなかった。つまり、それは夫のプライバシーであり、夫婦にとって、特に妻にとっては「事実」ではなかった。
 恋人がどんな女性か、恋人とどんな関係にあったのかは、すべて夫のプライバシー。そして、それは語られないことによって、一度も「事実」にならなかった。それが、遺体が見つかって、「近親者」ということばで突然、妻の前にあらわれてくる。
 「近親者」(字幕では、確か、そうなっていたと思う)というのは、変なことばだ。「恋人」とは違う。夫は「昔は、昔は若い男女が同じホテルに泊まるのは難しかった。夫婦を装った」という具合に説明している。「恋人」が「事実」なのではなく、「近親者=疑似夫婦」が「事実」なのである。男女が親しい、ということが「事実」なのではなく、「夫婦」ということばで二人の関係を呼ぶ(言語化する)というのが「事実」なのである。「ことば」こそが「事実」なのである。
 少しずつ、妻は夫から「ことば=事実」を知らされる。プライバシーだったものが、明るみに出され、「事実」になる。しかし、「ことば」にされないこともある。プライバシーのまま、隠されつづける「事実」がある。
 夫は妻に隠れて、屋根裏部屋で恋人の写真を見ていた。映写機でスクリーンに映して、恋人を見ていた。スクリーンで見る、というのは写真を直に見るのとかなり状況が違う。まわりが暗い。その映像に集中できる、ということだけではない。スクリーンの映像は小さな写真とは違う。ネガはそれよりさらに小さいのだが、スクリーンではそれが拡大される。もしかすると、それは等身大である。夫は写真を見ていたのではない。恋人そのものを見ていたのだ。けれど、夫はその「事実」、いつも「実物大の恋人を見ていた」ということは語らない。だから、それは「事実」ではない。
 妻は、その「事実」を知るのだけれど、「ことば」として語られたものではないから、その「事実」を追及できない。そのことをテーマにして夫と語り合うことができない。ここに、何とも言えない「深い亀裂」のようなものが入る。
 で、この「ことば」と「事実」、「ことばされないこと」と「プライバシー」の問題は、最後の結婚45年パーティーで、さらに妻を傷つける。
 夫がスピーチする。45年間を「ことば」にする。「人生の最高の選択は、きみを(妻を)選んだことだ。いろいろあった。けれど、しあわせだった。愛している。アイ・ラブ・ユー」というようなことを感動的に語る。聞いている友人たちも感動するが、夫自身が、自己陶酔して(?)泣いてしまうくらいである。
 妻は、しかし、感動できない。友人たちの手前、うれしそうな顔をしてみせるが、夫が語ったのは、単なることばであって、「事実」ではないと知っているからである。他の人たちは夫の「ことば」を「事実」として受けとめ、感動している。けれど妻は、その「ことば」が「事実」の全部ではないということを知っている。知っているけれど、それを「ことば」にして、誰かに訴えるわけではない。
 「ことば」にされていない夫のプライバシーがある。そして、そのとき、妻にも「ことば」にしていないプライバシーがある。夫のプライバシーは、あまく、せつない。「いま」、何か哀しいこと、苦しいことがあれば、その「秘密」は彼を受けとめてくる。しかし、妻のプライバシーは、逆なのだ。「いま」に噴出してきて、「いま」をかき回す。かき乱す。哀しく、いらいらさせる。
 ラストシーン。結婚式の思い出の「煙が目にしみる」(プラターズ)にあわせて、二人で踊る。まわりに友人たちのダンスの輪も広がる。曲が終わる。夫は、妻の手をとって高々と掲げる。その手を、妻はふりほどく。そして、呆然と突っ立っている。夫のように無邪気になれないし、夫の無邪気さに腹が立つのである。
 うーん。
 こういう「ことばと事実/ことばとプライバシー(秘密)」の関係を生きるひとはつらいだろうなあ。夫の「プライバシー」を知ったあと、妻が「いいたいことはいっぱいある。けれど、言わない」というシーンがある。そこでは、夫が「旅行代理店」でスイス旅行のことを何度が尋ねていることが語られるが、それを語ることができるのは旅行代理店の係員がスイス旅行のことを「ことば」で語っているからである。誰のことばであれ、それは「語られた事実」だから、妻はそれを話題として持ち出すことができる。しかし、恋人の写真は「語られていない」。だから「事実」として取り上げることはできない。
 「写真」のことは、また、別の形で妻を苦しめる。家には写真がない。けれど、友達がスナップ写真を撮っていて、そのなかには昔飼っていた犬や、いま飼っている犬の子犬時代の姿もある。写真も、公表(?)されれば「事実」である。それについて語ることができる。けれど、隠されている写真は、その存在を知っていても「事実」ではない。「事実」であると知っているのに、「事実」ということができない。
 「ことば」も「写真」も、そのひとの「所有物」であり、「所有物」であるということは、その「所有権/プライバシー」を侵害してはならないということでもあるのだ。この厳密すぎる「個人主義」を私は「イギリス厳格個人主義」と呼ぶことで、「アメリカイージー個人主義」や、「フランスわがまま個人主義」と区別しているのだが。
 いや、ほんと。イギリス人になるというのは、大変なんだ、と思う。
 で、この大変なイギリス人を、「ことば」とは別なもの、表情(これは肉体のことばなのだけれど……)で膨らませてみせる、深めてみせる、というのが「映画」なのだけれど。シャーロット・ランプリングとトム・コートネイは、おもしろいねえ。シャーロット・ランプリングはひたすら「いま」を生きて苦しむ。トム・コートネイは「いま」から逃避し、「過去」にひたって、まるで少年のようにはしゃいでいる。そのはしゃぎが、「いま」のなかにときどき噴出してくる。(最後のスピーチとダンスで炸裂している。)この対比が、非常にいきいきしている。
 劇場の扉の前で列をつくって待っていると、映画を見終わった観客(夫婦、そしてその仲間たち)が「男って、あんなもんよね」(女)「思い当たることがあって、見ながらどきどきした」(男)とうような会話をしながら出てくる。そういう「会話」を思わず引き出すくらいに、二人の演技がなまなましい。観客の会話は、そのリアルな演技の「証拠/証明」でもある。(こういう反応に出合えるから、映画は映画館で見るに限るのだ。)
 イギリス特有の弱い光、弱々しいみどりの色も、静かで、二人の演技ととてもあっていた。
                      (KBCシネマ1、2016年05月01日)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
愛の嵐 [DVD]
クリエーター情報なし
ブロードウェイ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手塚敦史『1981』

