詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

劉暁波『牢屋の鼠』

2014-02-27 10:04:34 | 詩集
劉暁波『牢屋の鼠』(田島安江・馬麗 共訳)(書肆侃侃房、2014年02月15日発行)

 劉暁波は「08憲章」で知られる中国のノーベル平和賞受賞者。『牢屋の鼠』は、その詩集。日本で初めての詩集である。--というようなことは、気にしないで読んでみる。どんなことばにも「背景」があるし、「事実」がある。けれど、そういう「背景(事実)」によってことばの「意味」を限定するということは、私の好みではない。「思想」を好みで判断していいのかと問われると、私は「それしか判断材料を持たない」と答える。自分の好きじゃないことをしてまで貫き通したい「思想」というものを私はもっていない。自分が好きなものにあわせて「思想」を作り替えていく。もし私に「思想」と呼ぶことができるものがあるとすれば。
 詩集のタイトルになっている作品。「霞へ」というサブタイトルがついている。霞、というのは妻か、恋人か、娘か……大切な人である。

一匹の小さな鼠が鉄格子の窓を這い
窓縁の上を行ったり来たりする
剥げ落た壁が彼を見つめる
血を吸って満腹になった蚊が彼を見つめる
空の月にまで魅きつけられる
銀色の影が飛ぶ様は
見たことがないぐらい美しい

今宵の鼠は紳士のようだ
食べず飲まず牙を研いだりもしない
キラキラ光る目をして
月光の下を散歩する

 獄中の風景を描いている。鼠がいる。蚊がいる。窓からは月が見える。獄中にいる詩人にとってできることは、見ること、考えること(ことばをうごかすこと)。それだけ。ということが、この詩から切実につたわってくる。
 で、私はいま「見る」と簡単に書いてしまったのだが……。
 詩を読むと「見る」が微妙に変化している。
 最初の2行は詩人が見つめた風景である。鼠が鉄格子の窓縁を歩いている。でも、そのあとの、

剥げ落た壁が彼を見つめる

 これは、どうだろう。この訳では「主語」は「壁」、「動詞」が「見つめる」。補語が「彼」ということになる。「壁が見つめる」は「比喩」である。その「比喩」は少し後回しにして……。
 「彼」ってだれ? 鼠? 違うね。
 瞬間的に(あるいは無意識のうちに)、私は「彼」を獄中の詩人・劉暁波その人と思った。「私(劉暁波)を見つめる」。
 そのあとの「蚊」が見つめるのも「私(劉)」である。蚊は劉の血を吸って満腹し、劉を見つめている。
 そうすると、この詩の中で、動詞(見る/見つめる)の主語が交錯していることになる。
 最初は劉が鼠を見つめる。次に壁が劉を見つめる。蚊が劉を見つめる。
 でも、蚊が劉を見つめるは蚊が生き物だからまだ考えられうることだが、壁が劉を見つめるというのは、どうかな? 壁がほんとうに劉を見つめていたかどうか、確かめる方法はない。(蚊が見つめたかも確かめる方法がない。)
 これは、実は、劉が、劉自身の姿をそんなふうに「見つめた」ということだろう。そのときの「見つめる」は鼠を見るときの視線とは違って、肉体から外へむけて動くのではなく、肉体を外側から見つめる。一種の「想像(空想)」だね。このとき、そこに「壁」とか「蚊」とか、具体的な「もの」をもってきて、「他者」に自分の視線を託している。ただ単に自分を外側から見るのではなく、外側にある「もの(他者)」になって、その「他者」から自分を見つめる。自分ではないものに何かを語らせる--それが「比喩」というものなのだろう。
 そして、そのとき、つまり「比喩」をつかうとき、「比喩」を生きるとき、「比喩」のなかで「他者」と「私(劉)」が固く結びつき、溶け合い、見分けがつかなくなる。どこまでが「外部」でどこまでが「内部」かわからなくなる。というより、「外部/内部」という区別がなくなったもの、とけあったもの、が「ひとつ」のあり方として見えてくる。この詩でいえば、獄中にいる劉がより鮮やかに見えてくる。獄中にいて、何も見るものはなく、鼠や剥落した壁、蚊を見て、この限られた世界が「いま/ここ/劉」なのだと認識していることがわかる。
 「見る」ということ、「目」を動かすこと--それをとおして「生きる」を確かめなおしていることがわかる。
 で、こうした「主語」の融合のあと、「見る」の「主語」はもういちど変化する。

空の月にまで魅きつけられる
銀色の影が飛ぶ様は
見たことがないぐらい美しい

 この3行では、「見る」のは「私(劉)」である。鼠、壁、蚊を見つめてきた龍は、いま鉄格子の窓から見える月を見ている。銀色。いままで「見たことがないぐらい美しい」。
 そう読んで、私は、しかし、一瞬だけ立ち止まる。
 「空の月にまで魅きつけられる」の「主語」を(この場合、補語というべきなのかもしれないけれど)、いきなり「私」にしたくない。「私」は空の月の美しさに「魅着付けられる」という具合には、読みたくないのである。
 壁が彼を見つめ、蚊が彼を見つめたように、一瞬でいいから、月が彼を見つめたということばを挿入したいのである。月が彼(劉)を見つめ、見つめられることを「わかって」、私(劉)は月を見つめる。「見つめる」という動詞の中で月と私が交錯し(こころを交わし)、「ひとつ」になる。
 「見つめる」ことは「こころ」をかわすこと、「ひとつ」になること。

 そうであるなら。

 私(劉)はいま、獄中の鼠(牢屋の鼠)であるけれど、そこから出ることはできないのだけれど、目は(見るという動詞)は、牢獄という枠に囚われない。月を見ることができる。もし、きみが(霞が)、同じようにこの月を見ているならば、私たち(劉と霞)は、この月を「美しい」と見ることで「ひとつ」になれる。その月は「(いままでに)見たことがないぐらい美しい」。
 だから、霞よ、月を見ておくれ。月を見て、月を見ている私を想像してくれ、と叫んでいるように聞こえる。
 霞よ、私はいま、「キラキラ光る目をして/月光の下を散歩する」。だから、きみもキラキラ光る目をして、月光の下を散歩してくれ、と呼び掛けているように思える。

 「いま/ここ」にあるもの、生きているものと一体になりながら、ことばを動かしていく。他者と自分の「肉体」を融合させながら、いっしょにことばを動かしていく。そのときのことば--他者と自己をつなぎとめることばを、私は「思想」と呼びたい。
 恋人よ、同じ月を見て美しいと感じてほしい、離れていても「月光の下を散歩する」という同じことをしよう、「肉体」で、ことばで、同じことをしよう、そのためにことばを動かそう--そのことばが「思想」なのだと私は信じている。


詩集 牢屋の鼠
劉暁波
書肆侃侃房

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