フリオ・リャマサーレス『狼たちの月』(木村栄一訳、ヴィレッジブックス、2007年12月15日発行)
スペイン内戦の抵抗軍を描いている。抵抗軍といっても、敗北し、山の中に逃れた数人の行動だ。しかも、一人減り、二人減り、たった一人になってしまう。
木村栄一が「清冽な透明感が作品全体をひたしていて、人物たちの救いようのない悲劇的な運命がみごとに昇華させられてい」る、と書いている。
私も、その透明感に引き込まれた。
これは誇張かもしれない。「目に星空が映っていた。」はリアリズムとはいえないかもしれない。しかし、リアリズムを超越して胸に迫ってくる。山の中を逃げ回り、荒れた岩、人間を拒絶する雪、無関係に輝く月や星……そういう描写のあとでは、これがリアルに感じられる。
文学はあくまでことばである。
ことばがつくりだす世界が少しずつ具体的になってゆき、そのなかでことばが新たに動きだす。現実の描写にしばられるのではなく、現実から出発して、ことばがことばでしかとらえられない世界を手に入れる。
それが、この「目には星空が映っていた。」
主人公は、ここではヒデルの目を見ているだけではない。ヒデルそのものになっている。ヒデルそのものになって、絶望し、空を見ている。死ぬ瞬間、ヒデルは、広大な星空を見たのである。孤独に耐えながら輝く一個一個の星たち。内戦も、抵抗も、飢えも、絶望も無視して、非情に存在しているものたち。
非情こそが人間を美しくする。透明にする。
「われわれのそばを離れようとしない。」これは、いわば「同情」である。しかし宇宙の「同情」は「非情」なのである。人間の思いを無視する。無関係に動いている。「われわれ」は月が隠れ、夜が暗闇であることを望んでいる。しかし、月はそんな望みを無視する。無視するだけではなく「いっしょについていってやるよ、夜道を照らしてやるよ」と「同情」のお節介をする。この矛盾。
--そして、その瞬間、この風景が美しく見える。
人間のさまざまな思いを無視して、世界が存在することを美しさが見える。美しさだけが見える。世界はこんなに美しい。しかし、その美しさは私のものではない。そのときの哀しさ。哀しみが透明になっていく。その瞬間。
私はこういう瞬間を生きている人間が好きだ。こういう瞬間を生きている人間を描くことばがとても好きだ。大好きだ。
人間を助けるものは何もない。それでも人間は生きている。生きて、世界の(宇宙の)美しさと拮抗している。透明な孤独。透明な哀しみ。それが、とても好きだ。この感覚があって(この感覚を通って)、人間は、それぞれの「情」の衣裳を脱ぎ捨て、素裸に鳴る。肉体そのものになる。
この美しさはたまらない。どんな絵も写真も彫刻もとらえることのできない美しさである。ことばだけがとらえることのできる美しさだ。ことばのなかで、世界の一瞬、世界の断片が、世界そのもの、宇宙そのものになる。
いのちになる。
小説を読む。それは「いのち」を読むことである。「いのち」を発見することである、と思う。「いのち」にはさまざまな形がある。「いのち」はいつでも存在している。存在しているけれど、見えない。見ているつもりでも見えない。それが作者のことばを通り抜けることで、「いのち」が浮かび上がってくる。
最初に引用した「目には星空が映っていた。」も同じだ。そのことばのなかに何が見えるかといえば「いのち」が見えるのだ。星空ではない。星空を見つめ、生きている人間の「いのち」が見えるのだ。
*
美しい描写がたくさん出てくるが、あとふたつ引用しておく。引用部分だけでは、あまりその美しさが伝わらないかもしれない。ぜひ、小説を読んで、その美しい行に出会ってほしい。
「静寂はまるで犬のようにうれしそうにぼくを入り口まで迎えにきてくれる。」このことばを動かしている「いのち」へのいとおしさが苦しい。哀しい。せつない。人間は、ここまで孤独・静寂と生きて行けるのか。生きながら、「いのち」をなつかしむものなのか。「いのち」をなつかしむことができるものなのか。
不思議な感動に襲われる。
スペイン内戦の抵抗軍を描いている。抵抗軍といっても、敗北し、山の中に逃れた数人の行動だ。しかも、一人減り、二人減り、たった一人になってしまう。
木村栄一が「清冽な透明感が作品全体をひたしていて、人物たちの救いようのない悲劇的な運命がみごとに昇華させられてい」る、と書いている。
私も、その透明感に引き込まれた。
縦断で身体中穴だらけにされたヒルドは空を見上げたまま、大きな血の海に横たわっているが、その目には星空が映っていた。
これは誇張かもしれない。「目に星空が映っていた。」はリアリズムとはいえないかもしれない。しかし、リアリズムを超越して胸に迫ってくる。山の中を逃げ回り、荒れた岩、人間を拒絶する雪、無関係に輝く月や星……そういう描写のあとでは、これがリアルに感じられる。
