詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

広田修「探索」

2008-05-30 10:12:17 | 詩(雑誌・同人誌)
 広田修「探索」(「現代詩手帖」2008年06月号)
 新人作品欄。瀬尾育生が選んでいる。
 接続と断絶について考えた。ある意識がつながっていく。どんな意識もつながるものなのだが、ともかく意識をつなげていく。そして、それがある飽和状態に達したら、そこから飛躍する。断絶を導入する。その瞬間に「詩」があらわれる。
 これはいつの時代でも同じである。
 白い便器。それは私たちをトイレへつれていく。便器はトイレの意識、汚いものというとつながっている。そこに「泉」というタイトルがつけられる。一瞬、意識が切断される。その瞬間の驚き。そこに詩がある。切断された意識が、どこへ向かうか。森の中の泉か。あるいは街中の公園の、たとえば噴水という泉か。その音か。あるいは、その水がまき散らす真夏の太陽の乱反射か。
 意識は新しい接続をもとめて動き、動くことで古い意識を捨てて行く。その動きのなかに詩はあらわれる。
 広田修は、この方法を、広田の「論理」意識のなかで独特な方法で展開して見せる。そのとき、論理のことばが詩になる。
 「1」の部分。

川の表面に見えない川が重なっているので、刻み採る、反転したウグイスを読むための辞書を踏みながら。いくつかの水分子に哀しみを含ませて川をさかのぼらせる。川を構成する無数の小さな川のそれぞれにふさわしい概念を盗み出した。故障した川には技師を呼ぶ。エンジンに苔を生やしてもらう。

 このなかに出てくる「読む」。「反転したウグイスを読む」の「読む」がこの詩の独自性、オリジナリティーである。
 ウグイスの姿なら「見る」。ウグイスの声なら「聞く」。日本語は、ふつうそんなふうにつかう。「読む」。それは、人間が意識して、能動的にする作業である。「見る」「聞く」は受動的な行為である。「ウグイスを読む」ということは、「私」がなんらかの意識を持って、ウグイスの何かを探ることである。
 「読む」は「探る」。
 これは新しい日本語のつかいかたではない。「こころを読む」と言えば、「こころを探る」ことである。「行間を読む」と言えば、書かれていないことばを探ることである。
 ただし、いままで誰も「ウグイスを読む」という風には使ってこなかった。広田が考え出したことである。ここにオリジナリティーがある。そして、このオリジナリティー、「わざと」そういうことばを使うところから、広田のことばは動いていくのである。
 「読む」ということ自体、意識の接続である。
 「川」を探る。ウグイスを脇においておいて(たぶん、この脇においておく、ということも広田の「論理詩」の特徴である。この脇においておく、という行為は、別のことばで言えば「伏線」になる)、広田は「川」の方を持続させる。たとえば「水分子」というような、一種の「理系=論理的」な偽装によって、持続を強調する。
 そして、持続させておいて、もう一度「読む」に似た能動的な働きかけをする。

いくつかの水分に哀しみを含ませて川をさかのぼらせる。

 水は普通は川を「さかのぼり」はしない。ただ低い方へ流れるだけである。それを「さかのぼらせる」というのは人為的な行為、積極的な能動である。こういうことは、意識の持続がないとできない。「水分に哀しみを含ませて」の「含ませて」も同じである。ここには、人為がある。「わざと」がある。
 そして、その「わざと」にはもう一つ特徴がある。

いくつかの水分に哀しみを含ませて

 このことばのなかの「哀しみ」。抒情。センチメンタル。人為は、感情によって動かされている。あるいは、感情の方へ動くように仕向けられている。完全な「論理」、感情を排除した「数学」ではなく、逆に感情をたっぷり盛り込むための新しい「器」として広田は「論理」を利用する。感情を抱え込ませて、論理を維持する。接続の運動をつづける。
 感情・抒情・センチメンタルにももちろん独自の「論理」はあるが、それをその独自の「論理」(古典をとおして培われてきた日本語の美意識)ではなく、一見「理系」に見える「論理」のなかで持続すると、どうしても、そこに無理がくる。持続できなくなる。その瞬間に、広田は、その持続をぱっと放してしまう。別のことばで言えば「断絶」を持ち込む。

それぞれにふさわしい概念を盗み出した。

 この行の「盗み出した」。このことばが「断絶」を生み出す。「見えない川」に始まり、「水分子」「哀しみ」「小さな川」と、いわば「繊細」なものへと持続させてきた意識が「盗み出す」という乱暴な行為(これも能動である)によって破壊される。
 ただし。
 これからが重要である。--と強調しておこう。
 その「乱暴」は、やはりセンチメンタルなのである。何かを盗むというのは「ほめられた」行為ではない。盗むという行為は、後ろめたい感情を誘い出す。こころの痛みを誘い出す。何かを盗まざるを得ないのは一種の「敗北」である。あるものを正当な手段で手に入れることができないからこそ、ひとは「盗む」。
 そこには「哀しみ」が含まれる。「哀しみ」は人間の、とても自然な感情である。
 それゆえに、この「盗み出す」は「哀しい」自然、たとえば「川」や「ウグイス」と触れ合って、詩になるのだ。「盗み出した」ということばが登場した瞬間から、ことばは「論理」を追わなくなる。「論理」を追わずに、かつて「脇においてきた」もの、「ウグイス」と一体になる。

 もう少し別な角度から補足し直せば。
 「盗み出す」対象が、「川」「ウグイス」という「自然」ではなく、「概念」であることも、それまでの精神の持続・維持とは正反対である。「わたし」が「読」んでいたのは「ウグイス」であって、「概念」ではなかった。
 そして、「正反対」であることによって、「ウグイス」という「自然」が、この突然の詩の出現の「伏線」となるのである。「伏線」は最初から「伏線」なのではなく、ある状況が出現することで、時間をさかのぼって「伏線」にかわるのである。
 「便器」と「泉」のような、異質なものの衝突、意識の接続と断絶が、ここではそんなふうに演出されている。詩として表現されている。

 意識を「論理」として持続・維持しながら、ある瞬間にそれを放棄し、突然、抒情・センチメンタルを噴出させる。「論理」の持続・維持が飽和状態になり、そこから感情が噴出し、世界を一気にかえていく。このカタルシス。
 「2」の部分は、そういうことばの振幅がより大きくなり、「論理」は消えかかっている。広田にとって「論理」はたぶん抒情の噴出を導き出すための偽装なのである。

スクリャービンの気孔から巻いてゆく指々を看取る。痛いのはここから何㎞の地点? 人生に苦悩するときの時給はいくら? あまりに鍵盤を折檻するので見ながらつづら折りになる。髪は鉱物。手は気体。午後にはラフマニノフの散乱。靴音を拾い集めるのは火を炊くためであって、種を撒くためではない。

 「指」(「指々」とはなんとむちゃくちゃな「複数形」だろう。この強引な「複数」にも偽装論理が潜んでいる)、「痛み」という抒情・センチメンタルから始まり、「髪は鉱物。手は気体。」という「非論理」(これは「論理」を強調するためその「補色」のようなものである)を経て、

ラフマニノフの散乱。

 これは美しい。

髪は鉱物。手は気体。午後にはラフマニノフの散乱。

 この非論理から、非であることを利用して、抒情・センチメンタルを爆発させるこの部部は、ほんとうに美しい。美しいということば以外に、私は、何も思いつかない。私は抒情・センチメンタルは好きではないのだが、こんなに美しいものなら、センチメンタルもいいものだなあ、と批判を忘れて、ただ酔ってしまう。

 広田のことばの魅力は、論理-非論理-抒情・センチメンタルの爆発という動きのなかにあるのだと思った。




現代詩手帖 2008年 06月号 [雑誌]

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