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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

樫田祐一郎「残暑」

2011-09-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
樫田祐一郎「残暑」(「Dionysos」33、2011年08月06日発行)

 樫田祐一郎「残暑」のことばには何かしら古いひびきがある。
 樫田の書いていることばは、「いま」を呼吸していない、「いま」を拒んでいると言った方がいいのかもしれない。
 「いま」を拒んでいるけれど、「いま」書かれている。--これは矛盾なのだけれど、その矛盾のなかに、私は美しいものを感じてしまう。

喉をやみ暮らした夏にわたしは十歳で、もうじき死ぬのだと思っていた。ひとびとの顔もあらかた失せた八月の夕ぐれ、母親はむしあがる方形の庭をながめながらいっぽんの植物になった。日の射さない部屋のひんやりした床のうえで妹はまだ幼く、四肢をなげだしてうつ伏せしていたのを覚えている。子供が死ぬ夏のあらゆるものの皮膚は白くやんでいて、さわるだけでおだやかに発疹した。玄関のとびらを開けたときカナブンがいっせいに西へ飛んだ。遠ざかってゆく羽音からわたしはかすかな水音をききわけ、それから家々のうらての川辺へとくだったのだった。向こう岸ではおんながうまれたばかりの赤ん坊をあらっていた。わたしは生い茂るあしの茎のひとつを折って草笛を作り、立ちすくみいつまでも笛を吹く死んだ子供になった。

 「笛を吹く死んだ子供になった」は、そのとき子供のままである、というくらいの「意味」だろうが、その「死んだ子供」のなかに「喉をやみ」の「病気」とつながる「肉体」がある。そして、その「喉」は「笛」の形で「生きている」。「死(やむ、病気)」が「喉」と「笛」をつないで、「長く静かな息」として、そのあいだを往復している。そのリズムが、文体全体のリズムととてもよくひびきあっている。
 また、「あしの茎のひとつを折って草笛を作り」は、「いっぽんの植物になった」母を思わせる。母が植物になったのは、庭をながめながらなので、川辺の葦になっているのは「論理的」ではないけれど、この「論理」を超えた、ゆったりと静かな変化を、どこか「遠い力」で動かすものがある。「妹」と「うまれたばかりの赤ん坊」も静かで遠い超論理で呼びあっている。「おんな」と「母」も呼びあっている。
 「母」が「おんな」であり、同時に「あし(葦)」であるというのは、一種の矛盾というか、混乱だが、その矛盾は矛盾であることによって、「真実」になる。矛盾をむすびつける静かなことばのリズムが、すべてを受け入れるのである。「意味」を超えて、「音楽」にしてしまうのである。
 こういう長く静かな息のリズムは、むかし(?)の小説にはあるかもしれないけれど、最近は見ない。(と、思う)
 そして、「長い」文体だけがもつ「ねじれ」というか、「ずれ」が、世界をゆっくり動かす部分が、この詩の、私のもっとも好きな部分である。

玄関のとびらを開けたときカナブンがいっせいに西へ飛んだ。遠ざかってゆく羽音からわたしはかすかな水音をききわけ、それから家々のうらての川辺へとくだったのだった。

 「カナブン」が、まあ、私の唯一好みとは違う部分だけれど(音が苦手だ)、「西へ」という不思議な音(いったいどこから「にし」というひびきをもってくるきになってきたのだろう)をはさんで、音がすばやく動いて、「羽音からわたしはかすかな水音をききわけ」がともかく美しい。「かすかな」がこんなに美しいことばだと想像したことがなかった。「それから家々のうらての川辺へとくだったのだった」も美しい。「くだったのだった」が何度も何度も読み返したくなるひびきをもっている。
 「音」のなかに、「遠い音」を聞くことができる耳をもっているのかもしれない、樫田は。

 同じ号に発表されている「小景」も「音」というか、「声」について書かれた部分にとても魅力を感じた。

わたしは傘をもたないほうの手を振る。ところが、声をかけることはできない。
わたしは呼ぶことができない。きのうのおとこの叫びをまねることが。わたしの口からこぼれるのは、貧弱な、よそよそしい知らせばかりだ。
おとこは家並のさきの山にむかって読んでいたのか。わたしのうまれた土地では、山はずっとむこうにあって、青い色をしていた。

 「よそよそしい知らせ」の「知らせ」は、私には「調べ」にも聞こえる。
 「わたしのうまれた土地では、山はずっとむこうにあって、青い色をしていた」は、樫田がまた、とても美しい視力をもっていることを教えてくれる。
 耳と目がしっかりことばのなかで結び合っている。
 それが、次の美しい行になる。

ときおり何をしているのかと訊かれる。ひとを待っていると答える。

 これはほんとうに待っているのではない。「訊かれる」ことによって、ふいに、目が刺激されて、そこにはいないひとを「いま」へ呼び出してしまうのだ。その、ふいの「見えない人」のために「待っている」ということばが、自然な「息」として出てくる。



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三宅節子『砦にて』(3)

2011-09-11 23:59:59 | 詩集
三宅節子『砦にて』(3)(思潮社、2011年07月31日発行)

 三宅の詩は「変身譚」なのかもしれない。「ことば」が「肉体」を変え、「肉体」が「ことば」を変える。「精神」が「肉体」を変え、「肉体」が「精神」を変える。それは、同時に起きる。区別することはできない。
 「比喩」をつかうというのは、「ことば」を本来のものとは別の形でつかうということである。そうすると、そのときの「不自然」なことばの動かし方に影響されて、「肉体」が変化する。変化した肉体のなかで、「ことば」はまた別な「比喩」を求めて動いていく。
 詩集のタイトルの「砦にて」と、あまりにもそのことを端的に語りすぎている。

海から登ってくる坂道の上に
私は時の見張りの小さな砦を建てた
その中に棲みつくようになってから
どれほどの季節が過ぎたろう

体がかたくなってきたと思ったら
手足が壁に吸収されていた
窓が開いたり閉じたりしている
あれはかつて私の目だったと思う

精神までが煉瓦の隙間をふさいでいる
いつでも木立の上を浮遊できたのに
水のように広がれるだけ広がった
地面と同じになれたのに

こんどは殻ごと変るほかはない
ほら もう巻貝になったじゃないの
次は白い帆の船 それから光速で飛ぶ
いつかは地球を出ていくのだから

 「砦」を建てる。自分のすみかを「砦」と呼ぶ。そのとき「自分」というのは「精神」で、「砦」は「肉体」かもしれない。それは、便宜上、「精神」「肉体」と呼んだだけで区別はない。内部と外側--と考えればよくわかる。どこからが「内部」かわからない。ぴったりくっついている。「外側」がなければ「内側」はないし、「内側」がなければ「外側」もない。
 というようなことは、まあ、どうでもいいか。
 2連目がとてもおもしろいと思う。
 特に

あれはかつて私の目だったと思う

 「思う」。「思う」って、どういうこと?
 人間(三宅)の「肉体」が「砦」に「変身」してゆく。「体がかたくなってきた」というのは「肉体」で感じることである。そして「手足が壁に吸収されていた」というのも「肉体」そのものが「わかる」ことである。もう「手足」が動かない。「壁に吸収された」。これは「比喩」だけれど、「肉体」が実感する「比喩」である。
 「手足」が「壁」に吸収されて「壁」そのものになったことが「肉体」そのものの実感として「わかる」のに、目だけ、なぜ、違う? なぜ「断定」できない? なぜ「思う」という「ことば」が必要?

 「思う」には、「ことば」が必要だ。「ことば」をつかわずに「思う」ことはできない。--このことと、何か関係があるのだ。
 「ことば」を強調したいのだ。
 三宅は「変身」を書く。その「変身」は、「ことば」があってはじめて可能な「変身」なのである。「肉体」は勝手に「変身」するのではない。三宅がつかう「ことば」にしたがって「変身」するのである。

こんどは殻ごと変るほかはない
ほら もう巻貝になったじゃないの

 「壁」は「殻」ということばで言いなおされる。そうすると、そこからすぐに「巻貝」ということばが動きだし、「肉体」が「巻貝」になる。
 これは、しかし、ちょっと危険だ。「肉体」にとってはかなりきびしい「危険性」を孕んでいる。

次は白い帆の船 それから光速で飛ぶ
いつかは地球を出ていくのだから

 そう「思う」とき、それは「現実」になって「肉体」に跳ね返ってくる。
 しかし、そのことを承知で三宅は書いている。「肉体」はこれから起きることをすべてあらかじめ受け入れている。
 「不安」というものがない。ためらないがない。
 「思う」こと意外に人間はなれない。何かに「変身」するとしても、それは人間が「ことば」をつかって「思う」範囲であることを、三宅は知ってしまっている。わかっている。まるで、「肉体」そのもので、そのことを「おぼえた」ような感じである。

いつかは地球を出ていくのだから

 というのは「未来」のことだが、三宅の「肉体」はそれを「おぼえている」。三宅の「肉体」にとって、「出ていく」は「帰っていく」なのだ。
 この「おぼえている」と「出ていく」「帰っていく」は「水を呼ぶ声」では、逆向き(?)のベクトルで書かれている。

私が病院のベッドで痛みに耐えていたときに
彼女が呼んだのは
ふるさとの皮の上流とおぼしい深い淵
明るい空の色を映すよどみに
さわやかな微風がちりそん皺をつくって
少しずつ水を押し流す
その淵の上空に白いハンモックを吊って
少女は眠っていた
夢の手を
つと伸ばして
彼女は私を華奢な舞台に引き上げてくれた

喪失の苦痛にのたうちまわっていたときには
彼女の水を呼ぶ声が 冥府の果て知らぬ荒野に
細く鋭く こだましたのを覚えている
再び川はやって来た
両岸の見えない幅広い流域を
浅い透明な水がどこまでもさらさらと流れていた
川のまん中に立っている彼女の
体を通って川は流れ
同時に 私の足首を膝を胸を通り抜けて
茫漠とした下流へ走り続けた
たとえそれが冥府の川であったとしても
己が身を貫きながれるものがあると知ったことは
一つの癒しだったのではなかったか

 三宅は、ここでは病院のベッドで「ふるさと」を思い出している。「少女」が出てくるが、それは「ふるさと」時代の(過去の)三宅だろう。「少女」と「私」は「手」を伸ばして接触し、「ひとつ」になる。
 そのとき、「私(三宅)」は少女の「水を呼ぶ声」を思い出す。それは三宅の「肉体」が「覚えていた」ものである。

