詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェームズ・グレイ監督「エヴァの告白」(★★★★)

2014-02-26 09:49:23 | 映画
監督 ジェームズ・グレイ 出演 マリオン・コティヤール、ホアキン・フェニックス、ジェレミー・レナー

 マリオン・コティヤールが主役なのだけれど、そしてマリオン・コティヤールにぐいと引きつけられるのだけれど、同時にホアキン・フェニックスにも引きつけられる。女を利用して生きているのだが、どこかに純情がある。汚らしさ、いやらしさ、いやしさ。それと純情が交錯する。純情を言えない。純情を言ってしまうと、女を利用するということができなくなる。そうわかっていて、両極端を揺れる--のではなく、その両極端をひとつにしようとする。揺れてしまえば簡単(?)なのかもしれないけれど、揺らさずに自分の内部で「ひとつ」にしようとするので、なんとも不思議な手触り感(存在感?)がある。別な言い方をすると、「愛している、こんな生活をやめて新しい暮らしをはじめよう、と言ってしまえよ」と横から言いたくなってしまうのである。もしホアキン・フェニックスがそう言ってしまえば、この映画はまったく違った「純愛映画」になる。しかし、この映画は、それを感じさせながら、そこへ踏み込まない。そこに複雑な魅力がある。味がある。
 で、このあいまいな、透明感からはるかに遠い男の純情と、それを引き出すマリオン・コティヤールの目の力、その背景(?)のくすんだ色、時代の色が、とてもおもしろい。先日見た「ゴッドファザー2」のロバート・デニーロが活躍している時代と重なるのだが、蛍光灯がまだなくて、陰影がやわらかく濃密な時代の、その「背景の色」が、人間の欲望を、欲望の奥底で結びつけてしまう。この映画では明るいシーンは、マリオン・コティヤールの回想シーンに一瞬出てくるだけで、あとはひたすら茶色っぽく汚れた感じで暗い。明確な色がない。形がない。あらゆるものの影が存在をつつみこむように背後から押し寄せてくる。
 現代の明瞭すぎる光は人と人を明確に区切りすぎる。グラデーションがない。表面を明確にしすぎる。内部を内部に押し込めて、隠してしまう。ほんとうの影に結晶させてしまう。昔の光は、光によって何かを照らしだすと同時に、その反対側へしずかにこぼれていく暗いものを影にしてしまう。その影は背景の暗い部分にとけてしまう。影は形にならずに、闇として漂う。そういう時代の色、陰影を映画はしっかりと描いている。
 そういう世界で、それでは何がひとりの人間を人間として「区切る」のか。独立した存在として感じさせるのか。その肉体の内部からあふれてくる光、目の輝きである。目のなかに見える生きる力--それが闇のなかでひとりの人間を「形」にする。マリオン・コティヤールは、そういう目をしている。美人であるかどうかを忘れてしまう。目と、その周辺にだけ視線がしぼられてしまう。ほかの肉体の部分も見ている(見えている)はずなのに、思わず目だけを見てしまっている。
 手品師のジェレミー・レナーが観客席を歩きながら、マリオン・コティヤールを見つけ、吸い寄せられるようにして目を見つめ、花をプレゼントするシーンがあるが、あの感じ。目を見た瞬間に、まわりがぼんやりした薄暗がりに溶けてしまう。目だけがそこにあって、その目が彼女の顔をろうそくの明かりのように、陰影をもって照らしだす。あたたかく、さびしい、かなしい陰影。そういうものをつくりだす何かが、目の奥に、つまり彼女自身の「肉体」のなかに、「人間」の奥にある。その彼女の肉体の奥にあるものが自分に照射してくる、自分が忘れていた何かを照らしだしてくれる。そう錯覚する。恋というのは、まあ、そんなふうにしてはじまる。自分の知らない自分を、他人をとおして、無意識のうちに発見するという感じで。
 あ、少し脱線したが……。
 マリオン・コティヤールとホアキン・フェニックスは、いわばまったく逆の生き方(演技)をしている。マリオン・コティヤールは生きるために売春をしている。暗い闇に肉体を置きながら、しかし、その闇にはそまらず、自分自身の光を守りつづけている。光をもやしている。「生きたい」という純粋な力を維持しつづけている。その純粋な光を目からあふれさせている。目を中心にして、どこでもはっきりと自己を浮かび上がらせている。ホアキン・フェニックスは目の光を隠している。顔の造作がつくりだす影の部分に目はいつも隠れている。目が、スクリーンに明確に形として映し出されることはない。そのかわりに、全身が背景の影をひきつれて動く。光のなかで男の体が動くというのではなく、闇のなかに半身を溶かしこみながら、グラデーションの感じで肉体の大きさが浮かび上がる感じ。どこまでが「肉体」かわからない。まわりの闇を含めて、ホアキン・フェニックスである。闇が彼の「肉体」を大きく、強く感じさせる。マリオン・コティヤールが目でマリオン・コティヤールとわかるのに対し、ホアキン・フェニックスは背景の闇の深さでホアキン・フェニックスとわかる感じなのだ。
 で、そういう感じなのに、なぜかホアキン・フェニックスの純情も感じてしまう。それは、マリオン・コティヤールの目の力があって初めて浮かび上がるものである。マリオン・コティヤールの目の光が、ホアキン・フェニックスの肉体の奥に隠されている純情にまで届いている--その光によって、観客はホアキン・フェニックスの純情を初めて見ることができるということかもしれない。逆な言い方をすると……。ホアキン・フェニックスのまわりには女がたくさんいる。そのたくさんの女たちのあいだでは、ホアキン・フェニックスの純情は見えない。ただの大きなやみである。マリオン・コティヤールの目を前にしたときにだけ、マリオン・コティヤールの目と向き合ったときにだけ、ホアキン・フェニックスは純情になる。それはホアキン・フェニックスの目の力がホアキン・フェニックスの内部の純情を照らすということでもある。
 この二人の関係がスクリーンのグラデーションを動かしている。非常に凝った映画なのである。私は目が悪いので、こういうシャキッとしない影像はなかなか苦しいのだが、苦しいながらも、そこに引き込まれてしまう。
 で、この映画の最後は、マリオン・コティヤールが去って行ったとき、ひとり残ったホアキン・フェニックスの「肉体」そのものが、男の純情として屹立するというロマンチックというか、センチメンタルというか--まあ、泣かせるねえ、という形で閉じられる。かっこわるいけれど、かっこいいねえ。そういう男になるのはいやだけれど、そういう男をやってみたいねえ。
                        (2014年02月23日、天神東宝3)

 




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