詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明『父子』

2014-01-10 11:16:52 | 詩集
豊原清明『父子』(マルコボ・コム、2014年01月01日発行)

 豊原清明『父子』は句集。私は俳句のことをほとんど知らない。詩も知らない。面白いかどうか、感じたことを書くだけである。
 この句集はいきなり面白い。

春の鹿冷たい花の咲く瞬間

 ことばが不思議な感じで響きあう。ことばがことばを飛び越えて結びつく。「春の鹿」がいて、春なので花が咲く。花といえば桜というのが「定説」だけれど、桜じゃなくてもいいよね。鹿と花が出会っている。鹿のそばに花が咲いている。鹿が花の近くによってきて、花を見つめている。そういう情景なのだろうけれど……情景を超えるものがある。
 「冷たい」ということば。これは、この句のなかで他のことばとどうつながっているのだろうか。花を形容している。「冷たい花」というのがいちばん基本的な姿なのだろうけれど……。
 冷たい春、早春、春の冷たさと感じてしまう。その冷たさのなかで咲く花。花そのものが冷たいのではなく空気が冷たい。張り詰めている。冬の透明なか感じが残っている。それが「瞬間」ということばによって固く結びつく。単なる出会いではなく、出会ったものが固く結晶する感じがある。これを「一期一会」というのかな?

春きざす僕の周りの枝折れる

 春のうまれる瞬間。枝は、木の幹につながっている生きた枝だろうか。それとも足もとに落ちている枝だろうか。僕がぶつかって枝が折れるのか、僕が踏んで枝が折れるのか。あるいは枝が成長するときに(春になって枝がのびるときに)、有り余るエネルギーが内部から破裂するのだろうか。
 「僕のまわり」の「僕」が不思議だなあ。俳句ではあまり僕とか私とか、「主体」をあらわすことばを見ないけれど。
 この「僕」が春を感じて肉体的に変化する。それに呼応して枝が折れる。折れながら、輝かしい断面、春の透明な光を反射する断面を見せる。それは「僕」の断面のようでもある。折れた断面のなかで、春と僕と枝が出会って結晶する。

ぱかぱかと馬が蛙をおつてゐる

 「ぱかぱか」が不思議だなあ。馬はぱかぱかというのは常套句なのかもしれないが、はじめて聞くような新鮮な美しさがある。どうしてだろう。豊原が「情景」と「ひとつ」になってしまっているから、としか言いようがない。

ふるさとがないやうな雲春の川

 「ふるさとがないような」というのは抽象的だ。雲は空に浮かんでいる。ふるさとがないというのは、あたりまえのような気がするが、それが新鮮に響いてくるのは、雲と豊原が「ひとつ」になっているためだ。不思議な悲しみ、明るいセンチメンタルがある。さっぱりとした感じがいい。ただ雲とだけ「ひとつ」になるのではなく、地上を流れる「春の川」とも「ひとつ」になっている。豊原がことばにすることで、世界が新しく生まれ変わる感じだ。こういう瞬間を詩で書くのは難しいなあ。
 谷川俊太郎が『minimal 』で短い詩を書いたけれど、その谷川の作品ですら俳句よりは長い。そして、何か一つだけのことではなく別のことをいっしょに書き、そこにことばの依存関係のようなものが生まれてしまうのだけれど、俳句は、互いのことばに依存しない。それぞれが関係しているのだけれど、何かそのことば自体で独立して存在しているというような感じ。
 俳句はことばが日常的に結びついている関係を洗い落とし、新たに生まれ変わって出会い、結合する。結晶する運動のことなんだろう、と思う。

昔からミモザほぐして僕の癖

我が父は一本のパラソル夏近し

歯医者に行く日々美しいアマガエル
 
山越えて乳房の赤子は夏つぽい

山出るとどこもかしこもヨットなり

夏過ぎて風の中央平泳ぎ

 とても新鮮だ。そして、不思議になつかしい。「肉体」が覚えていること、それをたしかに見てきたけれど(体験してきたけれど)、自分ではことばにできなかったものを、いま豊原のことばといっしょに新しく体験している感じだ。

眠るまへ流星あああといふ孤独

 「孤独」ということばは私の知っている「俳句」ではあまりつかわない(と思う)。センチメンタルで感情がありすぎて、俳句のもっている「もの/ことば」の清潔さとは相いれない感じがするのだが、この句では、

あああ

ということばにならない「肉声」とぶつかることで、「孤独」からセンチメンタルな感情が消えて、誰ともふれあっていない一個の「肉体」そのものが見える。それが宇宙と向き合っている。谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」みたいだ。

秋風やふつと少女のあごあがる

青葉潮服脱ぐ少女の真白な手

 少女はほんとうに少女だ。「おんな」ではけっしてない。そういう清潔さがある。(あ、おんなのひと、ごめんなさいね。少女じゃなくなると清潔じゃなくなるという意味じゃないから。)

屋根裏で真面目に残る初霰

 「真面目」がおかしいね。楽しいね。うれしいね。

軽トラに落ち葉一杯酒一杯

 これもいいなあ。なんといえばいいのだろう、いま/ここにある現実と「唱和」している。あいさつをかわして「一体」になっている。俳句は(発句は)あいさつということを思い出した。「一期一会」のあいさつ。
 「いま/ここ」とこんなふうに出会える力というのはすばらしいなあ。

 私には説明できないが、これは今年読むべき最初の一冊です。楽しい。美しい。新しいことばが始まる--という予感にふるえてしまう。


夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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西脇順三郎の一行(54)

2014-01-10 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(54)

 「最終講義」

 かつしかの芸者がけずねを出して                 (66ページ)

 「芸者」と「けずね(毛脛)」の取り合わせが、異質なものの出会いとして面白い。同時に、ここには「音」の面白さもある。
 「か」つし「か」、「げ」いしゃ、「が」、「け」ずね--「か行」の変化。それに濁音「げ」いしゃ、け「ず」ね、「だ」しての交錯。冒頭の「かつしか」が乾いた音、有声音なのだけれど「有声」をあまり感じさせない。それに対して濁音は豊かな「有声音」であるのも面白い。私は、濁音の豊かさを「濁」という「意味」とはうらはらに美しいと感じる。
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中尾太一「身、一つ」

2014-01-09 09:37:16 | 詩(雑誌・同人誌)
中尾太一「身、一つ」(「現代詩手帖」2014年01月号)