細く鋭く こだましたのを覚えている
再び川はやって来た

 「覚えている」ものだけが「やって来る」。「覚えている」ものは「過去」である。そしてそれは、「やって来る」。「未来」になる。「過去」は「未来」に「変身」する。「時間」の「過去」「未来」の「定義」は否定される。否定したところに、三宅がいる。そこに「精神」があり、そこに「肉体」がきりはなせないものとして存在する。精神と肉体が硬く結びつき「ひとつ」になるとき、「過去」「未来」はやはり結びついて「いま」という「ひとつ」のものになる。その「いま」を「永遠」と呼び変えても言い。「いま」は「永遠」に「変身」するのである。
 「覚えていた」(おぼえている)のは「肉体」ではなく、「頭」である--というひとがいるかもしれない。でも、私は「肉体」であると信じている。「覚える」ことができるのは「肉体」だけである。
 三宅もまた「肉体」で「おぼえる」ということを実感していると思う。

川のまん中に立っている彼女の
体を通って川は流れ
同時に 私の足首を膝を胸を通り抜けて

 「彼女」と「私」を結びつけるのは「川」(水)なのだが、それだけではない。「体」「足首」「膝」「胸」。「肉体」、「肉体」があるという感覚がふたりを「ひとつ」にする。
 「同時に」ということばで、三宅は、それを強調している。
 「体(肉体)」が「覚えている」ことを、「体(足首、膝、胸)」をつかって「思い出す」。
 それは「過去」を「いま」へひきあげ、さらに「未来」へと動かしていくことである。(永久の「未来」である「冥府」ということばが、この詩には出てくるが……)。そのとき、三宅は「知る」のである。
 「己が身を貫き流れるものがある」。
 「知った」ことは「ことば」になる。「覚えている」ことは「肉体」とおして甦り、甦ることで「ことば」になる。ことばにすることで「知っている」といえる。

 この「知っている」ことを、しっかり「覚えて」(肉体にしみこませて)、ひとは死んで行く。「覚えていること」を「知っていること」に変えることは、死ぬことなのである。「覚えていること」を「知」に変えること(変身させること--昇華させること、というのかもしれない)は、ソクラテスではないが、「死の準備」なのだ。
 --こういうことを書いてしまうのは、「不謹慎」というものなのかもしれないが、三宅の強靱なことばの運動を呼んでいると、「死の準備」ということばを許してくれると思えるので、あえて書いた。






死者の国から―三宅節子詩集 (1978年)
三宅 節子
芸風書院
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三宅節子『砦にて』(2)

2011-09-10 23:59:59 | 詩集
三宅節子『砦にて』(2)(思潮社、2011年07月31日発行)

 三宅節子のことばはとても強い。強い--というのは、ちょっと他に説明のしようがないのだけれど。
 たとえば「風を待って」。

海から長い坂道を登りつめた丘の上で
砦は息をひそめて風の行くえをさぐっている
かつて風の群れがやって来て足もとの土をえぐり
砦を根こそぎ空中へ投げ飛ばしたことがあった
あの時は石の壁から翼が生えて大風に乗り
海を越えてナスカの地上絵を見に行った
こんど風がやってくるのは いつなのか
このあたりでは風の動きはことさら気まぐれで
砂地にしみこむように姿を消したが最後
どんなに呼んでも そよとの微風も立ちはしない

 「砦」には三宅独自の思いがこもっている。詩集の巻頭の「砦にて」には、

海から登ってくる坂道の上に
私は時の見張りの小さな砦を建てた
その中に棲みつくようになってから
どれほどの季節が過ぎたろう

 「砦」とは「三宅」の「比喩」なのである。「海から長い坂道を登りつめた丘の上」の砦、「海から登ってくる坂道の上に」建てた砦--これは、詩は違うが同じ「砦」である。「私=三宅」の同義である。
「砦」として、「時」をみはりながら生きている。それが「三宅」なのだが、「砦」というものは動かないものである。その動かない「砦」が「風」にのって旅をする。
 そのとき「風」とは何か。
 「想像力」と言ってしまうのは簡単である。「詩のインスピレーション」と言ってしまうのも簡単である。
 でも、そういうことばをつかってしまえば、どんな詩でも「説明」できる。そして、どんな詩でも「インスピレーション」によって動いているという「括弧」のなかに閉じ込めてしまうことになる。
 それでは、おもしろくない。
 そこにどんなことばがつかわれているか--いま、書かれているのは「風」なのだが、その風はどんなことばととも動いているか、それが「砦」にどう影響しているかを、「インスピレーション」ということばをつかわずに追ってみたい。
 私が最初に驚くのは、

風の群れがやって来て

 である。「風」は「群れ」を作るのか。「群れ」というのは、「個」があって「群れ」になる。「個」が集合して「群れ」になる。
 私は「風」、つまりその素材(?)である「空気」を「個」として感じたことはない。どこまでもつながっている。切れ目がない。区別がつかない。
 しかし、三宅は、「空気」を「個」の集合としてとらえている。
 何によって? 眼(視覚)? 肌(触覚)? 耳(聴覚)? 鼻(嗅覚)? 舌(味覚)? --どれも違うようである。
 「足もとの土をえぐり」とある。風は、まるで「手」のように動くのである。
 さらに「根こそぎ空中へ投げ飛ばした」というのだから「手」だけではなく、もっと大きい「肉体」全体をもっている。
 風は、まるで人間のように「肉体」をもっている。そして、それは「群れ」となるとき、「集合」ではない。「群れ」は「集合」をあらわすことばだけれど、「群れ」という「ひとつ」のことばであるように、「群れた」瞬間、「ひとつ」の巨大な「肉体」になる。「個」は「個」であって、「個」ではなくなり、「個」でなくなるときに、また「個(ひとつ)」になる。
 そういう運動を三宅は、どこでつかみとるのかわからないが、はっきりと感じる。その「はっきり」と感じ取るときの「はっきり」が強烈にことばのなかに残っている。
 「個」は「個」であって、「個」ではなくなり、「個」でなくなるときに、また「個(ひとつ)」になる--という「風(空気)」の運動は、その運動をつかみ取った瞬間、三宅自身にも影響してくる。つまり「砦」にも影響してくる。「砦」は風の運動を知ったために「砦」ではなくなる。

あの時は石の壁から翼が生えて大風に乗り

 「砦」に「翼が生え」る。翼が生え、風に乗るとき、「砦」と「砦」ではなく「鳥」である。三宅の「肉体」そものが、変わってしまうのである。

 --このことを、私は、ちょっと言い換えてみたい。ことばを変えることで考え直してみたい。
 この詩は(あるいは、他の三宅の詩は)、「私」を「砦」と呼ぶことからはじまる。「私」は「砦」ではないが、ことばで「砦」にしてしまう。ことばの方へ「肉体」を突き動かしていく。ことばで「肉体」を「砦」にしてしまう。
 そうすると、そのとき見えてくる「世界」は人間がふつうの「肉体」をいてきているときのものとは違ってくる。
 たとえば、風は「群れ」をつくりうる「個」として見えてくる。そして「風」を「群れ」と呼ぶことばの力は、「肉体」に作用して、あるはずのない「翼が生えて」きて、砦は投げ飛ばされたことを利用して、飛んで行くのである。
 この変化を三宅は「あたりまえ」のような感じで書いている。何の迷いもなく、強いことばで書いている。そのことばのなかでも、特に強いのが「生えて」である。
 「生える」。
 そこにないものが「生まれてくる」。 
 それは「肉体」のなから、新しいものが「異形」として誕生し、生きていくことでもある。
 ことばを語ること--それは、三宅にとっては、新しい「いのち」を生きることなのである。
 そういう「決意」が三宅にはあって、その決意がことばを強靱にしているのだと思う。「肉体」をも「強靱」に変形させるのだと思う。

 「風を待って」の2連目。

だから風を呼ぶためには 全身全霊をこめて
時をはかり風の心を読みとらなければならない

 「全身全霊」。あ、私は、こういう「精神的なことば」が苦手なのだけれど、そうなのだ、三宅はことばに全身全霊をこめているのだと思う。
 「全身」とは「肉体」のすべてであろう。「全霊」とは「精神(こころ)」のすべてだろう。三宅は、その「肉体(身)」と「精神(霊)」をひとつのことばに硬く結びつけている。「ふたつ」のものを「ひとつ」にしてしまっている。
 「肉体」は「精神」であり、「精神」は「肉体」である。「肉体」は「ことば」であり、「ことば」は「肉体」である。
 この区別のなさが、三宅のことばの「強さ」の源であると思った。






神々の戦略―三宅節子詩集 (1979年)
三宅 節子
芸風書院
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三宅節子『砦にて』

2011-09-09 23:59:59 | 詩集
三宅節子『砦にて』(思潮社、2011年07月31日発行)

 三宅節子『砦にて』は独自のことばで動いている。そのために、ぐい、と引き込まれる瞬間がある。
 「過去への旅」のなかほど。

夜行列車の車窓をよぎるどの面影も
記憶の中のもっとも優しげな笑顔を見せ
早く昔の川をさがしに行こうと誘いかけてくる
ふるさとの駅に降り立つと
過去は過去で独自に進化していたことがわかった
コスモスがゆれていた風の平原には
銀行や商店のビルがびっしりと蝟集して
獰猛な息づかいでうずくまっていた
川は未来へ向かって荒れ狂う濁流だった
山裾の墓地はあちこちの山へ増殖をはじめ
濡れた樹々が必要以上にゆっくりと
息を吸ったり吐いたりしていた
気がつくと私もまた
同じリズムで息をしているのだった

 「過去は過去で独自に進化していたことがわかった」に私は引き込まれた。
 ふるさとを出てから何年にもなるのだろう。もどってみると、「私(三宅)」が変わったようにふるさとも変わっていた。その「ふるさと」を「ふるさと」という「場」を指すことばではなく「過去」という時間をあらわすことばで指し示しているところに三宅の「哲学(思想、肉体)」が出ている。
 どのような「場」も「場」だけがあるのではない。そこには「時間」もある。「場」と「時間」がからみあって「ふるさと」がある。「かわった」のは「場」ではなく、「時間」である。いや、その「場」を構成するものがかわったのだけれど、その変化は「時間」がもたらしたものである。コスモスの平原から銀行や商店のビルへの変化は、「時間」がもたらしたものである。
 このことを、三宅は「わかった」と書いている。そして、この「わかった」こそ、三宅の「哲学」の核心であると思った。
 「知った」と比較してみるとわかりやすくなるかもしれない。
 ふるさとが変化している(進化している)。それは、たとえば誰かから聞いて「知る」ということがある。また写真を見て「知る」ということもある。三宅は、そういうふうに「知った」のではない。「他人」を媒介にして、情報を得ることで「知った」のではない。直接、そこへ行って、自分の目で見て「進化」を「知った」。そして、それが直接三宅の「肉体」を通っているから、それは「知った」ではなく「わかった」なのである。
 「知った」と「わかった」の違いは--「知った」こと(他人から情報を得たことがら)は、それを「繰り返す」ことで誰か別のひとに伝えることができるが、そのときの「情報」はあくまで「繰り返し」である。「情報」に「変化」を加えてはいけない。加えると間違える」可能性があるだ。
 「わかった」は違う。三宅自身で「自在」につくりかえることができる。加工することができる。たとえば、銀行や商店がビルになっている。ビルがたくさん立っている。そのことを、

