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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『侮蔑の時代』(5)

2014-09-12 09:50:00 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(5)(花神社、2014年08月10日発行)

 「噛ませ犬」は、闘犬を勢いづかせるための、噛まれ役の犬である。話者は、その犬から生まれた子犬。母親は、もう年を取って噛ませ犬として仕事をすることもないのだが、ある日「蔑みと悪戯心」からいちばん狂暴な犬の相手をさせられた。
 闘犬はあっと言う間に母親を倒し、つぎに「私(子犬)」に襲いかかった。そのとき、母親が反撃にでた。噛ませ犬ではなく、母親本来の姿になって、闘犬に反撃する。

 闘犬はたじろぎましたが奴も呻り声をあげ母に向って突進しまし
た。闘犬場全体に異様な空気がみなぎりました。全身を血に染めて
母は荒い息を吐いていました。調教師は鞭を持ったまま茫然として
立ちすくんでいました。そのとたん前脚で母の全身をなぶり気味に
転がす闘犬の、反りかえった腹と後脚をめがけて母は一撃を加えま
した。母は片目をえぐられ腹を裂かれ、腸を曳きずったまま敵の急
所を噛み切りました。それをくわえたまま母は死にました。喧騒の
中で猛り狂っていた闘犬も死にました。飼主が調教師を叱りつけた
ので、調教師は母の骸を散々鞭うちました。

 私は、なぜか、酔ったような気分で読んでしまう。悲劇が起きているのだが、その悲劇に引き込まれる。「悲」劇だからだろうか、悲「劇」だからだろうか。
 特に、最後の「飼主が調教師を叱りつけたので、調教師は母の骸を散々鞭うちました。」にうっとりして、ふるえてしまう。ひとはなぜ無抵抗なものに対して暴力をふるうのか。暴力をふるうことでしか自分の「肉体」のなかにあるものを解放できないのか。わからないが、そういう人間をみると、自分の「肉体」のなかで、何かが動くのを感じる。
 「蔑み」というものかもしれない。しかし、この「蔑み」の対称となっている行為は、蔑まれるとこから生まれている。蔑まれて、それに反抗することが許されず、どうしようもない気持ちが高まってきて、誰か蔑むことができる相手を探し、蔑みながら暴力をふるう。どうすることもできない「循環」がある。
 私は「闘犬」と、その「闘犬」を育てる場をみたことはないが、そしてまた死んだ犬を鞭打っている人をみたことはないが、こういうことがあり得るということが、「わかる」。--私が、粒来の描写(ことば)にうっとりして、ふるえて、しかも引き込まれてしまうのは、この「わかる」があるからだ。

 なぜ、わかってしまうのだろう。
 なぜ、こんな暴力は許せない。こんなことばで、人を不愉快にさせてはいけない。それは詩の仕事ではない--と「倫理的」に言えないのだろう。
 人を(あるいは何かを)蔑んで、暴力をふるって、それで自分が偉くなったと思うのは間違っている--となぜ言ってしまえないのだろう。

 私は何かを覚えている。その覚えていることを、自分のことばではっきりとは言えないけれど「肉体」が覚えている。蔑まれることの悔しさ、蔑むことの快感。それに耐えることの哀れさ。あるいは強さ。無感情の酷さ。--そういうことは、いちいちことばにしたくない。そういうものに気がつかないふりをしていたい。そして気がつかないようにしていたいために、ことばにしてこなかったのだが、だからといってそういうことを「体験」してこなかったわけではない。
 自分が「体験」するだけではなく、他人がそういうことを「体験」しているのを「見る」(その場に立ち会う)ということもあったはずだ。ちょうど、この詩の「私(子犬)」のように。そして、また自分のために誰か(母)が必死になって闘う、というのもみたことがあるはずだ。「正義」のために仲裁に入った人間が、そこにいるひとの逆鱗に触れ、暴力をふるわれるというようなことも、私たちは知っている。
 知っている、わかっている。けれど、これしかできないということがある。そのとき、私たちは、だれから「侮蔑」されているのだろう。「倫理」とか「理念」というような、何か「肉体」を蔑んでいるものによって「侮蔑」されているかもしれないなあ。

 --こんなことは、粒来は書いていない。そこまでは、書いていない。書いていないけれど、私は考えてしまう。感じてしまう。
 そして、いま、私は粒来に復讐されていると感じる。粒来の怨念が、私に復讐していると感じる。
 私は粒来とは何の面識もない。ただ詩を読み、詩の感想を書いているだけにすぎない。私の感想が気に食わなかったとしても、だからといって怨念をかうようなことではないし、復讐されるようなことではない。
 でも、感じてしまう。
 そう感じさせるくらい、粒来のことばは、なまなましく動いている。

 はい。私は母と同じ噛ませ犬としての道を歩いています。母と同
じく耳は裂け、腹毛はむしりとられて素肌が見えます。が、苦には
していません。何しろ私にはあの母がいたのですから--。

 どんな「侮蔑」をものみこんでしまう「肉体」の強さのようなものがある。それも、私に対して復讐してくる。ひとは(犬は?)、あの母親のように、最後はだれかに復讐できるものなのだろうか。復讐することで自分を生き、そして子どもも生かすことができるものなのだろうか。--というようなことを書くと、何か、私のほんとうに感じていることとは少し違ってくる。そういう「倫理的」(?)な意味など、どうでもいい。(どうでもよくはないかもしれないが、私は、ここではどうでもいい、と書いておく。)
 私は、この最後の連(ここだけ1行あきになっている)で、またぐいと粒来のことばに引きつけられた。
 何が、どのことばが私を引きつけたのか。

同じ

 「同じ」ということばが二回出てくる。「同じ」噛ませ犬、「同じ」くみ耳が裂け。けれど、この「同じ」はほんとうはさらに書かれているのである。省略されているが「同じ」が文章のいたるところに書かれている。

 はい。私は母と同じ噛ませ犬としての「同じ」道を歩いています。母と同じく耳は裂け、「同じ」く腹毛はむしりとられて「同じ」く素肌が見えます。が、「同じ」ように苦にはしていません。何しろ私にはあの母がいたのですから--。

 さらに、あの母は「同じく」、「同じ」母がいた--とつけくわえることができるかもしれない。「同じく」は一回限りのできごとではない。永遠につづいていることなのだ。そして永遠だからこそ、「同じ」ように「苦にはしていない」の「同じ」と「苦にしない」が犬の人間に対する侮蔑であり、復讐である。「同じ」を平然と生きることが、この犬の闘い方なのだ。その壮絶なあきらめのような力、あきらめているのに、「いま/ここ」にあるいのち。その瞬間が永遠だ。「永遠」はつづいているのではなく、いつでも「いま/ここ」にあり、それが「真実」ということなのだ。
 侮蔑するものに対する最大の復讐は侮蔑されるものが永遠にあるということかもしれない。侮蔑しても侮蔑しても、侮蔑されるものは消えない。いつまでも「侮蔑する」という酷い行為をひとは終わることができない。--この哲学ほど、いま、ここに生きている人間に対する侮蔑はないだろう。侮蔑すること、差別することは、してはいけないことだとわかっていても、それをしてしまうのが人間なのだと言われているのだから。


儀式―粒来哲蔵詩集 (1975年) (天山文庫〈5〉)
クリエーター情報なし
文学書林 落合書店

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(175)(未刊22)

2014-09-12 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(175)(未刊22)   

 「アンチオキアの郊外にて」も史実を題材に書いている。ヴァヴィラスとユリアノスの対立を描いている。アポロとキリスト教の対立が根底にある。アポロの神殿の上にキリスト教徒が教会を建て、ヴァヴィラスの遺体を埋葬したことがユリアノスの気に障ったのだ。ユリアノスは神殿を清めようとした。