 私は最近、私は年をとったなあ、と思う。ことばの好みが限定されてきた。昔から知っているひとのことばの「音楽」には、すっと入っていけるのに、年代が離れると「音」と「リズム」がうまくかみあわない。耳が極端に衰えてきている。私はもともととんでもない音痴で、耳はよくないのだが。(網膜剥離後、目の調子がよくなくて、その影響で耳も新しい音を拒んで、なじみのある音ばかり探してしまうのかもしれない。)
 こんなことではいけないなあ、ことばの楽しみが半分以下に減ってしまうなあ、と思いながら、じっと若い人のことばに耳を傾けてみた。中尾はもう「若い」というくくりからははみだした詩人かもしれないが、私から見ればとても若い。その中尾の「身、一つ」。

「君が泣いていたらぎゅっと抱きしめるのに、狂う手元」
別れ指、少量の血だけをみる視線の弧に垂直の断罪を引用する
この立体する経験をなんに喩えられようか

 さあ、聞くぞ、音楽を聞くぞ--と私が身構えたせいだろうか。思っていた以上に「音楽」が聞こえてきた。中尾って、こういう詩人だったかな? よく思い出せないのだが……。

立体する経験

 ここが美しい。音が響いてくる。知らないところから、聞いたことある?とやってくる音がある。その前の「垂直の断罪を引用する」の音楽を踏まえながら、その上にぱっと開いたあざやかな花のよう。
 「垂直に断罪する」という「音」が何か深部へ落ちていく感じがするのだが、それに反して「立体する体験」は、その垂直の底から立ち上がってくる感じ。上下の運動が急激に入れ替わる感じ。その立ち上がってくる(「立体」のなかに「立つ」ということばがある)感じが、とても遠い。遠くて静かで、届かないのだが、届こうとしている感じ。それこそ「立体感」を垂直方向に感じる。深い深い井戸から聞こえる地下水の流れる音のよう。この音は、あくまでも「垂直の断罪」というものがあって、そこから響いてくる。
 --これって、どう意味? あ、そんなふうに聞かれたら答えられないんだけれどね。「意味」を私は考えていない。「意味」はことばをつないでいけばうまれてくるだろうけれど、たとえば「君が泣いて」「抱く」「別れ」「視線」というようなことばから、強引に「青春の抒情」という「意味」を作り上げることもできるだろうけれど、それは詩の楽しみじゃないと思う。「意味」はわからなくていい。「意味」なんて、どうせ、他人が考えたこと。そうじゃなくて、ただ、そこに

立体する経験

 という、わけのわからない何かがある。「もの」のようにして「音」がある、ということが大事なのだと思う。この「音」が中尾なのだ。あるとき、中尾は「立体する体験」ということばといっしょにいた。そのことばのなかに中尾がいる、という感じがいい。「なんに喩えられるだろうか」と中尾が書いているくらいだから、中尾が書こうとしている「意味」(それがあると仮定して)や「感情」は、私にはわからない。けれど、そのことばを書いた中尾がいるということは信じることができる。
 私はきっと信じられる「音(音楽)」を聞こうとしているのだと思う。
 きのう読んだ池井の詩の場合、それは「音楽」であると同時に「声」。これは私が池井を直接知っていることも関係してるのかもしれないが(「朗読聞くか」「いや、聞きたくない。読むのは好きだが朗読を聞くのは嫌い」といいながら、何回か「声」を聞かされた経験があるからそう思うのかもしれないが)、池井の詩からは「声」が響いてくる。肉体が響いてくる。
 中尾の場合、それは「声」とはかなり違う。「肉体」というより(喉や舌、口蓋、鼻腔が動くというより)、「頭(精神?)」が鼓膜を振動させる感じ。「声」として発音されない無音の、意識の音楽という感じ。これは、もしかすると私の肉体が老いてしまって、若い肉体の動きについていけないために、それを「精神」と呼ぶことで処理しようとしているだけなのかもしれないが……。

 で、中尾の音楽を「精神の音楽」と呼んでしまうと。あ、不思議。さらに「音楽」が聞こえてくる。なんだか耳に入ってくる。次々に、音が響きあうのが感じられる。

無縁ループの切開が自由すぎて、可読の息を吐くことができない君の感情が"crime" と呟く
別れ指、何に喩えられようか、直喩の暴動が僕にその身を捧げている
韜晦する美徳、虫の美徳に至り、言葉を愛せないことと、言葉を信じないことの
震撼する差を、知らないものなどいないだろう

 あ、私は、ここに書かれている「差」を「知らないもの」なんだけれど、こんなふうに否定されたからといって、それに抗議したいとは思わない。あ、そうなんだ、ほかのひとは、たぶん中尾のように若い世代は、ここに書かれている「差」を知っているのだ、と思うだけである。
 私は「震撼する差」か、かっこいいなあ。いい音楽だなあと思うだけである。これ、つかいたい。でも、どうやって? どこで? そんなことはわからないのだが、いつかこれを盗んでつかいたいと思う。最初に取り上げた「立体する経験」も盗みたい。「立体する」ということばを盗みたいなあ。「韜晦する美徳……」の一行は嫌いなんだけれど、私には「音楽」には聞こえないのだけれど、気にするまい。詩なのだから、自分の好きなところだけ勝手に楽しめばいい。(あ、中尾は怒るかな?)

ただ立体する経験の先端に触れる君の指の、血の体言止めに僕はアタマをやられている

 あ、この行もかっこいい。「血の体言止め」か。こういう「音楽」も私は知らない。「立体する経験」と遠いところ、聞こえないところから聞こえてくる音楽だったのに対し、これは耳のすぐそばで鳴りだす轟音のよう。私の方こそ「アタマをやられ」たのかもしれないが。

あと数年したら言葉の発破もはじけて、僕たちは黙っていても話をすることができるだろう
感じないかい、今、その端緒についているということを
だからみんな、見えないものが見えるという

 「感じないかい」と言われたら「感じるよ」と答えるしかない。そう答えながら「感じる」を一生懸命つくっていく。「それ違うよ」といわれるに決まっているのだけれど、何かを身につけるというのはそういことだよね。わからないまま、知ったかぶりをして、「あと数年したら(うまくいえば)」、それが「あ、あれはこういうことだったのか」と「わかる」。ことばが肉体のなかからもう一度やってくる。それまでは見えなくても「見える」と言ってみる。
 「立体する経験」「震撼する差」と、「音」を繰り返して私は私の肉体のなかにその「ことばの音楽」そのものを取り込むことができるからね。「意味」じゃなくて、ただ、その「音」を。美しいなあ、と感じながら。






中尾太一詩集 (現代詩文庫)
中尾 太一
思潮社
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西脇順三郎の一行(53)

2014-01-09 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(53)

 「最終講義」

 この去る影は枯れた菫の茎に劣る                 (65ページ)

