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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

光冨郁埜「光る鱗」

2015-10-04 11:49:16 | 詩(雑誌・同人誌)
光冨郁埜「光る鱗」(「狼」26、2015年09月発行)

 光冨郁埜「光る鱗」を読みながら「わかる」と「わからない」の違いについて考えた。光冨の詩は行のはじまり、行のおわりがふぞろい。一行の中央がそろうように書かれているように見える。その形を再現するのは手数がいるので、ここでは行頭をそろえた形(ふつうの詩の形)で引用する。
 一連目。

一枚ずつわたくしの鱗を剥がしていくように
分かってもらえないならばと ひとつひとつ壊していくように
東の地に七月の風が 見えない海から吹かれて
北の玄関に吊り下げた 手首のように
鉄琴の音が生まれたときと同じ波として聞こえてきます

 冒頭の二行は印象的で、もっと「読みたい」という気持ちになる。しかし、それにつづく三行は、読む気持ちがそがれてしまう。文体が最初の二行と次の三行では違いすぎているように私には思える。
 冒頭の二行には、粘着質のものがある。「剥がしていく」が「壊していく」という動詞で引き継がれるので、「鱗を剥がす」ことが「わたくしを壊す」ことだと「わかる」。この「わかる」は、そういう読み方が「正しい(光冨の書こうとしていることを正確に把握している)」というよりも、私の気持ちが「そう読みたい」と言っているということである。「誤読」が暴走する、ということだ。
 「わたしくし」が「魚」だと仮定して、何かの理由で自分の「うろこ」を一枚ずつはがしている。なぜそんなことをするかというと、「あいて(男?)」が「わたくし」を理解してくれないからだ。「ほんとうのわたくし(鱗の下の、わたくしの内部)」をわかってもらうために、「わたくしの外側(外部)」を剥がしていく。それは「わたくし」を「壊す」ことになるのだが、たとえ「わたくしの外形(外部)」が壊れてとしても「内部」をわかってもらいたいという気持ちが、「剥がす」から「壊す」への、動詞の変化のなかにある。
 そのつづき。「外部」が壊れたあと、「内部」はどのように存在しつづけることができるか、ということを、同じ粘着力のある文体で「読みたい」。
 ところが「文体」がまったく違ってしまって、「読みたい」という気持ちが消える。
 一行目の「鱗」は「海」に、さらにそれが「波」へと変化しながら「わたくし」の存在を少しずつととのえる。「鱗」から私は「魚」を思った。それは「わたくし」の「比喩」である。その「比喩」が「海」「波」と呼応することで、より「魚」を明確にする……はずなのだが、明確になったという「実感」がぜんぜん感じられない。「魚」「海」「波」をつないでいるのは「頭」であって「肉体」ではないからだ。
 このことを「比喩」の別な形から見ていくと。
 冒頭の「比喩」は「剥がしていくように」「壊していくように」。これは「動詞+ように」という一種の「直喩」である。四行目の「手首のように」は「名詞+ように」というかたちの「直喩」である。どこが違うかというと「ように」ということばが「動詞」とつながっているか「名詞」とつながっているか、ということ。「動詞」とつながっているときは、「肉体」がその「比喩」にしたがって動く。けれど「名詞」とつながっているときは「肉体」が動かない。「手首」という「肉体」をあらわすことばがそこにあるのだけれど、「動詞」ではないので「肉体」がどう動いていいか、わからない。「目」で「名詞」があるということを確認するだけだ。(そこには「目」は書かれていないが、次の行の「聞こえてきます」が「耳」を刺激するので、私はここでは「目」が書かれているのだと確信する。つまり、「手首」が見える。)
 この「手首のように」から「手首を切る」(自殺の試み)を読むとき、最初に読んだ「壊していく」が重なる。そして、「わたくし」が「鱗(魚)」「海」「波」なのに対して、「わかってもらいたいひと(?)」が「東の地」の「地」であることも想像できるのだが、これはあくまで「頭」で「考えた」ことであって、「肉体」を動かして感じることではない。そこからは「肉体」が「覚えている」ことが動かない。「頭」が一生懸命、「事実/事件」を「婉曲的」に語ろうとしているということが「わかる」だけである。この「わかる」は「頭が疲れる」という形で「わかる」。あ、「頭」をつかって、ことばをうごかしている。「頭」で詩を書いているということが「わかる」のである。「手首」が「鉄琴」「音」という具合に、視覚が聴覚へと動いていくということがおきる。しかし、これは「肉体」の深いところでおきる感覚の融合ではなく 、「頭」でつくりあげた変化(目くらまし)である。
 二連目。

家具があるのに 収める場がないように
散らかった部屋の中央に
あなたのいないダブルベッドがかたむき
あなたを呼ぶわたくしの声なのか
ベッドのクッションに手鏡を寝かし
その弾力は生地のものなのか あなたのものなのか
聞こえない悲鳴の 夢からさめると
鏡にうつるあなたが赤子として眠っていました

 一行目に「収める場がないように」という「比喩」がある。「収める」「ない」という「動詞/用言」が「肉体」を刺激する。最終行に「赤子として」という「比喩」がある。これは一連目の「手首のように」と同じように「名詞」なので「肉体」を刺激して来ない。
 ここにいない「あなた」に何かをわかってもらいたい。そのために「わたくし」は「わたくし」を「壊す」ことさえしているのに……という「思い」は「頭」では「わかる」が、私は「肉体」では「わかる」ことができない。
 「声/悲鳴」(のど、口/耳)と「鏡」が「聞こえない(否定)」「うつる(/うつるのが見える肯定)」と「耳」「目」という形で反復されるとき、そこに「肉体」はたしかに存在はするのだが、「肉体」を動かす「動詞」が弱い。「剥がす」「壊す」というような「強さ」、能動がない。「頭部(目/耳)」を開くことで世界を受けいれるという受動しかない。
 この「比喩」の分裂が、私にはなんだか気持ちが悪い。「読みたい」という気持ちをそいでしまう。
 三連目。

あなたは頸骨を痛め
筋肉をねじらせ
わたくしは白い脚をからめます

 ここには「動詞」がある。「動詞」があると、「肉体」が動くので、おもしろい。ここに書かれているのは「記憶」なのだろうけれど、それを一連目の書き出しのように「比喩」にすると、世界はもっと生々しくなる。「比喩」というのは「事実」を隠すけれど、隠すことでよりあからさまになるものもある。
 おもしろくなるはずの詩を、光冨は「頭」で台無しにしている、と思った。未練(愛憎)というものは、粘っこいものである。もっともっと粘着力を強くして、粘着力のなかで身動きできずにもがいて死んでしまうというようなところまで「文体」が動いていくとおもしろいのに、ちょっともがいてみせては「頭」で息継ぎをしている。
 最初の二行がおもしろいだけに、読んでいてとても残念な気持ちになる。傑作になるはずの詩なのに、と悔しくなる。


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