蝟集して

 と書く。私はこのことばをはじめて知ったが(辞書をひいて調べた)、「はりねずみの毛のように、多く集まるのをいう」(「漢語林」大修館書店)。あ、はりねずみって、日本にもいた?(中国にもいる?) と、一瞬驚くのだが、三宅はそのことばを知っている。わかっている。だから、だれもつかわないような(つかっているひとがいるかもしれないが、少ないだろう)ことばで、ビルの立っている様子を描写できる。
 さらに、その「はりねずみ」から、

獰猛な息づかいでうずくまっていた

 が力強く動いている。「蝟集」→はりねずみ→獣→「獰猛」→獣→息づかい(野生、荒々しさ)→うずくまる→はりねずみが毛を逆立てて丸くなっている→「蝟集」、というような、ことばの動きが感じ取れる。ことばが、緊密に呼応しているのが感じられる。
 さらには、そのことばの奥には「進化(論)」が隠れている。動物から人間へ、野生から文明へ。そういうことを「進化」と呼びがちだが、そういう運動とは別のものもあるかもしれない。「過去」へ旅するように、文明を破壊し野蛮へもどるという運動もあるかもしれない。
 そういうことも三宅は考えているかもしれない。
 三宅のことばには、つまり、いろいろなものがつまっている。そのいろいろなものを、関連させる形で、宮家流に動かしている。つかいこなしている。
 こんなふうにことばを動かすことができるのは、三宅が、「ふるさと」を、その「時間」の進化を三宅自身の「肉体」で見ているからである。そこに「肉体」が参加しているからである。「肉体」が、現実を、そしてことばをわかっているからである。
 「蝟集」も「獰猛」も、三宅は「知っている」のではなく、「わかっている」。だから、そのことばにあわせて「濁流」とか「増殖」というような「漢語」を同時に制御できる(つかいこなせる)のだ。
 
 三宅の「肉体」をさらに感じさせるのは、

気がつくと私もまた
同じリズムで息をしているのだった

 である。
 ふるさとにある木々。その木々が呼吸している。その呼吸と「同じリズム」で三宅も呼吸する(息をする)。息をするリズム--これは「肉体」そのもののリズムである。「頭」で考えるのではなく、「肉体」が「ふるさと」と反応し、呼応している。
 「肉体」でつかみ取ったものを「肉体」をとおしてはきだす--息を声にし、声をことばにする。その強さが「わかった」ということである。

 この「わかった」は「知」ではない。「知る」とは無関係のものである。つまり、「間違っている」可能性がある。「流通言語」として「世間」には「流通」しえないものを含んでいるかもしれない。だが、だからこそ、「わかった」なのである。
 「知っている」ではなく「わかっている」。「知っている」ことは「知ったことそのまま」に繰り返すしかないが、「わかっていること」は何度でもことばを変えながら、声にだしつづけることができる。
 三宅は、この詩集では「知っていること」ではなく、「わかっていること」を繰り返し繰り返し、ことばをかえて語る。ことばを、そんなふうにつかいこなしている。
 言い換えると、何度も何度も三宅の「肉体」の中へ中へと「旅」して、彼女自身の「肉体」の奥から「息」をはき出し、声にしている。「息」はこのとき「生き(る)」であるかもしれない。

シャワールームの鏡を通り抜けると
海辺の街は不思議な変身をとげていた
鱗のある太古の木が遊歩道を歩きまわり
瀟洒な洋館がゆらゆらと漂っていた
                               (「海辺の街」)

 これは、「精神(頭)」が見た「まぼろし」ではない。三宅の「肉体」の力が、その呼吸が、まわりにあるものを変身させるのである。
 「過去への旅」では木々に呼吸をあわせたのは三宅だったが、「海辺の街」では古木が三宅の呼吸にあわせて「同じリズム」を生きる。そのとき「洋館」というもの、いきものではないものさえ、動きはじめるのである。




砦にて
三宅 節子
思潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(230 )

2011-09-09 10:14:09 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。
 西脇のことばと音楽について考えるとき、次の部分はとてもおもしろい。

さてさて農夫の仕事はつらいものだ
夏など洗濯する衣が沢山ある
雲の上からは声がきこえなくなつた
柿の木の下で長い夜をひとりでねむるとは
ヤマノベの細道からフジをみるとは
おく山で鹿の鳴くのをきくとかなしくなる

 これは「百人一首」である。
 「さてさて農夫の仕事はつらいものだ」は「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」、「夏など洗濯する衣が沢山ある」は「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」。
 少し前に「結局買ったのは中学生の使つた百人一首の/註釈本」ということばがあるが、これはほんとうのことだったのかしらねえ。(笑い)その註釈本をぱらぱらめくりながら、「現代語」で書き流している。50行くらいつづく。なかには「君に差上げようと野原に出て/若菜をつんでいると淡雪が降つて来て/私のそでにふりかかつた」というていねいな(?)「現代語訳」もあるが、たいていは一部を叩き切るようにしてほうりだしてある。
 私は、そのなかでも「夏など洗濯する衣が沢山ある」がとてもおもしろいと思う。持統天皇の歌は、とても絵画的である。白くはためく衣が印象的である。初夏の透明な光がみえる。「衣ほすてふ」の「てふ」から、蝶々のひらめきも見えてくる。そういう「視覚」の世界が消えて、かわりに「洗濯」「沢山」という「音」のおかしさが楽しい。
 「沢山」はたぶん、前の行の「農夫の仕事はつらい」の「つらい」がひっぱりだしたことばで、「沢山」という「音」が「衣」を「洗濯」という音を引っぱりだしたのだろう。 こういう操作は西脇の本能のようなものかもしれない。
 西脇は、日本語(日本人)が知らずに身につけてきたことばをリズム、音のつながりを、断ち切って「音楽」をつくろうとしているように感じる。
 「万葉」から「古今」にかわったとき(?)、日本語の「音」のひびきは劇的に変わった、口語が文語に変わったという印象が私にはあるのだけれど、その文語をもう一度口語にひっくりかえすような変化を西脇のことばに感じる。
 こういうことは、まあ、印象に過ぎないので、うまく説明できない。
 でも、私の「西脇論」は印象、ここが好き、ここが嫌いということを書いているだけなので、説明できないくてもいいのだと思っている。

柿の木の下で長い夜をひとりでねむるとは
ヤマノベの細道からフジをみるとは

 この2行というか、2首の口語訳というか……。笑いだしてしまうなあ。
 「柿の木の下」って、百人一首に柿の木が出てくる? 思い出せない。「洗濯(もの)」が「衣」なら「柿の木」は何を「現代語」にしたもの?
 あ、そうじゃないんですねえ。
 柿本人麻呂。あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む。
 「ヤマノベの細道からフジをみるとは」も似たような感じの「訳」である。
 山部赤人。田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士のたかねに雪は降りつつ。
 フジは「藤」。「柿の木」を引き継いでいる。「富士(山)」でもいいのだろうけれど、「ヤマフジ」を思うと、山の中をさまよう感じがして、次の、

おく山で鹿の鳴くのをきくとかなしくなる

 が自然に感じられる。
 西脇は、ただ百人一首を「現代語訳」しているのではなく、百人一首をつないで長い長い1篇の詩にしようとしている。
 そのとき、たとえば「柿の木」から「フジ」への変化(移行?)が何によるものか--「肉体」のどの部分が反応してそういうことばが出てくるかを考えたとき、私には「視覚」ではなく「聴覚」が反応しているように思えるのである。
 私が読んでいるように「藤」ではなく「富士(山)」なら「視覚」だろうけれど、「藤」なら「聴覚」と思うのである。「柿本柿本人麻呂」→「山部赤人」→「富士」までは「肉体」は動かない。「富士」が「フジ」という「音」を媒介にして「藤」にかわるとき、そこに「耳」の「誤読」が入ってくる。
 どの「肉体」の器官をつかって「誤読」するか--その「誤読」の器官が、その詩人の本質(本能)のようなものだと、私は思っている。





Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター
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山本博道『光塔の下で』

2011-09-08 23:59:59 | 詩集
 山本博道『光塔の下で』を読みながら、困ってしまった。巻頭に「ベナレス」という作品がある。その最終連。

濡れたままホテルに帰り
チーズとトマトとオニオンで
オムレツを作ってもらう
あとはパン、鶏のから揚げ
コーヒーとフルーツの朝食
写真で見たベナレスの方が
ずっと厳かだったと思いながら
雨には勝てないのかとそれが不思議で
もう一杯コーヒー、プリーズ
雨はホテルの窓を濡らし
菩提樹を濡らしユーカリを濡らし
アグラへと向かう夜汽車の中まで
音もなく降り続いていた

 何が書いてあるのか、さっぱりわからないのである。「意味」だけなら、きのう読んだ北川透の詩よりは、他人に伝達できる。つまり、山本が書いているのは、こういうことだと間違いなく伝えることができると思う。
 山本は雨に降られてホテルに帰って来て、朝食を食べた。オムレツとパンと鶏のから揚げ。食べながら(食べたあと?)、山本が見たものよりも「写真で見たベレナスの方が/ずっと厳かだ」と思った--と他人が思ったことなのに、「正確」に伝えることができる。「現実」は厳かではなかったのだ。
 ふーん。
 でも、「写真の厳か」と「現実の厳かではない」の違いって、どこにある? あ、これは変か。「写真の厳か」と「現実の(そこにあった)厳か」って、どこが違う、というべきなのかな? 「写真の厳か」と「現実にある厳か」の違いを山本は識別し、「写真」の方が「厳か度(?)」においてすぐれていたと判断したのだが、その「厳か度」って、なに?
 それがぜんぜん、わからない。
 まるで、「正九千九百九十九角形」と「正一万角形」とでは「辺の数が一本違う」と言われたときのように、たしかに「違う」のだろうけれど、それって、どういう「意味」? そんなものが違っていたからといって何か関係ある?
 「正九千九百九十九角形」と「正一万角形」なんて、「頭」のなかでは「正確」に違いを言えるけれど、現実にそれがあったとして、区別できる? 目で見てわかる? 手で触って(指でたどって)わかる?
 わからないよねえ。
 職人の世界では、たとえば「旋盤」で仕事をしているひとの世界では、〇・〇一ミリ違っても指で触ってわかるということがあるみたいだけれど、それはプロの世界。一般にはわからない。デジタル計測器ならきちんと数字が出てくるからわかるかもしれないけれど、アナログ計測器では「測り間違い(誤差)」ですらないよねえ。