しかし神殿はきれいにならなかった
即刻、凄い火事が起こった。
恐ろしい火だった。
神殿もアポロンも燃えて地に落ちた。

 ここまでが「史実」になる。そのあとがカヴァフィスの「コメント」になる。

ユリアノスは頭に来た。
火を付けたのはわしらキリスト教徒だと言いふらした。
他に何が出来る? 言わせておけ。
証拠なんかない。言わせておけ。
大事なのは、彼が頭に来たことなんだ。

 この最後の行がおもしろい。カヴァフィス以外には書けないおもしろさだと思う。「大事」ということばのつかい方がすばらしい。(これは中井久夫の訳であって、原文は「大事」ではないかもしれないのだが……。)
 「大事」とは何か。
 この「大事」は、その前に書かれている「証拠」と向き合っている。
 「証拠がない」、つまり、キリスト教徒が火を付けたということは「ほんとう」(真実)かどうかわからない。その「ほんとう/真実」と向き合っている。何が事件の「ほんとう」なのか、わからない。
 けれど、わかることがある。
 ユリアノスが頭に来たこと、つまり怒っていること。--それは「ほんとう」のことである。「真実」である。「大事」は「真実」である。
 そして、この「真実」は「怒っていること」、つまり「感情」。つまり「主観」。
 カヴァフィスは「主観(ほんとうに思っていること、感じていること)」が「大事」と言っている。「客観」(誰が火を付けたか)ということは「大事」ではない。それは「感情の真実」ではない。「客観的真実/事実」よりもユリアノスの「主観的事実」が「大事」と言っている。この「大事」のつかい方は「主観」をこそ書きたいというカヴァフィスの姿勢を象徴している。
 「未刊詩篇」の二十二篇のなかでは、この作品がいちばんおもしろい。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社
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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(4)

2014-09-11 10:05:29 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(4)(花神社、2014年08月10日発行)

 「ある消滅」は、犬の周辺を鞭打つ男と犬のことを書いている。男は犬を鞭打たず、犬のまわりの地面を打っている。犬は逃げきれず、怯えている。だが、我慢しきれずに、犬は鞭にかみつく。

                   犬は食らいついたままま
ま鞭ごと地面にたたきつけられたから、皮膚が破れ血が流れた。そ
れでも犬は鞭の鳴るところ鳴るところへ猛然と飛躍し、その端末を
その影を噛んだ。今度は鞭も否応なく犬そのものを打ったから、犬
は前肢がくじけ、足爪が剥がれ落ちた。しかし犬はひるまなかった。
遂に犬は肉が千切れ、目が潰れ、鞭は背に食い込んで背骨を打ち折っ
た。犬は自らの腹毛の下を血が流れ、その血はかなり温いものだと
自得した。片方だけ垂れた彼の耳にもう鞭の音はしなかった。犬は
自らの詩を手繰り寄せ、その鼻に自らの鼻を重ねてみた。甘い吐息
が犬をくすぐった。その匂いは記憶の中の母の吐息と思われた。-
-それから犬は消滅した。彼のいた辺りに犬の笑いが残っていた。

 これは詩の最後の部分だが、これはいったい何だろう。何かの比喩、何かの寓話だろうか。犬は何をあらわしているのだろうか。
 --ということは、しかし、私は考えなかった。
 そういう犬がいる、と思った。そして、その犬が死んでいくのが見えた。
 不思議なことに、犬が見えると、犬を鞭打っている男の方は見えなくなる。
 そして、その瞬間、鞭打っているはずの男が犬なのだと思った。
 これは矛盾というか、混乱なのだが、たとえば「犬は自らの腹毛の下を血が流れ、その血はかなり温いものだと自得した。」というのは犬自身の感じたことが書いてあるだけなのだが、そう自得したのは犬ではなく男であるように思える。男は、あの犬は血の温かさを感じている。
 「自得」ということばがあまりにも「肉体的」だからだろうか。「自得」の「自」は「自分の肉体」という感じで私には響いてくる。「腑に落ちる」の「腑」に似ている。「肉体」で納得して、「肉体」がそのことに満足している、という印象を「自得」ということばは引き起こす。「自得」という表現でなかったら、私は、この部分を「男の思い」とは思わなかったかもしれない。
 それはさらに、

甘い吐息が犬をくすぐった。その匂いは記憶の中の母の吐息と思われた。

 で、さらに混乱する。「母」ということばが、混乱を引き起こす。
 この「母」は「犬の母」であるはずなのだが、私は「男の母」をどうしても想像してしまう。「母」ということばが、「犬」を忘れさせる「自得」の「自」の影響かもしれない。男は、「自分の」母の最期の息をきっと嗅いだことがあるのだ。母の最期に立ち会い、その息に自分の息を重ねた。そういうことがあるのだろう。だから、犬が、いま母親の息を思い出していることがわかるのだ。

 と、ここまで書いて、そうか、私がここに書かれている「犬」について、こんなことを書いているのは「わかる」ということが自分の中に起きているからだと、わかる。(なんだか、同音異義のことばのために、ことばのなかに閉じ込められてしまったような感じになってしまうが……。)
 そうか、「わかる」というのは「自得」ということなのか。自分で納得して、満足する。他人がどう思うかは関係ない。「自分が」わかる。「自分を」わかる。「他者」と「自」が融合して「一体」になる。
 そういう瞬間が「わかる」。

 なぜだかわからない理由で、犬の存在のまわりを鞭打つ男がいる。その「仕打ち」に耐えていた犬が、突然、鞭に襲いかかり、鞭に打たれ、死んでいく。なぜそんなことをしなければならないのか、わからない。けれど、そうしてしまう犬がいること、そうせざるを得ない男がいるということが、まるでその現場に立ち会っているかのように「わかる」。そこに犬と男がいて、犬と男が、奇妙な形で「交流」していることがわかる。
 互いに互いが嫌いだ。殺したいくらいだ。そして実際に男は犬を殺してしまう。犬は犬で、殺されることを知りながら、殺されるように動く。そのくせ、「ほら、やっぱり殺したじゃないか」と男を笑っている。殺さないようにいたぶっていながら、ついに殺したじゃないか、殺すこと以外はできないじゃないか、と殺されながら反逆している。
 あ、そんなことは書いていないかもしれない。
 書いていないが、私はかってにそう思ってしまう。
 ほかのことも思うのだが(ほんとうはほかのことを書こうとしていたのだが)、私のことばは、書きながらかってに動いていってしまう。--この「かって」、暴走する想像力が、きっと「わかる」ということなのだ。
 何もわからない--がほんとうなのだけれど、私は、そんなふうに「読みたがっている」。ほかの読み方もあるだろうけれど、いまは、そんなふうに読みたがっている。「わかりたがっている」。
 私はいつでも「わかりたがる」ように「わかる」ことしかできない。

 私の「肉体」のなかにある何か、「肉体」が覚えていることが、粒来のことばによって動きはじめている。
 そこからはじまる「肉体」の動きは、粒来のものではなく、私のものである。
 しかし、それを私は「粒来の肉体」だと思おうとしている。
 死んでいく犬が、死の吐息を、母の吐息と感じたように。

 私はなんだかとんでもないものに「復讐」されているようにも感じる。
 私は粒来とはなんの面識もないが(詩を読んで、詩の感想を書いているだけだが)、粒来の「怨念」を浴びせかけられているように感じる。この犬と男の戦い(?)の「無意味」を「わかれ」と迫られているように感じる。
 私の「無知」が侮蔑されているようにも感じる。「侮蔑」ということばが出てくるのは、この詩集のタイトルに「侮蔑」というこばがあるからなのか、あるいは詩の最後に「笑い」ということばがあるからなのか。
 どう書いていいのかわからないが、非常になまなましい「肉体」を目の前に見ているような、「肉体」を見せつけられているような感じがする。そして、その「肉体」に私の「肉体」は反応してしまう。「自得」してしまう。



粒来哲蔵詩集 (現代詩文庫 第 1期72)
粒来 哲蔵
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(174)(未刊21)

2014-09-11 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(174)(未刊21)   2014年09月12日(金曜日)