 西脇の好きなもの。思い浮かぶのは茄子と菫。ともに紫のものだ。
 この1行では、紫の花はわきに引く形で登場しているが、それが影と非常に似合っている。こうした隠れた色と色の響きあいを読むと、西脇はたしかに絵画的な詩人であると思う。(「たしかに」とことわるのは、私は西脇は絵画的というよりも音楽的な詩人だと思っているのだが、一般的には絵画的といわれることが多いからである。)
 影は「黒」のようであって黒ではない。その黒は影を受け止める「もの」の色とまじりあう。「もの」の色を静かにさせる。その静かな色が枯れた菫に似合う。
 と、書くと、西脇は「枯れた菫の茎」と書いているのであって、「枯れた菫(の花)」とは書いていないという声が聞こえてきそう。
 そうだね。「枯れた菫の茎」、その「茎」の音が乾いていて面白い。
 で、私の意識のなかでは「枯れた菫の茎」が「枯れた紫の茎」という具合にも変化する。「絵画的」な西脇--と思ったとき、そこに「紫」があらわれ、ことばをのっとっていく。そうして「か」れたむらさ「き」の「く」「き」という「か行」が響く。書かれていない音を聞きとって「音楽的」とも感じてしまうのだ。

 余談だが。
 中井久夫はことばのなかに色が見えると言っている。ランボーは母音を色で区別していた。ナボコフもことばに色を読み取っていた。私が「菫」ということばから「紫」を感じたのは「色が見える」というよりも連想の類だが、西脇はことばに色を見ていたのだろうか、とふと考えてみた。
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池井昌樹「夢中」

2014-01-08 11:07:11 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「夢中」(「現代詩手帖」2014年01月号)

 池井昌樹「夢中」は、何に夢中なのかと思って読むと。

あいついまごろゆめんなか
そうおもってははたらいた
 つめたいあめのあけがたに
 あせみずたらすまよなかに
あいついまごろゆめんなか
そうおもったらはたらけた
 そんなつめたいあけがたも
 あせみずたらすまよなかも
いまではとおいゆめのよう
とおいとおいいほしのよう
 あいつどうしているのやら
 こもごもおもいはせながら
といきついたりわらったり
めをとじたきりひとしきり
 けれどいまでもゆめんなか
 あいついまでもゆめんなか
こんなやみよのどこかしら
あいつだれかもわすれたが

 夢中ではなく、「夢の中」。「の」が省略されている。--のかな? 違うね。やっぱり夢中なのだね。夢中は一生懸命、わきめもふらず。わかっているけれど、何か不思議なことばだ。その一生懸命のなかには、「あいついまごろゆめんなか」(きっと夢を見てぬくぬくとしている)という怨み、愚痴のようなものもまじるのだけれど、そういう怨みや愚痴を突き破って肉体が動く。肉体を動かすしかない。好きだから夢中(一生懸命)というのではなく、好きでも嫌いでも一生懸命。
 「あいついまごろゆめんなか/そうおもってははたらいた」が「あいついまごろゆめんなか/そうおもったらはたらけた」までの間には、不思議な接続と切断があるのだけれど、その分岐点はわからない。この「わからない」は、「頭」ではわからないということ。「頭」では、それこの地点といえないけれど、なんとなく「そういうものだなあ」ということを感じてしまう。それは私もいつかどこかで怨みや愚痴をいいながら働いたからだね。いまも、そうやって働いているからだね。そういうことを「肉体」で思い出す。ことばにはできないけれど、覚えている。
 池井は、この肉体が覚えていることを「頭」で整理するのではなく、あくまで「声(肉体)」で伝える。声の静かにつづく感じでつたえる。「声」はことばを越える。「意味」を越える。「声」のなかに、生きているリズムがある。肉体が覚えていることがある。
 あ、こんなことは、いくら書いてもしようがないね。
 私がこの詩でいちばん好きなのは、

いまではとおいゆめのよう
とおいとおいいほしのよう

 この2行の「とおいとおいいほしのよう」の「とおいい」。あ、私はそんなふうに発音しない。声にしない。「とおおい」と「お」を伸ばす。間を伸ばす。でも、池井はそうではなく「とおいい」と最後の「い」にアクセントを置く。
 この最後の「い」は「いま」である。
 「とおおい」と間をのばすと、過去を向こうへ押しやる。遠ざける。けれど、池井はそうしない。遠ざかるものを、「ゆくな」とでもいうように、「とおいい」と最後の「い」をぐっとおさえる。おさえて放さない。
 そのあとに「ほし」が出てくる。
 これが美しいね。
 星は遠い。その星を見るとき、私たちは星を遠ざけない。自分に引きつけるようにしてみる。その星へ自分が行くようにしてみる。つまり、つなげてみる。自分を忘れて、ではなく、ちょっと強引に言うと、自分を思い出しながら、星をみる。星があんなにとおくにある、だけではなく、自分はここにいる、という感じがある。
 見ていると、星がどんどん遠くなるのではなく、星が明るく明るくだんだん明るくなって見えてくる。自分と星が見つめ合っている、という感じになってくる。
 そういう気持ちが「とおいい」なのだ。

 そう思うとき。
 「あいついまでもゆめんなか」の「あいつ」は、自分を支えてくれていたということにも気づく。怨みや愚痴をいったけれど、怨みや愚痴を言えたから、一生懸命になれたとも言える。池井の詩には池井を見守る誰かが登場し、その誰かと池井は放心して交流することが多いのだけれど、この詩の「あいつ」はブラックホールのような、反転した「まなざし」かもしれない。「あいつだれかもわすれたが」と最後に池井は書いているが、それは最初から「だれかわからない」存在である。そういう存在、忘れてしまった存在でも、忘れられないことがある。その「あいつ」といっしょに「自分」の肉体があったこと。「あいつ」を見つめながら「肉体」が動いたということ。--この「こと」はいまの「肉体」の「いま」としっかりつながっている。そのつながっている「いま」を池井は放さない。ぐっと、力を込めておさえる。「いま」のしっぽを。あるいは「いま」の頭、「いま」の心臓かもしれない。
 そのつかんでいる感じが「わすれたが」ということばとは逆に、強く強く響いてくる。


池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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西脇順三郎の一行(52)

2014-01-08 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(52)

 「最終講義」

やはりあのネツケがすいたい                    (64ページ)

 この作品も長いので、1ページに1行選んでみる。
 「あのネツケ」というのはタバコの種類なのかもしれない。私はタバコを吸わないのでわからない。間違っているかもしれないが(間違っていることを承知で)、私はこれを「ニッケ(ニッケイ/シナモン)」と思っている。シナモンの香りが含まれるタバコ。
 西脇の出身地・新潟では「い」と「え」の音があいまいである。それで「ニッケイ」が「ネツケ」になっているのだと思う。
 そうだと仮定して。
 この「ネツケ」という音が不思議に強い。「ニッケ(ニッケイ)」だと「ッ」の音が弱くて、ものたりない。「ツ」の明確な音が、「やはり」という強調によくあう。「すいたい」という欲望を引き立てる。
 ついでに言うと、私はこのニッケイというものが苦手である。非常に違和感を覚える。私の苦手(嫌いなもの)を西脇が好きなのだということが、私の肉体の内部を「ざらり」という感じでこすっていく。この感触と「ネツケ」というねばっこい音が不思議とあうのである。俗に言う「不協和音」というものか。
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岩佐なを「コロネ」