写真で見たベナレスの方が
ずっと厳かだったと思いながら

 これは、ようするに「プロ」にしかわからない「違い」。「誤差」。
 「プロ」以外の人間には、その違いを「わかる」ためには「頭」のなかだけにことばをとどめおかなければならない。
 これでは、詩は、おもしろくない。

 詩は、そこに書かれていることばを、作者の書いた「意味」とは無関係に、自分に「流用」して(自分の気持ちのために、かっぱらって、剽窃して、強盗して)、「よし、わかった」と勘違いするためのものなのだ。
 あ、これこそが私のいいたかったこと、と勘違いすることなのだ。
 勘違いして、そこから自分のことばを動かしていくことなのだ。

 山本の今回の詩を読んでいると、そういうことは起きない。山本の書いていることばのをただ反復して、正確に反復できたから「わかった」と思うことしかできない。
 ことばが広がっていかない。
 「海外旅行記」は読めども読めども、どこにも迷い込んでしまわない。活字が動いていかない。あ、その曲がり角を曲がって、その路地へ入っていってみて、というような感じで、その世界へ入っていけない。世界が山本のことばで封印されてしまっている感じがする。
 認知症の「母(だろう)」のことを書いた詩も同じである。どこにも、肉体をぐいと引き込むことばがない。山本は介護で苦労しているのだろうけれど、生きていることの不思議さ、理不尽さ、逸脱がない。山本に言わせれば、認知症のひとといっしょに暮らすことが理不尽である、逸脱であるというかもしれないけれど……。

 私は何かの「写真」を見たいのではない。つまり、山本の「こころ」を写した「写真」(正確な再現)ではなく、「手書き」の不正確さ、不正確でしかつかみとれない「欲望」(本能、肉体)を読みたい。





光塔(マナーラ)の下で
山本 博道
思潮社
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ジョー・ライト監督「ハンナ」(★★★)

2011-09-08 12:08:04 | 映画
監督 ジョー・ライト 出演 シアーシャ・ローナン、ケイト・ブランシェット、エリック・バナ

 シアーシャ・ローナンをはじめてみたのは「つぐない」だった。とても透明な演技をしていた。肉体がそこにあるのに、肉体であることを感じさせない。というと変だけれど、こころ、いや精神がすっきりと見えるのである。若いときのレオナルド・ディカプリオに似ている。肉体がはじめからそこにある感じで、全体にとけこみ、スクリーンの精神を統一して動かしていく。
 「つぐない」では、姉の恋愛をじゃましてしまう幼い少女の、とりかえしのつかない「意地悪」をしてしまう役どころだが、おもわず許してしまう。その「気持ち」がまるで演じているシアーシャ・ローナンの肉体のなかにあるのではなく、見ている私の肉体のなかにあるような感じがする。スクリーンに引き込まれる、というより、劇場全体がスクリーンになって、シアーシャ・ローナンと私の区別がなくなる。シアーシャ・ローナンのなかで動いている「本能」が、私の「本能」になってしまう。--その瞬間的な、「本能」の一体化のようなものが、「肉体」にじゃまされずに、成立してしまう。
 まるで自分を見る、という感覚になる。そういう感覚に誘い込む演技である。
 この映画でも同じである。スクリーンに、何の違和感もなく溶け込み、スクリーンを統一し、彼女の動きにあわせてスクリーンが動いているような錯覚に陥る。
 映画のスタイルが違うから比較にならないかもしれないが、「レオン」のナタリー・ポートマンを思い浮かべると違いがわかる。ナタリー・ポートマンの方は、スクリーン(あるいはストーリーというべきか)から、いつも浮き上がっている。ナタリー・ポートマンの背後にストーリーがあって、ストーリーとは無関係にナタリー・ポートマンを見てしまう。まあ、それが俳優の肉体というものだから、どっちがいいとはいえない。ナタリー・ポートマンの方が「女優」の「資格?」が上という印象が残る。そういう「存在感」は私は好きではあるのだが、シアーシャ・ローナンの演技もとても好きなのである。
 あるいは、「わたしを離さないで」のキャリー・マリガンと比較するとおもしろいかもしれない。キャリー・マリガンの演じているのは、シアーシャ・ローナンと「同工異曲」の役どころである。DNA操作は関係ないかもしれないが、まあ、人工的につくられた「人間」である。キャリー・マリガンは「人工人間」なのだけれど「こころ」をもってしまったという役だから簡単には比較できないけれど、どうしてもその「肉体」の存在感、「肉体」が抱え込む「感情」が前面に出てしまう。(まあ、そういう役なのではあるけれど)。それはそれでいいのだけれど、そして魅力的なのだけれど、スクリーンを統一するときの「力」が違う。方法が違う。不透明さ、わからなさで統合してしまう。
 シアーシャ・ローナンは、そうではない。「わかる」ことだけで統一する。あまりにも「透明」に、まるで向こう側が見えてしまうような「肉体感覚」で統一する。向こう側というのは「肉体の内部」でもあるんだけれど。
 どうもうまくいえないが、ナタリー・ポートマンやキャリー・マリガンは、不透明さ(といっても、まあ、半透明といった方がいいかも)を前面に出すことでスクリーンを支配するのに対し、シアーシャ・ローナンは透明感でスクリーンを支配ではなく、内側から統一する。それがおもしろい。
 このシアーシャ・ローナンの演技が「化ける」と「エリザベス」のケイト・ブランシェットになるんだろうなあ。「人間」を演じているのだけれど、その演じている「対象」は「肉体」ではなく「精神力」。「精神力」というのは「肉体」と違って、見えないから、ちょっと困る。「肉体」なら、あそこが魅力といえば、それがそのものとして見えるけれど、「精神」は「ことば」にしないと見えてこないからねえ。--その、ことばにしないと見えてこないものを、シアーシャ・ローナンは、「肉体」を透明にすることでスクリーンにあふれさせる。
 うーん、と、私はうなってしまうのである。 

 そして、というのはちょっと飛躍があるのだけれど、このシアーシャ・ローナンの演技がそう思わせるのかもしれないけれど、この映画の映像の透明感がまた不思議である。シアーシャ・ローナンの演技が乗り移ったよう感じがする。
 雪の森。モロッコ(だったっけ?)の砂漠。ベルリン。舞台は大きくかわるのだけれど、どの風景もよごれていない。荒れた砂漠も、ごちゃごちゃしているベルリンも、「透明」である。別なことばで言うと、ストーリーをぜんぜんじゃましない。
 ある意味で、まるで「頭の中」を見ている感じ。「頭」なのかで動くものは「知っているもの」だけだが、どの風景も見た瞬間から「知っている」という感じで「肉体」になじんでくる。
 その「知っている」世界で、最後に、ほら、「知っている」ことばが繰り返されるでしょ? 「心臓をはずしちゃった」(アイ・ブ・ジャスト・ミスド・ユア・ハート、かな?)というシアーシャ・ローナンことばが繰り返され、「映画」が閉じられる。
 
 「つぐない」のジョー・ライト監督とシアーシャ・ローナンで、「つぐない」とはまったく違った映画を作り上げているのも、おもしろい。シアーシャ・ローナンに何ができるか、ジョー・ライトにもわからず、試行錯誤しているのかもしれない。
 このふたりの次の映画こそ、おもしろいのかもしれない。



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北川透「》……《以後的体験 補註六片」

2011-09-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「》……《以後的体験 補註六片」(「耳空」6、2011年08月25日発行)

 北川透「》……《以後的体験 補註六片」はタイトルを読んだだけでは何のことを書いているのかわからない。「六片」のうちの最初の「補註1」というのを読んでもわからなさにはかわりがない。

ガリヴァーは岸辺に辿り着いたのに何も見ていない
ガリヴァーは渚で鳴いているアルミ缶の声を聞いていない
ガリヴァーは干からびた金魚が盛んに身籠っているのに感じない
ガリヴァーは懸命に告白している雨雲の舌に舐められている
ガリヴァーは紺碧の水平線に刃向かう凶器の震えを知らない
ガリヴァーは彼の網膜の視神経繊維が 無数の漁火に反応して 切
れたり 乱れたりしているのに痛みを覚えない ガリヴァーは凡庸
な機器たちが勝手に複製した光景に 奥行きや襞々を与え 無数の
意味のカバーを掛けているのに気づいちゃいない
ガリヴァーは拡声器のコードが外れているのを知らない

 北川の書いた詩集の「註釈」と読むべきなのかもしれないが、註釈だけ提出されてもねえ。読者は北川の詩集を取り出してきて、これはどこそこの補注に違いない--と思いながら読むことを期待しているのだろうか。
 申し訳ないが、私は、そういうことはしない。ただ、ここに書かれていることばをそのまま読むだけである。北川が「補註」として書いたものであっても、その「対象」がそこに書かれていないなら、「補註」であることを無視して、ただ読んでしまう。
 そうすると、そこに書いてあることがさっぱりわからない。

 のだけれど。
 では、それがおもしろくないかと言えば、そうではない。1行目は、何気なく読んでしまう。ガリヴァーは漂着したとき、どうしたんだっけ? 私は「ガリヴァー旅行記」を思い出そうとするが、漂着したときのことは思い出せない。
 で、その次。2行目。

ガリヴァーは渚で鳴いているアルミ缶の声を聞いていない

 私は、ここでこの詩が好きになる。海岸にガリヴァーが漂着したように、アルミ缶も漂着している。これは、まあ、現代の風景である。そういう風景は私も見たことがある。見たことがあるが、「鳴いているアルミ缶の声」は聞いたことがない。
 アルミ缶が鳴くのか--と言われれば、鳴かないかもしれない。けれども、ことばは、その鳴かないアルミ缶が鳴くと言ってしまうことができる。さらに、その声を聞いたかどうかを問うこともできる。
 そのことばの「力わざ」にぐいとひっぱられてしまう。そして、私はガリヴァーになってしまう。
 私は何も見てこなかったし、聞いてもこなかった、何も感じてこなかったと気づくのである。
 で、その「何も」、ということを北川の「ことば」に則して箇条書きのように抜き出してみようとすると、とても変なことに気がつくのである。
 「見ていない」「聞いていない」までは、「何も見ていない」「アルミ缶の鳴き声を聞いていない」と簡単に(?)書けるのだが、それ以後がうまくいかない。
 何を感じない?
 干からびた金魚が身籠もっていることを感じない? いや、違うようだ。「身籠っているのに感じない」--というのは、身籠もっているのに「何か」を感じない? もしかすると「目的語」というか、「補語」というか、「何か」が省略されている? 不快感を感じない? それとも快感を感じない? セックスの興奮を感じない?
 よくわからないまま、北川の「感じない」ということばまで一気に読んでしまう。
 次は、もっと変である。