 「肩の包帯」はけがをした男を見ている詩。男色の詩。棚に手を伸ばして、みたい写真をとろうとしたとき包帯がほどけて一筋の血が見えた。

ものはもとに戻した。
だが包帯はわざとゆっくり直した。痛がらなかったし、
血を眺めるのが好きだから。
私の愛するあの血--。

 三行目の「血を眺めのが好きだから」の「主語」は誰だろう。日本語は主語を省略できるので、二通りの読み方ができる。男が、血を眺めるのが好き。私が、血を眺めるのが好き。
 写真を本棚に戻した、包帯をなおした、痛がらなかったの主語は男だから、血が好きというときの主語は男かもしれない。けれど、私は、「私(カヴァフィス)」と思って読みたい。
 男はカヴァフィスが血が好きなことを知っている。だから、わざとゆっくりと包帯を直す。見つめられていることを意識しながら直す。血は、美形に似合う。男であろうと女であろうと、美形の肉体に血が一筋流れるとき、その傷によって美形が完璧になる。美形に深い影を与え、美形を内部から発光させる感じである。その効果ゆえに、カヴァフィスは血を愛している。
 カヴァフィスが血を眺めることが好きなら、男は、そんなふうに眺められることが好きなのだろう。ナルシストなのだろう。

去った後、座っていた椅子の前に
落ちていた血のにじんだ布。
服の一部だった。屑籠直行のボロだったが
私は唇に持って行って
ずっとそのままでいた、
愛の血を唇に押しあてて--。

 これも、男はカヴァフィスがそうすることを知っていて、わざと血のついた布を落としていったのだろう。
 しかし、ここまで書いてしまうと、詩はしつこくなる。カヴァフィス特有のドラマの激しさが消えて、奇妙にねっとりしている。血という劇的なものを登場させながら、血の美しさを感じさせない。血への嗜好を読者に押しつけてくるような感じだ。
 こういう詩を読むと、全集に収録しなかったのは、それなりの理由があるようにも思える。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
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映画館へ行こう

2014-09-11 00:52:09 | その他(音楽、小説etc)
facebookに「映画館へ行こう」というグループを作りました。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
映画館で見た映画の感想、批評のページ。
★(金返せ)★★(暇なら)★★★(普通)★★★★(お勧め)★★★★★(傑作)で採点してください。
なお上映映画館(見た映画館/見た日付)を必ず明記してください。(リバイバル、企画上映もOK。DVD、TVは不可)
辛口の批評、採点をお待ちしています。

(このブログよりは、コメントや読者との交流が簡単にできます。)
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フィリップ・グレーニング監督「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」(★★★★★)

2014-09-10 23:12:45 | 映画
監督 フィリップ・グレーニング



 冒頭のシーンが、わからない。左下の方の白いものは布のような感じ。右下の方には、手かなあ。手を軽く握ったとき、手の甲の方から映すと、指がはじまる辺りの凹凸の感じがそれに似ている。でも、左上の穴(?)は何? 壁に開いている穴?
 このあと修道士が部屋の中で一人で祈っているシーンが映し出される。全身が映っている。膝を折って、手を組んで。指を組み合わせるというよりも、左手の握り拳を右手で包んでいる感じ--というのは、後から感じたこと。そう感じたのは、その修道士の全身像のあと、また最初のシーンがでてきたからだ。あ、あれは修道士の祈りのアップだったのだ。耳とマントのような服と手のアップだったのか。
 そうわかった瞬間から、この映画に引き込まれる。
 この映画では、ひとは、めったにしゃべらない。
 修道院の日々は、個室で祈り、ミサ(でいいのかどうか、私はキリスト教徒ではないのでわからないが)で祈るということの繰り返し。ミサのときは声を出すが、一人で祈るときは声を出さない。その一人の祈りのとき、修道士は何を聞いているのか。
 途中、字幕の形で何回も出てくる聖書のことばか。「すべてを捨てなさい。それが弟子になる条件だ」「神は私を誘惑した。私は、それに身を任せた」(というような、ことばだったが。)--耳の「穴」のアップは、その暗い闇の中へ入り込む入り口のように思えた。修道士の「肉体」のなかで、どんな「声」が響いているのか、それを聞いてほしいとファーストシーンは言っていると思った。
 ことばとしては、字幕の聖書のことばかもしれない。あるいは、修道士たちが読む聖書に書かれていることばかもしれない。彼らは一人の部屋でも読むし、図書館みたいなところでも教典(でいいのかな?)を読んでいる。あるいは、そこに書かれていることばを書き写している。そのとき、たしかに「ことば」は修道士の「肉体」のなかで明確に響いているのかもしれないが、私にはよくわからない。
 私が感じたのは、彼らの沈黙のおかげで、まわりに多くの音が生きているという現実である。修道院の鐘の音は、修道院だからあたりまえだが、そのほかにマントのようなものを作るために布を裁つ、そのときの鋏の音。それに先立つ布を広げる音。裁つために線を引く音。あるいは建物の内部を歩く足音。ドアを開け閉めする音。料理をつくる音。暮らしは音に満ちている。
 その音は修道士にとっては「雑音」だろうか、それとも「神の声」だろうか。私は、その音を聞いたが、彼らの耳はそれを聞いているのだろうか。これが、私にはわからない。ただ、沈黙が、その音を透明にしている。美しい音楽のようなものに変えていると感じる。(ジャック・タチの日常音を音楽につかう映画の手法に似ている--というか、ジャック・タチの音のつかい方がおもしろいと思っているために、そんなふうに感じるのか、はっきりしないのだが。)
 さらには自然の音、草木がゆれる音、雨の音も聞こえるが、これは「暮らしの音」に比べるととても小さく聞こえる。「暮らしの音」に人間を感じ、そこに何かを感じ取りたいと思っているために、私の耳にそう聞こえるだけで、ほかの人には「自然の音」もはっきりと聴こえているかもしれない。
 映画は、その沈黙のまわりに共存している「音」については何の説明もしない。
 あるいは、とてもかわった説明の仕方をしている。
 映画は修道士たちの沈黙と同時に、その日常の光と影(闇)を影像にして見せる。これが修道士たちの聞いている「音」のように、私には感じられた。
 影像には、いくつかの種類がある。ひとつは、冒頭のシーンのように、何が映し出されているかわからないくらいにアップのものが多い。その画質は荒れていて、見ていると目がちらつくことがある。図書館の小さな明かり(ろうそく?)、ストーブの火、雨が水面につくりだす同心円の輪。降ってくる雪のアップ。対象に接近し(クローズアップし)、その対象を突き抜けて、その向こう(彼岸)を見るという迫り方でもある。その「彼岸」から、「声」になろうとしているのに、まだ、どんな「声」になっていいのかわからずに苦しんでいる「音」がざわざわと動いているように思える。粗い影像の粒子が、「音」のはじまりのように「見える」。(聞く、と、見る、がどこかで混じりあう感じがする。)
 二つ目は、部屋に差し込んできた太陽の光がつくりだす色の変化。壁の色、ドアの色、床の色が、光のあたっている部分と影では違っている。同じものなのに光によって見え方が違う。その「違い」のなかに、私は沈黙の「和音」を聞いたように感じた。これは、とても美しい音楽だと感じた。音は聞こえないが、沈黙が響きあっていると感じた。
 三つ目は図書館のシーンが印象的だが、深い闇。その闇のなかで、修道士たちはスポットライトのような照明を利用して書物を読んでいる。まわりを真っ暗にして、ことばに集中している。集中するこころをまもる闇。ほんとうの沈黙という感じ。この沈黙と拮抗するようにして、光のなかでことばが動いている。その「声」を修道士たちは聞いている。私はキリスト教徒ではないので、その「声」を聞きとることはできないが、修道士たちが闇に守られて、闇によって「世間」から遮断されて、「聞いている」ということがわかる影像である。
 さらにもうひとつ。空を動く雲、星、光の影像。そこにも「音」があるはずなのだが、それは大きすぎて聞こえない。全身が包まれてしまって、包んでいるものが何かわからない感じ。この「わからない」がつくりだす「沈黙」。
 修道士たちは「見る」ことを「音」を聞いている。「見る」ことと「聞く」ことが、「肉体」の奥で融合して、世界となっている。そう感じさせる。
 しかし、これは映画が「見る」ことを主とする「芸術」だからかもしれない。「沈黙」と「沈黙と拮抗する声(肉体の中にある声/あるいは神の声)」を影像で表現するとこうなる、と監督は言っているのかもしれない。
 でも違うかもしれない。この映画には盲目の修道士が出てくる。彼は、私がいま書いたような「影像」は見えない。その彼にとって「沈黙」と「声」はどう向き合っているのか。答えを出さず、フィリップ・グレーニングは観客に、ただ問いかける。あなたなら、どんなふうにして修道士の聞いている「声」を表現するか。
 これは、むずかしい。私には、答えられない。そういう「答えのない」何かを、この映画は観客に見せる。そういうものが実際に存在するのだと、実在の修道院を映し出すことで私たちにつたえている。「わからないもの」も、世界には実際に存在するということをつたえている。
                      (KBCシネマ1、2014年09月10日)
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北川透『現代詩論集成1』(7)

