谷川俊太郎『詩に就いて』(29)(思潮社、2015年04月30日発行)
不透明な詩である。言い換えると「論理的」ではない。「意味」が動いて行っていない。
二連目の一行目と、四連目の最終行(詩の最終行)は「対」になっている。「女の子が扉を開けると男の子が入ってくる」「女の子の部屋から男の子が出て来る」。この変化のなかに何があるか。
二連目。海の描写がある。ひとの描写がある。詩人の自己洞察がある。しかし、それがなぜひとつの連のなかにいっしょにあるのか、私にはわからない。
三連目。一行目と二行目は、そこに書いてあることばを借りて言えば「物語」を感じさせる。しかし、そのことばは「物語」を通り越してしまう。「階段」は「掌の地図」ということばをとおって、「肉体」から「肉体の内部」へ動いてゆく。この展開が、この詩のなかではいちばん刺激的である。「肉体の内部」で「正しさ」とか「裁く」とか、精神的なことばが動く。具象から、抽象へ。この変化が「意味」につながる。
四連目。しかし、谷川は、その「意味」を「あらゆる厳粛を拒む」という「意味」でこわしてしまう。「意味」を破壊して「軽快」になる。そして「積乱雲」「向日葵」という夏の描写に変わる。
こうしたことが女の子の部屋へ男の子が入って行って、再び出て来るという「区切り」なのかで動く。
この三連の世界が、一連目で書かれている「かぼそい茸にも似た詩」になるのか。
わからない。わかるのは、私自身の「嗜好」である。私は「一連」と「他の三連」を「対」にして、一連目の「詩」ということばを残りの三連で言いなおしていると読みたい。さらに二連目の一行目と最終連の最終行を「対」にして、そのなかに世界を閉じ込めたい。「意味」を「対」の構造から探したい。--谷川が何を書いているかを読むというよりも、谷川のことばに触れながら、私は私のことばがどんなふうに動いているのかを点検し、私のことばは「論理」を捏造する癖があるということを知る。
私はさらに「海は大きな舌で岸を舐め続けている」と「丘の上にまたむくむくと積乱雲が湧いて/向日葵が太陽に背いてうなだれる」を「対」にして、そこに「夏の思い出(夏の時間)」が書かれているという具合に「論理」を捏造する。あの夏、谷川は「男の子」だった。そして「女の子」の部屋へ入って行って、そこから出てきた。女の子の部屋には「外階段」がある。そこを上っていった。そこには「男の子」と「女の子」の「物語」があるのだが、谷川はそれを隠している。
あるいは「物語」を「掌の地図を辿って行き着ける」ということのなかに結晶させている。「正しさに裁かれることのない」という表現で、その「物語」が「正しさ」とは違うものであるということを暗示している。
この「暗示」のなかへさらに踏み込んでゆけば、「物語」は長篇小説になるかもしれない。つまり「意味」が深く、重くなる。「物語」のなかで展開する事件に自分自身の「肉体」を重ねながら、掌の地図を読むように、自分の「内部」へ「内部」へと入り込み、そこから「意識/精神」というものを捏造し、その捏造した「意味」に酔うということが起きるかもしれない。
私は、そこに書かれていることばを無視して、そのことばを自分の都合にあわせて「意味」を捏造するという癖がある。
詩を読むとは、他人のことばを読むを通り越して、自分自身とことばの関係を洗い直すことなのかもしれない。
「意味」が不透明なときほど、こういうことが起きる。
こんな詩の感想は書きたくないなあ。
こんな詩を詩集に組み込むなんて、谷川は意地悪だなあ、と思う。
これでは谷川の『詩に就いて』の「分析/論」ではなく、自分をさらけだすことになる。
そう仕向けるのが、詩?