2016-05-01 14:23:33 | 詩集
手塚敦史『1981』(ふらんす堂、2016年04月23日発行)

 手塚敦史『1981』の詩を私はどう語れるだろうか。どこから語りはじめればいいだろうか。

声からみどりは
しだいに大きくなりはじめ、窓は開け放たれ、
ぼんやりと眺めるひとみの中へと
なつの香りは、漂いだす           (「わたしは本を読む/なつの光」)

 美しい情景だ。「声」「ひとみ」「香り」。情景がそのまま「肉体」のひろがりとなっている。

子ども達
河原で水切りをする
発音記号の
最初の音を口にする瞬間の、ざらついた
粒子は
撥ね、                            (「枝を折る」)

 「水切り」のとびとびのリズム、切断と接続の感じが、「発音記号の/最初の音を口にする瞬間」と重なり、「ざらついた/粒子は/撥ね、」とも重なる。声を出すとき、「肉体」のなかで動いている「抵抗」のようなものが、ざらっとした感じで光っている。連続しているが、切断を含んでいる「動き」が、そのまま「肉体」を刺戟する。
 でも、こういう部分は、少し「抒情的」すぎるかもしれない。手塚の特徴と言ってしまうと、大事な部分にふれないまま、という感じがしてしまう。
 「主語」と「述語」がきちんとしている。大雑把に省略を含めていうと「みどりは/大きくなる」「窓は/開け放たれる」「なつの香りは/漂いだす」。「子ども達(は)/河原で水切りをする」「発音記号の粒子は/撥ねる」。その「ととのい方」が、どういえばいいのだろう。かなり古い。だから、古い人間である私は、そういう部分を安心して読んでしまうし、そこに「なつかしさ」のようなものを感じ、「抒情」と呼んでみたりするのである。
 でも、ここには手塚の、あるいは「最近の詩」の「共通する特徴」、いわば「現代詩性」というものは、ない、かもしれない。

本来花の時間というものはなく、ひのひかりに
かける、くしゃみ
のみ込み、辺りから消える
その、あらわれ方を食みださせる
はたらきがある
はたらきだけが、--                       (「小路」)