2014-01-07 11:57:00 | 
岩佐なを「コロネ」(「現代詩手帖」2014年01月号)

 「コロネ」とは何だろう。「音」になんとなくあやしげな感じがする--のか、岩佐なをが、

今日も買ってしまった
いとしいコロネ
紙袋にひそませて
晩秋のうら悲しい公園を訪ねる

 と「いとしい」というようなことばをまみれさせて書くから、あやしい、と思うのか。岩佐のことばには、猫のようにぐにゃりとした感触(固形物ではないという感触--あ、私は猫が苦手で、この感触はもう半世紀以上前の記憶。あれ以来、私は絶対に猫には触らない。見かけたら遠ざかる)があって、それが気持ち悪いから、そう思うのかもしれない。
 「いとしい」を追いかけるように「ひそませる」「うら悲しい」とことばがつづく。これじゃあ、どうしたって病弱な女を(まるで猫をあつかうように)なでまわしている情景が浮かぶなあ。公園で、誰かに見られることを期待しながら、何事かをするのかなあ、変態行為じゃないよね、と私は不安になりながら(久々に気持ち悪くなりながら、気持ち悪いのをみるのも快感だけれどという矛盾した気持ちをかかえながら)、詩のつづきを読む。
 途中の人がいるようでいないような、あやしい「うら悲しい」描写があって、

深い息
朽ちたベンチに腰をおろし
コロネを出すと
チョコレートクリームは冷えている
この淡水系にひそむもっとも大きい
巻貝の心もちにひびくように
パンの太いほうから指で揉んで
チョコを先端部へ移動させる
だれしもがよくやる愛のしぐさだ
そして先端を噛む
ひとくち
ふたくち
今またひとつが食い殺されてしまった

 あ、「コロネ」って巻き貝形のチョコレートパン、クリームパン?
 それは、でもどういいんだけれど、「愛のしぐさ」ということばがあるけれど、妙にいやらしい色っぽさがある。「冷えている」「心もちにひびくように」「指で揉んで」というようなことばの連なり(運動)が「食べる」という行為とかなりかけ離れている。口、歯、舌よりも遠くにある「肉体」が総動員されている感じがする--具体的には指しか出てこないのだけれど。なぜ、そういう感じがするかというと、その指の感触に、なんとなく「心」が乗り移っているように思え、それが「肉体の総動員」という印象を引き起こすのだ。
 ただ、ぱくっと噛みついて、むしゃむしゃ、じゃない。
 だいたいねえ、

パンの太いほうから指で揉んで
チョコを先端部へ移動させる

 これって、ほんとうに「だれしもよくやる」ことなの? さらにチョコを先端に押しやってかぶりつくって、「だれしもよくやる」こと? 「コロネ」がチョコレートパンなら、私は逆だ。私は太い方から、チョコレートの多い方から食べる。
 私と食べ方が違うので、その違いがまた、なんとも「肉体」を気持ち悪く感じさせる。「食欲」ではなく、淫靡な性欲を感じるなあ。いじくりまわさずに、ぱくっと食ってしまえよ、といいたい気持ちが半分あるなあ。
 「食欲」(岩佐の個人的な欲望)であるはずなのに、「コロネ」が奇妙に「肉体」をもって反応するのだから、よけいにそう思う。

水底の巻貝の王女は
ぷくぷくとなげきの声を
泡で吐く

 「コロネ」がパンなら、それに「女」という性別がついてくるのも変だよね。「食欲」の対象なら「女(王女)」である必要はないね。そこに「女」が絡んでくるかぎりは、これはやっぱり「性欲」。
 いやらしいんだけれど、それを隠している。隠しているから、よけい淫靡な感じがする。うーん、私は苦手だ。こういう感じは。
 と思っていると、


足もとには
三毛が来ている
コロネ、ほしいか。

 や、やっぱり「ネコ」が出てきてしまった。そうじゃないかなあ、岩佐はネコ属じゃないかなあ、と思っていたが、ネコを呼び寄せる体質なんだなあと思っていたが、やっぱりそうだった。「コロネ」には「よく探す」とネコがいる。
 きのう読んだ平田のことばの忠告(?)にしたがって、最初に「よく探し」、そのうえで感想を書きはじめるべきだったなあ。
 もう、逃げよう。







海町
岩佐 なを
思潮社
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田中光敏監督「利休にたずねよ」

2014-01-07 10:31:38 | 映画
田中光敏監督「利休にたずねよ」(★★★)