詩人
中指がタッチパッドの上を滑って行って
文字を捕まえる 一つまた一つ
身の回りのはしたない彼の畑から
かぼそい茸にも似た詩が生えてきている
女の子が扉を開けると男の子が入ってくる
海は大きな舌で岸を舐め続けている
人々は金に取り憑かれて歩き回っている
彼は言葉ですべてを無関心に愛する
外階段をカンカンと上がって来る足音
隠された物語が素通りしてゆく
掌の地図を辿って行き着けるだろうか
正しさに裁かれることのない国に
あらゆる厳粛を拒む軽快が詩人の身上
丘の上にまたむくむくと積乱雲が湧いて
向日葵が太陽に背いてうなだれる
女の子の部屋から男の子が出て来る
不透明な詩である。言い換えると「論理的」ではない。「意味」が動いて行っていない。
二連目の一行目と、四連目の最終行(詩の最終行)は「対」になっている。「女の子が扉を開けると男の子が入ってくる」「女の子の部屋から男の子が出て来る」。この変化のなかに何があるか。
二連目。海の描写がある。ひとの描写がある。詩人の自己洞察がある。しかし、それがなぜひとつの連のなかにいっしょにあるのか、私にはわからない。
三連目。一行目と二行目は、そこに書いてあることばを借りて言えば「物語」を感じさせる。しかし、そのことばは「物語」を通り越してしまう。「階段」は「掌の地図」ということばをとおって、「肉体」から「肉体の内部」へ動いてゆく。この展開が、この詩のなかではいちばん刺激的である。「肉体の内部」で「正しさ」とか「裁く」とか、精神的なことばが動く。具象から、抽象へ。この変化が「意味」につながる。
四連目。しかし、谷川は、その「意味」を「あらゆる厳粛を拒む」という「意味」でこわしてしまう。「意味」を破壊して「軽快」になる。そして「積乱雲」「向日葵」という夏の描写に変わる。
こうしたことが女の子の部屋へ男の子が入って行って、再び出て来るという「区切り」なのかで動く。
この三連の世界が、一連目で書かれている「かぼそい茸にも似た詩」になるのか。
わからない。わかるのは、私自身の「嗜好」である。私は「一連」と「他の三連」を「対」にして、一連目の「詩」ということばを残りの三連で言いなおしていると読みたい。さらに二連目の一行目と最終連の最終行を「対」にして、そのなかに世界を閉じ込めたい。「意味」を「対」の構造から探したい。--谷川が何を書いているかを読むというよりも、谷川のことばに触れながら、私は私のことばがどんなふうに動いているのかを点検し、私のことばは「論理」を捏造する癖があるということを知る。
私はさらに「海は大きな舌で岸を舐め続けている」と「丘の上にまたむくむくと積乱雲が湧いて/向日葵が太陽に背いてうなだれる」を「対」にして、そこに「夏の思い出(夏の時間)」が書かれているという具合に「論理」を捏造する。あの夏、谷川は「男の子」だった。そして「女の子」の部屋へ入って行って、そこから出てきた。女の子の部屋には「外階段」がある。そこを上っていった。そこには「男の子」と「女の子」の「物語」があるのだが、谷川はそれを隠している。
あるいは「物語」を「掌の地図を辿って行き着ける」ということのなかに結晶させている。「正しさに裁かれることのない」という表現で、その「物語」が「正しさ」とは違うものであるということを暗示している。
この「暗示」のなかへさらに踏み込んでゆけば、「物語」は長篇小説になるかもしれない。つまり「意味」が深く、重くなる。「物語」のなかで展開する事件に自分自身の「肉体」を重ねながら、掌の地図を読むように、自分の「内部」へ「内部」へと入り込み、そこから「意識/精神」というものを捏造し、その捏造した「意味」に酔うということが起きるかもしれない。
私は、そこに書かれていることばを無視して、そのことばを自分の都合にあわせて「意味」を捏造するという癖がある。
詩を読むとは、他人のことばを読むを通り越して、自分自身とことばの関係を洗い直すことなのかもしれない。
「意味」が不透明なときほど、こういうことが起きる。
こんな詩の感想は書きたくないなあ。
こんな詩を詩集に組み込むなんて、谷川は意地悪だなあ、と思う。
これでは谷川の『詩に就いて』の「分析/論」ではなく、自分をさらけだすことになる。
そう仕向けるのが、詩?
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