小池昌代『コルカタ』(7)(思潮社、2010年03月15日発行)
わたし「も」いる。わたし「も」インド人と同じ人間で「ある」。そういう世界から、しかし、人間は帰って来なければならない。わたし「は」いる。わたしは、わたしで「ある」。そのとき「わたし」を「わたし」として存在させるものは何だろうか。
「ヘッドライト」。この作品は、とても美しいが、読んだ瞬間、あ、小池は日本へ帰ってきたのだ、と突然思った。もう、インドには、コルカタにはいないのだ、と感じた。
「なにもかもが/闇のなかにとろけていた」「肉をとかし ここにいる」。このことばは、小池の「肉体」のあり方かインドに強く影響されてかわったことを明確にしている。しかし、そこに「目だけになって」という行が差し挟まれている。この「目だけになって」を読んだ瞬間、あ、小池は日本に帰ってきた--という思いが私にはしたのだ。
「肉をとかし」(肉をとろけかし、の方がインドっぽいと思うが……)てはいるが、その「目」は「とかし」ていない。とろけかしていない。他の「肉体」はインド人で「ある」かもしれないが、「目」は日本人で「ある」のだ。
「肉体」はとけて(とろけかして)、不定型の存在として、ここにいる。不定型であるから、どこへでもいける。どこへいっても、その「場」で、「その場の人間」になることができる。
でも「目」は、そのとき「目」として、そのとけていく「肉体」を見ている。とろけていく「肉体」を見ている。
音(声)をとおって、音(声)を肉体をとおらせることで、小池はインド人に「も」なったのだが、いま、その「声」は影をひそめ、「目」が「肉体」を見ている。
あ、小池は、もとにもどってしまったのか。
いや、違った。
とけて、とろけて形をなくしていく「肉体」。その底に残ったもの(ころけずに残ったもの?)を投げる。そうすると、それは「ヘッドライト」になって、わたしへ向かってやってくる。「ヘッドライト」とは、その「とけて(とろけた)」肉体の、「とけた(とろけた)」目なのである。
そして、それは、いま、とけずに(とろけずに)残っている目へ向かって、その目を光でつぶして、やってくる。
あ、いいなあ。
その「ヘッドライト」の目は、いま、ここに残っている目をひき殺しに来るのだ。
ここには「矛盾」がある。(私の読み方が「誤読」であり、「矛盾」している、ということもできるのだが。)
その、わたしの「分身」。とけて、とろけてしまった肉体の「目」がまぶしい光を発しながら猛烈なスピードで走ってくる。それは「どこへ」ゆこうと、「どこから」こようと、「どんな」ひとがのっていて、「どんな」理由をもって、「どこへ」向かっていようと、実は同じである。その「どこ」(どんな)はすべて、ある「コルカタ」につながっている。「コルカタ」とひとつになっている。
「コルカタ」へ、と言えないから、それを「哀しい」と小池は呼んでいるだけなのだ。「コルカタ」と知っているけれど、でも、現実には「コルカタ」へは行けない--渋谷へ、沖縄へ行けたとしても、「コルカタ」へはいまはいけない。どこへ行っても、そこで「コルカタ」につながるものを見てしまうけれど、実際には「コルカタ」ではない。それが「哀しい」。
そして、実は「うれしい」。このとき「哀しい」は「愛しい」かもしれない。
そんなとき、小池は「人を棒のようなものでたたきたくなる」。このときの「人」は小池自身でもある。「目だけになっ」てしまった「わたし」--それ自身をたたきたい。たたいて、それが動くのをみたい。
--そんなことは、「矛盾」である。
あ、思っていることが書けない。
この詩はとても美しい。この詩集のなかで一番美しいと思う。でも、その美しさを語るためのことばが私にはない。
とける(とろける)わたしと、その肉体のなかのとけない(とろけない)ものとしての「目」。その激しい対決のなかで、とけた(とろけた)目はヘッドライトになって、闇のはるかむこうの「コルカタ」を射抜いている。
そこへいくためには、そのヘッドライトになるためには、小池は自分自身の、残った「目」を棒でたたいてしまわなくてはならない。