2014-09-10 10:27:41 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(7)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 六 戦争責任論の位相 吉本隆明の出現

 北川透の「荒地」への接近の仕方、「体験」と「経験」のとらえ方には、「体験」というものが置き去りにされている--と感じたのだが。
 この「戦争責任論の位相」では、ちょっとおもしろいことが起きている。
 吉本隆明の「日本の現代詩史論をどうかくか」を取り上げているのだが、

吉本は「荒地」グループの出現の意義を、《「詩と詩論」の系統の詩意識が、日本の敗戦革命の挫折と政治経済情勢の混乱や疲へいを、感受し》、日本の近代詩史上はじめて、ほんとうの意味で思想をみちびきいれたところにみている。それが古典主義的な方法、倫理的な主題という特質にあらわれているというわけである。(略)ここで吉本の考えの特徴的なところは、戦争体験そのものに、「荒地」の出現の意味を見ていないことである。彼は、戦争や戦場の極限情況がうたわれる時、不思議にリアリティがあるのは、《それがほんとう、敗戦革命の挫折にゆがんだ戦後インテリゲンチャの意識を象徴的につたえ、そのうしろにある混乱し疲へいした敗戦日本の秩序意識を反映しているから》だというように考える。 ( 145ページ)

 ここで、吉本のことばを借りながら「体験」ということばが復活している。
 戦争「体験」そのものに「荒地」の出現の「意味」を見ていない。「荒地」の出現の「意味」は、戦後インテレゲンチャの「意識」を象徴的につたえる、--つまり、それは混乱・疲弊した敗戦後日本の「秩序意識」を浮き彫りにするからだ、ということなのだろうか。こんなふうに要約していいのかどうかわからないが、私なりに理解すると、こうなる。そしてこれは言い換えると、「戦争体験」ではなく「戦後体験」が詩を生み出しているということになるのだが(つまり戦後の情況を体験することで、それまで動かなかったことばが動きはじめたということになるのだが)、「戦後」というのは「戦争」を体験しないことにははじまらないのだから、簡単に「戦争体験そのものに、「荒地」の出現の意味を見ていない」と言っていいのかどうか、私にはわからない。
 私は「脱線」しているのかもしれない。ただ、思うのは、「戦争体験」よりも、その後の「意識」を重視するという読み方は、あまりにも、北川の「経験」重視の読み方、「体験」と「経験」を比較して、「意識」の方へ傾いていく読み方に思える。
 「思想」は「倫理的主題」と言い換えられ、さらに「思想」は「意味」、「意味」は意識」とも言い換えられているように、私には感じられる。その「意味」「意識」に「個人的(個別的)」という限定をつけると北川の言う「経験」になるのかもしれない。「思想」とは「個人的(個別的)」な 「経験」をあらわす言語運動、個人的・個別的な「意味/意識」ということかな?
 「敗戦革命の挫折」というようなことばを手がかりにすれば、「理念の挫折」を経て、それでもなお「倫理的」であろうとする意識、倫理的である意味というものが「思想」と呼ばれているものかもしれなのだが、北川は「思想」というものを、倫理や意味、意義のようなもの、人間の精神を導くもの、そのことばのように限定的にとらえているように思える。そういう「思想」化の動きを「経験」と呼んでいるようにも思える。
 うーん、これは吉本の論の紹介なのかなあ。吉本もそう考えているのかなあ。吉本を引用しているけれど、北川独自の考えかもしれないなあ、とも思ってしまう。

 「戦争体験そのものに、「荒地」の出現の意味を見ていない」というのは北川の考え方であって、その考えを補強するために吉本を引用しているように思えてしまう。
 「思想」のとらえ方は、私の考え方とはずいぶん違う。私は「理念化」されなくても「思想」はあると思っている。「思想」をもたない人間はいないと思っている。私と北川の考えている「思想」は違ったもののように思える。だから、私は北川の書いていることを百分の一も理解していないかもしれないが、それはそれで仕方がない(?)と思っているのだが……。
 北川もまた吉本の書いていることから少し逸脱していると思う。
 と、いうのも。
 吉本の「荒地」評価を引用、定義し直した上で、北川は吉本の文章をさらにいくつか引用し(「荒地」の運動としての役割は終わったという論を引用し)、次のように書く。

吉本によって、「荒地」の転換あるいは変容の意味はとらえつくされているものの、いま、わたしが読んで不十分に感じられるところは、その転換が<体験>という側面でのみとらえられていて、<荒地>の共同理念化という側面にはほとんど注意がはらわれていないことだろう。(146 ページ)

 先の文章では「荒地」の出現を戦争「体験」そのものに見ていないと吉本を評価(?)しておいて、ここでは「荒地」の転換を「体験」という側面でのみとらえていると書いている。何か「論理の整合性」がゆらいでいる。
 北川は「戦争体験」と「戦後体験」は違うということになるのかもしれないが、どうも北川の文章からは「体験」というものがわきにおいやられてしまう気がしてしようがない。「体験」よりも「体験の理念化/経験」、そこから生まれる「思想(倫理的意味、意義)」へとことばを動かしていこうとしているように思えてしようがない。 「理念化」(言語化)がいそがれすぎているように感じられる。

 しかし、おそらく実感を失いだしたのは、戦争や戦後の極限情況の体験ばかりではない。第一次大戦後のヨーロッパの戦後意識というフィルターを通して、培養された<荒地>の理念も実感を失いだしていたはずだ。そして、この擬似的な戦後意識の実感喪失は、彼らに、まさしく敗戦革命が完敗、戦後資本制がよみがえるに至る、戦後体験や生活意識の思想化という課題をもたらしたのだ。( 146ページ)

 よくわからない。「体験」の実感が失われるというのは、単に「だんだん忘れる」ということだと思うが、「理念」が実感を失うというのは「忘れる」ということとは違うと思う。「理念」が実感を失うのは「現実」と「理念」をかみ合わせようとしてもかみあわなくなることだと思う。でも、その「理念」というものが自分の生きている現場ではなく「第一次大戦後のヨーロッパの戦後意識というフィルターを通して、培養された」ものなら、それは最初からかみあうはずがないものだったのではないだろうか。
 「戦後体験や生活意識の思想化」ということばがあるが、「体験」を踏まえない限り「思想」というものは、絵空事の「理念」になってしまうのではないだろうか。その「理念」が「絵」のように鮮やかだとしても、それは瞬間的に鮮やかに見えただけのことにすぎないように思える。

 北川がここで書いていることは「理念」を追い求める(理念の整合性追い求める)ことに忙しくて「体験」を置き去りにしているように思えてしようがない。



 こうしたことと関係があるのかないのか……。
 『死の灰詩集』に対して鮎川信夫は次のように批判している。

政治的、社会的現象を背景にして、ある思想的な指導原理に基づき、民衆の感情をひとつの方向に導くというようなものは、僕はいついかなる場所にあっても好まない。(151 ページ)

