金井雄二「奏楽堂」(「独合点」93、2008年05月05日発行)
「奏楽堂」には独特の呼吸がある。その書き出し。
読点「、」があって、「の」。ここには金井だけかいるのではなく、もうひとりがいることがわかる。その相手に向かって、金井が説明している。そういう感じを、相手を出さずに描写している。呼吸で、二人の関係を説明している。「奏楽堂」へ金井は何回か来ている。しかし、相手ははじめててである。そういう関係も「、の」という、口語の呼吸だけで浮かび上がらせている。
この「、の」はさらにつづく。
そして、その過程で少しずつかわってゆく。
金井ではない相手の人に静かに説明をする--そういうスタイルのことばだけれど、その1行1行のなかの「動詞」のやわらかさが、肉体の動きが金井自身の内部で動いているように感じられる。説明と言うより、自分で自分の記憶を静かに復習している感じがするのである。
「、」のは、そういう自分自身の感覚を浮き彫りにしたあと、さらに変質する。大きく変わる。
起承転結という形式がある。最初の4行が「起」ならば、いま引用した12行は「承」である。そして、「転」は部分。
これは、相手に椅子の取り扱い方を説明するときの「、の」の呼吸ではない。そうではなくて、自分自身に言い聞かせる呼吸である。思い出しているのだ。金井は、かつて誰かときたコンサートホールでのできごとを思い出しているのである。思い出して、自分自身の肉体に、その記憶を語りかけている。
そして「結」。
「、の」は「、よ」にかわっている。もう、誰にも話しかけてはいない。相手に話しかけていない。自分自身に話しかけている。ここにいない相手に話しかけている。
この詩は、ふたりでコンサートホールにきて、だまって座っているという詩にも読むことができるが、私は、そうではなく、金井がひとりでコンサートホールにやってきて、昔の記憶を追体験しているという風に感じた。
そして、そうやって読んでみると、最初の方(起・承)の「、の」は、金井の呼吸とういよりは相手の呼吸のようにも感じられる。誰かが金井に説明してくれた。「、の」というリズムで。そして、その呼吸を、つまり相手の肉体のありようそのものを思い出しているとき、相手の肉体のもうひとつの動き、「かすかにギィーッという/扉をあけるような音を/君がさせた」を思い出したのだ。「、の」という相手の呼吸そのままに思い出し、その呼吸を金井はここで思い出しているのだ。
「人がいないコンサート・ホール」。そこには金井と誰か以外はいない、というのではなく、いまは金井しかいないのである。そして「ギィーッ」という音は実際に存在しない。金井の記憶のなかにだけある。
沈黙のなかで記憶が奏でる音。
たしかにこれ以上「静かなコンサート」はないだろう。
金井は、その静かな悲しみのコンサートを「、よ」と愛しい人から受け取った呼吸そのままに、ここにはいない相手に向かって、そっとつぶやいている。
そんなふうにして読むと、書き出しの「ふたつに折りたたまれていた」の「ふたつ」にも特別な意味が見えてくる。それから展開されるさまざまな行のやわらかな動詞の動きにも愛の動きが見えてくる。
ひさびさに美しい美しい恋愛の詩を読んだ。
「奏楽堂」には独特の呼吸がある。その書き出し。
ふたつに折りたたまれていて
腰かけるには
座る部分を
手でおろさなければならない、の
読点「、」があって、「の」。ここには金井だけかいるのではなく、もうひとりがいることがわかる。その相手に向かって、金井が説明している。そういう感じを、相手を出さずに描写している。呼吸で、二人の関係を説明している。「奏楽堂」へ金井は何回か来ている。しかし、相手ははじめててである。そういう関係も「、の」という、口語の呼吸だけで浮かび上がらせている。
この「、の」はさらにつづく。
そして、その過程で少しずつかわってゆく。
かすかにギィーッという
扉をあけるような音がする
たたまれていた口を
自分の手でひらく、の
ばね仕掛けになっているから
元にもどろうとするところを
手は
やさしくその反発力を
少しのあいだだけ
大事にうけとめておいて
ススッと自分のお尻をのせる、の
金井ではない相手の人に静かに説明をする--そういうスタイルのことばだけれど、その1行1行のなかの「動詞」のやわらかさが、肉体の動きが金井自身の内部で動いているように感じられる。説明と言うより、自分で自分の記憶を静かに復習している感じがするのである。
「、」のは、そういう自分自身の感覚を浮き彫りにしたあと、さらに変質する。大きく変わる。
起承転結という形式がある。最初の4行が「起」ならば、いま引用した12行は「承」である。そして、「転」は部分。
ぼくはそうやって
小さな座席にすわり
音のしないコンサート・ホールに
腰かけてじっとしている
でも一度だけぼくの真横で
かすかにギィーッという
扉をあけるような音を
君がさせた、の
これは、相手に椅子の取り扱い方を説明するときの「、の」の呼吸ではない。そうではなくて、自分自身に言い聞かせる呼吸である。思い出しているのだ。金井は、かつて誰かときたコンサートホールでのできごとを思い出しているのである。思い出して、自分自身の肉体に、その記憶を語りかけている。
そして「結」。
人がいないコンサート・ホールに
腰かけてじっとしている
こんな静かなコンサートを
ぼく
聞いたことがない、よ
「、の」は「、よ」にかわっている。もう、誰にも話しかけてはいない。相手に話しかけていない。自分自身に話しかけている。ここにいない相手に話しかけている。
この詩は、ふたりでコンサートホールにきて、だまって座っているという詩にも読むことができるが、私は、そうではなく、金井がひとりでコンサートホールにやってきて、昔の記憶を追体験しているという風に感じた。
そして、そうやって読んでみると、最初の方(起・承)の「、の」は、金井の呼吸とういよりは相手の呼吸のようにも感じられる。誰かが金井に説明してくれた。「、の」というリズムで。そして、その呼吸を、つまり相手の肉体のありようそのものを思い出しているとき、相手の肉体のもうひとつの動き、「かすかにギィーッという/扉をあけるような音を/君がさせた」を思い出したのだ。「、の」という相手の呼吸そのままに思い出し、その呼吸を金井はここで思い出しているのだ。
「人がいないコンサート・ホール」。そこには金井と誰か以外はいない、というのではなく、いまは金井しかいないのである。そして「ギィーッ」という音は実際に存在しない。金井の記憶のなかにだけある。
沈黙のなかで記憶が奏でる音。
たしかにこれ以上「静かなコンサート」はないだろう。
金井は、その静かな悲しみのコンサートを「、よ」と愛しい人から受け取った呼吸そのままに、ここにはいない相手に向かって、そっとつぶやいている。
そんなふうにして読むと、書き出しの「ふたつに折りたたまれていた」の「ふたつ」にも特別な意味が見えてくる。それから展開されるさまざまな行のやわらかな動詞の動きにも愛の動きが見えてくる。
ひさびさに美しい美しい恋愛の詩を読んだ。
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