文学はあくまでことばである。
ことばがつくりだす世界が少しずつ具体的になってゆき、そのなかでことばが新たに動きだす。現実の描写にしばられるのではなく、現実から出発して、ことばがことばでしかとらえられない世界を手に入れる。
それが、この「目には星空が映っていた。」
主人公は、ここではヒデルの目を見ているだけではない。ヒデルそのものになっている。ヒデルそのものになって、絶望し、空を見ている。死ぬ瞬間、ヒデルは、広大な星空を見たのである。孤独に耐えながら輝く一個一個の星たち。内戦も、抵抗も、飢えも、絶望も無視して、非情に存在しているものたち。
非情こそが人間を美しくする。透明にする。
ラ・リャナバの通りでは犬と月だけが目を覚ましている。犬たちの吠える声に追いたてられるようにしてわれわれは村外れへと向かう。しかし、月は今夜一晩中付き合うつもりか、われわれのそばを離れようとしない。
「われわれのそばを離れようとしない。」これは、いわば「同情」である。しかし宇宙の「同情」は「非情」なのである。人間の思いを無視する。無関係に動いている。「われわれ」は月が隠れ、夜が暗闇であることを望んでいる。しかし、月はそんな望みを無視する。無視するだけではなく「いっしょについていってやるよ、夜道を照らしてやるよ」と「同情」のお節介をする。この矛盾。
--そして、その瞬間、この風景が美しく見える。
人間のさまざまな思いを無視して、世界が存在することを美しさが見える。美しさだけが見える。世界はこんなに美しい。しかし、その美しさは私のものではない。そのときの哀しさ。哀しみが透明になっていく。その瞬間。
私はこういう瞬間を生きている人間が好きだ。こういう瞬間を生きている人間を描くことばがとても好きだ。大好きだ。
人間を助けるものは何もない。それでも人間は生きている。生きて、世界の(宇宙の)美しさと拮抗している。透明な孤独。透明な哀しみ。それが、とても好きだ。この感覚があって(この感覚を通って)、人間は、それぞれの「情」の衣裳を脱ぎ捨て、素裸に鳴る。肉体そのものになる。
マリーアは背中を向けたままぼくのほうにそっと身を寄せる。
「山の匂いがするわ」と彼女が言う。「狼みたい」
「じゃあ、ぼくは人間じゃないのかい?」
マリーアは向き直ると、じっとぼくを見詰める。スリップの下の、長い間抱かれていなかったせいで熱くもえている身体の震えが感じられる。孤独な日を送っている美しい女性の身体の震え。
この美しさはたまらない。どんな絵も写真も彫刻もとらえることのできない美しさである。ことばだけがとらえることのできる美しさだ。ことばのなかで、世界の一瞬、世界の断片が、世界そのもの、宇宙そのものになる。
いのちになる。
小説を読む。それは「いのち」を読むことである。「いのち」を発見することである、と思う。「いのち」にはさまざまな形がある。「いのち」はいつでも存在している。存在しているけれど、見えない。見ているつもりでも見えない。それが作者のことばを通り抜けることで、「いのち」が浮かび上がってくる。
最初に引用した「目には星空が映っていた。」も同じだ。そのことばのなかに何が見えるかといえば「いのち」が見えるのだ。星空ではない。星空を見つめ、生きている人間の「いのち」が見えるのだ。
*
美しい描写がたくさん出てくるが、あとふたつ引用しておく。引用部分だけでは、あまりその美しさが伝わらないかもしれない。ぜひ、小説を読んで、その美しい行に出会ってほしい。
ぼくは起き上がると、彼の横に腰を下ろす。ヒルドはヒースの根か何かを刻んでいる。することが何もない気の遠くなるほど長い時間をやり過ごすために、彼は次から次へと何かを刻んでいるが、結局みんな火の中に投げ入れる。
何度となく洞窟から飛び出して、山の中を何時間もあてどなくさまよい、むだと知りつつ完璧な静寂がもたらす狂気から逃れようとした。やがて、静寂が目の前にあって、いつも付きまとってくるが、これだけは避けようがないということを少しずつ受け入れるようになった。少しずつ、彼、つまり静寂が今の自分に残されたたった一人の友達なのだということを認めるようになった。
死を相手に長い戦いを続けている今では、静寂こそがぼくの最良の盟友なのだ。洞窟に戻ると、静寂はまるで犬のようにうれしそうにぼくを入り口まで迎えにきてくれる。
「静寂はまるで犬のようにうれしそうにぼくを入り口まで迎えにきてくれる。」このことばを動かしている「いのち」へのいとおしさが苦しい。哀しい。せつない。人間は、ここまで孤独・静寂と生きて行けるのか。生きながら、「いのち」をなつかしむものなのか。「いのち」をなつかしむことができるものなのか。
不思議な感動に襲われる。
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