 これに対して、北川は書く。

鮎川にとって集団的な背景をもっている観念は、理屈ぬきに嫌悪の対象なのである。これをわたしは、彼の個人主義と見るよりも、そこにこそ鮎川の戦争体験の気質的な核心があったと理解している。従って、彼は国家のためであろうと、人民のためであろうと、社会福祉のためであろうと、集団的な匿名の権威によって指導されたり、画一化されたり、篩にかけられることに耐えられない。その感情には発展性がないかも知れないが、なまじっかの附け焼刃の思想よりも強力に、本来的に個人的契機の上にしか存立しえない詩の擁護として働くのである。( 152ページ)

 ここに「体験」が出てくる。「鮎川の戦争体験の気質的な核心」。私は、これこそが「思想」ではないかと思っている。「体験」そのものが「気質」とからみあって、「感情」になっているもの。けっして「理念」化できないもの。それは「理念」を生み出すけれど、「理念」にはならない。常に「理念」に意義を唱えて、個人へと引き返していく力。「体験」そのものが「思想」だと思っている。
 あ、書き急いでしまったかな……。

 北川の文章を読むと、「理論(論理)」が先に進んでいって、「体験」がどこかに置き去りにされているような気がして、それが不安になる。


北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
クリエーター情報なし
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(173)(未刊19)

2014-09-10 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(173)(未刊19)   2014年09月10日(水曜日)

 「シメオン」については中井久夫の注釈がある。シメオンはアンチオキア東方の荒地の柱上苦行者。だが、この詩はシメオンのことを書いているというよりも、別のことを書いている。

そう、あいつの新作の詩は知ってる。
ベイルート中騒いでるな。
そうのち読むよ、じっくりと。
今日は駄目だ。気が動転してるから。

 書き出しの「あいつ」はだれかはわからない。詩人であることはわかる。その詩が評判になっている。もしかするとシメオンについて書いているのかもしれない。けれどカヴァフィスはその詩を読む気になれない。なぜか。

メヴィスよ、わしはなあ、
(偶然だったよ)シメオンの円柱の下にいたんだぜ、昨日。

 そして、感動したのだ。「心は乱れて何も考えられなかった」というくらいに。つづけて書いている。

笑うなよ。考えてもみろ。三十五年ぞ。
三十五年間、夜も昼も、夏も冬もだ。
円柱の上に座って苦行だぜ。
きみも私も生まれておらん(私は二十九歳。
きみは私より若いよね)。
生まれる前からだぜ、想像できるか。

 カヴァフィスは、彼が「生まれる前から」存在し、いまもなお、その形を守っているものを大切にしている。それは何か。ギリシャ語である、と私は思う。苦行するシメオンよりも、その苦行(?)は長い。シメオンに触れて、その苦行(困難)を思い起こしたということだろう。
 これは別なことばで言いなおせば、カヴァフィスが詩を評価するときは、そのギリシャ語の響きによってのみである、ということになる。

ギリシャ語はむろんリバニウスよりもうまいさ。

 二連目に出てくる、この「ギリシャ語」ということばがカヴァフィスの立場を語っている。シメオンにならってギリシャ語の上で苦行している、と主張している。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(3)

2014-09-09 09:22:18 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(3)(花神社、2014年08月10日発行)

 「冬瓜」は、ある女の一生を書いている。女は冬瓜作りの農夫の家に里子に出された。余った冬瓜に棒や縄をとおして冬瓜車を引きずって遊んだ。(冬瓜がごろごろまわるのだろう)。育ててくれた老婆が死ぬと生家に戻された。そこで「女は誰にも愛されず、誰をも愛さず、ひたすら頑なに生き続けた。」思い出は、育ててくれた老婆の家を尋ねてみれば、老婆の息子が冬瓜を売るために縄でくくっている。家に戻れば、台所の隅に冬瓜がころがっているという具合に、冬瓜の思い出だけである。
 その最後。

 そのうち老いて病み衰えた女の下半身は、泥田につかった日の記
憶そのままに重かった。女は終生貧しかったから、生家の誰彼の侮
蔑に長く耐えたが、あえてそれを咎めることはなかった。痩せた手
にかって冬瓜車を曳いた感触はまだ残っていて、女はひとりふふ、
と笑う日もあった。
 女が死を迎えた時、一人残った女の息子は母の好みの冬瓜汁を作っ
てみた。冬瓜の薄切りを淡く煮て、片栗粉でとろ味をつけた。それ
は歯応えのないもので腹を満たしはしなかったが、何故か息子には
懐しく思われた。
--利根の堤下の枯芦の上に、冬瓜様のうす青い月が出ていた。

 ここに詩集のタイトルにもつかわれている「侮蔑」ということばが出てくるが、それがどんなものかは書いていない。興味深いのは、

女は終生貧しかったから、生家の誰彼の侮蔑に長く耐えたが、あえてそれを咎めることはなかった。

 と、女を侮蔑しているのが「生家の」人間であるということだ。身内。生家もまた貧しいはずである。(里子に出したくらいである)。その「貧しい」身内が、貧しい女を侮蔑する。人は誰かを侮蔑して、自分を侮蔑から救いだすのかもしれない。そんなことをしても何の解決にもならないが、そうしてしまう。
 そのどうにもならない「遊び」(気晴らし)は冬瓜車を曳いて遊ぶのと似ているかもしれない。売ることのできない冬瓜。それをつかって、車を曳くように曳いて遊ぶ。それは冬瓜を「侮蔑する」ことになるかどうかはわからないが、奇妙な気晴らしである。
 このどうにもならない「気晴らし」の感じは、冬瓜汁を食べた時の感じに似ているか。その感じを、粒来は、女にではなく、その息子に、

歯応えのないもので腹を満たしはしなかったが

 と語らさせている。
 人を満腹にはさせない。
 この感じが、人を「侮蔑」したときの感じだと言っているようにも思える。

 冬瓜車を曳く無意味さ。無意味だけれど「ふふ」と笑ってしまうようなところがある。冬瓜汁の頼りなさ。腹を満たさない。けれど、妙に懐かしい。冬瓜車を曳いたことを思い出し、「ふふ」と笑う母も、きっとそれを「懐かしい」と感じていただろう。
 母の感じていた「懐かしさ」と、息子の感じている「懐かしい」は同じであるとはかぎらないが、私には「同じ」に見えてしまう。感じてしまう。
 この詩では、冬瓜汁を食べているのは「息子」だが、息子と一緒に母(女)も食べているように感じる。「息子」は「母(女)」になって、冬瓜汁を食べている。「息子」のなかの「母(女)」が、その歯応えのなさを「懐かしい」と思っている。
 そんなふうには書いてはいないのだが、私は、そう感じてしまう。
 そして、それが「侮蔑」の味だとも思っているように感じる。
 「侮蔑する」味か、「侮蔑される」味か--よくわからないが、両方かもしれない。「侮蔑」では何も解決しない。「貧しさ」からぬけだせない。

 こんな読み方をして、何がどうなるというものではないのだが、私は、そんなことを感じた。
 そして、

--利根の堤下の枯芦の上に、冬瓜様のうす青い月が出ていた。

 この光景が、最後に「見える」と感じた。
 「冬瓜様」と粒来は書いているが、それは「冬瓜汁」のような、と私には思える。「冬瓜汁」はひとの味覚、あるいは空腹を「侮蔑」しているかもしれない。こんな頼りないものと人間が冬瓜汁を侮蔑しながら食べるのだが、食べられる冬瓜汁の方でもこんなものしか食べられない貧乏人めと人間を「侮蔑」している。
 「侮蔑」は一種のさびしい支えあいのようでもある。

 そして、この「さびしさ」がなぜか怖い。なつかしいけれど、怖い。「死」をみつめた人間だけが見ることのできる「さびしさ」のように感じられるからである。
 この「さびしさ」は実感したくない、と思わずあとずさってしまう。引きつけられながらも、のみこまれてしまったら大変と感じてしまう。