ガリヴァーは懸命に告白している雨雲の舌に舐められている

 ガリヴァーは、「舐められている」。「懸命に告白している雨雲の舌に」? その雨雲は何を告白している?
 ということよりも、「見ていない」「聞いていない」「感じない」と「舐められている」は、どうも違う。「見ていない」「聞いていない」「感じない」は「自動詞」である。「主語(ガリヴァー)」が「見ていない」「聞いていない」「感じない」。「舐められている」も「ガリヴァーが」なのだけれど、このときガリヴァーは受け身だねえ。
 どうも「文法」が狂っている。
 はずなのだけれど、そうとも言い切れない。
 「見ている」「聞いている」「感じる」も、もしかすると「受け身」かもしれない。
 あるいは「舐められている」も「受け身」ではなく、「能動」かもしれない。
 「能動」「受け身」というのは、実際に人間の肉体が動くときには、関係ないことなのかもしれない。「文法用語」がかってに区別するだけであって、「肉体」には「いま」があるだけで、その「いま」のなかには、いろいろなものが混じり合っている。
 「見ていない」「聞いていない」「感じない」は別々の「肉体」に起きたことではなく、ひとつの「肉体」に起きたことである。そして、その起きたことというのは、北川のことばの順序にしたがえば「見ていない」「聞いていない」「感じない」だけれど、ほんとうに、そう? 違うねえ。
 それは「同時」に起きている。
 「舐められている」も、その後の「反応して」も、「覚えない」も、「気づいちゃいない」も、すべて「同時」である。「同時」であるということは、それはみんな同じであるということだ。

 「動詞」は入れ替わってもいいのだ。

 もちろん、目的語というか、補語というか、そういうことばも入れ替わってもいい。当然、「主語」だって入れ替わってもいい。
 というか、北川は、「文法」がかってに名前をつけているあらゆることを「入れかえる」。自在に、攪拌し、融合させ、動かしつづける。
 そのとき、何が起きるか。
 世界が、ずれる。世界が、拡大する。
 「補註」そのものも、ある「世界」に何かを付け足すことで「世界」を拡大することだが、それは実は世界の外から世界への接近ではなく、世界の内部からの「逸脱」なのだ。「補註」を「内部からの逸脱」として考えるとき、この作品の、「力わざ」の「力」のようなものが見えてくる。
 「動詞」が入れ替わるとき、肉体の内部で、「定義づけられていた感覚の運動」が入り乱れる。他の感覚を刺激し、見ると聞くが混同される。「鳴いているアルミ缶の声を見ていない」といっても間違いではなくなる。
 「学校教科書の文法」ではまちがいだけれど、「肉体」の生き方としては、ぜんぜ、間違っていない。

 あ、でも、北川は、北川のことばは、どうしてこんなふうに動くことができるのか。
 「文体」が強靱なのだ。いくつもの「文体」を生きてきた「肉体」が、ことばそのものをのっとり、ことばが「肉体」になっているのだ。(ことばの「肉体」を「文体」というのだ--と書いてしまえば、同義反復になってしまうのだが……。)
 「見る」「聞く」「感じる」、それから「舐められる」までも、同じひとつの「肉体」として引き受ける。そうすることで「肉体」そのものの内部を鍛える。いつでも、どんな動詞にでもなれる「肉体」を作り上げる--作り上げてきた、その蓄積が北川のことばのなかにあるのだ。

 こんなことは、北川の今回の作品への「感想」にはなっていないし、「批評」にももちろんなっていないのだが--まあ、いいのだ。(あ、無責任な言い方で、ごめんなさい。北川さん。)そこに叩いても壊れない強靱な「文体」がある、と感じれば、それでいいのだ、と私は思っている。
 北川自身も「内容(意味)」が問題なのではなく、「文体」こそが「思想」と考えているようである。(私は「思想」を「肉体」と呼ぶのだが……。)
 で、北川が「文体」こそが「思想」であると考えていることの証拠というか、「補註」を最後に引用しておく。同じ「耳空」の「風子解体あるいは懐胎(6)」という文章で、北川は坂口安吾について触れながら、次のように書いている。

文学にとって、哲学などは身勝手に(あるいは反論理的に)利用すればいいだけの、親しい隣人に過ぎません。文学は論理ではない。徹底的に語り方、つまり、文体の問題です。文体とは、縮めて言えば、思想としてのレトリックのことでしょう。


海の古文書
北川 透
思潮社
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渡辺玄英「ひかりの分布図」

2011-09-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺玄英「ひかりの分布図」(「耳空」6、2011年08月25日発行)

 詩は気まぐれである。--という表現が適当かどうかわからないが、詩を読んでいて、ときどき変なことが起きる。ぜんぜんおもしろくない、と思っていた詩がある日突然おもしろくなるときがある。そして、突然、嫌いになるときがある。
 渡辺玄英。私は、渡辺の詩では「水道管の上で眠る犬」という初期の作品が好きだ。初期の作品のなかでは、それだけが好きだし、それ以後の作品もあまりおもしろいと感じたことはない。
 ところが、「ひかりの分布図」の1連目はなぜかすーっと私の「肉体」になじんだ。渡辺のことばがかわったのか、それとも私の肉体が変わったのか。私は渡辺の熱心な読者というわけではないので、よくわからない。
 こんなことは、たぶん「比較」してみても、あまり効果がない。過去の作品も、どうしても「いま」から見つめなおすので、「比較」にはならない。だから、今回の作品についてだけ書く。

いまは風景の破片になろうとして
このように帯びた他しくわたくしはくるくると
方位をかえながら流れていく
(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?
流れていくくるくる(いいだろう、こんなに回って
はためく風景のはためき(笑えよ、風景のように
未来のわたしくしは将来これを見る
ことになる(なるに違いなく(なるかもしれず(なるだろう
鳴るのは何?
鐘の音?(違うよ、遠く
遠くで空が割れる音
未来はくるくるまわりながら

 ことばは、どこへ行くか「予定」していない。--その感じ、「決定されたものなどない」という感じが、この詩では気持ちよく伝わってくる。
 「(いいだろう、こんなに回って」という「肯定」が、私の「好み」である。
 でも、何が「肯定」されているのだろう。

いまは風景の破片になろうとして

 この冒頭の「いま」が肯定されているのだと感じた。「いま」を「いま」として存在させる「わたしく」の肉体が肯定されている。

未来のわたしくしは将来これを見る
ことになる(なるに違いなく(なるかもしれず(なるだろう

 この「なる」の活用(?)もいいなあ。ことばが活用するとき(変化するとき)、そこに「時間」が生まれる。「未来」「将来」ということばは、「なる」の活用の前にあるけれど、その抽象的なことばのもっている「広がり」が「なる」の変化によって支えられているところに、「時間の哲学」がすーっと落ち着く。
 そして、「時間」のなかで感覚が「肉体」にもどる。
 その瞬間、冒頭の「いま」が、この詩の「主語」なのだとはっきりわかる。「いま」という「主語」があり、「わたしく」は「述語」なのである。「述語」を生きることで「主語」をのっとっていくということばの運動のあり方が、とても納得できるのである。

 「時間」のなかで感覚が「肉体」にもどる、というのは……。
 未来のわたしくしは将来これを「見る」--と渡辺の書いている「わたしく」は視力を生きている。「わたくし」は「視力」であった。だから「方位」が問題になる。「……はどちら」が問題になる。
 ところが「なる」の活用のなかで「時間」が広がると、その瞬間、「視力」ではないものがふいに登場する。
 「鳴る」「(鐘の)音」「(空が割れる)音」。耳が「いま」をとらえなおす。
 耳の遠近感は不思議である。「遠く」はほんとうに「遠く」なのか。「近く」でも「小さい音」は「遠く」感じられる。まあ、これは「視力」もそうかもしれないが、耳の方が遠近感はあいまいである。「音」はその瞬間瞬間に消えて「不在」になるだけに、とくに遠近感があいまいである。(持続的になりつづける音は、ちょっと除外して考えてくださいね。視力の対象は、たいてい「持続」して存在するのが一般的で知るのに対し、音は逆に「瞬間」的に消滅するのが特徴。)
 そして、このあいまいな「時間」の「遠近感」が、この詩のことばを強く動かしていく。

 未来はくるくるまわる--と渡辺は書くが、これは過去はくるくるまわると書いても同じことになる。未来、過去は、定められた「方向」ではないのである。
 私たちは「未来に行く」という。映画には「未来にもどる(バック・トゥ・ザ・フューチャー)」というタイトルもあったが、これは特別な用例であって、一般的には言わない。それでも、そういう言い方が、一回聞いただけで納得できるのは、未来、過去が一定の方向(方位)ではない証拠である。
 「過去」を例にするともっとわかりやすい。一般的に「過去へもどる」というが、「過去へ行く」は不自然でも何でもない。しょっちゅうつかわれる。
 「時間」は「肉体」のなかにある。そのとき「肉体」のなかではそれぞれの感覚は分節されていない。適当に(?)溶け合っている。
 こういう「感覚」が、私には、とてもなじみやすい。

 過去、未来は、「方位」ではない。それは「いま」の別の表現方法に過ぎない。だから、次のようなことばの運動がありうるのだ。

並木や街灯や建物がここから見える(ぜんぶ昨日燃えてしまった
あの黒いビルの横には
来月にはコンビニがあった(ごめん昨日まではそうだった
来年 立体駐車場の横に病院が 病院の横に郵便局があった
その先には寺があった 墓地にはわたしが眠っていた
(ごめんね昨日まではそうだった(ここは過去の未来だもの

 この過去と未来の交錯。入れ替わりの自在さ。
 「ごめん」がとてもいい感じである。「(わたしの=渡辺の)肉体」が、このことばを聴く(読む)ひとの「肉体」とは違っているから、そこには「通路」はない。そのことを、渡辺は「ごめん」というひとことで片づけている。その簡便さがいい。
 そして、そこには「肉体」の通路はないのだけれど、「ごめん」ということばがふつうにひきつれている「人間関係」があり、そこから「肉体」の接触点も探そうと思えば探し出せる。
 大事な「哲学」をこんなふうに軽々と疾走させることばの速度が、きょうはなぜか気持ちよく読むことができた。

