93 翳が訪れる
一本の蝋燭で充分。 ほのかな光こそ
よほどふさわしい、 ずっと好ましい、
愛が翳となって、 訪れる時には。
一本の蝋燭で充分。 今宵この部屋に
明りは多くいらない。 夢想のさなか
想いえがくところ、 ほんの少しの光--
この夢想のさなか、 幻のうちに
愛が翳となって、 見える時には。
短い詩だが、そのなかに同じことばが何度も出てくる。この繰り返しはモーツァルトの曲のように酔いを引き起こす。そのために、この詩の「意味」を忘れてしまいそうだ。
「愛が翳となって訪れる」というのは、愛が弱まっていく、ということだろう。「意味」としては否定的なものである。しかし、この詩で展開されるリズムは、まるで快感である。
悲しみが快感にかわる、悲しみがひとを酔わせるのは、それが「思い出」であるときだ。
この詩は「回想(追憶)」の形をとっていない。むしろ、これから起こることのように読める。
しかし、そのリズムは追憶のリズムだ。追憶は、一回ではおわらない。繰り返し繰り返し、繰り返すことで形を整える。そういう追憶の「動き」そのものが詩のリズムに乗り移っている。
この詩の原形はどうなっているのかわからないが、句点のあとの二字あき、読点のあとの一字あきの表記が、私には「耳障り」である。「音」が寸断される。そこに「沈黙の音」があるのかもしれないが、追憶というのは「間」を消すものである。十年前も、きのうも、そして一時間前も、すぐに「肉体」のそばにやってきて、肉体をわしづかみにする。
池澤は、註釈でカヴァフヘスの声について言及している。
生前の詩人を知っていた人々の話によれば、彼はたいへん良い声をしていて、朗読もきわめて上手だったという。
私は、好きな詩は、朗読では聞きたくない。ことばのもっているリズムと、声の持っているリズムが、どうもあわない。黙読の時に、肉体の奥で動く音楽が私は好きだ。
カヴァフィス全詩 | |
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