粒来 哲蔵
書肆山田

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(172)(未刊18)

2014-09-09 09:18:09 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(172)(未刊18)   

 「半時間」は偶然出合った男に詩ごころを刺戟されたときのことを書いている。「私はあそこのベッドに泊った」と同じように、ことばの調子が間延びしていて、いい詩とはいえないかもしれない。

あなたが私のものになってくれたことはなかった。
これからもないでしょう、多分。

 この書き出しが、特に間延びを感じさせる。過去の「事実」を書き、それから「未来」を推測している。「いま」が「過去」と「未来」との引き延ばされ、「いま」の充実がない。空漠とした感じである。愛というのはいつでも「一瞬」の充実が輝かしい。その「一瞬」が引き延ばされたのでは、おもしろいはずがない。

二言三言、僅かに近づき、そう、昨日のバーでのように。それだけです。
悲しいけれど、あきらめています。

 つづく二行も、とても間延びしている。「それだけです。」という念押しに「いま」をつかっている。そこで「いま」を消費してしまって、消費したのは自分のせいなのに「悲しいけれど、あきらめています。」と言われても、未練を感じるだけである。
 ひいき目に受け取れば、カヴァフィスは、ここでは「未練」の「声」を書いているともいえる。「未練」というのは、こんな具合に「声」になるのだ、と言っているのかもしれない。

でもミューズに仕える私めは、時にはこころの力だけで、
身体の悦びにごく近いものを創れることもあるのです。

 ここでは「未練」を説明している。「こころの力」(後半で「こころの力」を「想像力」と呼んでいる)で何かをつくること。つくってしまうこと。「身体の悦び」さえもつくってしまう。もちろん、それはカヴァフィスだけのものであって、相手の「身体の悦び」とは関係がない。自分のことだけを考えるのが「未練」というものなのだ。

いくら想像力があるといっても、
いくらアルコールの魔法があるといっても、
あなたの唇を目にしなければ--、
あなたの身体が傍になくては--。

 「いくら……があるといっても、……がなければ、(……できない)」。最後の「……できない」ということばを強要する「論理」。「論理」で説得するのは、もう愛ではない。だから、この詩はおもしろくない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(2)

2014-09-08 10:27:20 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(2)(花神社、2014年08月10日発行)

 粒来哲蔵の今回の詩集は、なんといえばいいのか、「怨み」のようなものが漂っていて、感想を書こうとすると、少し怖い。粒来のことばに誘われて、とんでもないことを言ってしまいそうな気がする。言ってしまった方がいいのかもしれないけれど、私は、まだ言えない。
 と、書くと……。
 もうすでに粒来のことばに引き込まれているのかもしれないけれど、今回の詩集には、粒来の年齢にならないと言えないことが書いてあると思う。死が具体的に見えるようになって、その死に向かって、「これを書いたら死んでやる」と脅しているような感じがする。「死」そのものに対して「怨み」を吐き出しているような感じがする。
 世間(人の世)に対する「怨み」なら、まだわかるような気がするが、「死」そのものへの「怨み」が、とても怖い。向き合っているのは「ひとり」だからである。まるで「一神教」の「神」と向き合って、己はこういう人間だと戦っている感じがする。最後の審判という「あれ」かな?(あ、私は「神」というものをあまり考えたことがないのだが、粒来をことばを読んでいると、なぜか、そう感じてしまった。)
 この詩集とどう向き合っていいのか、とても怖い。

 で、一呼吸おいて(きのう書くつもりだったが一日休んだ)、深呼吸して、あまり怖くない作品の感想から書くことにする。
 「発光」。男が暮らしている荒屋。畳から茸が生えてくる。男の布団のまわりに。

           手に取ってみると、茸は指の間で軽く折れ
た。匂いはあるようだったが定かではなかった。男はその匂いが多
年手荒く取り扱って来た指に染みた生活の匂いなのか、それとも茸
本来の匂いなのか判断はつかなかったが、何かを思い出させる匂い
ではあった。

 「匂い」。嗅覚は原始的な感覚で、最後まで死なない(最後に死ぬ)感覚器官なのだと言われるが、「匂い」を吸い込むと、(この作品に書かれている「匂い」ということばを読むと)、体の奥に茸が生えてきそうな気がする。「匂い」なんか、かぐなよ。何の「匂い」かわからないなら、思い出そうとするなよ。さっさと、全部毟りとって、清潔にしてしまえよ、と言いたくなる。そんなことを言うなら、読むな、という声が聴こえてきそうだが……、私は、そんなことをするなよ、と言いながら、先を読みたくなっている。(こういう「矛盾」した感じで読んでいく、読まされるのが「傑作」というものだ。)

 茸は男の手指程の長さになったので、摘んでまず生で食い煮て食っ
たが、味そのものは取り立ててどうこう言う程のものではなかった。
ただ毒性はなく、男の体調に変化はなかったから、男は続けて食う
ことにした。それで腹は充たされたが、いくら食っても空漠とした思
いが後に残り、男は食う途中で咀嚼を止めて物思いに耽ることもあっ
た。

 「味そのものは取り立ててどうこう言う程のものではなかった。」--私は、この文章が怖かった。この詩で最初に怖いと感じたのはここである。なぜ、怖いかというと「どうこう言う程のものではなかった」なら言わなければいいのだ。けれど、言ってしまっている。その「矛盾」が怖かった。
 言わなくてもいいことを言う。
 なぜだろう。
 直接は関係がないのだが、そのあとの、茸を食って腹は充たされたが「空漠とした思いが後に残り」ということと、何か通い合う。言わないと「空漠とした思い」が残るのだ。呼吸する。空気を吸い込む。それを吐き出す。ことばにするとは、空気を吸って、それを音に変えて吐き出すことだが、吐き出しても何かが「残る」。それも「空漠」が残る。ないものが、残る。「言う程のものではない」という「無」が「空漠」として残る。
 その「無が残っている」を、わざわざ、ことばにする--そこが、怖い。
 そして、これは茸の匂いを嗅いだときの「肉体」の感覚に似ていると思う。茸の匂いが「肉体」のなかに入ってくる。吸い込んで、吐き出す。そのとき空気は吐き出されたはずなのに、「匂い」が「肉体」のなかに残る。「空気」はないのに、「匂い」が残る。この「残ったもの」を記憶というのかもしれないが、実体がなく「残る」というのは「空漠が残る」となんだか似ている。
 「ない(空/空漠)」を考えることができるのはなぜか--とことばを動かしていくと、また違った問題になるが、「ない(空漠)」は何かで埋めないと「空漠」のままである。そういうことに人間は耐えられないかもしれない。だから「物思いに耽る」。何を考えるでもない。「結論」を出したいわけではなく、ぼんやりと「物思いに耽る」。

 そうこうしているうちに、茸は音を立て、薫香を忠世わけ、白い光が見えてくる。それは次第に人間の姿になり、男は「匂い」が何かを思い出す。思い当たる。「とうの昔になくなっていた男の母の前掛の匂いだった。」--その母から、男は、母に庇護されて育ったことを思い出す。(3-4段落)
 ここの部分は、ごく一般的な母とこの関係を思い出させる。「死」は母が死んでしまっているというところに出てくるが、こういう死は、あまり不気味ではない。ちょっと不気味さ、怖さが消える一瞬なのだが、そのあとの5段落目。

              男の夢の中で、母は前掛をしめ忙し
く立ち動いていた。母は男の好きなカドの腹を裂いて竿にかけ一夜
干しを作っていた。母の膝の近くにカドの入ったバケツがあり、母
はカドをつかんでその腹に指を入れていた。卵が散り、母の顔にう
ろこがはねた。母は笑っていた。この時も夢の中で男は母に駆け寄
った。カド臭い前掛が頬に触れた。