 この部分では「主語」と「述語」がうまく結びつかない。「花の時間は/ない」は「主語/述語」として読むことができるが、そのあとがよくわからない。「かける」の主語は? 「くしゃみ」は「名詞」なのか。「くしゃみをする」という動詞がほんらいの形として動いているのだが、それを「名詞」として切り取っているのか。「のみ込む」「消える」「あらわれる」の「主語」は何なのか、さっぱりわからない。「食みださせる」ということばは「使役」と読めば、誰が、誰に、何を「食みださせる」のかということが、やっぱわからい。
 「主語」をかくしたまま「はたらきがある」と「主語/述語」の「主語」を「はたらき(動詞)」という「主題(テーマ)」にしてしまう。
 うーん。
 私は、ことばを理解するとき(ことばが人と人のあいだを行き来するとき)、動詞が重要だと考えている。「動詞」がわかれば、人間は理解し合えると思っているので、「はたらき(動詞)」に手塚が注目しているこの部分は、とても興味深いのだが、「動詞」というのは「主体」が必要。「主語」がないと「肉体」が動いていかない。こういうことばの運動に出合うと、「頭」が「肉体」を捏造していると感じてしまう。「主体(主語)」なしに「動詞」だけが存在するというのは、まるで「算数(数学)」の「+、-、×、÷」の「記号」を見ている気持ちになってしまう。「+、-、×、÷」にも、もちろん「肉体」はあって、それを「肉体」と感じるのは、何と言えばいいのか、「算数としての答え」を求めるという欲望があるときに、「+、-、×、÷」が「算数としての肉体」になると思うのだが、私は書き手(手塚)ではないので、突然、「動詞」だけを動かされても、その「動詞」は「記号」になってしまう。「肉体」へと変わってくれない。
 ここに「いまはやりの現代詩性」があるのだけれど、(あると思って読んでいるのだけれど)、私の「古い肉体」は、ついていかない。動かない。動けない。
 唯一、私の「肉体」が動く(ついていく)部分を上げるなら、

その、あらわれ方を食みださせる

 この行の「その」である。「その」そのものは「動詞」ではない。「指示詞」である。しかし、その「指示詞」というものは、「指示する」という「動詞」を含んでいる。先行する「何か(対象)」を指し示すという「動詞」を含んでいる。
 それだけが、私には「わかる」。
 「何か」を指し示し、それを「はたらき」と呼ぶ。「世界」に存在するのは、「動詞(はたらき)」だけである、という具合に整理してみると、まあ、手塚の「主張」は「わかる」。いや、「わかる」という形で「誤読」できる。
 「その」というこことばで、先行するものを引き継ぎ、そこから飛躍して、ことばを純粋に記号として動かす。記号の自由さが「関係」を「動詞化」している。「動詞」として生み出している。そういう「切断と接続」があるのだと、勝手に思うことができる。
 でも、そう思うのは、一瞬のことで、この「記号化された動詞」というのは、私にはどうにも「気持ちが悪い」。「肉体」そのものが「抽象化」してしまう感じがして、とてもつらい。

 「肉体」と「抽象」という問題を、ぜんぜん違う角度から考え直してみる。「肉体」で追いかけてみる、ということが必要なのかもしれない。
 でも、私は古い人間なので、そういうことができない。

 どう読み直せばいいのか、わからないが、わからないまま、一篇を通して読んでみる。「ひかりは、カスタネット」。何行かずつ引用するが、詩は「一連」。全行がつづいている。

思いだす人々がいる
それは埃が積もっており、使うのに一瞬
ためらいがある

 書き出しの「主語/述語」は「人々が/いる」ととることができるが、実際は「私は」「(ある)人々を思い出す」ということだと思う。「私は/思い出す/(ある人々を)」が「主語/述語(動詞)」である。けれど「主語(私)」を消して「人々」にしてしまう。そして、その「主語」ではなかった「対象」を「主語」としてしまうことを、さらに次の行の「それ」という「指示詞」で決定づける。何かを「指示する」ひとが「どこか(背後?)」にいるということを感じさせながら、ことばを動かしていく。
 「ためらいが/ある」という「主語/述語」は「ためらい」を「動詞」に還元すると、そこに「ひと」があらわれてくる。その「あらわれてくるひと」は、「私(「それ」ということばをつかったひと/何かを指示するひと/指示者)」である。「思い出」というのは「古い」。古い思い出の品は、往々にして「埃が積もっている」。「埃の積もったものを、使うとき、私は一瞬、ためらう」と言い直すと、そこに「私」の「肉体」がくっきりと出てくるのだが、手塚は「私」を隠し、「肉体」を隠し、「動詞」を抽象化して、「ためらいが/ある」という。「動詞」の「抽象化」は「動詞」の「名詞化」でもある。「動詞派生の名詞」にすると「動詞」が「抽象化」する。
 「私の肉体」を消してしまって、「もの/存在」に「動詞」をまかせる。