わかっているが、現実にはたたけない。
その「なる」のなかの、激しい気持ち。純粋な気持ち。それが、たぶん、私が美しいと感じているものだ。
*
あとがき(?)の「コルカタ幻影」という文章を最後に読んだ。「コルカタ」は「カルカッタ」である。あ、知っている(と勝手に思い込んでいる)。でも、思い込んでいるだけで、私は実際にはインドもカルカッタも知らない。
この詩集のタイトルが「カルカッタ」だったら、たぶん、私はこの詩集にこんなにのめりこまなかったかもしれない。知らない何か--けれども、なんとなく知っているものを含んでいるという響きが、この詩集全体を象徴しているのだと思う。
知っている、と思い込んでいるものを、知らないという「場」から、つまり知っているものをいったん拒絶した「場」から、とらえなおす。そういうことが、この詩集ではおこなわれたのだ。
知っている--そう思い込んでいるもの。そのいちばん手ごわい相手が「人間」であり、「肉体」である。それを知らないという「場」からつかみなおす。そうすると、そこにインド(コルカタ)と日本をつなぐ、「肉体」以前のカタマリが浮かび上がってきた。
おお、そのカタマリよ、いま、ヘッドライトとなって、わたしをひき殺して、コルカタまで突っ走れ。そのとき、わたしは、ほんとうに人間に「ある」。人間で「ある」ことになる。
そういうことを、小池は、この詩集で発見している。
わたし「も」いる。わたし「も」インド人と同じ人間で「ある」。そういう世界から、しかし、人間は帰って来なければならない。わたし「は」いる。わたしは、わたしで「ある」。そのとき「わたし」を「わたし」として存在させるものは何だろうか。
「ヘッドライト」。この作品は、とても美しいが、読んだ瞬間、あ、小池は日本へ帰ってきたのだ、と突然思った。もう、インドには、コルカタにはいないのだ、と感じた。
海は暗闇のなかにあった
波の音 だけがして
草木も ホテルの外壁も
昼間ならば見えるはずのプールも
なにもかもが
闇のなかにとろけていた
ブセナテラス
この わたし も 目だけになって
肉をとかし ここにいる
コルカタから 渋谷
渋谷から 沖縄
回遊する この肉体
この肉体をフロントに預けて
闇を見る
肉体という荷物を解くと
底に 一個の もうそれ以上
解体できない カタマリ が残る
手にとって 遠くへ投げる
するとそれが
車のヘッドライトに変貌し
むこうから やってくる
「なにもかもが/闇のなかにとろけていた」「肉をとかし ここにいる」。このことばは、小池の「肉体」のあり方かインドに強く影響されてかわったことを明確にしている。しかし、そこに「目だけになって」という行が差し挟まれている。この「目だけになって」を読んだ瞬間、あ、小池は日本に帰ってきた--という思いが私にはしたのだ。
「肉をとかし」(肉をとろけかし、の方がインドっぽいと思うが……)てはいるが、その「目」は「とかし」ていない。とろけかしていない。他の「肉体」はインド人で「ある」かもしれないが、「目」は日本人で「ある」のだ。
「肉体」はとけて(とろけかして)、不定型の存在として、ここにいる。不定型であるから、どこへでもいける。どこへいっても、その「場」で、「その場の人間」になることができる。
でも「目」は、そのとき「目」として、そのとけていく「肉体」を見ている。とろけていく「肉体」を見ている。
音(声)をとおって、音(声)を肉体をとおらせることで、小池はインド人に「も」なったのだが、いま、その「声」は影をひそめ、「目」が「肉体」を見ている。
あ、小池は、もとにもどってしまったのか。
いや、違った。
肉体という荷物を解くと
底に 一個の もうそれ以上
解体できない カタマリ が残る
手にとって 遠くへ投げる
するとそれが
車のヘッドライトに変貌し
むこうから やってくる
とけて、とろけて形をなくしていく「肉体」。その底に残ったもの(ころけずに残ったもの?)を投げる。そうすると、それは「ヘッドライト」になって、わたしへ向かってやってくる。「ヘッドライト」とは、その「とけて(とろけた)」肉体の、「とけた(とろけた)」目なのである。
