詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中嶋康雄「水たまりのヤスオ」

2014-02-22 09:13:13 | 詩(雑誌・同人誌)
中嶋康雄「水たまりのヤスオ」(「めらんじゅ」15、2013年12月03日発行)

 中嶋康雄「水たまりのヤスオ」は引用しようとして、いま気づいたのだが「自画像」なのかもしれない。「ヤスオ」は「康雄」。そうとは気づかずに読んだのだが……。

倉庫の裏のちょっとした空地
水たまりにヤスオがいる
孑孑と一緒にフラフラしている
水たまりの水が少なくなってくる
時折、遊びに来ていたアメンボの奴も
遊びに来なくなった

 「水たまりにヤスオがいる」といっても「水たまり」のなかではなく、そのまわりにフラフラしているということだろう。孑孑はわかるが、そういうところへアメンボが来るのはどういうわけだろうなあ。水がつながっているわけでもないのに、確かに離れた水のなかにアメンボを見かけることがある。空を飛んでくる? わからないが、まあ、確かに「遊びに来る」のだろう。(ほんとうは孑孑を食べに来るのかも。)で、ヤスオも、遊びになってくる。このときの「遊び」は何もしない、フラフラするくらいのことだけれど。
 で、ここに出てくる孑孑、アメンボ、ヤスオがなんなとく「ひとつ」に見えるね。「ひとつ」に感じるね。通い合うものがある。「遊び」「フラフラ」という感じかもしれないなあ。それから「倉庫の裏」「空地」も「遊び」「フラフラ」に似ている。孑孑、アメンボにはそういう気持ちはないかもしれないが、無用、役に立たない、そして何かが有り余っている感じ……。
 この調子がなんとなくつづいていく。

水たまりはただの水たまりで
雨が降らないので
水が
少なくなって
埃っぽくなって
孑孑の奴
へらへら笑いながら
蚊になって水たまりを離脱する
ヤスオは孑孑がいなくなっても
フラフラしている

 孑孑とヤスオはヤスオの気持ちのなかでは「ひとつ」。だから、水たまりを去っていく孑孑はヤスオに取っては「離脱」。--この「離脱」のなかに、妙な共感がある。笑いがある。軽くて、さみしくて、いいなあ。「へらへら」も、そんなふうに笑われたらさびしくなるという感じを強くする。孑孑のいなくなった水たまりの周辺をフラフラするとき、そのヤスオのフラフラを受け止めてくれる孑孑がいないので、ヤスオはさびしいなあ。夏の光だけがまわりにあって、影も短くなって、よけいさびしい--と書いていないのだけれど、私はヤスオになって妄想する。捏造する。つまり「誤読」する。
 「誤読」を誘うように、ことばが重なり合う。論理的に意味を重ねるというのではないのだが、あいまいな領域で重なり合って、「肉体」をじわりとつつんでくる。この感じが自然で、とてもいい。
 詩はここでおわってもいいのだけれど、つづきがある。

ヤスオはただのヤスオで
他にどうしようもない
水はもうお湿り程度
もうすぐ
カラッカラだ
ヤスオはからっぽの体を
元水たまりの場所で
もてあますだけだけもてあます

 1連目で「倉庫の裏」「空地」「孑孑」「アメンボ」「遊び」「フラフラ」、さらに「へらへら」「離脱」というようなことばが重なり合っていると書いたけれど、2連目も「カラッカラ」「からっぽの体」と似たような重なりあいが繰り返される。ことばの「質感」が同じ。
 同じだから省略してもいいのだけれど、なんとなく「全部」を引用したくなる。
 1連目では「離脱」が端的でとてもおもしろかったが、2連目では、

元水たまり

 あ、この「元」のつかい方がいいなあ。昔は水たまりだった。いまは違う。それを説明するための「元」。--「意味」は「わかる」。わかるけれど、ふつうは、言わない。じゃあ、ふつうは何というのか--急に聞かれたら、一瞬、わからない。「かつて水たまりがあった場所」ということになるかもしれないが、そういうまだるっこしい表現を吹き払って「元水たまり」。そのことばに引っぱられてしまうね。
 これは、いいなあ。

 深読みすれば、「元」はヤスオも何かであったのだ。その「元」は干上がってカラッカラ、からっぽ。で、フラフラしている。へらへら笑われているのを感じている。そういうことかもしれないけれど、面倒くさいことは書かずに、フラフラを感覚のまま、そこに書いている。ときどき「元」とか「離脱」とか、それでなければぴったり来ないことばを、ぴったりと決めて。--この「ぴったり感」に詩がある。

何も待たない
何も持たない
じっとしている
元水たまりの場所が
ただの場所になる頃
ただの透明な穴になり果てたヤスオは
久しぶりにフラフラしている

 「待つ」「持つ」は音も似ているが、字も似ているなあ。
 「ただの場所」「ただの透明な穴」のなかにある重なり合いもいいなあ。「透明な穴」なんて、もう「穴」ではなく単なるへこみみたいなものかもしれないけれどね。そういう微妙な手触り感がいいなあ。
 「意味」を全部、読者の方に投げ出してしまって、詩のなかでフラフラしている。
 「元水たまり」を探しにゆきたいなあ。そこでフラフラしたいなあという気持ちになる。







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谷内 修三
思潮社
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西脇順三郎の一行(97)

2014-02-22 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(97)

「奇蹟」

地獄の色彩のように

 この行も、前後を引用してみる。

フキノトウもイタドリも
地獄の色のように
やつとにじみ出ている

 「地獄の色のように」ということばを独立させたかったのだ。色を強調するためだろうか。違うだろうなあ。色を強調するのなら、次の「やっと」がきびしい。いや、かすかなものを強調するという方法もあるけれど、繊細な感覚と地獄の色彩は、どうも私の感じではそぐわない。
 「フキノトウもイタドリも/やつとにじみ出ている」では、あまりにも風景が自然になりすぎる。「日本的抒情」になりすぎる。それを壊したかったのだろう。西脇は「日本的情景」も好きなのだと思うが、その「情景」が「日本の定型」のなかで語られるのが嫌いなのだ。「日本の定型」をたたき壊して、非情な自然そのものにかえしたい。感性の定型と切断した場所で、「もの」そのものを見たかったのだと思う。
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