詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アウグスティ・ビリャロンガ監督「ブラック・ブレッド」(★★★★★)

2012-08-02 10:31:58 | 映画
監督 アウグスティ・ビリャロンガ 出演 フランセス・クルメ、マリナ・コマス、ノラ・ナバス

 映画がはじまってすぐに殺人事件が起きる。この殺人シーンがとてもすばらしい。とても美しい。特に馬が崖から落ちていくシーンにはぞくぞくさせるものがある。そういうシーンを私は現実で見ているわけではないのだが、あるいは見ていないからこそ引き込まれるのかもしれないし、またそういうシーンを美しいと感じてはいけないのかもしれないが、その「いけない」何かに引き込まれる感じが、ぞくぞくっとするのである。
 で、この殺人シーン。いろいろなことが隠されている。
 まず森の中で荷馬車を引いている男が、何かの気配を感じる。殺意のようなもの。これは知らない森なら、たとえばはじめていく森ならそういうことがあるかもしれないけれど、通い慣れている森の道でそんなことを感じるのは、いわば変なことである。(これは、まあ、あとからの感想なのだけれど、映画がはじまった順に書いておく。森の洞窟には「ばけもの」が住んでいるという「うわさ」が子どもたちの間で共有されているけれど、その「ばけもの」の洞窟にさえ子どもたちは入っていく--それくらい住民たちがなじんでいる森である。そんなところで「殺意」をふつうは、人は感じない。)いつもの道で、いつものように馬車を引いていて、そんなことを感じるのはその男にはそういうことを感じなければならない「理由」がある。(これは、あとで明らかになる。)
 この男は、いきなり殺されるのだが、それをその息子が荷馬車の幌のなかから見ている。しかし、何もできず(声を上げることもできず)、幌のなかに隠れつづける。子どもができることというのは、ほんとうに少ない。子どもは無力である。そして、この子どもが殺人を最後まで見る(父が死んだことを確認する)のではなく、発端を見ただけで、あとを見ていないというのも、この映画の重要なポイントである。
 少年と父親の死体を載せたまま、荷馬車は崖の上に連れて行かれる。このとき馬は目隠しされている。これもまた重要なテーマである。馬だって、導かれたからといって危険な崖の上へ黙って進んで行くものではない。目隠しされ、見えないからこそ、危険なところへ進んで行くのである。荷馬車の幌、その奥に隠れた少年と同じように、馬は見ていないのである。知らないのである。そして、突然、頭を殴られ、姿勢を崩し、そのまま崖を落下する。馬にとっては、いま起きていることがわからない。わけのわからないまま、死んで行く。
 これは不幸なことである。しかし、その不幸は、なぜかしら美しく見える。ここに人生の謎がある--というとおおげさだけれど、この映画の「隠し味」がある。何かが見えてしまう、何かがわかってしまうというのは、かならずしも「美しく」ない。
 この映画は、時代がスペインの内戦後、そして舞台が田舎ということもあり、画面の全体(特に室内)が暗いのだが、その暗さは、ようするに何かをあからさまにするというよりも、何かを隠しているということにつながる。暗さは何かを隠す。そして、隠されてあることが、一種の「平穏」を保っている。「見えてしまう」ことが、いつもいつもいいとはかぎらないのである。見えない方が、わからない方が、「いい」ということもありうるのである。見える、わかるは、かならずしも「美しく」ない。
 けれど、人間は、それが「美しくない」とわかっても、それを見ないといけないときがある。そこに起きていること、いま、自分がどういう世界を生きているかをわかり、そして歩きはじめないといけないときがある。
 主人公の少年は、私たち観客が見た「美しい馬の落下」を見たかどうか、ちょっとわからない。けれど、その後をしっかり見ている。友達が馬車とともに落ちて、崖の下で瀕死のまま洞窟に住んでいる「ばけもの」の名前を口にするのを聞いている。
 そこから、この映画の、この森の、この村の、そして少年の父や母、家族、一族が「隠している」ことがらを少しずつ知るというストーリーがはじまる。それは謎解きというよりも、自分が何をほんとうに望んでいるかを探し出すような、一種の「哲学的」な展開である。少年は、自分の「ほんとう」を知り、そして両親の「ほんとう」を知る。村の「ほんとう」を知り、内戦の「ほんとう」を知る。

 うーん。
 子どもと両親、子育て--このテーマでは、最近は「おおかみこどもの雨と雪」というすばらしい映画があったが、あれは、まあファンタジーだなあ。
 この映画にいくらか近いのは「木靴の樹」(★★★★★、エルマノ・オルミ監督)があるが、あの映画には「ミネク、幸せになるんだよ」という明るい祈りがある。(あの映画のラストシーンで、映画なのに、私は真剣に「ミネク、がんばれ、幸せになれ」といのってしまった。)「ブラック・ブレッド」でも、何か同じように「幸せになれよ」とこころが動くのだが、「木靴の樹」のように真剣にはなれない。
 重たい悲しみが残るのである。--この重たさは、最初の殺人の美しさに、何か通じるものがある。「真実」なんて知らなければよかったかもしれない、という悲しみである。それは、これもまた変な感想だと思いながら書くのだけれど、この映画に出てくる内戦で手首から先を失った少女の悲しい美しさに何か通じるものがある。少女は片手がないという不幸と、それでも生きているというよろこび、さらに自分が美人であり男の感心を引いてしまうという「事実」を知っている。自分の生きる「場」がそれでいいとは思わないけれど、そこから脱出したいと思うけれど、そういう思いとは別に、そういう「生きる場」のあることを知って、わかって、そして覚えてしまった悲しみのようでもある。



 この映画の「ブラック・ブレッド」は、しかし、変なタイトルである。「黒パン」という意味なのだが、私は「ブラック・ブレッド」を「ブラック・ブラッド」と読み違えていて、いったいどんな「黒い血」が出てくるのかと期待していた。いきなり美しい殺人シーンではじまったので、よけいにそう思ってしまった。途中で、少年が「白いパン」を食べようとしたら、その家のメイド(?)から「お前は黒パンだ」と言われてしまう。で、あ、映画のタイトルはもしかしたら「ブラッド」ではなく「ブレッド」?と気がついた。「黒パン」は貧しさの象徴なのである。
 しかしなあ、スペイン映画なのだから「ブレッド」はないだろう。「汚れなき悪戯」のスペイン語のタイトルは「パン・イ・ビノ」。「パン」なんて日本人の知っていることばじゃないか。わざわざ英語にするなよ。
 「黒いパン」というタイトルの方が、すばやくスペインへ入って行ける。スペイン人の気質にも近づける。
 私はスペイン人を知っているわけではないけれど(ある家族と以前交流があったくらいだけれど)、映画を見ながら、あ、これはスペイン人でしかありえないなあと思うシーンがいくつかある。そのいちばん美しいシーンは、少年と病気の青年の交流である。最後に少年が青年に会いに行く(別れに行く?)シーンは、こういう友情(?)に重きをおいた生き方はスペイン人じゃないと自然に出てこないなあと思った。
 映画館で見てください。

 (長い感想だけれど、ネタバレを若干含んだ感想だけれど、映画全体のことは、この感想だけではわからないと思う。わざと、冒頭の殺人シーンだけに焦点をあてて書きました。ぜひ、映画館で見てください。)
                      (2012年08月01日、KBCシネマ2)



木靴の樹 [DVD]
クリエーター情報なし
東北新社
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする