詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーサ・ナカムラ「ねぶたまつり」、水沢なお「モーニング」

2016-05-10 09:01:26 | 詩(雑誌・同人誌)
マーサ・ナカムラ「ねぶたまつり」、水沢なお「モーニング」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 マーサ・ナカムラ「ねぶたまつり」は「現代詩手帖賞」受賞。

面白いのは
遺伝子の「ち」の繋がり

 と書き出されている。ねぶたを見る。赤い色。「赤い張り子人形の行列」を見る。そのあと帰宅して、いま見てきたねぶたを思い出す。いや、夢のなかで思い出すのだが、「赤い張り子人形」は「座敷童子」になって出てくる。その子を、

私の腹の中にいる子どもが、母親である私と遊んでいる!

 と解説され、さらにその子を包んでいた「膜」が割れて、空高くへ飛んでいく。

彼自身も、彼を包んでいた丸形も透明だったから、顔貌は見えなかったが、
男の子だったのかということだけ気がついて、
手術の麻酔から目をさましてからは涙が止まらなかった。

夜眠るときに、私に話しかける声がある。
私の中の、「母親」の感情である。

 うーん、堕胎した女の思いが書いてあるのか。よくわからないが、「手術」「涙」といことばから、そう感じてしまう。「「母親の」感情」ということばが最後に出てくるが、そこに「意味」がありすぎて、ストーリーが逸脱していかない。ことばがストーリーを裏切らない。ひたすら忠実にストーリーを「意味」にまで高めようとして動いている。
 「論文」ではないのだから、これではつまらないと思う。
 でも、おもしろい部分もあった。
 「私の腹の中にいる子どもが、母親である私と遊んでいる!」という行の後の、一連。

悲鳴をあげて飛び起きた。
再び眠りについて、次に見たのは、
庭に生える松の木が私を見るなり我慢ならないというように立ち上がって、私の腹に宿る命の罪を責め立てる夢だった。

 「動詞」が変である。「松の木」が私を「見る」、ということは「学校文法」の日本語ではありえない。松に目はない。「松の木」が「立ち上がる」というのも、「学校文法」ではありえない。松は最初から立っている。だから、これは「動詞」を中心に見ていくと、「間違った日本語」である。でも、その「間違っている」ところが、あ、ここだけ、ほんとうの夢なんだと「わかる」。夢というのは、そういう具合に、ことばにすると「間違ってしまう」ものを含んでいる。夢を正確に言おうとすると夢が消えてしまうことを、私たちは体験的に知っている。「正しくない」ことばをつかわないと、夢は語れない。その体験と重なるから、あ、ここはほんとうの夢だと納得できる。
 さらにおもしろいのは、直接動詞の形では書かれていない

我慢ならないというように

 この「我慢ならない」ということば。「我慢できない」「我慢することができない」と書き直すと「我慢する/我慢できない」という「動詞」が見えてくるが、「我慢ならない」だけだと「動詞」というよりも「感情」といえばいいのだろうか、「肉体」のなかにある生(なま)の衝動のようなものが感じられる。「動詞」になる前の、抑制のきかない「エネルギー」そのものに触れる感じがする。
 うまく言えないが、「我慢する」という「動詞」は「我慢ならない」ものを「抑える」ということ。「我慢」をある形にととのえること。「我慢する」ことにによって「我慢」という名詞(状態)が生まれる。「我慢ならない」は「我慢」に「分節」されるまえの「未生の感情」といえばいいのかな? 
 「我慢ならない」は、「我慢」に「ならない」なのだ。「我慢」という客観的な「名詞」にはならない、「名づけることができない衝動」が「我慢ならない」ということばのなかで動いていると思う。「我慢ならない」は「我慢にならない」と読み替えてみる必要があると思う。
 そして、矛盾した言い方になるが、その「我慢にならない」の方が「我慢する」という「動詞」よりも強い「何か」であると感じる。「動詞」という「区分け」さえも揺さぶり、壊してしまうような「強さ」がそこにあると思う。この「強さ/強い」は「肉体の奥底に近い/本能に近い」と感じさせる「強い」である。
 「我慢する」(=我慢にする/我慢してしまう/我慢にしてしまう)と、強さが消える。「我慢することができない」でも、なんとなく「弱く」なる。「我慢する」という「径路」が強さを弱くする。
 「我慢ならない」ということばのなかには、「なる」が隠れている。この「なる」は「生まれる」ということだろう。「生まれてくる」ものには、それを制御する(理性で抑制する)ものとは断絶した力があり、それが動いている感じを引き起こすのだと思う。
 この「我慢ならない/我慢にならない」と、読点「、」でいったん区切られた後に動く「責め立てる」が強く結びついている。「責め立てる」のは「論理」にしたがって「責める」というのとは違うなあ。「我慢ならない」何か、ほんとうはそんなことはしなくてもいいのにしてしまうという暴走が「責め立てる」の「立てる」ということばのなかに動いている。
 こういうことばというのは、客観的に説明できることではなく(説明するものではなく)、たぶん、自分の「肉体」で反芻して「肉体」のなかに取り込んでつかみ取るしかないものだと思う。そういう感じを引き起こすというのか、そういう感じで「理性」を突き破って迫ってくることばが、マーサ・ナカムラの詩のなかに、ごく短い形で一瞬あらわれる。ここに、マーサ・ナカムラの「天才」があると思う。
 こういうことばは「ストーリー」にはなりにくい。「ストーリー」になる前に、ただ「肉体」を刺戟する。
 そして、何と言えばいいのだろう。こういうことばを読むと、私は、「松の木」になってしまう。「松の木」になって、「私」を責め立て、同時に「私」にもなって、「責め立てる松の木」をみつめる。「松の木」と「私」を区別しないまま、その二つの存在のなかで動いているものを感じる。あるものは「松の木」になり、他のものは「私」になるという「融合」しか「エネルギーの場」そのものを感じ、それに引き込まれる。まるでブラックホールだ。「学校文法」をのみ込んで、別な黒い光(見えない光を)出している力に、のみ込まれてしまう。