 子どものときの、粒来にしてはありふれた情景だろう。(カドとはにしんの別称)
 でも、私は、眼が吸い寄せられるようにして「情景」を見てしまう。そして、怖い、と感じる。何か、怖いものがあると感じる。
 それは私が見たものではないのに、まるで見たことがあるかのように、思い出してしまう。
 たぶん、母が魚の腹を裂いている、うろこが飛び散り、母の頬(肉体)に触れるということが怖いのだ。そこに死がある。魚の死がある、ということが怖いのだ。そして、うれしいのだ。怖いけれど、そしてそれを見たことはないのだけれど、自分のうれしい記憶のように感じてしまうのは、私も母が食べ物をつくるのを見たことがあるからだ。食べ物をつくる、食べるということは、何かの「死」を食べることである。
 怖くて、しかしなつかしいという矛盾したものが、ここでは動いている。
 「匂い(薫香)」はいつのまにか「カド臭い」と「臭い」にかわっている。--その知らない間の変化、--それが生きるということかもしれない。

 男は独りで死んだ。茸だけが男の骸を取り巻いて静かだった。男
は白い光に包まれて、何かもの言いたげに口を開けていた。音の胸
に天井の隙間から淡い光が差し込んで、茸はつつましやかな花飾り
のように立っていた。--何もかもそれでよかった。。

 最後の段落だが、その最後の最後「何もかもそれでよかった。」が不思議に怖い。ここでは、粒来は「怨み」を言っていないように見える。「よかった」なのだから、すべてを受け入れてるように見えるが、簡単に同意できない何かがある。「よかった」というより「しかたなかった」のように読んでしまう。「しかたなかったが、それでよかった」という一種の「否定」を含んでいるように思える。
 人は生きる。そのとき、何かを食う。何かの死を食う。何かを殺して食う。--でも、そうやって生きてきた「男」を最後に食うのはだれなのか。だれも食わないのに、男だけが食うのか。
 というようなことは、この詩に書いてあるわけではないのだが、そういう「運命(宿命)」を強いる何かに対して、粒来は「抗議」のようなものをしている。それが「怨み」の形に見える。「抗議」することで、その宿命を受け入れている。生きるとき、そこに「生」と「死」の拮抗がある--そういう存在形式そのものに対して「怨み」を言っているように思える。

 この「怨み」は粒来のことばを借りて言えば「どうこう言う程のものではない」のかもしれない。ぼんやりした形で言われたときは。しかし、粒来の明確な文体で語られたとき、それは「匂い」のように「肉体」の内部に入り込み、そこに居ついてしまう。吐き出したくても吐き出せない。--こういう「感染」が、いちばん怖いのかもしれない。「感染」を引き起こす「文体」が怖いのかもしれない。


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谷川俊太郎の『こころ』を読む
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(171)(未刊17)

2014-09-08 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(171)(未刊17)   

 「私はあそこのベッドに泊った」は、

あの快楽の館に行ったが
表の部屋は通り過ぎた。

 とはじまる。タイトルの「あそこ」、一行目の「あの」は、ともに具体的には書かれない。「あそこ」「あの」と言うとき、カヴァフィスは「あそこ」「あの」がわかるひとに向けてことばを発している。そして、読者には、その「特定」の「あそこ」「あの」がわかる人と、カヴァフィスは「あそこ」「あの」を共有していることがわかる。つまり、ここには「秘密」があることがわかる。「秘密」の共有。

私は奥の部屋にずいと入って
そこのベッドにねた。泊まった。

 具体的な描写はない。「部屋に入って、ベッドにねた。」ではなく「そこの」ベッドと指示しているのも「秘密」の共有である。「そこ」と指示することで、感覚を共有したいのだ。ベッドを思い出すときの感覚を。

口に出来ない、けがらわしいと世間がいう部屋、
そういう秘密の部屋に入っても
私はけがれぬ。汚れるというようでは
詩人、芸術家の資格はあるまい。

 この四行は、「意味」が強すぎる。
 「口に出来ない」「けがらわしい」と繰り返しているところがしつこいし、「けがらわしい」ものに触れて「けがれる」ようでは詩人ではないという「論理」もありきたりである。それが事実であったとしても、迫ってくるものが弱い。「論理」的すぎるのだろう。詩は「論理」を突き破って動くものであって、説明してわかってもらうものではない。
 この四行に比べると、「私は奥の部屋にずいと入って/そこのベッドにねた。泊まった。」の方がはるかに力に満ちている。簡潔で、何も説明していない。「ねた」と言えば、説明しなくても「肉体」は「ねる」を思い出す。「眠る」ではなく「ねる」というとき、人は何をするか、その何かが「秘密」とはどういうことか、そういうことがすぐにわかる。たとえ「秘密」を共有しないない人間にも。このとき「だれと」は関係がない。
 カヴァフィスは「秘密」を共有している人に向けて「あそこ」「あの」「そこ」と支持詞をつかって表現するのだが、そんなふうに隠して、具体的に言わない方が、「秘密」を共有していない人に「秘密」があるということを知らせる。
 「論理」を否定した方が、「論理」がなまなましく伝わるのだ。「論理」があるということがわかるのだ。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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「谷川俊太郎の『こころ』を読む」へのレビュー

2014-09-07 10:05:22 | その他(音楽、小説etc)
アマゾンに「谷川俊太郎の『こころ』を読む」のレビューがアップされています。
筆者は下呂のイクローさん、タイトルは「詩の「感想」(実況中継)がもう一つの詩になっている, 2014/9/4」。
URLは、
http://www.amazon.co.jp/%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E4%BF%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E3%80%8E%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E8%B0%B7%E5%86%85-%E4%BF%AE%E4%B8%89/product-reviews/4783716943/ref=dpx_acr_txt?showViewpoints=1

ぜひお読み下さい。

なお、アマゾンではなかなか本が講読できない状態です。
書店にもあまり出回っていません。
講読希望の方は谷内修三までメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお届け先の住所と氏名をお知らせ下さい。
定価1800円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。(振込に費用がかかるため、書店経由と料金的にはあまりかわりません。割引にはなりませんが……。)
ご要望があれば、「○○○○様+谷内修三+日付」の署名をして発送します。宛て名、日付をメールに書いてください。
「リッツォス詩選集」(作品社、中井久夫との共著)も定価4400円(税抜き、郵送料無料)で取り次ぎます。
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北川透『現代詩論集成1』(6)

2014-09-07 10:03:39 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(6)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 五 <経験>の意味

 「経験」ということばを北川透はかなり風変わりな感じで定義しているように私には思える。

わたしは、戦争体験のような共通性にかかわるものを体験と呼び、詩人の個別性にかかわるものを経験と呼ぶことにしたい  (125 -126 ページ)

 うーん。私自身は、共通性にかかわるものを「共通体験(共通経験)」、個人的なものを「個人的体験(個人的経験)」と呼んでいる(と思う)。「共通」「個人的(個別的)」ということばがあるのに、それを省略して「体験」「経験」ということばで「共通性」と「個別性」をわけるのか……。ちょっと、ややこしい。
 人によっては「肉体」をつかって何かしたとき「体験」と呼び、「精神」をつかって何かしたとき「経験」と区別する人もいる。「一日 100キロ走破体験」「一日一冊読書経験」という具合に。(でも、私は「読書」に対しても「読書体験」とつかってしまうなあ。--というのは、まあ、北川の「論理」とは関係ないことだが。)

 なぜ、北川は、こういう「定義」をしたのか。
 先の文章につづいて、北川は書いている。

詩論のなかで、体験にしろ経験にしろ、これらのことばが詩の概念を成立させるに重要な契機をもたされたのは、わが国の詩史上でおそらく戦後になってからであり、しかも、それは「荒地」派の詩人の出現を待つほかなかったと言える。たとえば、萩原朔太郎の『詩の原理』を開いてみればよい。彼の理論構成は、形式と内容、主観と客観というような二分法的思考によって成り立っているが、しかし、その内容とか主観とかが、経験というような概念とはまったく無縁に立てられているのを、わたしたちは見ることになるだろう。(126 ページ)