物と似て、どこか時間の彼方の
生暖かい風を運んでくる

 「物」「時間」という「抽象」があらわれてくる「必然」のようなものが、先の「動詞」の「抽象化」にある。「動詞の抽象化」が「物」「時間」という抽象的なことばを引き込んだのだ言えるが、その「抽象」をそのまま加速させるのではなく「生暖かい」という「皮膚感覚(肉体)」でかきまぜ、「抽象」なのだけれど、ここには「抽象化」という動きを動かしている「肉体」があるのだと、ひそかに語っている。
 こういう「未整理」というのか、「ずるい」方法が、一種の「現代性」だなあ。「ずるい」と感じるのは、私が古い人間で、いまのひとたちは「ずるい」とは感じないのだと思うけれど……。

静電気は眠り、気配は失せ、合図は伝わらず
痺れを切らし

 「静電気」は「物」「時間」と響きあっている。「気配」は「合図」と言い直されることで、やはり「物/時間」と向き合う。「痺れを切らし」は「指示者の肉体」と響きあっている。

いたるところに窓の音寄せ
思いだす人々は、しろい毛玉を被る

 「窓に音寄せ」というのは、わからない。「生暖かい風」が窓を揺らし、音を立てるくらいの情景かもしれない。そうであるなら、わざわざ「普通の日本語」を解体し、別の言語運動にしたてているということになるが、「わざわざ(わざと)」というのは西脇以来の「現代詩」の特徴なので、目新しくはない。
 「しろい毛玉を被る」は二行目の「埃が積もっており」を「比喩」をつかっていいなおしたものだろう。

粉とみわけがつかない

 「粉」は「しろい毛玉」であり「埃」である。このあたりは、「比喩」ごっこという感じで、私は「描写」がうるさいと感じてしまう。

境界面への
いりぐちでぐち

 これは「物/時間」の言い直し。言い換えると「比喩」ごっこのつづき。

端には、蜘蛛の巣や虫の死骸の
薄さや軽さを含み

 これは「比喩」ごっこから「現実」へもどった感じ。「埃/しろい毛玉/粉」と「
蜘蛛の巣や虫の死骸」のこと。それは「薄くて軽い」。「薄くて軽い」は「埃」でもある。

射すもののあらわな、はざまへと、
葬られてゆく

 「射すもの」とはタイトルにあった「ひかり」かもしれない。「ひかり」が「埃」の積もった何かの上に射している。
 それが「はざまへと、/葬られていく」というのは、また、何を言っているのかわからないが……。

それは
塵を払えば舞い-- 指には、付着した

 ここまで読むと「それ」と呼ばれているのはタイトルの「カスタネット」と思えてくる。「埃の積もったカスタネット」を見つけた。それに「触れ」(それを鳴らしてみる)、そうすると「指には、埃が(蜘蛛の巣や虫の死骸も)付着する」と、突然「肉体」がもどってくる。
 そして、書き出しの一行は、

(私には)思い出す人々がいる(私は、ある人々を思い出す)

ではなく

(それを/カスタネットを)思い出す人々がいる
それは(忘れられた/つかわれなくなった/思い出のカスタネットは)埃が積もっており、使うのに一瞬
ためらいがある

 だったと、「わかる」。「私」という「主語」ではなく、「カスタネット」という「主題」を省略した「叙事詩」だったと「わかる」。
 ここで、もう一度、詩を読み直すことになるのだが……。
 わざわざ「主語」を「もの」にして「肉体(指示者、というのか観察者というのか)」を隠し、「叙事詩」に仕立て上げなくてもいいのでは、とも思う。「私という主語」を明確にした「抒情詩」の方が、手塚の場合は、もっとすっきりとことばが動くかもしれないなあ、と思ってしまう。最初に引用したいくつかの断片は、私にはどうみても「抒情詩」としか思えない。
 「叙事詩」に徹するならば「それ/その」というような「指示詞」のは、すこし不徹底であると感じる。「それ/その」と書くことで、そこに「指示するひと」を登場させると「叙事」が「主観」に汚れて、不透明になると思う。
 私は古い古い人間なので、もっと違った読み方があるのだと思うけれども。
1981
手塚 敦史
ふらんす堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする