詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中庸介「破壊的に、白い、武蔵野」

2008-05-05 00:59:51 | 詩(雑誌・同人誌)

 田中庸介「破壊的に、白い、武蔵野」(「妃」14、2008年04月23日発行)
 「妃」の同人の詩はおもしろい。きのう触れた高岡淳四の作品は大好きとしか言いようがないが、田中庸介もの作品も好きだ。高岡のことばがスピード、軽さを特徴とする正直さなら、田中の作品は「しっかり」を特徴とする正直さである。ことばをひとつひとつ、しっかりと定義する。定義するといっても、詩のなかで、このことばの意味はこれこれである、と説明するわけではない。田中の意識のなかで定義した上で、その定義を表面に出さず、ことばを動かして行く。定義を押しつけない。押しつけないけれど、読者がそれを受け入れるまで、ゆっくり、しっかり、語り続ける。そういう持続する正直さがある。高岡と田中は出会う必要があって出会った特別な二人なのかもしれない。とてもおもしろい組み合わせである。この二人の作品があるから「妃」が「正直」という特徴を全面に打ち出すことができるのだと思う。

 「破壊的に、白い、武蔵野」で田中は少しおもしろい試みをしている。書き出し部分。

水ぬるむ春の三宝寺池。ぬるく走る西武バスの午後の光る路面のにぶさが、やるせない「休日の午後」の記憶をよみがえらせる。そんな木曜日の午後、千川通りを踏切のところで右折、絶望的に照り返す郊外の春の路面の白さの焦燥が、平日の仕事場の濃密で論理的な思考の流れを破壊する。

 「の」の繰り返し。「の」は連続である。何かと何かをつなげる。ここでは、存在のつながりがていねいに描かれている。そして、その「の」の繰り返しは、「の」が省略されたときでも、深い深い意識を流れながら、一種の連続をつくりだす。
 「ぬるむ」「ぬるく」「にぶさ」「やるせない」。それは、私には「踏切のところで」の「のところで」と共通しているように感じられる。「ぬるむ」「ぬるく」「にぶさ」「やるせない」はきゅーっとしまった何かではなく「のところで」といいたいような、何かあいまいな「場」、ある程度の「ひろがり」(許容力)を持った感覚であり、そういう「場」があるからこそ、それは「の」による連続を許すのである。

 「春の(三宝寺池。ぬるく走る西武バスの)午後の光る路面」は「照り返す郊外の春の路面の白さの焦燥」と少し違ったことばになって繰り返される。そして、その少し違ったことば(少し違ったことば)が存在しうるのは、「の」による連続が「場」を含んでいるからである。「場」があるから、そこには違いが存在しうるのである。一点のポイントではなく、つながる「場」、ひろがる「場」が違いを許容するのである。
 そういうことを、田中は、とても「しっかり」と繰り返す。「ゆっくり」繰り返す。それは、読者が(私が、と言い換えた方が、私が、と限定した方がいいのかもしれないが)、田中の語る「場」にゆっくりとなじむのを待っているような感じでもある。
 高岡のことばは軽く動き回ることで私を誘う。それに対して、田中のことばは「ゆっくり」「しっかり」待っている姿勢を印象づけることで私を誘う。私は、そのていねいな待ち方にひかれる。とても安心して近づいて行くことができる。

 ただし、その待ち方が「しっかり」「ゆっくり」しているからといって、田中の描いている世界が「安定」(安心)を誘うとは限らない。「安定」(安心)を誘うだけなら、「芸術」ではない。「芸術」は危険なものである。

 「の」の連続、「場」を含みながらの連続--それを、「破壊」と呼ぶ。つながることが破壊なのだ、という。そして、たしかにそれは破壊なのだ。ある存在が「の」によって結びつくとき、その結びつきを「しっかり」したものにするためには、私たちは何かを断念しなければならない。棄てなければならない。そういう断念、放棄--それが「破壊」である。
 書き出しの部分のつづき。

水ぬるむ春の、水ぬるむ春の、柳が風にそよいでいる、解放的な池の水の上に破壊的に自由な青空がつきぬけている、水ぬるむ春の、水ぬるむ春の、沼からあがってくる陽炎の、ここでバスをおりて沼のまわりを散歩できたらどんなによいだろう、ボート場は今日はクローズ、そのボート乗り場の看板の丸っこいナール体の文字、その文字の八十年代てき丸っこさが、破壊的に、おれを二十一世紀の現在から連れ去ろうとする、

 ふたたび繰り返される「の」。しかし、その「の」はいったん「破壊」を意識した瞬間から、いままでの「の」とは完全に違っている。違った側面を見せる。
 「水ぬるむ春の、」。読点「、」があらわれる。「場」は読点「、」によって「間」にかわる。そこには「場」のひろがりはない。「間」がある。「場」が接続なら、「間」は断絶である。つながること、接続を繰り返すうちに「場」が「間」に一瞬のうちにかわることを発見する。
 「場」と「間」の交代。
 それを田中は「破壊」と呼び、また「自由」とも呼んでいる。
 「の」による連続で、世界を「しっかり」ととらえる。同時に、そういう連続の世界には、連続によって生じてくる「間」がある。連続の「場」の奥に隠れている「間」がある。
 「間」は「現在から」田中を「連れ去る」。そのとき、自由がある。破壊があり、破壊によって生まれる自由がある。

 春の一日、バスに乗って風景をながめている。--そういう人間の姿を描きながら、その人間を「しっかり」「ゆっくり」とらえることで、「哲学」の可能性を探している。押しつけではなく、自然に、読者を誘う形で。そこには「じっと」自己をみつめる視線がある。「しっかり」「ユックリ」「じっと」--田中の「哲学」はそういうことばを踏まえて、破壊と自由を探る。

 最終連の2行に、田中の「じっと」は出てくる。

忘れないように、じっと
見ているのだと思う。




田中の詩集読むなら。




山が見える日に、
田中 庸介
思潮社

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