 そうだったのか、と私は驚く。
 同時に、朔太郎の「形式と内容」「主観と客観」という「二分法的思考」は、北川の「体験と経験」の「二分法的思考」とは重なるのか、重ならないのか、それが気がかりである。朔太郎に「形式」「客観」と呼ばれているものが「共通体験」、「内容」「主観」と呼ばれているものが「個別経験」という具合になるのか、ならないのか。
 ことばが違うから、私の疑問はきっと無意味な疑問だと思うが、ふと、気になってしまう。
 また、北川が「形式と内容」「主観と客観」という「二分法的思考」を「理論構成」ということばでつかみ取っていることにも興味をもった。「理論」から「論理」ということばを思い出し、「理論構成」とは「論理」を動かしていくときの方法のことかな、とも考えた。
 北川はどんな「論理」であっても、それをだれかが動かしているとおりに動かしてみて、その運動の射程(運動可能領域)を確認しているが、朔太郎を読むときでも、「理論」を動かしてみて、それが「二分法的思考」であることを確認したのだと思う。確認できたから「二分法的思考」と呼んでいるのだと思う。
 このあと北川は西脇順三郎を引用し、西脇は「超自然と自然主義」という「二分法的構成」で詩のことばを見ているととらえている。そして、

<自然主義>が経験意識の世界であるとすれば、<超自然主義>は《経験を表現するのではなく、経験と相違する若しくは経験に関係なきものを表現の対象とする》世界である。西脇において、ポエジーの価値が、もっぱら経験を無化するところに求められているのは、言うまでもない。(126 ページ)

 と書いている。
 なんだかややこしくなってきたが、私は、ここに「経験意識」ということばがつかわれていることに注目した。「経験」とは「意識」なのである。
 北川が「経験」を「意識」ととらえていると感じた。
 「体験」は「共通」しているが、つまり、戦争というような人をまるごとのみこんでしまう事件は人にとっては「個別」のできごとではなく、「共通」しているが、その「共通体験」のなかであっても、「意識」は「個別的」なものであるというところから、「体験」と「経験」を分けているように感じた。
 ここから進んで、北川は、「荒地」はようするに「意識」というものを詩に持ち込んだと言いたいのだろうと、私は考えた。「荒地」の詩によって、日本の現代詩は「意識」をテーマにするようになった。そう言いたいのだろうと思った。「体験」をそのまま書くのではなく、「体験」したときの「意識」を書く。「体験」を「経験」に昇華させたものが「意識」(経験意識)ということになるのか。「意識」をどこまでも書いていこうというのが「荒地」の詩人ということになるのか……。
 そう考えたとき、しかし、私のことばは、そこで立ち止まってしまう。
 西脇について語るとき「経験」ということばは出てきたが、「体験」は出てきていない。「体験」はどこに消えたのか。

 「体験」ということばは、このあと

わたしたちが現在、詩に関する論議のなかで、体験とか経験という概念を抵抗なく用いることができるようになったことの恩恵のいくらかは、確実に「荒地」派に負っていると言わなければなるまい。( 126ペー)

 と出てくるが、その後は、やはり見えなくなる。もっぱら「経験」ということばがつかわれて、鮎川信夫の「経験とは何か」を引用しながら、北川のことばは次のように動く。

この文章で目立つ特質は、形式や方法よりも素材と経験を重視する論理が、《われわれのための倫理》を《社会の中に確立》し、《社会に対するわれわれの責任がいつも問われなければならない》文脈において導き出されていることであろう。つまり、「荒地」や鮎川信夫における経験の概念は、単にモダニズムが欠いていた経験の回復という意味ではなく、宗教やイデオロギイでは代置できない詩固有の倫理の確立という論理をともなっていたと考える必要がある。(127 ページ)

 私なりに「誤読」すると、「経験」とは「意識」であり、「意識」とは「宗教やイデオロギイとは違った倫理」ということになる。「荒地」は「荒地固有の倫理」を「経験」として表現しようとした、と北川は言っているように思える。
 それはそれで、わかるのだが(私の「わかる」は勝手な思い込みであって、「正しい理解」とは関係ない)、うーん、気になるなあ。
 「体験」はどこへ消えたのか。
 「荒地」の「経験」を「意味」を明確にしようとして、それの対立概念(?)である「体験」をどこかに置き去りにしていないか。「荒地」の詩人そのものになって「経験」にことばが集中しすぎていないか。
 これはしかし、北川が「荒地」の「理論」をそのまま動かしてみたら(つまり、「荒地」の「理論」を追体験してみたら)、そうなった、ということかもしれない。「荒地」の「理論」は「論理」として矛盾していないと確認した、ということかもしれない。

詩固有の倫理の確立という論理

 という具合に「論理」という表現が出てくる。
 北川はあくまで「論理」を見きわめようとしている。



 このあと北川は、「荒地」派の作品を引用しながら論を進めている。そのなかに「体験」ということばは「経験」と組み合わさった形で出てくるが、同時に、その組み合わせに「仮構」ということばも出てくる。
 「仮構」というのは、私の感覚では「意識(精神)」の運動である。
 これまで見てきた北川の文章から言えば、「経験」は「個人的意識」というものだから、「仮構」はその「個人的意識」をより分かりやすくする形で動くだろう(と、私は想像する。)つまり、「体験」を振り捨てて、より「経験(意識)」をより鮮明にするように動くのが「仮構」の運動であるように思える。「体験」を「仮構」によって「経験(意識)」に昇華する、あるいは止揚する?

 うーん、「体験」の「意味」は、どうなるのだろう。



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中井久夫訳カヴァフィスを読む(170)(未刊17)

2014-09-07 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(171)(未刊17)   2014年09月07日(月曜日)

 「テオフィロス・トレオロゴス」は史実を書いている。中井久夫の注釈によれば、「最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス十二世パレオロゴスの一族であり、文法家、人文学者、数学者であった。一四五三年の最後のコンスタンティノポリス攻囲戦の折りはシリヴリア門を守り、最終段階では皇帝の側で勇敢に戦って倒れた。」

最後の年であった。最後のギリシャ皇帝であった。
ああ、皇帝側近の悲しい会話。
テオフィロス・トレオロゴス卿は
望み果て悲傷に堪えずして叫ばれた。
「余は生よりも死を選ばん」

 舞台の一場面を見るよう。ことばがひきしまっている。「余は生よりも死を選ばん」という文語体の響きが音をひきしめているが、なにより効果的なのが二行目の「ああ、皇帝側近の悲しい会話。」である。どんな会話か書いていない。ただ「悲しい」というそっけない形容詞がつけられている。この省略法はカヴァフィスの詩に多くみられるものだが、この詩ではほんとうに効果的だ。省略することで、テオフィロス・トレオロゴスの最後の叫びだけが「肉声」として響きわたる。「文語体」の声なのに、「口語」としてはっきり声が聞こえる。
 トレオロゴス「卿」なのだから、庶民とは違って日常的にそういう話し方をしていたのかもしれないが、その「口語」は、単に声だけではなく、その立ち姿まで感じさせる。つまり、とても「肉体的」である。
 だが、二連目はどうか。

テああ、オフィロス・トレオロゴス卿。
わが民族の多数の受難。切ない願い。
ああ、夥しい疲労--。
不正と迫害に力尽きた民族を
おんみの悲劇の十文字が要約する。

 形容詞が多すぎる。いや、名詞そのものが多いのか。ひきしまった感じがしない。
 たぶん一連目が芝居で言えば主役が動いているのに対して、二連目では主役が動いていないからである。「コーラス」が主役のいなくなった舞台で主役を描写している。主役が不在である。そのことが全体をあいまいにしている。
 コーラスは、みんなが知っている「共通体験」をことばにするのだが、そこに主役がいないときは、「観念」ではなく、違う何かが必要なのかもしれない。具体的な「もの/こと」を描写する。その描写の中から「観念」に抽象化される前の何かが動きださないことには芝居にならないのかもしれない。
 一連めだけで終わった方が詩としてはよかったかもしれない。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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