 ただし。
 「音」(聴覚)は渡辺の場合、どうしても「従属的」に動いてしまう。「目」(視覚)が世界をリードしてしまう。その部分が、私には、気になる。最後まで、「いやな感じ」として残りはするのである。
 詩の最後の部分。

どこにも橋がみつからない(なつくさの音
川向こうからここを見たならすべては蜃気楼みたいだろう

 「とり」をしめる動詞は「見る」なのである。「いま」ではなく「ここ」が突然「主語」としてのさばり出てくるのである。
 これは、私の肉体にはつらい。暴力的な威圧を感じる。そこが、私は嫌い。



けるけるとケータイが鳴く
渡辺 玄英
思潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(229 )

2011-09-06 09:59:37 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。
 西脇のことばは「哲学」を語るときも、とても軽い。

なんと言つても生物は生物だ
でも生物としての宿命もあるが
生物であるということは
センザイ一隅の瞬間的な存在である
太陽系の宇宙では他に
ない存在であると思うと
なにか神秘的な意識に襲われる
スモモをかじつてソバをたべているときも

 生物、つまりいのちのあるものは「宇宙(鉱物の永久的運動?)」からすると「瞬間的」なものである、というのだが「センザイ一隅」ということばがここに結びつけられるとき、一種の「文体の脱臼」のようなものを感じる。えっ、そういうとき、そう言うの? 違うんじゃない? 「千載一遇」というのは、もっと違うときにつかうんじゃない? 「センザイ一隅」とカタカナと漢字を組み合わせた表記にも驚かされる。
 驚き--これが、西脇のことばを軽くする。ことばの「重力」から解放される。「意味」の重力から解放される。
 そうした純粋な(?)意味的驚きとは別に、西脇のことばにはもうひとつ特徴がある。
太陽系の宇宙では他に
ない存在であると思うと

 改行の仕方が独特である。「太陽系では他にない」と言えばふつうの表現である。(「意味」を読むときは、西脇の改行をねじ伏せる形で「他にない」とつづけて読んでしまうのだが……。)
 そのふつうの「文体」を解体して、「ない」を独立させる。
 さらに「ない存在である」と、えっ、これって矛盾していない。「ない存在」が「ある」--って、ないの? あるの? いや、それは「ない」ということが「ある」ということなんですよ。えっ、「ない」が「ある」って、変じゃない? 「ない」なら「ない」だけでいいんじゃない? なぜ、「ない」が「ある」と言わないといけない?
 そんなふうに、論理的に考えると、論理的にならないんだよ。ことばをぱっと瞬間的につかんで、ぱっと消えていくものをつかんでしまえよ。

 まあ、いいのだけれど。

 と、いうような具合に、ことばが右往左往する。それは「重く」なってもかまわない、というより、重くならざるを得ないことばの運動なのだけれど、西脇の場合は、なぜか、とても軽い。
 「他にない存在である」という散文の形式ではなく、「他に/ない存在である」という改行の「呼吸(息継ぎ)」が、「頭」ではなく「肉体」を揺さぶって、「頭」で考えることなんか、適当なことだと思わせてくれる。
 この「呼吸(息継ぎ)」は「意味」から言うと「乱れ」だが、「肉体」からみると新しいリズムの刺激である。みだれを利用して新しいリズムのなかで、ことばが「意味」から自由になるのである。「意味」が「音」になって、飛び散るのである。
 そして、「スモモをかじつてソバをたべているときも」という、とても「俗(身近な)」で具体的なことばが、「頭」を完全に吹き飛ばし、人間を一個の「肉体」にしてしまう。
 こういうとき、まさに「天体」(宇宙)が「人間」と対峙する形であらわれる。そして、そこに「さびしい」があらわれる。
 「人間存在(生物)」について考えることと、スモモをかじること、ソバをたべることは、同じことなのである--というと「哲学」(思考すること)が軽くなるでしょ? そこに、とてもおもしろみがある。


西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会
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黒岩隆『あかときまで』

2011-09-05 23:59:59 | 詩集
黒岩隆『あかときまで』(書肆山田、2011年08月30日発行)

 黒岩隆の『あかときまで』には余分なことばがない。ぎりぎりの、最小限のことばが、とても静かに、ただ、そこにある。どう読めばいいのかわからない。まるで読まれるのを拒絶しているような静かさである。
 「十五夜」の書き出し。

ガタッ と障子を開け
出て行ったのは
誰れ
この部屋に
ずっと閉じ込めていたのだろうか
遠くで
木戸の開く音がして
それっきり

その夜
まんまるの月が
木戸を潜り
縁側を渡り
空っぽの部屋に
背を屈めて入ってきた

 ここに書かれている「主語」がわからない。そのために、よけい「ことば」だけがここにあるという感じを与える。
 誰かが「この部屋」を出て行って、「月」になって帰ってくる。部屋の中に入ってくる透明な光を、黒岩はそんなふうに見ているのだろう。
 「背を屈めて」という描写は「月」ではなく、人間を思わせる。そのために「誰か」が出て行って、「月の光」になって帰って来たという印象になるのだが、この「背を屈めて」ということばは、しかし、「月」を見えなくさせる。透明な美しい誰かそのものの姿勢になって、そこにある。
 その誰かがまぼろしなのか、月の光がまぼろしなのか。区別がつかない。
 気になるのは「ずっと閉じ込めていたのだろうか」ということばの「主語」と「補語」である。「誰」が「誰」を閉じ込めていたのか。あるいは「誰」が「何」を閉じ込めていたのか。
 「私(黒岩)」が「誰」かを閉じ込めていたのか。
 違うだろう。
 もし、そうであるなら、「誰れ」ということばが指し示すものはわかっている。わからないから「誰れ」というのだ。
 「この部屋」には「誰か」がいた。そして、そこには「誰か」だけではなく、もうひとり、「誰か」がいたのである。「月」に通じる「誰か」、「月」という「比喩」としての「誰か」。
 「この部屋」の「主」を黒岩は知っている。しかし、その「主」が閉じ込めていた(隠していた)「誰か」を知らない。「この部屋」の「主」がどこかへ行ってしまったあと、その「主」が隠していた「誰か」が「月(月の光)」となって、「この部屋」へ入ってくる。その透明さ。そして、その透明さには、何か「部屋」へはいるとき「背を屈める」ような控えめな静けさがある。そういう「控えめな静けさとしての透明さ」--それに出会い、それこそが「主」である「誰か」の「本質」だと黒岩は気づいたのである。
 その瞬間、知っているはずの「主(誰か)」は、ほんとうに「誰か」になってしまう。それは哀しいことであるけれど、不思議な「初恋」のような感じもする。「誰か(知らないひと)」なのに、出会った瞬間、「そのひと」とわかる感じ……。
 
 その「初恋」の感じ、純粋な感じが、拒絶を感じさせるのかもしれない。
 ここに書かれていることばの、その世界へ入っていけるのは、そこに隠される形でかかれている「誰か」だけなのである。

 「水仙忌」という詩がある。そこに、

ここにいます
ここにいます

 という透明な「声」が書かれている。
 「水仙忌」の「忌」ということばを手がかりに考えれば、「水仙」にたとえられる「誰か」は亡くなってもういないということだろう。その「いま/ここ」にいない「誰が(知っている誰か)」が、「ここにいます/ここにいます」と語りかけてくる。それは「声」だけである。「声」だけだけれど、いや「声」だけだからこそ、より強く「肉体」を感じさせるのかもしれない。
 この「誰か」と「十五夜」の「誰か」は同じひとなのだろう。
 そのひと自身は、もちろん、いない。けれど、そのひとが隠していた「誰か」は、「月」になり、「水仙」になり、いつも、黒岩と一緒にいる。そして「ここにいます/ここにいます」と黒岩にだけ聴こえる「声」で語りかける。その「声」が聴こえた--そう「誰か」に告げるために黒岩は詩を書いている。
 そんなふうに読める。そんなふうに感じてしまう。
 「ここにいます/ここにいます」という「声」が聴こえた--そう告げる黒岩のことばは、その「誰か」にだけ聴こえればいい。だから、よぶんなことはいわない。「月(の光)」や「水仙」の透明さを傷つけない「いちばん小さい声」で黒岩は語るのだ。その切り詰めた響きが、黒岩のことばを貫いている。

 黒岩の詩のことばの静かな響き、透明な結晶としてのことば--その「秘密」を「精霊の朝」の最後で、黒岩は静かに語っている。

そこにあなたがいた

それは
いつも私の詩の
最初の一行 

 黒岩は、「あなた」にしか語りかけていないのだ。
 私はたまたま黒岩の詩集を読んでいるけれど、黒岩のことばは「あなた」だけに向けられている。
 だから、どこか読んでいて、拒絶されているような感じがする。
 「あなた」と黒岩のあいだで「完結した世界」のためのことばという感じがする。
 黒岩は、この「完結した世界」を詩にするために--つまり、読者に届けるために、あえて「そこにあなたがいた」ということばを省略しつづけたのである。
 黒岩は「最初の一行」と書いているが、「最初の一行」というよりも、あらゆる「行間」に存在する一行が「そこにあなたがいた」なのである。
 「十五夜」にもどってみる。

「そこにあなたがいた」
ガタッ と障子を開け
出て行ったのは
誰れ
この部屋に
ずっと閉じ込めていたのだろうか
遠くで
木戸の開く音がして
それっきり

 このとき、出て行ったのが「あなた」が閉じ込めていた「誰か」であることがはっきりする。黒岩は「あなた」を知っている。けれど、その「あなた」が閉じ込めていた「ひと(何か)」が「誰」であるか、知らない。
 「そこにはあなたがいた」(過去形に、注目)。そして、その「あなた」が出て行ったとき、「あなた」だけではなく、「あなた」が閉じ込めていた「誰か(何か)」も出て行った。それは黒岩の知らない存在だが、いなくなることによって、「いた」ことを知ったのだ。

その夜
まんまるの月が
木戸を潜り
縁側を渡り
空っぽの部屋に
背を屈めて入ってきた
「そこにあなたがいた」

 月の光が入ってきたとき「あなた」が「背を屈めて入ってきた」ように感じたが、それは「あなた」ではなく、「あなた」が閉じ込めていた「もうひとりのあなた」である。
 その「もうひとりのあなた」と出会うことで、黒岩は、もういちど「愛」を繰り返す--その静かな美しい「行為」がある。「肉体」がある。

 「あかときまで」という詩にも、「そこにあなたがいた」を補って読むことができる。

「そこにあなたはいた」
浜辺で
水鳥のように
浴衣の裾を翻し
大きく吸って
大きく吐いて
息と一緒に
海が 肺まで入ってきて
足もとから見えなくなってゆく

生きているのにいなののだから
いないのに生きているのだから
そのあわいに水脈をひいて
静謐な舟が渡ってゆく
「そこにあなたがいた」
あの舟に乗れば
もう 失くさなくていいのね

 「そこにあなたかいた」を補って読むと、黒岩のこの詩集はまるで「智恵子抄」のように胸に迫ってくる。その世界へ入っていくこと、その世界に対して感想を書くことは、何か純粋な世界を汚してしまうような感じがする。黒岩のことばの前で、私は一種の「畏れ」を感じる。そのために、拒絶されていると感じるのかもしれない。けれど、この拒絶の感じは、なんといえばいいのだろう、「排除」ではない。「排除」されているとは感じない。近づきがたい感じ、あまりにも美しすぎて……「こわい」感じがするのだ。
 「絶唱」には、だれも「声」をあわせることができない。その「声」を追って、歌うことはできない。ただ、聴くことしかできない。

 なのに、私は余分なことを書きすぎた。




海の領分
黒岩 隆
書肆山田
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誰も書かなかった西脇順三郎(228 )

2011-09-05 12:42:19 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。

鉄砲うちがヤマドリを売りに来た
店先きには褐色のウサギや
眼から血を出したイノシシが
ぶらさがつている南天もニンニャクと
いつしよにたらいの中にかすんでいる
来年は幸いイノシシの年だから
ヒエイ山のふもとに住むサクライの
タダヒトにタノンデイノシシの
ひもろぎを送つてもらうか
トラ年でもトラの肉はたべられない
自転車のブレーキのにおいがする
ベドウズの自殺論を読んだのか
投身した男の橋を渡つてミヤマス坂を
いそいでのぼつてみる--
あの古本屋のを精細にのぞいてみた
結局買つたのは中学生の使つた百人一首の
註釈本とバークレイの「視覚の新原理その他」と
「スカンポと息子」という日本語の表題が
ついている英国の本

 いろいろなものが同居している。「ヤマドリ」「ウサギ」「イノシシ」は、山の風景を思い起こさせる。「褐色」「眼から血を出した」という荒々しい感じが風景をさっぱりした感じにさせる。「血を流した」だと、たぶん、「さっぱり」とは感じない。「眼から……流した」が涙を思い起こさせるからだ。「流した」ということばの抱え込んでいる「文体」が「涙」を呼び出してしまう。何気なく書かれているようだが、西脇は、そういうセンチメンタルな「文体」を破壊し、ことばを動かしている。センチメンタルな「文体」を破壊しているところから清潔さが生まれ、また新鮮な音楽が生まれる。センチメンタルが拒絶された「場」だから、南天、コンニャクとイノシシ、ウサギ、ヤマドリが同居できるのだ。この同居を西脇は「いつしよ」という簡単なことばであらわしている。この素朴さが美しい。
 この「いつしよ」に「ヒエイ」や「サクライのタダヒト」という固有名詞もひきこまれていく。人間も動物も植物も区別がなくなる。そういう世界ができあがる。
 で、そういう世界には、それでは何がある?
 音がある、ことばが音としてただそこにある--というのが私の感じなのだが、そのことばがただ音としてある状態が詩なのだ、と言ったとき、誰かの共感を得られるかどうか私にはわからないが、こういう瞬間に、私は詩をたしかに感じるのである。
 西脇のように、ことばが「意味」によごれていない状態でことばをつかってみたいと思うのである。

 途中「トラ年でもトラの肉はたべられない」という冗談(だじゃれ?)のようなことばがあって、その次、

自転車のブレーキのにおいがする

 うーん、びっくりする。はっとする。
 自転車のブレーキのにおい、自転車にブレーキをかけたときゴムと鉄(金属)がこすれあって、焦げるような瞬間的なにおいがある--というのはたしかだが、そんなことを私は忘れていた。忘れていたことが、何の脈絡もなく(あるのかな?)、突然、ことばとなってあらわれる。そのことに驚く。
 それだけではない。
 前の行の「たべられない」ということばのなかの「たべる」という動詞と「におい」が刺激し合うのだ。
 「たべる」ということばがあるために、ヤマドリにはじまりウサギ、イノシシ、コンニャクと食べ物が刺激する肉体の「感覚」に「におい」が飛び込んでくる。ブレーキは食べられるものではないが、そうか、食べるときは「におい」を食べることでもあるのだと急に思い出すのである。もしかすると、イノシシにはブレーキの匂いがするかもしれない。あるいはトラにブレーキの匂いがするのかもしれない。--そんなことはないかもしれないが、「におい」ということばが、それまで眠っていた「感覚」を一気にたたき起こす。そのとき「食べる」という肉体の動きが同時に新しく目覚める。
 「たべる-においがする」が、肉体そのものを、肉体の中から新しく甦らせる感じがする。
 「自転車のブレーキのにおいがする」という1行は、なぜ、ここにあるのかわからないが、わからないけれど、その1行に目が覚めるのである。

 「自転車のブレーキのにおいがする」という1行は「無意味」かもしれない。けれど、その「無意味」がいいのだ。「無意味」に出会ったとき、「肉体」が目覚める。たよるものは「肉体」しかない。その、驚き。

 「結局買つたのは中学生の使つた百人一首の/註釈本」ということばにも驚く。なんとも美しい。「自転車のブレーキ」のように、素朴な「肉体」を感じる。人間の「肉体」のなかにある素朴なものが刺激される感じがする。「肉体」のなかの「時間」を思い出すのである。
 西脇にとって中学生の使った註釈本など、意味がないだろう。そんなものを読む必要はないだろう。必要はない、ということろに、大切なものがある。「百人一首の/註釈本」ではなく「中学生の使つた」ということばのなかにある音楽と時間がおもしろいのである。
 「スカンポと息子」というタイトルの本がほんとうにあるかどうかわからないが、このことばもいいなあ。「スカンポ」という音がいい。野生の美しさがある。野生の「さびしさ」がある。

 振り返れば(?)、自転車のブレーキのにおいも、野生のさびしさだなあ。説明はできないのだが……。


Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社
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房内はるみ「ふつうを生きる」、青山かつこ「喪服」

2011-09-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
房内はるみ「ふつうを生きる」、青山かつこ「喪服」(「この場所ici 」5 、2011年08月05日発行)

 房内はるみ「ふつうを生きる」も東日本大震災を描いている。

サンシュユの花がさいて 辛夷の蕾もふくらんで
土手の早咲きの桜も もうすぐひらくかしら
そんな季節の推移を だれもうたがわなかった

けれど 刃のように黒い波が日常を切りさいた

流されていく船、車、家、木、そして人
流れるということは 奪い去るという意味もあることを
はじめて知った

 「季節の推移」「日常を切りさいた」という表現は、私の好みではない。ことばへの疑問が欠けている。つまり、詩にはなっていない。
 けれど。

流れるということは 奪い去るという意味もあることを

 この1行には、びっくりしてしまった。「流れる」に「奪い去る」という「意味」はほんとうにあるのか。私は「流れる」を「奪い去る」という「意味」でつかった覚えがない。
 私は思わず広辞苑を引いてしまった。「流る」「液体などが低い方へ移動する」「移動によって無効になる」。私には、房内が書いている「意味」を見つけることができなかった。
 流される、その結果、消える--ということなら「月日が流れる」というような例があるが、「奪い去る」は、私にはみつけられない。
 そして。
 そのみつけられなかった「意味」に、私は詩を感じた。詩は、ことばの「意味」を無効にし、新しい「意味」をつくりだすことである。
 津波によって流される--でも、それは流されるのではない。あれは「奪い去られた」のである。房内ははっきりそう感じたのだ。いや、「知った」のだ。
 「知る」。広辞苑では「ある現象・状態を広く隅々まで自分のものとするの意」と定義している。「自分のものとする」。房内は、たしかに大震災を「自分のもの」にしたのである。「流れる」ということばに「奪い去る」という「意味」をつけくわえることによって。
 「ふつうを生きる」という作品は、全体としては強い力を感じないけれど、「流れるということは 奪い去るという意味もある」ということばによって、生きている。



 青山かつこ「喪服」は「意味」を語らない。「意味」にならないものが噴出してくる。そこが、「かなしい」。

鯨幕を背に
お辞儀を返している母は大儀そうだ
呉服売り場に設けられた祭壇の
叔母の遺影は十歳若い

むかしこの店で誂えた
絽の喪服
-義姉さんは丈夫だから きっと人一倍
 泣くようになるわね-
畳紙につつみながら叔母がいったという

 「叔母」が「母」に語ったことばは、まあ、体の丈夫なひとは長生きするから、その分、ひとの死を見送る。何度も何度も葬儀に出て泣くことになる、という「意味」ではあるけれど--こういうときのことばは「意味」ではない。そんな「意味」をわざわざひとに言い聞かせる必要はない。もっと違うものがある。

息子を喪い
兄弟を亡くし
多くの友を見送り
夫に先立たれ…

丈夫という哀しみが
母のまなこをくぼませている

 青山は、なんとか「意味」を書こうとしている(意味にしようとしている)。けれど、やはり何かが「逸脱」していく。「丈夫という哀しみ」。その「矛盾」。
 この「矛盾」は、「意味」ではない。
 「意味」(辞書にある定義)を通り越して、「自分のもの」にするしかないことがらである。

 房内が「流れるということは 奪い去るという意味もある」と書いていたが、その「意味」は「意味」ではないのだ。「意味」ではなく、「意味」を超えて、房内が知ってしまった(自分のものにしてしまった)、ことばの「矛盾」である。
 「矛盾」のなかには、詩があり、「肉体」がある、と私は感じている。



水のように母とあるいた
房内 はるみ
思潮社


詩集 あかり売り
青山 かつ子
花神社
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誰も書かなかった西脇順三郎(227 )

2011-09-04 09:46:37 | 詩集
 『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。--つづき、と書いたが、つづきではないかもしれない。適当にページを開いて、思いつくままに感想を書くのである。

ハチ公はまだ生きていた
あの牢獄のあるところの下の
道を川にそつてのぼると
シブヤの駅の前に屋台店を
出す人々のふるさとがあつた
犬はそれを知つて五時ごろになると
駅に出かけて屋台から屋台へと
ぐるぐるめぐつていると主人が帰つて来る