監督 田中光敏 出演 市川海老蔵、中谷美紀、市川團十郎、伊勢谷友介、大森南朋

 利休が最初に登場するシーンがこの映画のすべてである。信長が茶道具を鑑定している。気に入れば金を出す。気に入らなければ「もの」そのものを否定する。
 利休は、この会に遅れてやってくる。わざとである。利休がもってきたものは漆塗りの盆のようなもの。(私は無学なので、何というか知らない。)みんなは「あんなものを」と嘲笑う。その冷たい視線のなかで、利休は盆に水を張る。障子を開ける。月を招き入れる。盆の絵を背景に、月が入り一枚の絵になる。信長は感心し、金をざらざらとこぼして去っていく。
 盆の絵を背景に浮かぶ月は美しい。
 これは、しかしどういうことだろうか。美とは何か。利休は美を「一期一会」ととらえているのではないだろうか。そのとき月が出ていなかったら、利休の演出(?)は不可能である。その日が満月でなかったら、その日が雨だったら、鑑定の場所が天守台(?)でなかったら、利休はその盆をもってこなかっただろう。利休は満月を知り、天守台のどの窓から満月が見えるかを知っていた。また、他の茶人たちが何をもってくるかもたいがいわかっていた。わかっていて演出した。「一期一会」そのものを演出した。
 これはある意味では「あざとい」。美が演出によって決まるというのでは、一種の「はったり」である。もし雨だったら、もし下弦の月だったら、そこに美が存在しないとしたら、それでもそれは美なのか。
 だからこれは逆に考えるべきなのだ。感じるべきなのだ。「一期一会」が美であって、「道具」自体は美ではない。どうやって「一期一会」でありつづけるか。「一期一会」でありつづけるためには、どうすべきか。そこに利休の生き方がある。自分の感性を常に世界に対して解放しておく。季節の色、時代の変化、ひとの動きを敏感に吸収し、そこにあるもののなかで、何に、どうやって目を向けるか、他人のこころを引きつけ、集中させるか。
 文明の利器のなかに置かれた花の蕾、茶会の席の天井に飾られた桜が戸を開けるとひらひらと茶碗に舞い落ちる。視線が一瞬、それまでの集中から解放され、別なものへと焦点が映る。その瞬間が「一期一会」。
 映画のなかで利休は語る。「美は自分が決める。自分が美といえば美になる。そこから伝説がうまれる」云々。利休にとって美は「伝説」である。「一期一会」の伝説。それは「一期一会」だから、その瞬間を逃せば美ではなく、ただの「つちくれ」だったり、竹の竹の筒だったりする。
 たとえば冒頭の月を映す水を張った盆。あれは信長が茶道具を選んでいたとき、利休がわざと満月にあわせて遅れてやってきて、つまり最後に自分の品を見せること、自分の演出を見せることに成功して、そのエピソードとともに語られて美になる。ストーリーをもつこと(ことばで語りうる何事かをもつこと)によって美になる。多くの茶人の「意識」をひっくり返した、というストーリーを知らないで、その盆を見ても、それがすばらしいとはわからない--いや、わかるひともいるかもしれないが、多くのひとはそのストーリーとともに盆を見て、月を想像し、感心する信長を思い、悔しがる茶人を思い、「そうか」と納得する。
 それはそれでいいのだろうけれど、私はなんだかいやだなあ。
 有名な真っ黒な茶碗。本物が映画につかわれているらしいが、その背後には朝鮮人の女性との悲恋がある。秀吉の手にしっかりなじむその肌の感じ。何かに触れて、それが手になじむ感じが美--というのは、いいんだけれど、でも、その茶碗に、たとえば私がふれることができないとしたら、それでも美? ストーリーを思い描き、自分の手の中にある感触を思い描く、その思い描きのなかにあるのが美? そうでもいいけれど、それは瞬間的に感じるものであってほしいなあ。長々とした悲恋のストーリーで説明してしまってはうんざりする。そういうものは利休の胸の内に秘めていてこそ美なのである。だれにもわからない。そういうものがあってこそ美なのだ。
 何かいやだなあ。このカツラをつけた市川海老蔵が演じる悲恋物語は。悲恋というよりも「物語」の方に力点がおかれているからかもしれないなあ。「一期一会」が一瞬ではなく長々と説明される。
 それに、そういう悲劇を体験したものだけが美を感得できるというのも、なんだか特権的な感じがして気持ち悪いなあ。気に食わないなあ。あ、悲劇というのはいつでも、特権的な人が直面する苦悩のなかに、何かしら自分の感情に重なる部分があるのを知って、その主人公になって味わうものだけれど。

 この映画は(小説は知らないが)、利休を「一期一会」の演出家としてとらえた。そして、その演出力を秀吉は恐れた。秀吉が天下を取るきっかけとなった戦--それを越前の武将(だれ?)が出てこれない(動きにくい)冬、雪の季節を狙ってしかけると助言したのは利休ということになっているが、そういう戦の機微(一期一会)にも利休は精通している。そういう「一期一会」を見る洞察力を恐れた、ということなのだろうけれど。しかし、これでは映画が窮屈。「美」が窮屈。演出のなかにしかない美など、美ではないと思う。演出を突き破って動いていく力がないと美ではないのではないか。
 そういう思いが、見ているうちにどんどん私の内部でたまっていって、いやあな気分で映画を見終わってしまう。
 ついでに書いておくと。中谷美紀の怒り肩。和服が似合わない。怒り肩のために和服のもっている流れるような線が消えて、顔がとってつけたように浮いている。顔というよりも、体型が「現代人」をしている。こういう細部を、この監督は見落としている。自分の発見した(小説が発見した)ストーリーにひきずられて、美をないがしろにしている。美がテーマの映画なのに、美は「演出」であると気づきながら、自分自身の「美」を具体化していないというべきか。
                         (2014年01月05日、中州大洋2)
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東北新社
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西脇順三郎の一行(51)

2014-01-07 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(51)

「あざみの衣」

昔の夏にジュースを飲んだ空きびん

 ここからは『豊饒の女神』。
 「昔の夏に」の「に」が不思議。私は、こういうときに「に」をつかわない。「昔の夏、」と読点「、」でごまかしてしまう。「に」によって、ことばの「接続感」がつよくなる。ことばが直線から曲線にかわるような感じがする。その曲線は、ねばっこく、けっして折れない感じの曲線である。
 その不思議なまがり方に、「ジュース」「空きびん」といった硬い音がぶつかる。硬いといっても音引きと「空きびん」の「あき」という音がごつごつ感をやわらげる。


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平田俊子「マドレーヌ発」

2014-01-06 10:51:07 | 詩(雑誌・同人誌)
平田俊子「マドレーヌ発」(「現代詩手帖」2014年01月号)

 平田俊子は「語呂合わせ」の上手な詩人である。「マドレーヌ発」を読む。

マドレーヌが欲しいと思っていると
一時間後に知り合いから届いた
わたしってすごい!と驚喜したが
よく見ると届いたのは
マーマレードだった
わたしって全然すごくない
窓があるからマドレーヌは明るい
マーマレードにも窓はあるけど
よく探さないと見つからない

 マドレーヌは「窓」レーヌ、マーマレードは最初の音と最後の音をつなぐと「窓」。だから「よく探さないと」見つからない--ということなのだろうが。
 私は昔から「だじゃれ、語呂合わせ」の類が苦手で、こういうことをやっている人の「肉体(思想)」がまったく見えなかったのだが、この詩を読んで、あ、そうなのか、と「肉体」に触れる感じがした。
 「よく探さないと」。そうか、平田は、ことばを「よく探す」人なのだ。ことばのなかに何か隠れていないか、つついてみるんだろうなあ。つつきながら、そこから出てくるものを、「つかまえた!」と逃がさない。そういう詩人なのだ。
 ちょっと難しい人なんだ、と思っていたら、その「難しい」という文字がつづいてできてたのは、「わたしってすごい!」かどうか、わからないが。

フィ難シェ
フィ難シャル
ヒ難クンレン
あちらこちらに難所があるので
戸惑う
逃げ惑う
マドレーヌ

 ことばを探し回って「マドレーヌ」へもどってくる。これは、「自分」から絶対に離れないということだね。「よく探す」というのは、「自分」を「自分」のままにしておいて、他者(他人/もの)を「自分」に引きつけてしまうということだ。「自分」から「他人」にむかって歩いていくようで、そうじゃないんだ、ということが、この「マドレーヌ」へもどってくるところによくあらわれている。あくまで自分の「肉体」(覚えていること)をよく探す。
 で、マドレーヌへいったんもどって(もどることができることを確認して)、平田は、私なんかは思いつかないところへ飛躍する。

