詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石松佳「離島綺譚」「フォトグラフ」

2021-05-30 11:35:32 | 詩(雑誌・同人誌)

石松佳「離島綺譚」「フォトグラフ」(「sister on a water 」4、2021年05月30日発行)

 石松佳はH氏賞を受賞。いまが旬の詩人ということなのか、たくさん作品を見かける。きょうは単純に「発行日」にあわせて、「sister on a water 」の作品を読んだ。
 「離島綺譚」は「綺譚」とあるから、「お話」である。

昼はゆたかな膳だった。


 と、はじまる。意味は明確だが、私は、最初からつまずく。「膳か」と思う。私は古い人間だから、「膳」ということばにはなじみがある。「膳を出して」と、昔はふつうに使っていた。ふつうに使っていたと書いたが、少し説明がいる。ふつう(日常)では膳を出さない。特別なときに出す。たとえば結婚式、葬式のあとの会食のときに出す。特別の料理をもって出す。それは足つきのひとりずつの「食卓」のようなものだ。だから、当然のことながら「ゆたかな(つまり、ふつうとは違う)」料理が載っている。そういうイメージがある。私のいなかでは、膳はそういうイメージが共有されていた。だから「膳を出して」とふつうに言って、それがふつうに通じた。
 しかし、そのイメージもいまではすっかり廃れている。私には甥姪がたくさんいる。私はその甥姪と年齢が近い。それでも、「膳を出す」ということばは甥姪からは「膳を出す」ということばを聞いたことがない。兄弟からは何度も聞いた。十歳くらい年が離れると、もう「膳を出す」は日常語ではない。だいたい膳を出しての会食というものを、もう家ではしない。
 ここから思うのである。石松はいったいどこで「膳」ということばを身につけたのか。また、どういうときに、それをつかうのか。もしかすると、ことばを「書く」ときだけ? もちろん書くときだけにつかっても何も問題はないのだが、私は身構えてしまうのである。「私は、これからことばを書きます」と言われているような感じがする。それだけではなく、これから書くことばは、わからない人にはわかりようがない「特別なことば」である、と宣言されている気がして、身構えてしまう。

昼はゆたかな膳だった。海港を歩くと、海が膨らんでいるのが
わかる。雲は徐々に海の表面を犯してゆき、薄い翳りが冬らし
い奥行きを与え、暗い光を帯びた波が無数の小さな月の形で生
滅している。フランネルを来て、わたしは見たことがないもの
を見たい。


 「海港」「生滅」。どのことばも、私はつかわない。だから、正しく理解しているかどうかわからないが、漢字をとおして意味はわかったつもりになる。冬の海。海がふくらむのはなぜか。簡単に考えれば低気圧が通過するからである。気圧が低くなった分だけ(気持ちだけだが)、海がふくらんで見える。これを石松は「海の表面を犯してゆく」と書いている。感覚的なようであって、実は、とても科学的である。事実を踏まえている。だから、説得力がある。ああ、うまいものだなあ、と感心する。感心するが、同時に、同じことばを石松は日常的につかうことがあるのだろうか。ないかもしれないなあ。詩を書くときだけ、特別につかっているのかもしれないなあ、と思う。
 そういうことばがつづくのである。二連目、三連目に出てくる「屑籠」「笊」というのは、いまでもつかうことばではあるが、ことばと存在がどれほど密接に結びついているか、私には疑問に思うところがある。「笊」を漢字で書け、読むことができるひとはいまどれくらいいるか。「籠」も「笊」も竹冠である。昔は竹をあんでつくっていた、ということを知っている人になるとさらに少ないだろう。
 四連目。

ゆく船にさようならをしている子どもたち。糸電話。匙が唇に
触れる冷たさに驚く朝があることを知らずに、きちんと喉を潤
して、力いっぱいに旗を振っていなさい。


 中勘助の「銀の匙」は名作だから、多くの人が読んでいると思う。若い人が読んでいるかどうかは知らない。でも、いまどき「匙」ということばをだれがつかうかなあ。少なくとも「子どもたち」はつかわないだろう。日本語とは思わないかもしれない。スプーンを日本語と思っているかもしれない。一連目に出てきた「フランネル」も、いまでは「匙」の感覚だなあ。根本的には違うが、いまは「ネル」よりも「フリース」が広く行きわたっている。
 「糸電話」が遊びにつかわれる時代設定だから、ことばが統一されているということかもしれないけれどねえ。
 で、ここがポイント。
 石松の詩の特徴を「比喩の巧みさ」でとらえる批評が多い。この「巧みさ」を別のことばで言い直せば、比喩にある「統一感」がある。その「統一感」とは、一連目の膨らむ海が低気圧の通過(冬の北国の描写)のように、「定説」を踏まえるところにある。石松が発見した比喩というよりも、知識として共有されている事実を踏まえた比喩である。とても「知的」なのだ。「知の共有」を基盤としているから、必然的に(?)、そのことばの運動は静的になる。「暴力」が排除される。何でもいいから、この比喩を通して現実を突き破ってしまえ、という感覚はない。石松の比喩は、何かしらの「知的」な共有を、「教養の蓄積」を読者に要求してくる。この比喩の繊細さがわからないとしたら、それは読者の教養が不足しているからである、と言われている気がして、私は感想を書くのをためらうときがある。うまいなあ、こんなふうに書けるのはすばらしいなあ、と思うけれど。
 石松を評価するとき、それは同時に、私は石松の比喩を理解することができる教養をもっていると表明することでもある。だから、多くの人が競うようにして石松論を書いているように思える。私には。私は、そういう書き方は嫌いだから、たとえば「膳」についての私の具体的な体験を書く。体験を「文学の知識」に置き換えたくはない。

 と、ここまで書いてきたら、「フォトグラフ」について、何を書こうとしていたのか、思い出せなくなった。
 違うことを書こうとしていたのだが、つづきで書いてしまうと。

手を椀の形にして水を掬うと水は指の間から零れてゆく。その
とき、手のひらと地が結びついているような感覚が幼年時代か
らあった。


 「手を椀の形にして水を掬う」は何でもない比喩のように聞こえるが、これもまた、いまとなっては文学の「定型」でしかないように私には思える。「椀」と誰がかけるだろうか。「お茶碗」はすでに石ヘンであって木ヘンではない。ご飯茶碗は陶器(磁器)だが、味噌汁椀は木、あるいはプラスチックかもしれない。だから「椀」か、と私は思うのである。だいたい、どういうときに手で水を掬うだろうか。「椀の形」をするときは水を飲むときだが、そういうことをいまの若い人はするかなあ。山登りをしていて沢の水を飲むことはあるかもしれないが。

 石松の作品について触れるとき、もうひとつ忘れてはならないのは「リズム」である。「手を椀の形に」という連でも、その特徴を指摘することができるが、はじまりは短くてイメージが掴みやすい。イメージを掴ませておいて、そのあとに微妙なことを積み重ねて石松の世界へ誘うのである。これが絶妙である。
 「手を椀の形にして水を掬うと水は指の間から零れてゆく」というのは、水を掬って飲んだことのある人なら誰でも理解できることである。しかし、そのとき「手のひらと地が結びついている」と感じた人は何人いるだろう。私はそんなふうに感じたことはない。零れていく水は、もとの水と一緒になって見分けがつかなくなるくらいのことしか思わない。だから、「手のひらと地が結びついている」と感じるところに石松の個性、肉体があると思う。でも、その感覚について石松は、いまも責任をもっている(?)かどうかはわからない。「幼年時代」と限定しているからね。ここに、ちょっと石松の「逃げ」というか、「逃げ道」があって、うーん、利口な人だなあ、と私は感心してしまう。
 「手を椀の形に」の前の連では、こう書いている。

始まりはこうだ。一縷の真白い紐が空に靡いている。それは列
を成して飛ぶ鳥の群れなのだが、風に煽られる頼りない揺曳は
どこか性的なものを思わせる。


 「紐」は「列を成して飛ぶ鳥」と言い直され、そこから「文体」が長くなる。「揺曳」ということばを挟んで「性的」ということばにつながる。「頼りない」から性的なのか、「揺曳」するから性的なのか。それは、石松は、断定しない。とても利口だ。どこかで他人の好奇心を拒否している。
 つづく連(手を椀の形に)の「零れる」へと、断絶を挟んでつながるとき、「零れる」から性的とも読むことができる。助走と、踏み切り台としての断絶、そして接続。このリズムが非常に巧みなのも石松のことばの運動の特徴だと思う。

 


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