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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョン・フランケンハイマー監督「ブラック・サンデー」(★★★★★)

2011-09-03 19:29:22 | 午前十時の映画祭
監督 ジョン・フランケンハイマー 出演 ロバート・ショウ、ブルース・ダーン、マルト・ケラー

 結論(結末)は分かっている――のに、なおかつ面白い、というのはアクション映画では珍しい。「ブラック・サンデー」は、その珍しい1本。
 後半、フットボール会場がスクリーンにあらわれてからが、ほんとうにおもしろい。結論がわかっているから、なおおもしろい。そんなところに爆弾はないんだよ、そんなところいくら探したって無駄だよ、と電話で教えてやりたいくらい、じれったくなるねえ。フットボールの試合シーンや、興奮する観客、ひいきのチームの扮装や応援の横断幕、カーター米大統領の映像なんてねえ、犯人逮捕、爆弾の発見とは関係ないねえ。その「無関係」の映像の充実が素晴らしい。素晴らしいから、じれったくなる。
 一番好きなのは、ロバート・ショウが飛行船のパイロットが殺されたと聞いてからスタジアムを走るシーン。スタジアムの上からフィールドまで駆け降りる。フィールドをきちんとコーナーを曲がって走る。そんなことしてる場合じゃないでしょ。フィールドを横切った方が早く行けるでしょう。でもねえ、この、しっかり階段を駆け下り、フィールドの外を走るという「丁寧さ」がいいんだなあ。あくまで「秘密」だからね。爆弾がしかけられている、テロリストが大量殺戮を狙っているというのは。
 映画の観客は知っている。しかし、スクリーンのなかの人たちは知らない。いや、映画だから演じているひとはエキストラを含めて全員何が起きているのか知っているんだけれど、知らないことになっている。
 この知っていると知らないの交錯が、ほんとうにドキドキわくわくというと変だけれど、興奮させられるなあ。8万人が一気に殺されるんだぞ、わあわあ騒いでいるときじゃないだろう、とここでもスクリーンに向かって叫びたい気持ちになるなあ。
 それに。
 ロバート・ショウが走りまわるシーンは、最後のアクションのクライマックスにつながる。ロバート・ショウの最後の行動など、いくらなんでも無理じゃない? でも、走って走って走りまわる姿を見ているから、それもできるかなあ、と思ってしまう。信じ込んでしまう。伏線がもっと派手なアクション(テロリストとの殴り合いとか、走るにしても「ボーン・アルティメイタム」のマット・デイモンみたいに屋根の上を走ったり、建物の間を飛んだり)だったら、最後の「うそ」ができて当然みたいな予定調和になってしまうけれど、普通の人が走るのと同じ場所だけ走るという単純なアクションだけで通してきたのが、不思議な説得力があるよなあ。
 あ、でも。
 でも、ほんとうに好きなのは――映画を見終わったあとだから言えるけれど(事件が解決しているから言えるけれど)、ブルース・ダーンが爆弾の効力を試すシーンだなあ。倉庫の壁が無数の釘でハチの巣状態になる。美しい。ブルース・ダーンが「美しいだろう」とマルト・ケラーに自慢する。穴の配列(?)も美しいけれど、穴から漏れる日差しが美しい。殺されたおじさんには申し訳ないけれど、もっともっと見ていたい、という気持ちになるなあ。
 あの爆弾を作ってみたい。試してみたい――と思ってしまう私はテロリスト予備軍? ブルース・ダーンの美意識に共感する私は異常者?
 と、書きながら、この「共感」があるから、この映画にのめりこむんだよなあとも思った。単なる非常なテロリストだったら、ロバート・ショウの「活躍」をほめたたえる映画に終わってしまう。普通のアクション映画になってしまう。

(2011年09月03日天神東宝3、「午前十時の映画祭」青シリーズ31本目)





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橋場仁奈「洗う」ほか

2011-09-02 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
橋場仁奈「洗う」ほか(「まどえふ」17、2011年08月31日発行)

 橋場仁奈「洗う」は、たぶん、東日本大震災後に書かれた詩である。その冒頭。

砂がたまっているんです
たらいの底にたまっているんですよ
洗いながら年寄りだなとか若いんだなとか
娘や息子とおなじくらいかなとか
なんども洗うんですよ遺体の服を洗うんです
なるべくきれいにしてあげたいから
いちまいいちまい洗うんです

 ここにはひとつのことばが省略されている。「思う」である。「想像する」である。

洗いながら年寄りだなとか若いんだなとか「思う(思うんです)」
娘や息子とおなじくらいかなとか「思う(思うんです)」

 そうして、その「思う」がつみかさなって、

なるべくきれいにしてあげたい「と思う」から

 という1行が動く。最初に「思う」を補った行は、「私」と「他者」が離れている。けれど、思っている内に、その他人が「自分の身内」になる。自分の「肉体」とつながっている「いのち」になる。
 「きれいにしてあげたい」と思うとき、もうそのひとは「私」そのものである。「きれい」な状態を、自分の状態として感じている。
 この自然なことばの動きが美しい。

ふり洗いするんです
ふりふりのついたちいさな服もあります
ちいさなてあし、つめ、ぽんほこりんのおなか、ぬれた髪の毛いっぽんいっぽんかるがるとぬけでて服だけになってからだここになくないからだふり洗うもどってくるまで洗いつづけるときどき首のうしろや足の裏がかゆいあそこもここもかゆいかゆい砂がはさまってけれども洗うんです洗いつづけるんです

 「もどってくるまで洗いつづける」ということばがあるが、このことばの前で、私は立ち止まってしまう。「もどってくる」とは、どういうことだろうか。服を洗っているとき、その服を着ていたひとはいない。遺体になっている。でも、「思う」気持ちのなかには、そのひとは「もどってくる」のである。
 「もどってきたからだ」は、橋場の「からだ」に、そのままなってしまう。
 道端で倒れ、苦しんでいるひとを見たら、私たちはその苦痛が自分のものではないにもかかわらず、苦痛そのものを理解する。肉体が感じてしまう。
 同じことが、ここでは亡くなったひとに対して起きている。それも亡くなったひとなのに、生きているときの感覚で起きている。

首のうしろや足の裏がかゆいあそこもここもかゆいかゆい砂がはさまって

 もし生きていたら、砂が服と肌のあいだに入り込み、かゆい。
 「首のうしろや足の裏」という具体的な場所がリアルである。橋場は、そのかゆみを知っている。覚えている。その「覚えている」ことのなかに、他人が、その「いのち」が甦ってくる。
 「もどってくる」。
 このとき、大震災で亡くなったひとは、たしかに「甦る」のである。
 このあと、ことばはさらに「生きて」動いていく。「生」を強く思いながら動いていく。

生きていたときみたく悪態もつけず皿やまくらもなげつけれんのがくやしくもどかしいです髪の毛からも砂がこぼれあしの指と指のあいだみずむしだった爪と爪のあいだに砂がざらざらあたまざらざらざら砂がたまってゆく



 斎藤貢「詩の非礼」(「交野が原」71、2011年09月20日発行)は、和合亮一の「詩の礫」を批判している。

放射能が降っている、と。
無責任な言葉をまき散らして、ふるさとから逃げ出したのだから。
その言葉の軽さに、あなたは恥じなければならない。

軽はずみな言葉は、ひとをも土地をも、傷つける。
無責任で、根拠なしに放たれた言葉が、魂の叫びだなんて。

放射能は降らない。
むしろ、被災者からの礫が、あなたに向けられるだろう。
無言の。怒りの。なみだの。つぶてが。

(略)

放射能は降らないが、
放射性物質の。ヨウ素やセシウムは、風に飛び散ったろう。
だが、
ほんとのふくしまの空に降り注いだのは、
放射性物質ではなかった。
ヨウ素やセシウムのような、揮発性の高い数多(あまた)の言説。
軽くて。無責任な。嘘偽りの。罪悪な。まやかしの。偽善者の。
言葉の放射能。

 「放射能」ではなく「放射性物質」である、という批判はたしかにその通りである。和合にも言い分はあると思う。詩が、どこまで「正確」であるべきかというのはむずかしい問題だが、その問題に向き合わないといけないことは事実である。
 福島第一原発で何が起きたのか--そのことを点検するように、そのとき、詩は(ことばは)、どんなふうに動いたか、それも点検しなくてはならないという指摘は、真剣に受け止めなければならない。
 --と、書くと、まるでひとごとみたいになってしまうが……。
 「詩の礫」について、いろいろ書いてきた私は、ひとつだけ「弁解」しておきたい。私は、多くのひとが取り上げたけれども、取り上げなかったことばがある。スローガンのように繰り返されることばが、私には信じられない。
 けれど、和合のことばが「ありがとう」からはじまっていることには、私はやはり衝撃を受けるのである。他の報道でも被災者の多くが何度も「ありがとう」と繰り返しているのを読んだ。それを読む度に、私はとても不思議な気持ちになった。被災者は助けられて当然だし、なぜもっと早く助けにこないんだと怒ってあたりまえの状況のなかで、「ありがとう」ということばが動く--そのことばの側に、なんとかしてたどりつきたい、そのことばを動かしているものに、なんとかして触れたいという気持ちがある。
 斎藤の書いていることばはわかる。その怒りはわかる。けれど、私には和合を初め、多くのひとが「ありがとう」から始めたときのことばが、実はわからない。わからないから、知りたい。


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トマス・ヴィンターベア監督「光のほうへ」(★★★★★)

2011-09-02 23:18:52 | 映画
監督 トマス・ヴィンターベア 出演 ヤコブ・セーダーグレン、ペーター・プラウボー
 主役を演じている役者ヤコブ・セーダーグレンに引きつけられた。
 彼は、何も悪いことをしていない。最初に、少年時代の様子が描かれる。アルコール中毒の母親にかわって、弟とふたりで、生まれたばかり(たぶん)の赤ん坊を世話している。その赤ん坊が死んでしまう。
 この映画では、その赤ん坊の死についてだれに責任があるのか、いっさい描かれていない。育児を放棄していた母親の責任はどうなったのか。そして、その後、ふたりの兄弟がどこでどんなふうにして育ったのかも描かれていない。
 映画は突然、その母の死によって兄弟が再会するところから描いている。それも、兄弟の暮らしを別々に描いているので、彼らがどんなことを考えているのか、実はよくわからない。
 よくわからないのだけれど、引きつけられる。
 目が、とても静かである。彼には、ひとには言いにくい「過去」がたくさんある。おさない赤ん坊を「死なせてしまった」という心の傷がある。語られることはないが、そういう「心の傷」を体に入れ墨として残している。心の傷は見えないけれど、刺青は見える。それは、いわば男の「存在証明」のようなものなのだ。その刺青のひとつに、恋人のイニシアルもある。
 その男が、恋人の兄と出会い、事件にまきこまれる。恋人の兄が、男の愛人(?)を殺してしまう。その「罪」を、男は被ろうとする。
 なぜ?
 いろいろ想像することはできるが、理由はわからない。男は語らないからである。
 その語らない肉体が、その目が非常に、強く印象に残る。
 語っても、わからない。いや、語れば、そこで起きたことは「わかる」。論理的に(?)、説明がつく。そして、男が「無罪」であることも簡単に証明できる。けれど、それは「事件」を説明するだけであって、そのとき男が何を感じたか--それはわからない。
 だいたい「事件」が起きたとき、問題になるのは「何が起きたか?」「だれが起こしたか?」「その理由は(なぜ?)」「どのようにして?」「いつ?」ということだけである。いわゆる5W1Hが明確になれば「事件」は説明できたことになる。そこでは、そのときでは「事件」の当事者は「どう感じたか」は問われない。
 当事者がどう感じたかを配慮していたら、「事件」は見えなくなってしまう。「事件」は解決されないからである。
 けれど、ほんとうの「事件」は、当事者の心のなかで、ずーっと生き続けている。「事件」は終わらない。
 男にとっては、最初の「事件(赤ん坊の死)」さえ解決していない。赤ん坊の死に、彼が直接関係していないのと同じように、愛人の死にも関係していないけれど、愛人を守るための最大の配慮をしなかったということでは、赤ん坊の死の場合と同じである。「気づいていい兆候」はあった。それを見逃した、ということはできる。もちろん、それは「過失」ですらない。過失ですらないけれど、男は、そこに「責任」のようなものを感じてしまう。それは、いくら説明してもだれにもわかってもらえない--と男は知ってしまった。だから、語らないのだ。そのかわりに、刺青を肉体に残すのである。
 刺青--そのうさんくささ。まっとうな人間は、刺青などしていない。「まっとうではないもの」が自分の中にある、ということを主人公は肉体の傷(刺青)として、人の眼にさらすのである。
 この、まっとうではないという感覚は、もちろん主人公の場合、正しいとは言えない。つまり、彼は何も悪いことはしていない--という具合に、たとえば、私は言うことができるが、それは私の感覚であって、主人公の男そのものの「感覚」ではない。男そのものが感じていることではない。男そのものが感じていることは、どんなにことばをついやしても、たぶん、わからない。
 そのわからなさを、ヤコブ・セーダーグレンは、肉体で表現する。「刺青」はもちろんメーキャップだから(肉体表現の補助材料だから)、そんなもので心は表現できない。わからなさは表現できない。表情もなるべくわからないように、ヒゲが顔をおおっている。ただ、目だけが、私たちに(観客に)さらされている。その目で、ヤコブ・セーダーグレンは表現するのである。
 表現する--と書いたが、これは一種の矛盾である。つまり、ヤコブ・セーダーグレンは、何も語らない。目には、悲しみや怒りや喜びがあらわれるものだが、常にそういうものを目の奥に隠すのである。引き下がらせるのである。
 映画の原題は、「サブマリーノ(適当に読んでいるので正確ではないかもしれない)」である。デンマーク語はわからないので適当に推測するが、潜水艦に通じることばだろう。深く水に潜りこんでいる。水に隠れている。
 そのことばが象徴する何かのように、ヤコブ・セーダーグレンは、その目の奥に、その流すことのない涙の奥に(涙さえも隠して)、すべてを沈めてしまう。
 その目を、私は私の肉体で再現できる。--できない。そのできないことへの、遠い距離に、私はひどく引きつけられるのである。
 わからない心を生きている。それを、具現化している。それは、まるで役者を見ているという感覚ではなく、ほんとうに「事件」を生きた人間を見ている感覚なのである。
 リアリティーということばでは言い表せない。私が感じたことを伝えることはできない。そういうものを感じる。