そして、それは、いま、とけずに(とろけずに)残っている目へ向かって、その目を光でつぶして、やってくる。
あ、いいなあ。
その「ヘッドライト」の目は、いま、ここに残っている目をひき殺しに来るのだ。
海岸線にそって
ゆるくカーブを描き
やってくる
道があるのだ
見えないけれど
そして 海が
どこへいくの
どこからきたの
どんなひとが
どんな理由で
どこへ向かって
こんな夜更け
車を一心に走らせているのか
流れていく光
どこかへ向かう
その姿勢が哀しい
人を棒のようなものでたたきたくなる
ここには「矛盾」がある。(私の読み方が「誤読」であり、「矛盾」している、ということもできるのだが。)
その、わたしの「分身」。とけて、とろけてしまった肉体の「目」がまぶしい光を発しながら猛烈なスピードで走ってくる。それは「どこへ」ゆこうと、「どこから」こようと、「どんな」ひとがのっていて、「どんな」理由をもって、「どこへ」向かっていようと、実は同じである。その「どこ」(どんな)はすべて、ある「コルカタ」につながっている。「コルカタ」とひとつになっている。
「コルカタ」へ、と言えないから、それを「哀しい」と小池は呼んでいるだけなのだ。「コルカタ」と知っているけれど、でも、現実には「コルカタ」へは行けない--渋谷へ、沖縄へ行けたとしても、「コルカタ」へはいまはいけない。どこへ行っても、そこで「コルカタ」につながるものを見てしまうけれど、実際には「コルカタ」ではない。それが「哀しい」。
そして、実は「うれしい」。このとき「哀しい」は「愛しい」かもしれない。
そんなとき、小池は「人を棒のようなものでたたきたくなる」。このときの「人」は小池自身でもある。「目だけになっ」てしまった「わたし」--それ自身をたたきたい。たたいて、それが動くのをみたい。
--そんなことは、「矛盾」である。
あ、思っていることが書けない。
この詩はとても美しい。この詩集のなかで一番美しいと思う。でも、その美しさを語るためのことばが私にはない。
とける(とろける)わたしと、その肉体のなかのとけない(とろけない)ものとしての「目」。その激しい対決のなかで、とけた(とろけた)目はヘッドライトになって、闇のはるかむこうの「コルカタ」を射抜いている。
そこへいくためには、そのヘッドライトになるためには、小池は自分自身の、残った「目」を棒でたたいてしまわなくてはならない。
わかっているが、現実にはたたけない。
たたきたくなる
その「なる」のなかの、激しい気持ち。純粋な気持ち。それが、たぶん、私が美しいと感じているものだ。
*
あとがき(?)の「コルカタ幻影」という文章を最後に読んだ。「コルカタ」は「カルカッタ」である。あ、知っている(と勝手に思い込んでいる)。でも、思い込んでいるだけで、私は実際にはインドもカルカッタも知らない。
この詩集のタイトルが「カルカッタ」だったら、たぶん、私はこの詩集にこんなにのめりこまなかったかもしれない。知らない何か--けれども、なんとなく知っているものを含んでいるという響きが、この詩集全体を象徴しているのだと思う。
知っている、と思い込んでいるものを、知らないという「場」から、つまり知っているものをいったん拒絶した「場」から、とらえなおす。そういうことが、この詩集ではおこなわれたのだ。
知っている--そう思い込んでいるもの。そのいちばん手ごわい相手が「人間」であり、「肉体」である。それを知らないという「場」からつかみなおす。そうすると、そこにインド(コルカタ)と日本をつなぐ、「肉体」以前のカタマリが浮かび上がってきた。
おお、そのカタマリよ、いま、ヘッドライトとなって、わたしをひき殺して、コルカタまで突っ走れ。そのとき、わたしは、ほんとうに人間に「ある」。人間で「ある」ことになる。
そういうことを、小池は、この詩集で発見している。
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