鴎外はごはんに葬式饅頭をのせて
煎茶をかけて食べるのが好きだった
饅頭の中身は
ハワイ餡もあれば
エピキュリ餡や
ポメラニ餡
鴎外は高瀬舟に舞姫をのせて
山椒大夫をかけて食べるのが好きだった
窓がないから高瀬舟は暗い
窓があればなお暗い
エリスをば早や積み果てつ
マドレーヌをば早や積み果てつ
マドンナはいるが
マドモアゼルは消えた
(フランスの公文書から
はめ殺しの窓
まどろみの窓
エリスという栗鼠
鴎外という貝
最初からあまりに違う生態
マーマレードとマドレーヌ以上に
遠く離れて
エリスと鴎外

 離れたものの出会い、そしてまた離れていく。そこに鴎外とエリスを関連づける。平田は、鴎外とエリスというのはどういう関係だったのかを、マドレーヌとマーマレードのような関係だったと、まあ、変な「比喩」で語るのだが、なんとなく、そうかもしれないなあと感じさせる。錯覚させる。--というようなことは、まあ、どうでもよくて。
 私が思ったのは、そうなのか、平田は鴎外に関心があるのか。平田は鴎外を「肉体」として覚えているのか、ということ。で、鴎外について考えたことを、鴎外の方に歩み寄りながらも鴎外と同化するのではなくて、突き放して、見つめなおす。突き放しながら、突き放すことでしか見えない何かを探す。自分の「肉体」とつながるものを、「文豪・鴎外」ではなく「人間・鴎外」のなかに探す。鴎外にも食べ物の嗜好はある。鴎外もまた人間だから食べる。そうすると、変なエピソードを思い出す。

鴎外はごはんに葬式饅頭をのせて
煎茶をかけて食べるのが好きだった

 ここで、平田が「よく探した」のは鴎外は「ごはんに葬式饅頭をのせて煎茶をかけて食べる」という変な癖(?)ではなく、それが「好き」ということではなく--ひとは誰でも「好き」があるということを「よく探した」のである。「何が」ではなく「好き(好く)」という行為/動詞を見つけ出したのである。
 誰でも何かが「好き」。「何か」という対象は違っても「好き」ということはかわらない。そして、その「好き」のためにひとは苦労する。変な目でみられたりする。ごはんに葬式饅頭のお茶漬け--というのは変。じゃあ、マドレーヌとマーマレードの語呂合わせをして遊ぶのが好きというのは、変じゃなくて、まっとう? わからないが、「好き」というのは、どうしたって変なところがあるのだ。変じゃない「好き」なんて、ないと考えた方がいい。
 問題は(と言っていいのかどうか、わからないが。)
 鴎外は葬式饅頭のお茶漬けが好き--というのは、ふつうの人から見て変だけれど、そういうことを変だと認識する視線、誰か(何か)を特別視する視線のために、鴎外とエリスは「好き」を邪魔されたのだ、ということ。
 平田は、そういうものをだじゃれ、語呂合わせをとおして「探し出した」。平田の「耳」になじんでいることばを探しながら、見つけ出した。「よく探した」。
 もっと違う形で鴎外とエリスの悲恋を描き出すこともできるかもしれないが、平田はあくまで語呂合わせという「自分」から離れずに、それを描くために、「よく探さないと見つからない」ものを見つけてきた。鴎外は葬式饅頭のお茶漬けが好き、ということを見つけ出してきた。 
 それがみつかったとき、平田のことばは加速する。そして、鴎外とエリスの悲恋、出会いながら別れなければならない運命を、また「語呂」のなかをくぐらせて書く。

 とっても変な詩だが、その変なところに、平田はちゃんと生きていて、自分を手放さない。がんこな美しさがあるなあ。



スバらしきバス
平田俊子
幻戯書房
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西脇順三郎の一行(50)

2014-01-06 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(50)

 「失われた時 Ⅳ」

沖の石のさざれ石の涙のさざえの                  (62ページ)

 「の」の連続によることばの連結がはてしなくつづく部分の1行。いろいろおもしろい行があって、いま引用しながら、ふと目に飛び込んできた別の行にすればよかったかも……と思ってしまうのだが。
 最初の印象で書くしかない。
 「さざれ」と「さざえ」の似通った音がおもしろい。濁音があるところが、私は好きである。私には「さ行」というのは清音の印象があり、弱い感じがしてしまうが、濁音によって音が豊かになる。なみ「だ」の「だ」の濁音ともひびきあう。
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井坂洋子「はんべ」

2014-01-05 09:26:19 | 詩集
井坂洋子「はんべ」(「現代詩手帖」2014年01月号)

 井坂洋子「はんべ」の「はんべ」は「せんべい」のこと(らしい)。「さなえ」というのは井坂のこどもなのかどうかわからないが、幼い子が「せんべい」を「せんべい」と言えずに「はんべ」と言う。その子が煎餅を食べている。

はんべ(せんべい)を食べる児に従(つ)いて
大の字に寝ころぶ
児のはく甘い空気にのり秋をわたる気持よさ
窓に 鳥が
もっと上空をジェット機がとぶ

 これは4連目なのだが、「窓に 鳥が」からのリズムにあれっと思った。「窓に 鳥が」とまっているわけではないだろう。次の行の「とぶ」にジェット機をとびこしてつながっている。「窓に 鳥が」見えた。鳥が飛んでいる姿が窓のなかに入ってきた。空を鳥が飛んでいる。だから、これはほんとうは(?)、「空に 鳥が(飛んでいる)」のが窓から見える--ということになると思うのだが……。
 そう読んでいくと、「もっと上空を」と自然につながる。鳥が飛んでいる空よりも「もっと上空をジェット機が飛ぶ」。
 なぜ、「空に 鳥が」と書かなかったのかなあ、変な日本語だよなあ……。
 と思うのは、ほんの一瞬のこと。
 5連目を読むと、一瞬感じた「あれっ」が「どきっ」にかわる。「どきどき」にかわる。文字から目が離せなくなる。いや、吸い込まれていく。我を忘れる。

鳥の後ろは鳥のすみかのなじみのある空
ジェット機の背後の空は中心なき無限の空間
私はじぶんの死の果てが鳥の空であることをねがう
金属のヒコウブツが幕引く空は恐怖だ しかし
はんべ食べている児は
無限空間からしたたってきたとしか思われぬ
虚の崖(ほき)からあたたかい血でせなかを覆う者がおちてくるのはなぜだろう