 弟の方は、ちょっと演じる上で損をしているかもしれない。弟は、兄とは違って、「悪人」である。麻薬常習者だし、母の遺産をもとに「売人」をやりはじめている。
 おもしろいのは(と言っていいのか、よくわからないが)、この弟には「名前」がない。兄は「ニック」と呼ばれるが、弟は名前を呼ばれない。呼ばれたかもしれないが、私の耳は聞き逃した。聞き取ることができなかった。「字幕」では常に「弟」ということばがあてられていた。
 弟は、兄の「心」を支えるもうひとつの「肉体」のような感じで、映画に登場してくるのである。結婚して、子供をつくり、その子供に「マーティン」という名前をつけている。それは、兄が、望みつづけ、同時に、拒絶しつづけてきた「夢」である。隠しつづけてきた「欲望(本能)」である。

 この弟が自殺し、マーティンが取り残され、その子供を引きつけるために、「事件」のすべてを語り(この部分は、やはり省略されている)、兄がマーティンと生きはじめるというのは、「神話」というか、「ギリシャ悲劇」のようなダイナミックなカタルシスの構図で、ラストシーンには知らずに涙が出てくる。

 それにしても「未来に生きるきみたちに」といい、この「光のほうへ」といい、デンマーク映画はすごい。ハリウッドが描くことを放棄してしまった人間の「いきる力」をていねいに描いている。役者たちは感情を「演じている」のではなく「生きている」。だから、感想を書くのも、なかなかやっかいである。「映画」であることを忘れてしまうのだ。「映画」はつくりものなのに、つくりものであることを忘れて、登場人物の幸せを思わず祈ってしまう。