 で、こういうことばは「ストーリー」には、私はあわないと思う。今回の詩のように「堕胎手術/涙/母親の感情」という「意味」へ動いていく「ストーリー」がくっきり動くと、「不透明な/未分節なままのエネルギー」が、「意味」封じこめられてしまう感じがする。それはことばを冷たくさせてしまうように感じられる。
 今回の選評(文月悠光)を読むと、

薄暗い民家のなかを歩き回って、
襖を一枚一枚開けて、人を探している。
物音や食べ物のにおいはないものの、
濃密な人の気配を感じている。
堪えきれず、私はまた家中を回って、
白い襖を開いていく。
ふと、私が襖を開くたび、
遠い部屋の欄間が動くことに気がつく。
襖を閉じると、闇のなかで、欄間も後を追うように閉まった。

 という部分から、

家全体を母親の胎内にたとえると、襖はたぶん母親で、欄間はお腹にいる子どもでしょうか。

 という読解につながっていくのだが、この文月の読解では「整理」されすぎていて、私は「当事者(私/松の木)」になれない。
 ことばのなかで、「私/松の木」になって、そこに書かれていることを「肉体」で「体験」できない。「意味」は文月の書いているとおりなのだろうけれど、それは「頭」で「母/子ども」の関係を図式化/再整理してしまったものに感じられ、引き込まれない。「頭」は引き込まれるが、「肉体」は離れたところにいて、いわば「客観的」にそのことばの動きを見てしまう。
 男の私が、「母親」の感情、いや「母親」の「肉体」を追体験できるはずがないから、私の感じることはどっちにしろ「頭」で感じ取ったことにすぎないと言われてしまいそうだが……。
 うーん。
 「松の木」の部分、特に「我慢ならない」には「母親」に限定されないものがあって、そこを通って私は「母親」の「肉体」と重なるのだけれど。「松の木/私」が区別できないものとして動き、その区別のなさ(未分節)が、私を「男」という「分節」から解放してくれる。
 いま、ここにある私という「分節」を否定し、「未分節」へ引き込むのが詩であると私は思っている。



 水沢なお「モーニング」も「現代詩手帖賞」受賞。
 見知らぬ男から「ダイヤ」をもらう。その「ダイヤ」と対話する詩。「ダイヤ」と対話できるのは、「ダイヤ」が本物であると同時に「比喩」だからかもしれない。このとき「同時に」が重要なのだと思うけれど、マーサ・ナカムラの書いている「松の木」に対するように、私は「ダイヤ」に対して「親密」になれない。ダイヤを見たり触ったりしたことがないからかもしれない。

「ダイヤになって」
と御願いされたから、頷きました。

 「お願いされる/頷く」という「動詞」は「肉体」で納得できるが、「ダイヤになる」の「なる」は、どうも、納得できない。ダイヤに触れたことがないというのが、いちばんの原因かどうか、わからない。
 ダイヤを知らない私が書くと、ちょっと矛盾してしまうかもしれないが、ダイヤとの対話のなかに、ダイヤしか知らないことが書かれていないという印象も持った。水沢は「意味/ストーリー」を書こうとしている、文月は「ストーリー/意味」を読み取ろうとしているということは「理解」できるが、私は引き込まれなかった。

現代詩手帖 2016年 05 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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