 鳥→空、ジェット機→無限の空間(宇宙)と視線(意識/ことば)は動いていくのだが、鳥→ジェット機の間に不思議な「切断」がある。空→宇宙の間にある切断とそれは重なるのだが、空→宇宙の間に「切断」を想定するのは、私の場合、ちょっとむずかしい。空→宇宙というのは切断ではなく連続。
 あ、こういう書き方をすると誤解をまねくね。
 井坂も空→宇宙というのは切断ではなく連続だと感じているのだと思うが、その連続の仕方が、何か、微妙に私とは違う。私は「空→宇宙」というとき、ただ空を見あげているが、井坂は「窓」と「空」を一体化している。混同(?)している。空は窓とつづいている。空は「日常」の空間なのだ。

窓に 鳥が

 と井坂が書いたとき、井坂は煎餅を食べるこどもの隣に寝ころんでいるという「日常」にいる。「窓」から「空」が見えたとしても、井坂の肉体は「窓」の内側、「室内」にいる。
 それが空を見て、鳥を見て、ジェット機を見る。そのとき「室内」の意識が一瞬消える。切断される。空→宇宙という感じに、肉体が「室内」の外に出てしまう。そして、そこで「意識」が勝手に(?)動く。こどもの横に寝ころんでいるときは、そんなことを考えるとは思ってもみなかったことばが突然動く。

鳥の後ろは鳥のすみかのなじみのある空
ジェット機の背後の空は中心なき無限の空間
私はじぶんの死の果てが鳥の空であることをねがう
金属のヒコウブツが幕引く空は恐怖だ

 これは、なんとなく「わかる」ような気がしないでもない。ジェット機の飛ぶ世界は、科学的に考えれば問題ではないのだろうが、少しこわい。なぜジェット機のような重いものが飛ぶのだろう--というのは、素朴な疑問だ。
 だが、そんなことよりも。
 私は、少し妙なことに気がつく。
 ことばが進むに従って「後ろ」が「背後」にかわり、「空」が「空間」にかわる。ことばが抽象的になっている。「死」ということばが出てきて、「ジェット機」は「金属のヒコウブツ」と一般にはつかわないことばにかわってしまっている。
 この一種の「抽象的」なことばが、

はんべ食べている児は
無限空間からしたたってきたとしか思われぬ
虚の崖からあたたかい血でせなかを覆う者がおちてくるのはなぜだろう

 とさらに抽象的、観念的になっていく。(こどもは「せんべい」を「はんべ」と言うくらい具体的、個別的なのだが……。)
 こどもは(女性にとっては)、子宮で育てた肉体である。自分の体から生み出した存在である。産むという体験は、女性の肉体に忘れることのできないこととして「覚えている」のではないのか。こどもを「無限空間(宇宙)」から「したたってきた」というのは、その肉体の記憶に反していないか。その意識は肉体と切断されていないか。
 反しているかもしれない。しかし、反しているからこそ、そう思うのだ。自分の肉体から生まれてきたというだけでは、何かが納得できない。「連続」ではなく、なにか「切断」というか、「超越」のようなものがないと納得できない--ということかもしれない。その「超越」(切断よりも特権的なもの)を井坂は実感しているということなのかもしれない。
 この意識(ことば)の変化、煎餅を食べているこどもから、いのちの神秘(宇宙の秘密?)への移行は、言い換えると「思考の深化」というものかもしれない。(私は雑誌の余白、4連目から5連目にかけてのしたの部分に、矢印(←)を書き、その下に「深化」というメモを書いて、この感想を書きはじめたのだが……。)
 うーん、この「思考の深化」がこの詩のいちばんおもしろいところだなあ、と思うのだが。そこに、「思想」があると言うべきなのかもしれないが。

 私は「思考の深化」以上におもしろいなあと思うことがあって、実はそれを書きたくてこの感想を書いている。
 思考が深化する直前、ことばは、どう動くか。
 この詩で言うと、私は、その「予兆」のようなものを、

窓に 鳥が

 という行に感じたのだ。舌足らず。不自然。何かを言おうとして、それが正確に言い終わらないうちに、肉体の奥から別のことばが噴出してきている。そういう「断絶」のようなものが、そこに見える。不自然さのなかに見える。
 一般的に、こういうとき、ひとはことばを整える。なんとかわかりやすく(?)、文法的に正しい文をこころがける。
 でも詩人は違うのだ。ことばが乱れたら乱れたまま、その乱れの勢いに乗ってことばを動かしていく。ことばを加速させる。乱れがないと飛躍できないのかもしれない。
 それが5連目なのだが、その加速の瞬間、ギア・チェンジのようなものが「窓に 鳥が」という短いことばの混乱のなかに感じられる。こういう変化を、その変化の瞬間のままにことばとして定着させる--おおっ、これはすごいなあ。この1行を読みとばしたら、いけないぞ、と思う。5連目の思考の深化はそれはそれで「思想」なのだが、「窓に 鳥が」の方が、まだ意識にもなっていない「未生の思想/未生の肉体」という感じがして、いいなあ、と思う。
 この1行が大好き。

詩の目 詩の耳 (五柳叢書)
井坂 洋子
五柳書院
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西脇順三郎の一行(49)

2014-01-05 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(49)

 「失われた時 Ⅳ」

どこかで人間がまたつくられている                 (61ページ)

 生まれているではなく「つくられている」。それはことばを動かし、対話することだ。対話するとき、そこに人間が生まれると同時に、ことばが人間をつくっていく。「どこかで」は「知らないどこかで」ということ。そし「知らない」はほんとうは知っているということ。
 だから、この行は「--おつかさんはとんだことになつたね」と、それだけで「意味」がわかることばへとつながっていく。
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瀬尾育生「蛹化」

2014-01-04 10:06:34 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬尾育生「蛹化」(「現代詩手帖」2014年01月号)

 瀬尾育生「蛹化」を読みながら、私は、瀬尾育生の詩をコピーしていたときのことを思い出す。瀬尾のことばにはコピーしたくなる何かがある。それは何なのか。

夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
きみは路側の植え込みのなかへ横倒しに倒れて動かなくなる。
植え込みは夕方の雨で濡れていて上衣の縫い目から水が染みてくる。
鼻孔と眼窩からねばつく水が糸を引き数十年前の罵声が耳殻の後ろで粉々になる。
土と皮膚が浸透しあう組織を通して尿と微量の精液が股間の布に滲みをつくる。
「用件」がいくつかこめかみの内側で小さくはじけて消える。

 リズムがいい。それは「音」だけではなく、たぶん「文法」のリズムがいいのだ。1行1行はかなり長いのだが、ことばにつまずかずに読むことができる。(これは、とても珍しいことである。)あることばが次のことばへ接続される瞬間に無理がない。最初のことばと次のことばの間に「自然な連想」のようなものが働いている。だから、これはもしかすると「連想の文法」と言ってもいいのかもしれない。
 こんなことを書いても何の「説明」にもならないなあ、と思うので、次のように言いなおしてみる。