 
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岩佐なを「記憶なんか」、小長谷清実「有耶無耶語の方へ」

2011-09-01 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「記憶なんか」、小長谷清実「有耶無耶語の方へ」(「交野が原」71、2011年09月21日発行)

 岩佐なをの詩をいつから好きになったのか、思い出せない。--以前はたしか大嫌い、気持ち悪いというだけのために感想を書いていたはずだ。「初心」を忘れてはいかん、ということもないのだろうけれど、これは変だなあ。と、思いながら……。
 「記憶なんか」を読みはじめる。

頭の上で脳をころがしている
頭蓋でおおう過保護時代ではない
もはや頭は擂り鉢型で外にひらけ
その真ん中に脳がおさまり
顎を振ってゆらすと
細かい刺激をうけた
脳はまん丸になって<団子状>
擂り鉢のなかで回ってる
くるりんくりん回ってる
さてこれをポイッと
記憶再生ダストシュートに
四階から落とす<隆ちゃんちは最上階>
シュートは螺旋状にできていて
ありゃりゃこりゃりゃと
(あくまでそんなカンジッ)

 以前は、「頭蓋でおおう過保護時代」という批評のことばと「擂り鉢」という暮らしのことばが同居する瞬間に、気持ち悪さを感じたのかもしれない。いまでも、そういう瞬間には、ちょっと私の体は違和感をおぼえてしまうのだが

ありゃりゃこりゃりゃと
(あくまでそんなカンジッ)

 へきた瞬間に、違和感が消えてしまう。
 「カンジッ」と岩佐は書いているが、岩佐は「カンジ(感じ)」にことばがたどりつくように工夫しているのかなあ。「カンジ」を優先させて、それにことばを従属させているのかなあ。そのときの「カンジ(感じ)→支配(制御・統御)→ことば」の動きが、「意味」(頭脳)ではなく、「音」として「肉体」にそのまま響いてくる瞬間があって、それを気持ちよく感じるようになったのかなあ。
 あ、抽象的すぎたね。
 「ありゃりゃこりゃりゃ」ということばのなかにも「意味」はある。「うまくことば、論理にならない一瞬の衝撃、奇妙な感じ」とかなんとか言ってしまえばそうなってしまいそうな「意味」はある。でも、そういう面倒なことを岩佐は言わない。ただ「音」にしてしまう。この瞬間の、その「音」にまかせてしまう「肉体」の感じが、私には気持ちがいい。それは、いま書いたことと矛盾するのだが、「音」が「肉体」を呼び覚まし、肉体のなかに「意味」をつくる感じなのだ。
 別な言い方をすると……。

頭の上で脳をころがしている
頭蓋でおおう過保護時代ではない
もはや頭は擂り鉢型で外にひらけ

 ここに書いてあることは「絵」に描けるね。「眼」に見えるように、図解して理解することができる。このとき、私は「眼」の力で、ことばを制御している(岩佐の制御を追うように動いている)。「眼」は「頭」とつながって動いているが、ほかの「肉体」は動いていない。動かないことで「眼」と「頭」のつながりを支えている。あるいはこのとき、「頭」は「眼」以外の肉体が動かないように、なんらかの形で「制御」しているのかもしれない。
 --この制御の感じ。
 この制御の感じが、「ありゃりゃこりゃりゃ」ということばに出会った瞬間、ぱっと消える。「頭」では「理解」できない。その「理解できない」ものにむかって、肉体が瞬間的にひらかれる感じ。「頭」では理解できないが、「ありゃりゃこりゃりゃ」を肉体は知っている。「音」を知っている。その「音」が「肉体」のなかを通って出てくる瞬間を何度も目撃していて、そのときの「感じ」が肉体のなかにある記憶を揺さぶる。
 そして、そのときの「ありゃりゃこりゃりゃ」という「音」は、実は「正確」ではない。言い換えると--というか、言いなおすと、「頭蓋」とか「過保護時代」とかいうことばが「音」そのものがだれの口からでたときも「同じ」であのようにして、「同じ(正確)」な「音」として出てくるわけではない。あるひとは「ありゃりゃ」だけかもしれない。別なひとは「ありゃこりゃまあ」かもしれない。つまり「同じ」ではないのだが、その「違い」を超えて「同じ」ものを「肉体」は感じる。
 そして、「違い」を超えた「同じ」のなかに「意味」めいたものを感じる。
 「意味」とは何かと何かが「同じ」と特定することだからね。
 これを、「音」というもの、「声」になりうるもので、とらえてしまう。--この「肉体の思想/肉体の哲学」が、たぶん、私をひきつけるのだ。それを私は「気持ちがいい」と感じるのだ。