 「あの牢獄のあるところの下の」はとても変である。こんな日本語はない、というと語弊があるかもしれないが、こんないいまわしは、へたくそな中学生の「翻訳」のなかにしかない。しかし、へたくそだから、そこに「意味」ではなく、別なものが動く。(うまい、へた、というのは「意味」が簡潔に伝わるかどうかという「経済学」「流通学」の問題なのだ。--機能主義の視点なのだ。)
 「あ」の牢獄の「あ」るところ、あ「の」牢獄「の」あるところ「の」下「の」、あの「ろ」うごくのあ「る」とこ「ろ」のしたの……そのことばを駆け抜けていく不思議な音楽。耳に響くだけではなく、喉や舌や口蓋にも共鳴がある。
 そして、その行の「の」と「ら行」の交錯が、次の行の「のぼる」に自然につながる。「のぼる」は「下の」と「意味」でつながるけれど、「意味」よりも音の交錯の方が「肉体」に響いてきて、とても気持ちがいい。

 「意味」的におもしろいのは、「シブヤの駅の前に屋台店を/出す人々のふるさとがあつた」の2行である。「シブヤ(渋谷)」と「ふるさと」が突然、出会う。離れた場所が突然出会い、その瞬間、「ここ」が「ここ」ではなくなる。ふたつの「場」をつなぐ別の「次元」がはじまる。
 これは「意味の音楽」「意味の和音」のようなものである。
 西脇のことばは、こういう「意味の音楽」もおもしろい。それは、ことばの「音の音楽」が「肉体」を刺激するのに対して、「頭」を刺激する。
 「頭」が刺激されると、どうなるか。
 西脇は、不思議なくらい「正直」に、ことばを動かしている。

生物の忠節は待ち人の沈黙の
中に耳をそばだてて
永遠の旅人は帰らずを
知らないで町つづけている
噴水の永遠の海原の
さざなみしかきこえない
主人がもつていたあの森林も
今は税務署の空地になつた
文明の天変地異は
土手で摘草する女の
住むところを失くしてしまつた
ああ思考を極度に追つて行くと
こんなざまになる
生命を失つてセミのぬけがらだ
人間の思考をのばすといつも
説教に終わつてしまう

 「思考」(頭の中のことば)は「説教」になる。
 そうわかっているから、西脇は、そこに「説教」以外のもの、それ自体で動く「音楽」を、さっと入り込ませる。
 「噴水の永遠の海原の/さざなみしかきこえない」という「音」を「絵画」のように見せる運動。噴水のまわりの水面が海に変わり、また噴水にもどってくるすばやいきらめき。
 「文明の天変地異は/土手で摘草する女の/住むところを失くしてしまつた」という「翻訳調」の構文。「天変地異」を主語にするなら、住むことろを「奪つてしまつた」だろうし、「失くしてしまつた」を述語にするなら、「女は」住むところを失くしてしまつただろう。
 「文体」の意識を、西脇のことばはくすぐる。くすぐられて、私の中の「文体」がこそばゆい。そのこそばゆさのなかに、「音楽」としか言えないものがある。(もっとほかのことばがあるのかもしれないが、こそばゆさのなかを疾走するのは、私には「音楽」である。)
 そして、

こんなざまになる

 という突然の、粗野な口語。そのリズムが、こそばゆさを叩きのめす。
 こういう変化--動き、音のおもしろさは、西脇特有のものである。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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菊池唯子「日のおわり」、北川朱実「空の指」

2011-09-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
菊池唯子「日のおわり」、北川朱実「空の指」(「この場所ici 」5 、2011年08月05日発行)

 菊池唯子「日のおわり」は、とてもわかりにくいことばからはじまる。それは菊池が、まだだれも語っていないことばで何事かを語ろうとしているからだ。

ぬけつづける糸の束の
結び目のありか 色あいを忘れ
てのひらを丸めたかたちで
保っていたものの名も
忘れてしまって
遠くから寄せる波を 静かだと
言えなくなった午後

 「遠くから寄せる波を 静かだと/言えなくなった午後」という2行で、あ、菊池は東日本大震災のことを書いているのかもしれないと思う。「波」ということばだけで、私は「津波」を思ってしまう。それくらい東日本大震災の衝撃は大きかったのだ。
 この衝撃と、菊池はどんなふうに向き合うか。
 それが、なんとも不透明である。「遠くから寄せる波を 静かだと/言えなくなった午後」は、あ、津波だと思うのに、「ぬけつづける糸」がわからない。私は、それを見ていないのだ。津波の映像を私は何回も繰り返し見てしまった。それにつつて書いたことばも読んできた。けれど、そこに「ぬれつづける糸」があったとは知らなかった。
 「ぬれつづける糸」、さらに「糸の束」とは何か。「糸の束の/結び目」とは何か。そして、そこにふいにあらわれる「色あい」とは何か。
 菊池は何かを書きたいのだ。その書きたい気持ちが、少しずつ「糸」→「束」→「結び目」→「色あい」と動いていく。菊池が何かを追っているということがわかるが、何を追っているかわからない。
 わからないのだけれど、--わからないから、それが魅力的である。
 大震災の詩に対して「魅力的」ということばがふさわしいかどうかわからないが、わけのわからないそのことばの、すこしずつ、からまった糸をほどいてゆくようなことばの動きに「文学」を感じるのである。「文学」は、こんなふうにゆっくりとことばを動かして、ことばでなくなってしまうことなのだ、と直感的に思うのだ。
 「色あい」から、さらに「てのひら」→「丸めた形」→「保っていたもの」→「(その)名」とことばが動いていくとき、何か「てのひら」ですっぽりつつむようにして大事にしていたものがあるのだとわかる。わかると同時に、その「丸いかたち」が、いまは、ほどけて、「糸」になってしまっている、それだけではなく、その「糸」さえ「ぬけつづける」(失われていく、失われつづけていく)ということに菊池が向き合っているのだとわかる。「ぬけつづける糸」を見るとき、菊池は「ぬけない状態」の「糸」を思っているのだともわかる。
 ここに書かれているのは「逆説」である。「ぬけつづける糸」と書きながら、菊池が思いつづけるのは「ぬけない糸」、しっかり「結び目のある糸」、「丸いかたち」、美しい「色あい」である。
 でも、それをそのまま、つまり記憶にあるようには書けない。--丸くうつくしい形、しっかりした形、あざやかな色……その記憶をそのままことばにはできない。逆のかたち、「逆説」でしか書けない。その苦しみが、ことばを、そのまま苦しませている。不透明にさせている。

薄くなった靄のむこうに その端を持って
あなたがいたらよかったのに

 「端」は「ぬけつづける糸」の「端」であろう。「ぬけつづける」のは「端」を「あなた」が「持っていない」からである。
 そう書くとき、菊池は「糸」をもう問題にしていない。「ぬけつづける糸」は「糸」ではなく、その「端」をもっていない「あなた」を書くことに動いている。「あなた」は書いても書いても、そして、「いない」のである。
 「ぬけつづける」のは「糸」ではなく、実は「あなた」なのだ。

遅いレンギョウが咲いています
坂道の途中に
シャクナゲのつぼみを見つけました

そんなことを言えたら
よかったのに

言えるだけで
よかったのに

 「あなた」に、かつて「レンギョウが咲いている」「シャクナゲのつぼみを見つけました」と菊池は言ったことがあるのだ。その思い出(記憶)が、いま「糸」となって「ぬけつづける」。
 「糸」はいくつもの「思い出」なのだ。「記憶」なのだ。
 「記憶」とは「肉体」のなかにあるものである。(「頭」のなかかもしれないが、私は「肉体」のなかと言う。)それは失われない、思い出すとき、かならずもどってくる不思議な宝のようなものである。--というのは、私の勘違いである。
 「思い出(記憶)」もまた「ぬけつづける」(うしなわれつづける)。それは「あざやかで美しい」ものではない。「あざやかで美しい」ものを奪いつづける。「思い出」(記憶)は「奪いさる」ものなのだ。
 そして、そうだとしても、あるいは、そうだからなのか。菊池は、それを「てのひらを丸めたかたち」で「保ちたい」(保っていたい)と、ことばを動かすのである。

 どんなことばも、それを「言う」とき、それを受け止めるひとがいて初めて「ことば」になる。そして、その「ことば」とともに「世界」がたしかなものになる。受け止めるひとがいないと、「ことば」は「ことば」にならない。「世界」は存在しない。
 「言えたら/よかったのに」が「言えるだけで/よかったのに」にかわってしまう無念さのなかに、いま「世界」がある。
 そして、せめて「ぬけつづける糸」ということばで、その「ぬけつづける糸」の一方の端を、菊池は必死でつなぎとめている。
 「世界」を虚無から救っている。

咲き出す花が
綿毛になるまでの
日の

涙は
後ろから
野山をぬらしてやってきます
歩道も町も
ウグイスの声も
鮮やかに したたっていきます

 「ぬけつづける糸」は、「涙」で「ぬれつづける糸」になる。涙を結び、涙のなかで「色」を取り戻し、やわらかにふくらみ丸いかたちになる--と菊池は書いているわけではないが、私はそう書いていると「誤読」するのである。

ぬれつづける糸の束の
結び目のありか そこに落ちた涙のなかで色が新しく輝く
てのひらを丸めたかたちで
それを大事につつみこむ
大事なものの、あらゆる名前を

 「涙は/後ろから/野山をぬらしてやってきます」の「後ろから」がとても美しいと私は感じる。
 季村敏夫が『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれた。」と書いたときの「遅れて」につながるものがあると私は感じる。
 悲しみ(涙)も遅れてやってくる。そして、やっと涙にぬれて、ことばは甦る。世界は甦る。
 --こんなことを書くと叱られるかもしれないが、ひとは泣かなければならないのだ。泣かなければ「いま」を生きられないのだ。泣かなければならない、涙を流さないことには生きられない「時間」があるのだと菊池の詩を読みながら思った。



 北川朱実「空の指」。その書き出し。

文字が読めないうちに
人はなぜ
本をめくることを覚えるのだろう

巨大な津波に
町ごと消えた空の下

瓦礫の中から見つけた
絵本の端に

小さな爪を引っかけては
すばやく指を差し込み

幼児が
いっしんにページをくっている

 北川が何を書きたかったのか--ということとは無関係に、私はこの詩を読んでしまう。文字を読めなくても、ひとは「ことば」を求める。「言いたい」のだ。世界と「ことば」でつながりたいのだ。
 北川の書いている幼児が最初につかんだ「糸」を、その「端」をだれがしっかりつかんでくれているのか。しっかりつかんでくれるひとを探して、幼児はページをくっているように、私には感じられる。


すすきの原 なびいて運べ
菊池 唯子
思潮社
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