詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永島卓『永島卓詩集』

2006-08-20 23:26:36 | 詩集
 永島卓『永島卓詩集』(砂子屋書房版「現代詩人文庫」)。
 『碧南偏執的複合的私言』は1966年の発行。そのなかの「ひとみさんこらえるとゆうことは」に強く引きつけられた。

ひとみさんこらえるとゆうことは
どんなに夜の星をかきあつめても
あなたは空のようにひろがれやしない

 この書き出しの3行は文章として不完全である。「……であるとゆうことは」という文章は「……ことである」と受けるのが普通である。永島の詩にはその「……ことである」がない。省略されている。
 だが、「ことである」を補っても、なお不思議な印象が残る。

ひとみさんこらえるとゆうことは
どんなに夜の星をかきあつめても
あなたは空のようにひろがれやしないことである

 もし誰かが「ひとみさん」に対してそう言ったとき、その意味が伝わるだろうか。伝わるはずがない。
 「……であるとゆうことは」「……ことである」という文章があるとき最初の「……」とあとの「……」は言い換え、同じ意味内容だが「こらえる」ということが次の2行で説明しなおされているとは到底思えない。だいたい夜の星をかきあつめるということは人間にはできない。また人間が空のようにひろがるということは、何をしたって不可能である。
 この3行は「意味」をなさない。意味をなさないけれど、私は非常に強くこの3行に惹かれる。

 この3行には、ことばで書かれている「意味」以外のことが書かれている。そのことばで書かれている意味以外のこととは何か。それを考える手がかりは「ゆうこと」ということばのなかにある。
 「ゆうこと」は普通は「いうこと」(言うこと、言う事)というふうに表記されるだろう。永島は、それをあえて「ゆうこと」と書いている。文章ことばではなく、話しことばの音をそのまま作品のなかに取り込んでいる。
 話しことばをそのまま書きことばのなかに取り込むということは(と、永島をまねて書いてみる)、肉体をそのままことばのなかに持ち込むことである。「ゆうこと」ということばを読むとき、私は声に出さないときでも、のどが動く。意識のなかで口が動く。口蓋が動き、舌が動く。耳も「ゆうこと」というやわらかな音をしっかり感じている。「いうこと」と書かれたことばを読むときとは違った何かが肉体に生じている。「脳」が「意味」を追いかけているだけではなく、意味を理解することとはあまり関係のないのどや口、舌、耳が、聞こえな音を追いかけている。あ、永島は、こういうことばづかいをするのだと、その音を肉体が追いかけている。
 「ゆうこと」という話しことばが肉体を刺激するからこそ、それにつづく2行も肉体の動きとして見えてしまう。比喩や象徴としての動作ではなく、実際に、「ひとみさん」が夜の星を手でかき集める動き、手足を空いっぱいに広げる動きが見えてくる。
 このとき、最初の3行は、遠くにいる誰かではなく、本当に目の前にいる肉体をもった「ひとみさん」そのものに見えてくる。つまり、私は、この3行を読むとき、永島のことばを聞いているというよりも、むしろ、永島のことばを聞いている「ひとみさん」の肉体そのものを見ている気持ちになる。言い換えれば、まるで私自身が「ひとみさん」になって、自分の肉体に向けられた永島のことばを聞いているような気持ちになる。
 そして、「こらえる」ということは、一見、精神、あるいは感情の問題のように見えるけれど、本当は肉体の問題なのだという気持ちになる。
 たしかに「こらえる」ということは、実際の生活のなかで振り返ってみると、何よりも肉体の問題である。肉体をじっと動かさずにいること、その肉体のなかには手足があるのはもちろんだが、口、のど、声、目(視線)というものもある。私たちは、それを動かさない。肉体を動かさないことによって、精神や感情も動かさない。少なくとも、表に出さない。それがこらえるということだ。

 ことばを肉体のなかに還しながら、永島はことばをつづける。先の3行につづく部分。

ひとりのあなたのちいさな眼が
もうひとりのあなたたちの糸でむすばれる
ひとびとのくらい林になってゆくことを
またはふるさとの他人の顔にかわってゆくことを
おれたちの声はしのばねばならぬのだ

 肉体が「こらえる」とき、その肉体を見たひとは、「ひとみさん」が何もいわなくても「こらえている」ことを理解する。私たちの肉体は「頭」以上に正確に他人の肉体のなかに隠されている精神、感情を理解する。そしてつながっていく。精神、感情としてではなく、まず肉体としてつながっていく。「こらえる」眼が、同じく「こらえる」人々の眼とつながる。ひとりひとりがもし一本の木だとすれば、そうした人たちが複数集まり、「こらえる」林になる。精神・感情を殺したくらい林になる。そのとき、「ひとみさん」(あるいは私たちといおうか)は、自分の「顔」を持たない。その顔は、私たちの肉体がながい時間をかけて引き継いできたものだ。私たちの肉体が引き継いできたものだからこそ、その眼、一瞬のうごきのなかにさえ、私たちは、正確に「こらえている」肉体の動きを読み取る。
 私たちは肉体を共有する。肉体が抱え込んでいる精神・感情を共有するのだ。「声」にださなくても、肉体で精神・感情を共有できるのだ。
 これは逆に言えば、肉体で精神・感情を共有するために「声」はいったん忍ばなければならないということでもある。
 「こらえる」ということは「こらえる」ときの肉体を共有することである、と告げて、永島はさらに、では肉体に何ができるのかと、ことばで追い詰めて行く。この肉体とことばの関係は一種の矛盾だが、矛盾だからこそ、そこに「思想」がある。まだことばにならないもの、ことばになろうとして、うごめき、もがいている何かがある。

おれたちは今なにもすることができない
おれたちは今なにをすべきかかんがえることができない
だれもしらないふりをしてあるきつづけ
なにも信じてなんかいないおれたちは
くらしのためにうごいているしかない
それだけのむなしさがひろがる愛のために
ひとりのあなたたちの声がひびくと
もうひとりのあなたたちはうつむき
おれたちはいつも青い顔をさらしつづけ
くらしはとおのくだけでどこまでも
ふるさとの空にはねかえってくることはない

 肉体が抽象的なものではなく、今、ここにあるものであるということは、「あなたたち」あるいは「ひとびと」もまたここにあるということだ。それは抽象的存在ではない。いっしょに生きている存在である。そこに「ふるさと」が具体的に立ち上がってくる。
 「ふるさと」の「ひとびと」がまず「私」(ここにいる存在としての私)の肉体に作用してくる。私の肉体はふるさとのひとびとによってまず最初に共有されるのだ。

 もちろん私たちの精神・感情は、ふるさとのひとびとによって共有されればそれでいいというものではない。その共有を突き破って、ふるさとそのもの、ふるさとのひとびとそのものの精神・感情を揺さぶってゆかなければならない。そうしなければ、私たちの「時代」はいつまでたっても「過去」のままであるだろう。
 ここから生まれてくる問題は、ことばを、ではどうやってふるさとのひとびとに共有される肉体として提出するかということだろう。ふるさとのひとびとの肉体そのものを覚醒するためにどうやってことばを鍛えていくかということだろう。ふるさとのひとびと、というのは、もちろん郷愁のよりどころという意味ではない。今、自分のまわりに存在し、ともに暮らしながら肉体を確認できる存在のことである。自分が肉体を接し、ともに暮らしている存在のことである。

 今(つまり2006年)、こうした問題と真っ正面に向き合っている詩人が何人いるか、私は不勉強なので知らない。しかし、40年前に永島によって提出されたこの問題は、じっくり考え、取り組まなければないない問題のひとつである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする