詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子「はんべ」

2014-01-05 09:26:19 | 詩集
井坂洋子「はんべ」(「現代詩手帖」2014年01月号)

 井坂洋子「はんべ」の「はんべ」は「せんべい」のこと(らしい)。「さなえ」というのは井坂のこどもなのかどうかわからないが、幼い子が「せんべい」を「せんべい」と言えずに「はんべ」と言う。その子が煎餅を食べている。

はんべ(せんべい)を食べる児に従(つ)いて
大の字に寝ころぶ
児のはく甘い空気にのり秋をわたる気持よさ
窓に 鳥が
もっと上空をジェット機がとぶ

 これは4連目なのだが、「窓に 鳥が」からのリズムにあれっと思った。「窓に 鳥が」とまっているわけではないだろう。次の行の「とぶ」にジェット機をとびこしてつながっている。「窓に 鳥が」見えた。鳥が飛んでいる姿が窓のなかに入ってきた。空を鳥が飛んでいる。だから、これはほんとうは(?)、「空に 鳥が(飛んでいる)」のが窓から見える--ということになると思うのだが……。
 そう読んでいくと、「もっと上空を」と自然につながる。鳥が飛んでいる空よりも「もっと上空をジェット機が飛ぶ」。
 なぜ、「空に 鳥が」と書かなかったのかなあ、変な日本語だよなあ……。
 と思うのは、ほんの一瞬のこと。
 5連目を読むと、一瞬感じた「あれっ」が「どきっ」にかわる。「どきどき」にかわる。文字から目が離せなくなる。いや、吸い込まれていく。我を忘れる。

鳥の後ろは鳥のすみかのなじみのある空
ジェット機の背後の空は中心なき無限の空間
私はじぶんの死の果てが鳥の空であることをねがう
金属のヒコウブツが幕引く空は恐怖だ しかし
はんべ食べている児は
無限空間からしたたってきたとしか思われぬ
虚の崖(ほき)からあたたかい血でせなかを覆う者がおちてくるのはなぜだろう

 鳥→空、ジェット機→無限の空間(宇宙)と視線(意識/ことば)は動いていくのだが、鳥→ジェット機の間に不思議な「切断」がある。空→宇宙の間にある切断とそれは重なるのだが、空→宇宙の間に「切断」を想定するのは、私の場合、ちょっとむずかしい。空→宇宙というのは切断ではなく連続。
 あ、こういう書き方をすると誤解をまねくね。
 井坂も空→宇宙というのは切断ではなく連続だと感じているのだと思うが、その連続の仕方が、何か、微妙に私とは違う。私は「空→宇宙」というとき、ただ空を見あげているが、井坂は「窓」と「空」を一体化している。混同(?)している。空は窓とつづいている。空は「日常」の空間なのだ。

窓に 鳥が

 と井坂が書いたとき、井坂は煎餅を食べるこどもの隣に寝ころんでいるという「日常」にいる。「窓」から「空」が見えたとしても、井坂の肉体は「窓」の内側、「室内」にいる。
 それが空を見て、鳥を見て、ジェット機を見る。そのとき「室内」の意識が一瞬消える。切断される。空→宇宙という感じに、肉体が「室内」の外に出てしまう。そして、そこで「意識」が勝手に(?)動く。こどもの横に寝ころんでいるときは、そんなことを考えるとは思ってもみなかったことばが突然動く。

鳥の後ろは鳥のすみかのなじみのある空
ジェット機の背後の空は中心なき無限の空間
私はじぶんの死の果てが鳥の空であることをねがう
金属のヒコウブツが幕引く空は恐怖だ

 これは、なんとなく「わかる」ような気がしないでもない。ジェット機の飛ぶ世界は、科学的に考えれば問題ではないのだろうが、少しこわい。なぜジェット機のような重いものが飛ぶのだろう--というのは、素朴な疑問だ。
 だが、そんなことよりも。
 私は、少し妙なことに気がつく。
 ことばが進むに従って「後ろ」が「背後」にかわり、「空」が「空間」にかわる。ことばが抽象的になっている。「死」ということばが出てきて、「ジェット機」は「金属のヒコウブツ」と一般にはつかわないことばにかわってしまっている。
 この一種の「抽象的」なことばが、

はんべ食べている児は
無限空間からしたたってきたとしか思われぬ
虚の崖からあたたかい血でせなかを覆う者がおちてくるのはなぜだろう

 とさらに抽象的、観念的になっていく。(こどもは「せんべい」を「はんべ」と言うくらい具体的、個別的なのだが……。)
 こどもは(女性にとっては)、子宮で育てた肉体である。自分の体から生み出した存在である。産むという体験は、女性の肉体に忘れることのできないこととして「覚えている」のではないのか。こどもを「無限空間(宇宙)」から「したたってきた」というのは、その肉体の記憶に反していないか。その意識は肉体と切断されていないか。
 反しているかもしれない。しかし、反しているからこそ、そう思うのだ。自分の肉体から生まれてきたというだけでは、何かが納得できない。「連続」ではなく、なにか「切断」というか、「超越」のようなものがないと納得できない--ということかもしれない。その「超越」(切断よりも特権的なもの)を井坂は実感しているということなのかもしれない。
 この意識(ことば)の変化、煎餅を食べているこどもから、いのちの神秘(宇宙の秘密?)への移行は、言い換えると「思考の深化」というものかもしれない。(私は雑誌の余白、4連目から5連目にかけてのしたの部分に、矢印(←)を書き、その下に「深化」というメモを書いて、この感想を書きはじめたのだが……。)
 うーん、この「思考の深化」がこの詩のいちばんおもしろいところだなあ、と思うのだが。そこに、「思想」があると言うべきなのかもしれないが。

 私は「思考の深化」以上におもしろいなあと思うことがあって、実はそれを書きたくてこの感想を書いている。
 思考が深化する直前、ことばは、どう動くか。
 この詩で言うと、私は、その「予兆」のようなものを、

窓に 鳥が

 という行に感じたのだ。舌足らず。不自然。何かを言おうとして、それが正確に言い終わらないうちに、肉体の奥から別のことばが噴出してきている。そういう「断絶」のようなものが、そこに見える。不自然さのなかに見える。
 一般的に、こういうとき、ひとはことばを整える。なんとかわかりやすく(?)、文法的に正しい文をこころがける。
 でも詩人は違うのだ。ことばが乱れたら乱れたまま、その乱れの勢いに乗ってことばを動かしていく。ことばを加速させる。乱れがないと飛躍できないのかもしれない。
 それが5連目なのだが、その加速の瞬間、ギア・チェンジのようなものが「窓に 鳥が」という短いことばの混乱のなかに感じられる。こういう変化を、その変化の瞬間のままにことばとして定着させる--おおっ、これはすごいなあ。この1行を読みとばしたら、いけないぞ、と思う。5連目の思考の深化はそれはそれで「思想」なのだが、「窓に 鳥が」の方が、まだ意識にもなっていない「未生の思想/未生の肉体」という感じがして、いいなあ、と思う。
 この1行が大好き。

詩の目 詩の耳 (五柳叢書)
井坂 洋子
五柳書院

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