 この詩の一番変わっているところ(特徴?)は、詩の全体は句点「。」で区切られた1行が連なる形で構成されているのだが、1行目だけは句点「。」ではなく読点「、」で終わっている。
 なぜ?
 2行目といっしょにして1行にするには長すぎるから?
 そうかもしれないが、私は別なことを考える。最初の1行は、実は意識のなかで繰り返される1行なのである。意識をそのままていねいに(?)再現すると、瀬尾の詩は次のようになる。

夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
きみは路側の植え込みのなかへ横倒しに倒れて動かなくなる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
植え込みは夕方の雨で濡れていて上衣の縫い目から水が染みてくる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
鼻孔と眼窩からねばつく水が糸を引き数十年前の罵声が耳殻の後ろで粉々になる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
土と皮膚が浸透しあう組織を通して尿と微量の精液が股間の布に滲みをつくる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
「用件」がいくつかこめかみの内側で小さくはじけて消える。

 意識(ことば)は常に「最初」に戻りながら進んでいる。次々に状況が変わっていくようであって、そうではない。「状況」は変化せずに、とどまりつづけている。逸脱しないのだ。どんなに逸脱しているように見えても、変わらないものがある。省略された1行は、常にそこに存在している。
 これをさらに言いなおすと、2行目以下の「主語」は変化しているように見えるが、実は変化していない。「主語」は統一されている。「主語」は省略されながらことばを動かしている。その「主語」を補うと、先の詩のことばは次のように変わる。

夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
きみは路側の植え込みのなかへ横倒しに倒れて動かなくなる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
植え込みは夕方の雨で濡れていて「きみの」上衣の縫い目から水が染みてくる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
「きみの」鼻孔と眼窩からねばつく水が糸を引き数十年前の罵声が「きみの」耳殻の後ろで粉々になる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
土と「きみの」皮膚が浸透しあう組織を通して「きみの」尿と微量の精液が「きみの」股間の布に滲みをつくる。
夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐった下り坂のはじまりのところで、
「用件」が「きみの」いくつかこめかみの内側で小さくはじけて消える。

 「きみの」が省略されている。1行の「形式上の主語」は「上衣」「ねばつく水」「罵声」と変化していくが、その「形式上の主語」の奥底に「きみ」がいる。全部書くとめんどうになるので3行目だけを言い換えてみると、

植え込みは夕方の雨で濡れていて「きみの」上衣の縫い目から水が染みてくる(ので、きみは濡れる)。
 
 になる。2行目で「きみは」「倒れて動かなくなる」という動きがあった後も、主語はずーっと「きみ」なのだ。「きみ」という「連想の文法の主語」を一貫させて、ことばは動いていく。どんなに逸脱しているように見えても、それは「形式上」のことであって、ことばの「肉体」は「きみ」を主語にしつづけている。
 そして、その結果(?)、どうなるか。書かれていることがらが「濃密」になる。逸脱していくことばが、省略された「主語」へ向かって、逆流してくる。凝縮してくる。遠く離れれば離れるほど、求心力というのだろうか、省略された主語へもどってくる強さが強くなる。

 終わりから2行目。

溶暗する繊維に沿って微生物の道ができ、蠕虫たちが体液と逆方向にすれ違う。

 「きみ」を補っておくと、

溶暗する繊維に沿って「きみの内側に」微生物の道ができ、蠕虫たちが「きみの」体液と逆方向にすれ違う(ことで、きみは最後に「蛹」の形になっている)。

 ということになる。「内側」は、少し前に出てくることばであり、」きみは最後に「蛹」の形になっている」は最終行の、最後のことばである。
 で、この行の「逆方向」ということば--これが瀬尾の「キーワード(思想/肉体)」である。繰り返しながら逆方向に向かう。出発点の主語を外さない。
 その「逆方向」は、実は、最初の1行にも含まれている。少し目を凝らさないといけないのだけれど、ことばを補うと、

夜半過ぎ犬吠池跨道橋をくぐ(り終わ)った下り坂のはじまりのところで

 「くぐった」は「くぐる」の過去形。「くぐる」という動作が「終わった」ところから下り坂が「はじまる」。「おわり」と「はじまり」という「逆方向」が出会っている。「逆方向」の衝突のなかで、「きみ」は倒れるということになる。「きみ」のなかで「逆方向」がぶつかりあい、すべてが動く。
 だからこそ、最初の1行は1行目にしか書かれていないが、あらゆる行の前に存在すると私はいうのである。
 さらにいえば、それは最終的に「蛹」を「くぐる」、そして新しく生まれ変わるという暗示(暗喩)へ結晶することで、完全に完結する。
 瀬尾の「文法」の基本リズムは、常に「遠心・求心」の「逆方向」のことばによって動いていて、乱れることがない。「逆方向」が繰り返される(繰り返し、すれ違う)ときに、ことば全体が詩として結晶する。そして、この結晶の強度を強める「文法上の技法」が「省略」なのである。
 
 主語の省略。

 ここから私は飛躍して、「感覚の意見」を書く。
 主語の省略。--これは日本語の特徴である。(スペイン語でも主語は省略されるけれど。)日本語は昔から主語を省略することで、主語を逆に浮かびあがらせ、読者の(聞き手の)肉体を主語に結びつけるという形でことばを動かす。
 瀬尾は(たしか)ドイツ語に堪能なはずである。そして、瀬尾の文体にはドイツ語の構造が太い骨格となることもあるのだが(評論は、とくにその印象が強い。また「くぐる」-「さなぎ」-「くぐる」-再生という構造は、ドイツ語の「枠構造」の影響を連想させるのだが)、ことばの基本は「日本語」なのである。しかも非常に伝統的な日本語なのである。日本語の「文法のリズム」(日本語の感性文法)をきちんと踏まえているのである。
 瀬尾の詩をコピーしていたとき、私は瀬尾のことばをとおして日本語の文法を学びなおしていたのだと、思う。

吉本隆明の言葉と「望みなきとき」のわたしたち (飢餓陣営叢書)
瀬尾 育生
言視舎
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西脇順三郎の一行(48)

2014-01-04 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(48)

 「失われた時 Ⅳ」

虎と百合の祈祷をする                       (60ページ)

 虎と百合の結びつきに、はっとする。虎にどんな花が似合うのか、想像したことがなかった。だから驚く。たぶん、それだけではなく、それまでの行が「空と有とが相殺するところにゼロがある」(この「相殺」という音はすばらしく美しいなあ)というような抽象的なことばだったために、虎がいきいきと動く。さそわれて百合も白く巨大に輝く。笹百合なんかではなく、カサブランカよりももっと大きな花。中には虎の黄色に似た花粉が散らばっている。虎の外側(?)黄色と黒、百合の内側の黄色と白--その対比も目に浮かんだ。
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