昨日分の脳団子からは
さくら幼稚園に通っていた道すがらの
記憶が再生されて気持ちよかった
寄り道のため池の蛙の卵で
腕輪<綺麗紐>
ぬるぬるのいきもの
おもいおもわれ
なつかしきしやわせ。
毎日脳を丸め捨てて
記憶なんか取り戻す
部分的でもいいじゃない。

 「カンジ」が「漢字(眼で見る文字、眼で見る意味)」によって制御されるとき、私の肉体はいやだなあ、不平の声をもらしてしまうが、これは「付け足し」。たまには「うっ、気持ち悪い」と書いておかないと、好きになったり嫌いになったりする楽しみもなくなるからね。
 で。(というのも、変なのだけれど。)

 岩佐のことばには眼で制御することばと、耳(声)で制御することばがいりまじる。眼の力が強くなると、私の場合、非常に「気持ち悪い」と感じてしまうのだ。



 小長谷清実「有耶無耶語の方へ」は、やはり「音」(音楽)とことばの関係がとても気持ちがいい詩人である。ことば(文字)であるから、そこには「漢字」もまじるが、その処理の仕方がとても巧い。

多分 今日のお目当ては
なんとかいう老人のなんとかいう自伝
取り留めない日々と
慌ただしい日々がびっしりの有耶無耶語で書かれた書物とか
詩集のようなものだったか

 小長谷のことば(音)は「か」の明るい響きが美しくて、「なんとかいう老人のなんとかいう自伝」という1行など、「読んだ瞬間、思わず喉や舌や口蓋が無意識的に動く。(声には出さないが、出さない形で肉体を動かしてしまう。)また「な」の繰り返しも「ん」の繰り返しも刺激的だし、「ん」のなかには「な」もあるなあ、「な」から「あ」の音を殺すと「ん」になるなあ、というようなことを書いてしまうとつまらないけれど--肉体が無意識的に遊んで、楽しむのである。
 で、そうした「音」のなかに、たとえば「老人」「自伝」の「ん」と「眼」のぶつかりあいもあるのだが(ここは、私は、あまり好きではない--「音」と「眼」の衝突がない方が好きである)。

慌ただしい日々がびっしりの有耶無耶語で書かれた書物とか

 「有耶無耶語」がおもしろいねえ。「うやむや」には「有耶無耶」という「意味」があるのか。ワープロで変換されるので初めて気がついた。で、だからといって「有耶無耶」を「意味」を私は知っているわけではないのだが、この「音」への「眼」の裏切りが、私には楽しい。
 「うやむや語」で書かれていたら--なら、きっと、この詩は「間延び」してしまう。「音」がぼやけてしまう。「漢字(眼で見ることば)」の刺激があって、それを意識しながら、「眼」ではなく「耳」の方に軸足(?)を移すようにしてことばを動かす。そのときの「音楽」のあらわれかたが、気持ちがいい。酔ってしまう。何度でも読み返してしまう。

むんににゃあふんにゃあ
アワワワワ
なにいってんのやら書いてんのやら

 あれっ、この最終連--私が書くことを「先取り」しているの? なぜ、私が「何を言っているのか、書いているのか」わからないようなことを感想として書くと知っていたの?

しましまの
岩佐 なを
思潮社


わが友、泥ん人
小長谷 清実
書肆山田
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